山口観音堂

やまぐちかんのんどう

所在地:矢形町165番地 本泉寺境内

山口観音堂は建設当時の棟札から寛政11(1799)年巳未 初冬に建立されたことがわかる。以来、天保13(1842)年には再建されている。

当初、現在の吉野町の奥の「おごりんさん」で親しまれる塔山城跡近くの丘陵尾根上に所在した。明治維新の神仏分離令(廃仏毀釈)の影響のためか、明治20(1887)年に本泉寺境内に移築された。

山口観音堂
観音堂の堂内

この堂宇の天井には、縦横それぞれ8枚ずつで合計64枚の天井絵が描かれている。天井絵は、再建当時に掲げられた。再建当時の地域の生活がうかがわれる。

山口観音堂天井絵
尾張万歳が描かれた天井絵の一枚

本泉寺境内へ移設される前は、地域のランドマークとなり、多くの参拝者が訪れたようで、山口村と三河の八草村(現在の豊田市八草町)との境の道標には 「左 せと 右 くわんをん(かんのん)」と記されている。

旧山口村・旧八草村境の道標
道標の拓影

万徳寺太子堂

まんとくじたいしどう

所在地:塩草町93番地 万徳寺境内

太子山万徳寺は浄土真宗高田派の寺院で、創建は鎌倉時代、正応元(1288)年、創建当時は「関尾山・萬徳寺」であった。

承久元(1219)年(安貞2(1228)年ともされる)に武蔵国荒木(現埼玉県行他市付近)に創建された「満福寺」は僧源海はじめ浄土真宗門徒(荒木門徒)の本寺であったが、天福元(1233)年三河で説法したさい弟子海円が越戸村( 現豊田市越戸町)に留まり、文永3(1266)年に「萬福寺」(別に「満福寺」とも伝えられる)を建立、その後正応元(1288) 年、当地に移転してきたものと伝えられる。そのときすでに小さな帝子堂(太子堂) があったとされている。

浄土真宗開祖親鸞聖人は聖徳太子に深く帰依され、浄土真宗寺院に多く太子堂が造られた。今村城主・松原広長が太子の縁により寺に帰依し、寛正5(1464)年に万徳寺太子堂が建立された。

元和2年(1616年)7月22日、尾張藩初代源敬公(徳川義直)がご参詣になり大法会がとり行われ、これが縁となり以後旧暦の7月22日太子堂にて聖徳太子御會式(お太子まつり)が行われてきた。(現在は8月第4日曜日)

太子堂は、享保2(1717) 年に改築され、江戸時代後期の尾張名所図会によると本堂の横に茅葺とみられる小さな太子堂が描かれているが、大正年間に写されたといわれる改築前の写真には参拝用の堂が手前に写っている。現在の太子堂は、古建築研究で著名な浅野清氏の設計により、地元大工の山田鉄次郎が中心となって施工した。昭和元年から10年にかけて造られた(起工昭和10年、落慶昭和15年)。

本尊は秘仏・聖徳太子孝養像(16歳像)で、重要時に御開扉されている。近年では2011年東日本大震災の復興祈願や、2023年の「聖徳太子1400年遠忌法要」の機に行われた。本尊右脇には松原広長が四天王寺よりもたらしたとされる聖徳太子南無仏像(2歳像)、左脇には松原広長公位牌(昭和43年作成)が安置されている。

昭和10年に建てられた現在の太子堂

 

 

 

 

 

尾張名所図会に描かれた万徳寺本堂と太子堂(左手)
絵葉書に写された改築前の太子堂(左端)
松原広長寄進状(瀬戸市指定文化財)
聖徳太子1400遠忌法要 舞楽奉納
太子まつり(8月第4日曜日開催)の様子(画像:万徳寺 提供)

 

小金観音堂

おがねかんのんどう

所在地:水北町1952番地 感応寺境内

小金観音堂は、天文の頃(1532~1555年)に、感応寺境内の本堂より約一町(109m)あまり山上に建立され堂内に行基作と伝わる聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音㊟の六体を安置したと伝わっている。天文八(1539)年己亥に火災によりお堂は焼失したが、安置してあった観音六体は、被災を免れ、同年、上水野村の一色城主磯村左近により再建され、以後数回改修・再建が行われた。

尾張志には『正観音、千手、馬頭、不空羅索、十一面、如意輪㊟の六胎を安置す。行基の作といひ傳へたり。その霊験いちじるしく感應ありしゆゑ、世に感應佛と称しけるが、やがて寺号となりしよし寺僧いへり』(原文ママ)と記されており、当堂を所蔵する感應寺の寺号の由来と伝えられる。

