石粉水車

いしこすいしゃ


 有田のような磁鉱石を産しなかった江戸後期の瀬戸染付焼(磁器)の開発は、猿投山周辺の風化花崗岩と蛙目粘土を調合することによって可能となった。風化花崗岩は「白イシ粉」と「ギヤマ石」と区分して使用されたと古文書は述べている。享和3(1803)年、瀬戸村庄屋から近隣の河川に40ヶ所の「石粉ハタキ水車」の建設を藩庁に願い出た史料も残されている。『瀬戸焼近世文書集』には「水車にてギヤマ石 白土製造之図」という当時の立派な水車の構造図を載せている。
 慶応3(1867)年に赤津蛙目が発見されて、赤津川水系の石粉水車が急速に増加、明治19(1885)年には赤津石粉・硝子粉共同組合(27名)が設立した。この頃より磁器原料の石粉よりガラス原料の硝子粉の需要が増大し、日露戦争後には赤津川および山路川奥地まで40余戸の水車小屋が稼働したという。朝10時頃までに一昼夜水車臼で搗いた硝子粉と新しい砂を入れ替えた後は農作業や砂婆(風化花崗岩)掘りができた。多くは主婦の仕事であった(『東明小学校百年史』)。トロンメル(トロミル)が導入されたのは大正10(1921)年のことであった。

陶磁器陳列館

とうじきちんれつかん


瀬戸市蔵所町
 明治16(1883)年に設立された「瀬戸陶器館(舜陶館)」であったが、時勢の進運につれてこの建物も狭隘となった。そこで、東隣りの瀬戸警察署が陶本町に新築移転した跡の空き地に大正3(1928)年1月に起工、同年6月30日に新館が竣工した。これが戦後まで活動した「陶磁器陳列館」である。木造2階建(各階50坪)、総工費1万500円での洋館であった。新館では各種陶磁器の陳列と即売に当てられ、階下に参考品を陳列し、階上に貴賓室や会議室に使用した。そのため「参考館」と呼ばれるようになった。そして階下の一室に瀬戸陶磁工商同業組合事務所を置き、これらの建造物を管理した。同業組合の前身は「瀬戸陶磁工組」(明治18年9月設立)であるが略して「磁工組(じこうぐみ)」と呼ばれていた。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
 昭和32年、ここにあった市役所が新庁舎に移転した際、陳列館の建物は池田丸ヨ製陶株式会社に一括払い下げられ、解体され南仲切町に移築復元された。規模は縮小されたが、当時のモダンな洋風工法を残している。現在では瀬戸市新世紀工芸館の展示棟にその面影を見ることができる。

萩御殿

はぎごてん


瀬戸市萩殿町
 明治後期の愛知県の2大公共工事は名古屋港築港工事と庄内川(矢田川)流域の砂防工事であったといわれる。瀬戸町と山口村の境にあった小高い丘陵上は砂防工事が見渡せる場所にあったので、多くの工事関係者・視察者が利用した。粗末な小屋が建てられたが、萩をもって小屋周りを囲ったのでいつしか「萩の茶屋」と呼ばれるようになった。
 明治43(1908)年11月に東宮殿下(後大正天皇)が師団演習視察に来名、その折瀬戸へ行幸された。そして萩の茶屋において親しく砂防工事をご覧になり、若松のお手植があった。その光栄を記念するため、萩の茶屋を「萩御殿」と呼ぶようになったという。周辺には明治末期から大正時代の記念植樹の標柱が残されていたが、萩御殿の小亭とともに朽ち果ててしまった。せめてゆかりの地として後の町名設定に「萩殿町」の名が付けられた。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)

ホフマン砂防構

ほふまんさぼうこう


瀬戸市東印所町
 瀬戸市東印所町地内の愛知県有林に欧州式治山工事遺構(「ホフマン工事」)が保存されている。
 明治時代の近代陶磁器産業の発展は、瀬戸周辺の陶土採掘や燃料となる樹木の伐採が盛んになっていった。そのため、瀬戸地方(矢田川流域)の山林荒廃が進み、土砂崩れなど自然災害が増大していった。そこで、明治38(1905)年に東京帝国大学(東京大学)のお雇い外国人教師アメリゴ・ホフマンの指導により、瀬戸市東印所において近代的砂防工事が6年間にわたって実施された。ホフマン工事の概要を説明する冊子(愛知県発行)には、「崩壊した山腹の斜面には手を加えず自然のままに放置し、降雨時に山腹面より流出する土砂礫は、土堰堤や柳柵で抑止して堆積させ、山腹の自然勾配と渓流部の安定を図ることによって、植物の自然的導入を促すことを目的としたものである。」と記されている。こうしたホフマン工法は後年では様々な批判もされているが、今日の砂防技術の基礎を築き、その発展に寄与した。
(参考 東京大学愛知演習林長柴野博文「ホフマン工事とアメリゴ・ホフマン」)

