陶彦社(本殿・幣殿・拝殿・築地塀)

すえひこしゃ


瀬戸市指定建造物 1棟
平成31年3月19日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 本殿:一間社流造、銅版瓦
     幣殿:切妻造、銅版瓦
     拝殿:入母屋造、銅版瓦
    築地塀:砂モルタル壁、藤紋役物瓦

 陶彦社は、文政7年(1824)に創建された、陶祖加藤四郎左衛門景正(春慶)を祀る社である。鎮座より100年経ち、社殿すべてを建て替え、大正15年(1926)には本殿・渡殿・拝殿・礼拝所・土塀・玉垣を現在の位置に遷座した。
 建築の特徴として、当時の斬新で洗練された意匠の建築美が随所にみられる。建築材には木曽檜の最良材が使われ、本殿の正面に見える虹梁などには彫刻の彫りに木目をあわせるなど、使用された材は厳選され、意匠・彫刻の技術も高く評価される。設計者の伊藤平二には名古屋の堂宮大工である9代目伊藤平左衛門(守道)の次男として生まれ、正倉院の建物の保存修理などを手掛けた。意匠には明治末から大正にかけて活躍した京都府技師の亀岡末吉の建築意匠の影響がみられ、伝統的な神社建築でありながら蟇股や木鼻などの細部意匠に西洋の意匠を取り込む近代和風建築特有の建造物で、華やかな印象を持っている。これは瀬戸市域はもとより、周辺地域にも類例が稀である貴重な和風建築である。

本地の警固祭り

ほんじのけいごまつり


瀬戸市指定無形民俗 1件
平成31年3月19日指定 所在地 瀬戸市西本地町
保持者 本地警固保存会

 本地の警固祭りは、氏神である本地八幡社の秋例祭にシマごとに飾り馬を奉納する献馬行事(オマント)を原形としている。かつては旧本地村の12のシマから一頭ずつの飾り馬が出され、八幡社鳥居から境内まで馬を走らす「駈け馬」が行われた。鉄砲は出発や垢離取りの際には撃たれるが、警固隊がオマントにつくことはなく、本格的な警固が付くのは郷社祭り以上の祭礼の際とされていた。その後シマごとに馬を奉納することはなくなり、1950年代頃より郷社祭りと同様の形として旧本地村(現本地自治会)で馬1頭を奉納し、警固として鉄砲隊が付く現在の形となった。現在は10月の第二日曜に行われている。
 山口合宿を起源とする祭り行事は、市内では「山口の警固祭り」「菱野のおでく警固祭り」とこの「本地の警固祭り」がある。こうした地域を挙げて連綿と続いている習俗は市内では少なくなっており、瀬戸市のみならず尾張・西三河地域ほかにおける代表的な祭礼習俗のひとつとして貴重な民俗行事である。

王子窯モロ

おうじがまもろ


瀬戸市指定建造物 1基
平成31年3月19日指定 所在地 瀬戸市東洞町63
所有者 個人
文化財 木造2階建、南面下屋(大正2年(1913)拡張か)、切妻造、桟瓦葺、平入
時代 明治33年建造

 王子窯モロは、旧瀬戸村洞地区にあり、明治33年(1900)に建造された陶器生産の工房であり今日まで使用され続けている。間口20間(実長10間)、奥行6間(実長3間)で東西に細長い。モロは間口16間(実長8間)のものが多く、規模としては少し大きめなものといえる。 
 1階の西、北、東面は厚い土壁を巡らし窓はほとんどなく昼間でもうす暗い。これは、成形前の粘土保管や製品のロクロ成形等を行う際に急激な乾燥を避ける特性をもつ。北壁面に接するようにして現在使用されている電動ロクロが5か所にみられるが、かつては床下の動力ベルトを通じて3箇所以上のロクロを同時に稼働させていた痕跡が確認できる。南東床面には成形前の粘土置き場があり、西部の2間半のスペースと1階天井近くにサシダナと呼ばれるロクロ成形後の素地を置く板が設置されている。
 1階で成形された素地は、南側の干し場で乾燥された後、2階の倉庫で釉薬をかけられ、窯で焼成されるまでの間保管された。1階天井には2ヶ所の2階への登り口があり、ここに梯子をかけるなどして素地を2階に運び込んだものと思われる。2階は南側下屋庇にも拡張部があり、素地を大量に保管することができた。2階に保管された焼成前の製品素地は、2階西側の出入口からそのまま運び出され、尾根筋を伝って連房式登窯の王子窯(昭和43年(1968年)まで焼成)にもたらされた。
 このように、1階で成形、2階で焼成前製品素地の施釉と保管を行い、焼成の窯炉までを機能的につなげる工夫が込められている「王子窯モロ」は、その建造年代においても確認されている中では最も古いものであり、文化財的価値は高いと考えられる。

参考 三輪邦夫「王子窯モロ」(『瀬戸市歴史的建造物実測調査報告書』2016年)

