ホフマン砂防構

ほふまんさぼうこう


瀬戸市東印所町
 瀬戸市東印所町地内の愛知県有林に欧州式治山工事遺構(「ホフマン工事」)が保存されている。
 明治時代の近代陶磁器産業の発展は、瀬戸周辺の陶土採掘や燃料となる樹木の伐採が盛んになっていった。そのため、瀬戸地方(矢田川流域)の山林荒廃が進み、土砂崩れなど自然災害が増大していった。そこで、明治38(1905)年に東京帝国大学(東京大学)のお雇い外国人教師アメリゴ・ホフマンの指導により、瀬戸市東印所において近代的砂防工事が6年間にわたって実施された。ホフマン工事の概要を説明する冊子(愛知県発行)には、「崩壊した山腹の斜面には手を加えず自然のままに放置し、降雨時に山腹面より流出する土砂礫は、土堰堤や柳柵で抑止して堆積させ、山腹の自然勾配と渓流部の安定を図ることによって、植物の自然的導入を促すことを目的としたものである。」と記されている。こうしたホフマン工法は後年では様々な批判もされているが、今日の砂防技術の基礎を築き、その発展に寄与した。
(参考 東京大学愛知演習林長柴野博文「ホフマン工事とアメリゴ・ホフマン」)

丸一国府商店

まるいちこくぶしょうてん


瀬戸市栄町
 明治維新の廃藩置県により解散した犬山藩の藩主成瀬正肥は、家臣救済のため下賜金八千円を用意した。家臣はこの下賜金を元に明治5(1872)年印刷業や陶器販売業を手がける丸一商店を設立した。屋号は成瀬家の家紋に因んだもので、店は名古屋市大曽根に設置された。陶器販売拡大のため、明治20(1887)年に瀬戸市朝日町に仕入れ部を設立した。経営は順調で、明治38(1905)年に瀬戸電気鉄道(後名鉄瀬戸線)の瀬戸―矢田間が開通(同44年には堀川まで延長)したのを機に、尾張瀬戸駅に近い栄町に陶器部の移転と建設を企図した。現存する木造2階建一部4階建ての建物は明治44(1914)年に完成したという。以後、世界恐慌や第2次大戦で経営困難となり、昭和22年に当時の番頭だった国府家が店を譲り受けて丸一国府商店となり今日に至った。
 建物は2階建ての町屋建築に望楼を載せた形態で犬山城天守を模したものと伝える。1階は東側1間半を土間とした町屋の形式に則り、土間境に大黒柱を立て、土間奥は吹き抜けとする。ただし同店に残る創業当時の写真によれば、和風の外観とは対照的に見本を並べた1階店舗は洋室であった。2階は中廊下をはさんで北側に洋室、南側には8畳間2間続きの座敷と6畳間(女中部屋)がある。階段は西端に2ヶ所、東端に箱階段と3ヶ所が設けられた。内法高さほどの中3階を経て、望楼状の4階には8畳間を設ける。数奇屋風の意匠で、床脇には丸窓を開け、東・南2面に縁を廻し、鉄製の手摺は建造当初のものである。平成15年からの道路拡張で東に8メートル、北に14メートルほど曳家して改修がなされた。往時の様子を伝える建物として貴重であり、景観の核となっている。
(『愛知県の近代化遺産』)

無風庵

むふうあん


瀬戸市窯神町
 第2次大戦後間もなく、藤井達吉が愛知県西加茂郡小原村鳥屋平(現豊田市)に13棟の宿泊小屋や共同工房を建設し、七宝・和紙工芸・陶芸などの工芸運動を進めながら「小原農村美術館」の建設を目指した。戦前から藤井に師事した瀬戸の亀井清市・水野双鶴・鈴木八郎らもそれに参加した。昭和25年12月まで共同生活が続けられた。
 昭和27年、百姓屋を移築して共同工房として使用された建物を陶芸家亀井清市・栗木伎茶夫・水野双鶴・鈴木八郎氏らの尽力で達吉と親交のあった当時の加藤章市長に寄贈されたものである。市街地を見下ろす御亭山(おちんやま)に移築された。草葺入母屋造りの旧建物は、「陶の路散策路整備事業」の核施設として全面的に改修され現在は茶室として活用されている。「夢風庵」の名称は、藤井達吉の雅号『夢風』に由来するもので芸術家村の当時から使用されていたものである。