丸一国府商店

まるいちこくぶしょうてん


瀬戸市栄町
 明治維新の廃藩置県により解散した犬山藩の藩主成瀬正肥は、家臣救済のため下賜金八千円を用意した。家臣はこの下賜金を元に明治5(1872)年印刷業や陶器販売業を手がける丸一商店を設立した。屋号は成瀬家の家紋に因んだもので、店は名古屋市大曽根に設置された。陶器販売拡大のため、明治20(1887)年に瀬戸市朝日町に仕入れ部を設立した。経営は順調で、明治38(1905)年に瀬戸電気鉄道(後名鉄瀬戸線)の瀬戸―矢田間が開通(同44年には堀川まで延長)したのを機に、尾張瀬戸駅に近い栄町に陶器部の移転と建設を企図した。現存する木造2階建一部4階建ての建物は明治44(1914)年に完成したという。以後、世界恐慌や第2次大戦で経営困難となり、昭和22年に当時の番頭だった国府家が店を譲り受けて丸一国府商店となり今日に至った。
 建物は2階建ての町屋建築に望楼を載せた形態で犬山城天守を模したものと伝える。1階は東側1間半を土間とした町屋の形式に則り、土間境に大黒柱を立て、土間奥は吹き抜けとする。ただし同店に残る創業当時の写真によれば、和風の外観とは対照的に見本を並べた1階店舗は洋室であった。2階は中廊下をはさんで北側に洋室、南側には8畳間2間続きの座敷と6畳間(女中部屋)がある。階段は西端に2ヶ所、東端に箱階段と3ヶ所が設けられた。内法高さほどの中3階を経て、望楼状の4階には8畳間を設ける。数奇屋風の意匠で、床脇には丸窓を開け、東・南2面に縁を廻し、鉄製の手摺は建造当初のものである。平成15年からの道路拡張で東に8メートル、北に14メートルほど曳家して改修がなされた。往時の様子を伝える建物として貴重であり、景観の核となっている。
(『愛知県の近代化遺産』)

無風庵

むふうあん


瀬戸市窯神町
 第2次大戦後間もなく、藤井達吉が愛知県西加茂郡小原村鳥屋平(現豊田市)に13棟の宿泊小屋や共同工房を建設し、七宝・和紙工芸・陶芸などの工芸運動を進めながら「小原農村美術館」の建設を目指した。戦前から藤井に師事した瀬戸の亀井清市・水野双鶴・鈴木八郎らもそれに参加した。昭和25年12月まで共同生活が続けられた。
 昭和27年、百姓屋を移築して共同工房として使用された建物を陶芸家亀井清市・栗木伎茶夫・水野双鶴・鈴木八郎氏らの尽力で達吉と親交のあった当時の加藤章市長に寄贈されたものである。市街地を見下ろす御亭山(おちんやま)に移築された。草葺入母屋造りの旧建物は、「陶の路散策路整備事業」の核施設として全面的に改修され現在は茶室として活用されている。「夢風庵」の名称は、藤井達吉の雅号『夢風』に由来するもので芸術家村の当時から使用されていたものである。

山口堰堤

やまぐちえんてい


瀬戸市海上町・若宮町2
 市制準備を整えていた瀬戸町が、馬ヶ城水源地に貯水ダムと浄水場建設を発表したのは昭和2(1927)年のことであった。集水域が狭く、不足する水は尾根を越えた赤津川から導水管でまかなう計画であった。これを知った山口川流域(赤津川の下流)の農民(当時愛知郡幡山村)は、この河川を潅漑用水の取水源としていたので大騒ぎとなった。絶えず渇水に悩まされていたから、最上流部の旧山口村では「一滴たりとも他に引用することは一大事」と部落協議が続いた。『幡山村誌』には「4月30日夜、山口本泉寺で村民大会が開かれ、血気盛んな若衆から“むしろ旗を押し立てて県庁へ(用水確保の)農民一揆”が提案、決行が決議された。村内の要所要所にある半鐘を打ち鳴らした。これを合図に一戸一戸蓑傘姿、わらじ、股引、手弁当で集まり、むしろ旗を先頭に勢ぞろいした。村人達は堂々と西を指して出発した」とある。この騒動は結局失敗したが、これをきっかけにその後は再三瀬戸町役場と交渉、2区選出の樋口善右衛門代議士も仲介、渇水対策のための山口堰堤の建設が決まった。費用は全て県費を充て、瀬戸町も毎年1万円を堰堤管理費として旧山口村に支払うことが決まった。それからはむしろ積極的に建設に協力、幡山村から輪番で延べ数万人の人夫を出してついに昭和9(1924)年3月に完成した。総工費6万490円余、貯水量178立方キロメートル、広さ58平方キロメートル、高さ17.1メートル、利用水田568町歩の堰堤であった。
(資料「山口今昔」他)

