小金観音堂

おがねかんのんどう

所在地:水北町1952番地 感応寺境内

小金観音堂は、天文の頃(1532~1555年)に、感応寺境内の本堂より約一町(109m)あまり山上に建立され堂内に行基作と伝わる聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音㊟の六体を安置したと伝わっている。天文八(1539)年己亥に火災によりお堂は焼失したが、安置してあった観音六体は、被災を免れ、同年、上水野村の一色城主磯村左近により再建され、以後数回改修・再建が行われた。

尾張志には『正観音、千手、馬頭、不空羅索、十一面、如意輪㊟の六胎を安置す。行基の作といひ傳へたり。その霊験いちじるしく感應ありしゆゑ、世に感應佛と称しけるが、やがて寺号となりしよし寺僧いへり』(原文ママ)と記されており、当堂を所蔵する感應寺の寺号の由来と伝えられる。

現在のお堂は、感応寺墓園の頂上に建っており、「城東西国観音二十六番札所」となっており、お堂の裏には、御林方奉行所や、水野代官所で奉行職を務めた水野家の墓地があり、また、当堂を所蔵する感応寺には、入尾城の最後の城主を務めた水野備中守平致高の位牌が保存されているなど、水野史のなかでの出来事との繋がりを感じさせるお堂であります。 (㊟観音の普門示現とは、文字、順序が異なる)

現在の小金観音堂
明治45年頃の絵葉書に写る小金観音堂
尾張名所図会に描かれた感応寺・小金観音堂