山口堰堤

やまぐちえんてい


瀬戸市海上町・若宮町2
 市制準備を整えていた瀬戸町が、馬ヶ城水源地に貯水ダムと浄水場建設を発表したのは昭和2(1927)年のことであった。集水域が狭く、不足する水は尾根を越えた赤津川から導水管でまかなう計画であった。これを知った山口川流域(赤津川の下流)の農民(当時愛知郡幡山村)は、この河川を潅漑用水の取水源としていたので大騒ぎとなった。絶えず渇水に悩まされていたから、最上流部の旧山口村では「一滴たりとも他に引用することは一大事」と部落協議が続いた。『幡山村誌』には「4月30日夜、山口本泉寺で村民大会が開かれ、血気盛んな若衆から“むしろ旗を押し立てて県庁へ(用水確保の)農民一揆”が提案、決行が決議された。村内の要所要所にある半鐘を打ち鳴らした。これを合図に一戸一戸蓑傘姿、わらじ、股引、手弁当で集まり、むしろ旗を先頭に勢ぞろいした。村人達は堂々と西を指して出発した」とある。この騒動は結局失敗したが、これをきっかけにその後は再三瀬戸町役場と交渉、2区選出の樋口善右衛門代議士も仲介、渇水対策のための山口堰堤の建設が決まった。費用は全て県費を充て、瀬戸町も毎年1万円を堰堤管理費として旧山口村に支払うことが決まった。それからはむしろ積極的に建設に協力、幡山村から輪番で延べ数万人の人夫を出してついに昭和9(1924)年3月に完成した。総工費6万490円余、貯水量178立方キロメートル、広さ58平方キロメートル、高さ17.1メートル、利用水田568町歩の堰堤であった。
(資料「山口今昔」他)

窯垣の小径資料館

かまがきのこみちしりょうかん


瀬戸市仲洞町
 古くから窯元が集積した「洞町」、洞町の西の玄関口である宝泉寺の脇から洞町のほぼ真ん中に位置する白龍さんの祠までの約四百メートルに「窯垣の小径」が続く。「窯垣」とは登窯や石炭窯の焼成の際に使用するエンゴロ・ツク・タナイタなどの窯道具を用いた壁・塀などの総称である。幅一間ほどの小径を歩くと、家毎の工夫されて組まれた窯垣の幾何学文様、年月を経た自然釉の景色、窯元ごとの屋号の刻印などが目を楽しませてくれる。
 この窯垣の小径のほぼ中央に「窯垣の小径資料館」がある。資料館の建物は元本業焼の窯元であった寺田邸をほぼそのまま生かす形で改修したものである。母屋と離れの2棟からなり、明治3年に建築された建物である。東側の母屋は平屋で入母屋造、元は四の間造であったと思われるが、西側の「奥の間(8畳)」と「仏間(8畳)」は残されたが、東の「ニワ」部分、中の「お勝手」・「台所」部分は展示室等に改修された。付け足して造られた「浴室」は元本業タイルの窯元を偲ばせる修景されたものである。離れは木造2階建、8畳二間と土間の1階部分が休憩室及び展示してとして活用されている。渡り土間を敷き瓦で葺き、便所は染付便器と本業タイルで修景するなど往時を偲ばせる資料館となっている。(「窯垣の小径資料館」パンフ)

北川民次画伯アトリエ

きたがわたみじがはくあとりえ(きゅう もろあと)