窯垣の小径資料館

かまがきのこみちしりょうかん


瀬戸市仲洞町
 古くから窯元が集積した「洞町」、洞町の西の玄関口である宝泉寺の脇から洞町のほぼ真ん中に位置する白龍さんの祠までの約四百メートルに「窯垣の小径」が続く。「窯垣」とは登窯や石炭窯の焼成の際に使用するエンゴロ・ツク・タナイタなどの窯道具を用いた壁・塀などの総称である。幅一間ほどの小径を歩くと、家毎の工夫されて組まれた窯垣の幾何学文様、年月を経た自然釉の景色、窯元ごとの屋号の刻印などが目を楽しませてくれる。
 この窯垣の小径のほぼ中央に「窯垣の小径資料館」がある。資料館の建物は元本業焼の窯元であった寺田邸をほぼそのまま生かす形で改修したものである。母屋と離れの2棟からなり、明治3年に建築された建物である。東側の母屋は平屋で入母屋造、元は四の間造であったと思われるが、西側の「奥の間(8畳)」と「仏間(8畳)」は残されたが、東の「ニワ」部分、中の「お勝手」・「台所」部分は展示室等に改修された。付け足して造られた「浴室」は元本業タイルの窯元を偲ばせる修景されたものである。離れは木造2階建、8畳二間と土間の1階部分が休憩室及び展示してとして活用されている。渡り土間を敷き瓦で葺き、便所は染付便器と本業タイルで修景するなど往時を偲ばせる資料館となっている。(「窯垣の小径資料館」パンフ)

北川民次画伯アトリエ

きたがわたみじがはくあとりえ(きゅう もろあと)


瀬戸市安戸町
 メキシコとやきものの町・瀬戸をこよなく愛した北川民次画伯のアトリエ跡が瀬戸市中心部に近いところにひっそりと佇んでいる。
 元二科会会長を務めた北川民次は明治27(1894)年静岡県金谷町に生まれ、若くしてアメリカ・キューバ・メキシコに渡る。当時のメキシコの芸術運動の影響を受け、昭和11年に帰国、同18年夫人の出身地瀬戸に疎開する。以後25年間、隣の尾張旭市に引っ越すまでこのアトリエで制作した。画伯の代表的作品が生まれた時期である。
 アトリエは坂の多い斜面を切り開いたわずかばかりの平地に建っている。東西に細長い敷地の西側に住まい、そして東側にかつての「モロ(室=ムロ)と呼ばれた陶器工場を改造したアトリエがある。間口8間・奥行き4間、周囲に壁を巡らし、窓が少なく室内には殆ど柱がない。比較的建ちの高い平屋づくりと「モロ」としての典型的な大きさの建物である。当初、土間はタタキであったがアトリエとして使うときに板張に改造されている。大正10(1921)年頃に建てられた旧 窯のものである。
 老朽化も進み、建物自体の痛みがひどく一時は取り壊しの運命に晒されたが、画伯と親交があった人たちで守る会が平成6年に結成され、年2回春秋に一般公開しながら保存に努めている。(『保存情報Ⅱ』)

丸窯

まるがま


 「丸窯」は有田窯で発展した磁器焼成窯の構造・様式であった。江戸後期の加藤民吉の九州修業を機に瀬戸に導入された。明治以降、大型磁器製品を焼成する窯炉として巨大な連房式登窯に発展した。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)の中で、黒田正作氏は「丸窯は瀬戸窯の構造ではなく、九州より導入した様式であって、なおその祖先は朝鮮半島である。この窯は概して大型で、大型物を焼成するように瀬戸で成長したものである。一室の大きさは、室幅2~2間半、長さ3~4間半、高さは9尺~1丈2尺に達している。丸窯の構造は堅固でであって、小窯のように度々修繕は不要である。以前は小窯のように、胴木間の次に捨間と呼ぶ一室があったが、長年の経験の結果、捨間は必要ないことを知り、これに代わる小窯の一室を付け製品を詰めて焼くようになった。丸窯の勾配は小窯に比して緩く、3寸勾配の窯が多かったという。」とある。
 さらに当時の稼動していた「池勝窯」と「山広窯」が紹介されている。「瀬戸池勝窯」は、二つの胴木間とその上の捨間、その上に一の間から五の間までの連房式丸窯である。全長は水平投影で26.8m、五の間の高さ3.74m・幅4.62m・長さ8.33mで中規模の丸窯である。もう一方の「山広窯」は大型で11連房もあり、十一の間は高さ4.45m・室の幅4.88m・室の長さ11.72mで池勝窯より一回り大きい。この丸窯の焼成は還元炎焼成で、池勝窯は年間3回焼成、一回の焼成時間は8日22時間を要した。また山広窯は年間5回焼成、一回の焼造時間は15日13時間を要した。
 明治41(1908)年には瀬戸には丸窯18基、昭和4年には16基が記録される。
昭和30年10月13日、最後の丸窯であった「加藤庄平窯」の火入れが行われた。日本大学映画部の記録映画が残されている。
(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)