現在のお堂は、感応寺墓園の頂上に建っており、「城東西国観音二十六番札所」となっており、お堂の裏には、御林方奉行所や、水野代官所で奉行職を務めた水野家の墓地があり、また、当堂を所蔵する感応寺には、入尾城の最後の城主を務めた水野備中守平致高の位牌が保存されているなど、水野史のなかでの出来事との繋がりを感じさせるお堂であります。 (㊟観音の普門示現とは、文字、順序が異なる)

現在の小金観音堂
明治45年頃の絵葉書に写る小金観音堂
尾張名所図会に描かれた感応寺・小金観音堂

十三塚

とみづか


伝承地 瀬戸市十三塚町

十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に、十三塚は村落への悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から得られたものと考えられている。現在は、現地に塚はみられないが、当地に伝わる十三塚落武者慰霊供養の位牌などがおさめられた地蔵堂がある。

十三塚地蔵堂の堂内
昭和34年に作られた供養の位牌

「十三塚」という地名の由来については諸説あるが、①16世紀中頃の稲生合戦の折の落武者、あるいは②16世紀後半の小牧長久手の戦いの折の落武者の言い伝えがある。

①織田信長と弟信行が戦った稲生合戦(弘治2(1556)年)にまつわるもの

弘治2年8月24日に信行方についた守山城主松平信貞は信長の勢力に破れて瀬戸へ落ちた。これらの落武者は、瀬戸の追分(現在の十三塚)で13名が自害したが、1名をこの戦を後世に伝えるためと、墓守として品野へ逃がした。しかし、東方の宮脇にて村人に刺され、瀬戸川左岸の前田にて討ち死にをした。後に、村人はこれを哀れみ、その後落武者が自害した辺りを十三塚と呼び、8月24日を供養するようになったと伝えられる。

②小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))にまつわるもの

地域に伝わるむかしばなしの一つ

今から400年ほど前(千六百年ごろ)、長久手というところで豊臣方の軍勢3万が、1万8千の徳川方の軍勢にうしろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ※1。
敗れた豊臣勢の侍は、てんでばらばらに逃げたそうな。いくさに勝った徳川方の侍は口々に、
「相手の侍は、一人も逃がすな。」
と、追手を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、きびしい囲みの中を逃げ出し、そのうちの十三人が何とか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。
「しっかりせよ。」
「なんとか落(お)ち延(の)びよう。」
と、お互い励まし合いながら逃げて、ようやく瀬戸にたどりついた時には、のどはからから、腹はぺこぺこ。そこで、近くの村人たちの家にかけ込んで、
「食べものを少しくだされ。」
「水をのませてくだされ。」
と、口々にたのんだそうじゃ。
しかし、村人たちば、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれてはたまらないと考え、侍たちに食べものや水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて、村人たちは、いつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたんじゃ。
数年後、村に亡霊が出たり、庄屋になった人が不思議な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜が取れないといった不思議なことがおこったそうじゃ。
「どうしたことだろ。」
「何のたたりだろう」
と、村の人たちは、話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落武者のことを思い出し、
「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ」
と、悔んだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなで拝(おが)んだそうじゃ。
それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、八月二四日を
「侍のたましいをなぐさめる日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。
尾張のところどころに、長久手の合戦(かっせん)の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。
※1 「四三〇年ほど前」とは 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い

雨降り地蔵

あめふりじぞう


伝承地 瀬戸市駒前町(地蔵堂:駒前町171番地 寶生寺境内)
時代背景  名古屋築城におけるの堀・石垣の普請は、慶長15年(1610)のこと。
今から400年ほど昔、名古屋城をつくっているころのお話です。
ある日のこと、本地の宝生寺のお寺の下あたりで、運んできた大きな石が車から落ちてしまいました。落ちた石を車にのせようとしましたが、
「重くて運べません。」
「もう、腹が減って動きません・」と、百姓たちは汗をふきながら言うばかりで、石はどうしても、動かすことはできません。
そこで、この石は運ぶのをあきらめて、そのままにしておきました。しかし、このままでは目立つし、邪魔になるので、何とかできないものかと、庄屋山中心に相談を始めました。すると、仲間の老人が、
「この石を石屋にたのんで、お地蔵さんの姿にしてもらったらどうだろう。」と、言いました。
「それは、よい考えだ。」と、みんなはあいづちをうちました。
宝生寺の境内にお祀りしてあるのが、そのお地蔵さんだということです。
毎年八月二三日の地蔵まつりの日に、必ずと言ってよいくらい雨が降るそうです。
そこで、人々はいつのころか、この地蔵さんのことを「雨降り地蔵」と呼ぶようになりました。
また、このお地蔵さんに雨乞いをすると、雨が降ると言われています。