瀬戸市安戸町
 メキシコとやきものの町・瀬戸をこよなく愛した北川民次画伯のアトリエ跡が瀬戸市中心部に近いところにひっそりと佇んでいる。
 元二科会会長を務めた北川民次は明治27(1894)年静岡県金谷町に生まれ、若くしてアメリカ・キューバ・メキシコに渡る。当時のメキシコの芸術運動の影響を受け、昭和11年に帰国、同18年夫人の出身地瀬戸に疎開する。以後25年間、隣の尾張旭市に引っ越すまでこのアトリエで制作した。画伯の代表的作品が生まれた時期である。
 アトリエは坂の多い斜面を切り開いたわずかばかりの平地に建っている。東西に細長い敷地の西側に住まい、そして東側にかつての「モロ(室=ムロ)と呼ばれた陶器工場を改造したアトリエがある。間口8間・奥行き4間、周囲に壁を巡らし、窓が少なく室内には殆ど柱がない。比較的建ちの高い平屋づくりと「モロ」としての典型的な大きさの建物である。当初、土間はタタキであったがアトリエとして使うときに板張に改造されている。大正10(1921)年頃に建てられた旧 窯のものである。
 老朽化も進み、建物自体の痛みがひどく一時は取り壊しの運命に晒されたが、画伯と親交があった人たちで守る会が平成6年に結成され、年2回春秋に一般公開しながら保存に努めている。(『保存情報Ⅱ』)

丸窯

まるがま


 「丸窯」は有田窯で発展した磁器焼成窯の構造・様式であった。江戸後期の加藤民吉の九州修業を機に瀬戸に導入された。明治以降、大型磁器製品を焼成する窯炉として巨大な連房式登窯に発展した。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)の中で、黒田正作氏は「丸窯は瀬戸窯の構造ではなく、九州より導入した様式であって、なおその祖先は朝鮮半島である。この窯は概して大型で、大型物を焼成するように瀬戸で成長したものである。一室の大きさは、室幅2~2間半、長さ3~4間半、高さは9尺~1丈2尺に達している。丸窯の構造は堅固でであって、小窯のように度々修繕は不要である。以前は小窯のように、胴木間の次に捨間と呼ぶ一室があったが、長年の経験の結果、捨間は必要ないことを知り、これに代わる小窯の一室を付け製品を詰めて焼くようになった。丸窯の勾配は小窯に比して緩く、3寸勾配の窯が多かったという。」とある。
 さらに当時の稼動していた「池勝窯」と「山広窯」が紹介されている。「瀬戸池勝窯」は、二つの胴木間とその上の捨間、その上に一の間から五の間までの連房式丸窯である。全長は水平投影で26.8m、五の間の高さ3.74m・幅4.62m・長さ8.33mで中規模の丸窯である。もう一方の「山広窯」は大型で11連房もあり、十一の間は高さ4.45m・室の幅4.88m・室の長さ11.72mで池勝窯より一回り大きい。この丸窯の焼成は還元炎焼成で、池勝窯は年間3回焼成、一回の焼成時間は8日22時間を要した。また山広窯は年間5回焼成、一回の焼造時間は15日13時間を要した。
 明治41(1908)年には瀬戸には丸窯18基、昭和4年には16基が記録される。
昭和30年10月13日、最後の丸窯であった「加藤庄平窯」の火入れが行われた。日本大学映画部の記録映画が残されている。
(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)