雨降り地蔵尊

地蔵堂について

現在の地蔵堂は平成30年7月に完成し、10月に落慶法要が行われた。その時晋山退薫式もあり、住職が17世俊峰弘人となった。

寶生寺境内の地蔵堂(左手前)
参考文献

瀬戸市教育委員会1982『瀬戸の石造物』

大野栄人・横山住雄1982『尾張 雲興寺史』

幡山村誌編纂委員会1992『幡山村誌』

瀬戸尾張旭郷土史研究同好会2005『せと・おわりあさひのむかしばなし 雨降り地蔵』

坂屋敷庚申堂

さかやしきこうしんどう

所在地:下半田川町51
所有者:下半田川自治会

下半田川町坂屋敷の旧道横の丘に庚申堂がある。現在は利用されていないが、「おばあさんたちがこのお堂に集まってご詠歌を唱えていた」ことを記憶する世代がまだいる。お堂の前に、女人講中と刻まれた石仏が二体あり、それぞれ、天明7(1787)年と文政2(1819)年の銘が入っている。庚申講とは別に女性どうしが集まって信仰しまた日常生活の情報交換をする女人講が行われていたと推測される。庚申の日に五目飯を供えてお勤めをする庚申講があったことも伝わっている。定光寺町でも庚申塔に味飯を供えてお参りした。

庚申堂
女人講中と刻まれた石仏
文政2(1819)年の棟札

町内には庚申堂の他に庚申碑が2基ある。庚申堂から南西に150mほど離れた林道わきの庚申碑(西山の庚申碑)に明治12年の刻銘があることから、このお堂も同時期に建てられたとする説があるが、堂内にある2枚の棟札によれば、文政2年に庚申堂再建、昭和40年に修理されたことが分かっている。したがって、庚申堂の創建は文政2年以前の江戸時代ということになる。なお、もう一基の庚申碑(いしょうじの庚申碑)は、庚申堂から約500mほど東の林道わきにあり、これには萬延元(1860)年の刻銘がある。

礎石らしき石材と庚申堂

現在の庚申堂は明治10(1877)年前後にコレラ・はしかが全国的に大流行した折に村を疫病から守ってもらうために建てられたものと伝えられている。2間×2間の側柱建物で、屋根は寄棟となっている。もともとは萱葺だったが、平成9(1997)年にトタン葺きとなった。現在の庚申堂の東側には礎石らしき石材や平場があり、江戸時代以前にも庚申堂の建物がこの地に建っていた可能性が高いと思われる。

庚申信仰は、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。

干支で、庚申の日は60日ごとに来るが、この夜に人間の体の中にいる三尸虫(さんしちゅう)は寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げに行くという。寿命をきめる天帝は悪いことをした人に罰として寿命を縮めるといわれている。ところが、三尸虫は人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申の日には、信者は会食談義をして徹夜をした。これが庚申講のはじまりとされ、眠らずに庚申の日が明ける次の日が来るまで待ったということから「お日待ち」と呼ばれるようになった。下半田川集落では昭和20年代までは地域の人が集まって「お日待ち」をやっていた。

また、青面金剛はこの三尸虫を喰ってしまうので、庚申講でこの青面金剛を本尊として拝むようになった。一晩一心に願い続ければ、病魔の退散、延命長寿もかなうとされる。町内の庚申堂の中に厨子が二つある。この中に青面金剛を描いた小さな掛け軸が納められているが、右側の掛け軸はすでに破損している。

庚申堂内の厨子

新田のお五輪さん

しんでんのおごりんさん

所在地 瀬戸市新田町
山口川(矢田川)にかかる高座橋の南西、新田町の南側丘陵端部に「南無阿弥陀佛」と刻印された石標があり、その左右に2基の五輪塔(ともに地上総高93㎝、火輪幅が左33㎝右36㎝)が建てられている。周囲には、小型の五輪塔や一石五輪塔などの残欠が5つ塔状に積み上げられている。(令和5年3月現在)近年までこれらの石造物は尾根の残欠上に建てられていたが、現在は尾根は削平され、平場に石造物が設置されている。尾根を削平した際は石塔以外のものは確認されていないとのこと。
これらの石造物は、新田町付近の各所の塚から集められてきたとされ、弘治2(1556)年の稲生の戦いによる戦死者を弔ったものと地元では伝えられる。
現在も、お盆の際には町内の住民が提灯を灯して、死者を供養する行事が行われている。

陶彦社(本殿・幣殿・拝殿・築地塀)

すえひこしゃ


瀬戸市指定建造物 1棟
平成31年3月19日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 本殿:一間社流造、銅版瓦
     幣殿:切妻造、銅版瓦
     拝殿:入母屋造、銅版瓦
    築地塀:砂モルタル壁、藤紋役物瓦