本業窯

ほんぎょうがま


水瓶・火鉢・擂鉢など陶器製品(土ものと呼ぶ)を焼成する窯を瀬戸では「本業窯」と称した。この名称は江戸後期の瀬戸染付け(新製焼)の登場によって磁器(石もの)と区別するものとして生まれた。明治以降になると窯炉は巨大化し、丘陵の斜面に10連房以上の登窯が幾筋も稼働していた。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)に掲載される湯之根窯(瀬戸本業窯)は全長36.05m(水平投影)、最大幅11.97m(十二の間)、十二の間の奥行き2.57mで天井までの高さは3.33mと記録されている。
この本業窯は年間4回焼成し、窯詰めは棚積方法で製品は白地本業便器各種・トラップ・タイル・釜敷・水鉢・水瓶・火鉢など比較的大型陶器製品であった。本業窯は最下段の胴木間(瀬戸ではカメと呼ぶ)から捨間(火度を上げるための部屋で製品は詰めない)、そして順次一の間から最上段の煙室(コクドという)まで大型の連房式窯を築いてゆく。その傾斜角度は平均4寸勾配で丸窯と古(小)窯の中間である。また次室への火を引く構造が縦狭間(たてさま)であることが特徴で、焼成は酸化焼成であった。明治41(1908)年には24基、昭和4年には34基の本業窯が登録されている。(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)
現在市内に残されている本業窯は2基で、洞本業窯と一里塚本業窯はいずれも瀬戸市の有形文化財に指定されている。
(市指定文化財の項参照)

古(小)窯

こがま


瀬戸地方の「古(こ)窯」は急勾配の縦狭間構造であることからは、江戸時代初頭に発生した連房式登窯の延長にあるものであったが、近代に入って「丸窯」が普及すると小型で磁器製品(碗・皿など比較的小型の製品)を焼成する登窯として増大するようになった。その意味では「小(こ)窯」でもあった。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)には、「古窯ハ丸窯ニ比シソノ規模小ナル為、薪材ノ投入量少ナキモ操作ニ於イテハ大差ナキモノナリ、タダ時間的ニ多少ノ相違ヲモツ」ととある。焼成については還元炎焼成であること、(イ)焙リの時間は一の間で5~6時間、二の間以降は3~4時間を要す (ロ)攻めは7~9時間 (ハ)スカシは通常1~2時間であるが時に4時間を要すことと記している。当時の河本善四郎窯の構造・規模・焼成時間などを詳細に述べている。明治41(1908)年には158基、昭和4年には34基の「古(小)窯」の存在が記録されている。(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)
現在市内に残っている「古(小)窯」は瀬戸染付工芸館(旧伊藤伊兵衛窯)内の1基のみで瀬戸市の有形文化財に指定されている。(市指定文化財の項参照)

石炭窯

せきたんがま


 明治初年にドイツから来朝したワグネル博士がわが国窯業の近代化を指導し、ワグネル窯(東京)を残した。同博士の石炭試験窯は、角窯の一方口で反対側に火焔を送る構造で、火度の平均を欠き実地に応用されなかった。
 それを改良したのが名古屋の松村八次郎で、明治32(1899)年に小さな石炭窯を築いて研究に着手した。幾度となく失敗し、産を傾けたこともあった。同33年3月に欧米視察に出発、同35年1月に帰国した。この年に欧米で得た知識を盛り込み両口の石炭窯築造に成功した。窯は両方の焚口から燃焼して火焔を窯の天井に送り、更にそれを窯の床に引く(倒煙式)方法であった。そのため熱度が平均し、しかも築造法も在来と同一工法であったから非常に簡単で低廉であった。松村はこの結果を大日本窯業協会誌に連載して一般業界に公表してその普及に尽くした。松村式石炭窯は全国的に普及したが、この八次郎翁こそわが国の硬質陶器発明の功労者で、名古屋松村硬質陶器の始祖、石炭窯の元祖として不朽の功績を残した人物である。
 明治34(1901)年に瀬戸陶器学校が八百円の県費補助を得て石炭窯を築き、翌年2月に初窯の火入れを行っている。校長は瀬戸地方の石炭窯の先覚者黒田正憲氏であったが、いわゆる試験時代なので失敗の連続であった。(『ところどころ今昔物語』)
 石炭窯は明治末期から急速に普及し、大正5(1916)年には144基、昭和4(1929)年には431基の石炭窯から黒煙を吐く陶都となっていった。