 陶彦社は、文政7年(1824)に創建された、陶祖加藤四郎左衛門景正(春慶)を祀る社である。鎮座より100年経ち、社殿すべてを建て替え、大正15年(1926)には本殿・渡殿・拝殿・礼拝所・土塀・玉垣を現在の位置に遷座した。
 建築の特徴として、当時の斬新で洗練された意匠の建築美が随所にみられる。建築材には木曽檜の最良材が使われ、本殿の正面に見える虹梁などには彫刻の彫りに木目をあわせるなど、使用された材は厳選され、意匠・彫刻の技術も高く評価される。設計者の伊藤平二には名古屋の堂宮大工である9代目伊藤平左衛門(守道)の次男として生まれ、正倉院の建物の保存修理などを手掛けた。意匠には明治末から大正にかけて活躍した京都府技師の亀岡末吉の建築意匠の影響がみられ、伝統的な神社建築でありながら蟇股や木鼻などの細部意匠に西洋の意匠を取り込む近代和風建築特有の建造物で、華やかな印象を持っている。これは瀬戸市域はもとより、周辺地域にも類例が稀である貴重な和風建築である。

本地の警固祭り

ほんじのけいごまつり


瀬戸市指定無形民俗 1件
平成31年3月19日指定 所在地 瀬戸市西本地町
保持者 本地警固保存会

 本地の警固祭りは、氏神である本地八幡社の秋例祭にシマごとに飾り馬を奉納する献馬行事(オマント)を原形としている。かつては旧本地村の12のシマから一頭ずつの飾り馬が出され、八幡社鳥居から境内まで馬を走らす「駈け馬」が行われた。鉄砲は出発や垢離取りの際には撃たれるが、警固隊がオマントにつくことはなく、本格的な警固が付くのは郷社祭り以上の祭礼の際とされていた。その後シマごとに馬を奉納することはなくなり、1950年代頃より郷社祭りと同様の形として旧本地村(現本地自治会)で馬1頭を奉納し、警固として鉄砲隊が付く現在の形となった。現在は10月の第二日曜に行われている。
 山口合宿を起源とする祭り行事は、市内では「山口の警固祭り」「菱野のおでく警固祭り」とこの「本地の警固祭り」がある。こうした地域を挙げて連綿と続いている習俗は市内では少なくなっており、瀬戸市のみならず尾張・西三河地域ほかにおける代表的な祭礼習俗のひとつとして貴重な民俗行事である。

王子窯モロ

おうじがまもろ


瀬戸市指定建造物 1基
平成31年3月19日指定 所在地 瀬戸市東洞町63
所有者 個人
文化財 木造2階建、南面下屋(大正2年(1913)拡張か)、切妻造、桟瓦葺、平入
時代 明治33年建造

 王子窯モロは、旧瀬戸村洞地区にあり、明治33年(1900)に建造された陶器生産の工房であり今日まで使用され続けている。間口20間(実長10間)、奥行6間(実長3間)で東西に細長い。モロは間口16間(実長8間)のものが多く、規模としては少し大きめなものといえる。 
 1階の西、北、東面は厚い土壁を巡らし窓はほとんどなく昼間でもうす暗い。これは、成形前の粘土保管や製品のロクロ成形等を行う際に急激な乾燥を避ける特性をもつ。北壁面に接するようにして現在使用されている電動ロクロが5か所にみられるが、かつては床下の動力ベルトを通じて3箇所以上のロクロを同時に稼働させていた痕跡が確認できる。南東床面には成形前の粘土置き場があり、西部の2間半のスペースと1階天井近くにサシダナと呼ばれるロクロ成形後の素地を置く板が設置されている。
 1階で成形された素地は、南側の干し場で乾燥された後、2階の倉庫で釉薬をかけられ、窯で焼成されるまでの間保管された。1階天井には2ヶ所の2階への登り口があり、ここに梯子をかけるなどして素地を2階に運び込んだものと思われる。2階は南側下屋庇にも拡張部があり、素地を大量に保管することができた。2階に保管された焼成前の製品素地は、2階西側の出入口からそのまま運び出され、尾根筋を伝って連房式登窯の王子窯(昭和43年(1968年)まで焼成)にもたらされた。
 このように、1階で成形、2階で焼成前製品素地の施釉と保管を行い、焼成の窯炉までを機能的につなげる工夫が込められている「王子窯モロ」は、その建造年代においても確認されている中では最も古いものであり、文化財的価値は高いと考えられる。

参考 三輪邦夫「王子窯モロ」(『瀬戸市歴史的建造物実測調査報告書』2016年)

王子窯