王子窯

笠原村・両半田川村国境争論絵図

かさはらむら・りょうはだがわむらくにざかいそうろんえず


瀬戸市指定歴史資料 1枚
平成16年2月6日指定 所在地 瀬戸市寄託
所有者 上・下半田川町自治会
文化財 絵図縦151.5センチ、横272.7センチ
時代 江戸時代(元禄十四年)

この絵図は元禄十四年(1701)に尾張国上・下半田川村(現瀬戸市)と美濃国笠原村(現多治見市)との間で起こった村境と入会権の論争について、江戸幕府の評定所(現在の最高裁判所に相当)が裁定した裁許状と幕府が確定した絵図である。
この争論は国境をまたいでの争いであったため、笠原村が幕府に訴え、幕府評定所が判断を下したもので、最終的には尾張側の主張が認められて絵図に示す国境が確定された。同様の絵図は両者に渡されたが、尾張の両半田川村ではこの決定を後世に伝えるため交互に保管、毎年引渡しの際に「絵図披き」を行う行事があった。
江戸時代の「山と生活」を巡る史料としても貴重なものである。

笠原村・両半田川村国境争論絵図

品野祇園祭の神武天皇像および従者像

しなのぎおんまつりのじんむてんのうぞうおよびじゅうしゃぞう


瀬戸市指定民俗文化財 3体
(附 先代の頭3点)
平成25年3月18日指定 所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺祇園堂)
所有者 品野祇園祭協賛会
文化財
神武天皇像 高さ110センチ、従者像 高さ(阿形78・吽形79センチ)
附天皇先代頭 高さ45センチ、従者先代頭 高さ(阿形・吽形30センチ)
制作年代 平成6年(先代頭は昭和22年)

品野祇園祭は、瀬戸市下品野地区で毎年7月第3土曜日の夜半に1台の山車を中心に神輿や踊りの隊列が中心部を巡行する、疫病除け、夏病み除け、豊作・商売繁盛を祈願する祭礼である。祭礼に先立って、牛頭天王を祭神とする津島神社より地区の分社に「御札」を受ける神事がある。品野津島社の創始や山車を伴う祭礼の始まりについては諸説あるが、遡っても江戸末期から明治初期の頃からと思われる。
山車上層の中央に据えられる神武天皇像と左右の阿吽形の従者像2体はともに頭部は木製、両腕を上下に動かす素朴なからくり人形である。先代の頭は石膏製(天皇像)と磁器製(従者像)である。神武天皇像が従者像を伴い屋根付きの山車載せられる本例は県内外を通して特異な事例である。

品野祇園祭の神武天皇像および従者像
品野祇園まつり

松原広長寄進状

まつばらひろながきしんじょう


瀬戸市指定歴史資料 1点
平成18年2月10日指定 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 巻子装縦25.8センチ、横35.2センチ
時代 室町時代中期

今村城主松原広長が寛正五年(1464)に赤津の万徳寺に寄進した『聖徳太子伝』の最終丁に書かれていたものを、寛保二年(1742)同寺円応和尚が抜き出したものである。内容は寛正五年に「松原広長は一貫四百文の田畠を寺領として万徳寺に寄進した」ことが書かれている。広長は文明十四年(1482)に科野郷(現在の品野地区)の桑下城主永井(長江)民部と安土坂(現在の安戸町周辺)の合戦で敗死したと伝えられている。この資料は応仁の乱前後の在地領主の動向を知る上で数少ない貴重な史料である。

松原広長寄進状

古瀬戸瓶子(個人蔵)

こせとへいし


瀬戸市指定工芸品 1対
平成25年3月18日指定 所在地 瀬戸市赤津町
所有者 個人蔵
文化財 1高さ35.7 センチ、2高さ34.8センチ
時代 鎌倉時代後半

ほぼ同形状の一対の締腰形の瓶子である。1本は口径5.4、器高35.7、胴径21.3、底径10.9センチ、他の1本は口径5.4、器高34.8、胴径21.0、底径10.2センチの法量である。肩部に2段にわたる櫛描きによる平行沈線3~4条施される。成形は紐輪積み成形で、釉薬は部分的に剥落しているが灰釉が全面に刷毛塗りされており、肩から胴部下方に釉流れが見られる。13世紀後半代の作である。
瓶子は内箱と外箱が入れ子になっており、古い内箱の蓋表には「堀 御神壺」、裏には「瀬戸山林 馬ヶ城ノ堀」と「所有者の名 七十三翁」銘の箱書きがある。瀬戸の窯跡から出土したものを「ほりのて」と呼称し、馬ヶ城は著名な椿窯など古瀬戸生産の中心地であったことから、伝世された数少ない有品である。

古瀬戸瓶子

加藤唐三郎家文書

かとうとうざぶろうけもんじょ


瀬戸市指定古文書 481点
平成6年2月18日指定 所在地 瀬戸市窯元町
所有者 個人蔵
文化財 各種の形式・内容の古文書類(一括)
時代 江戸時代、一部明治初期

赤津窯の加藤唐三郎家は、江戸時代を通じて尾張徳川家の御庭焼御用を勤めた「御窯屋」であった。尾張藩の記録によれば、瀬戸山離散して美濃国土岐郡郷之木村に居た加藤利右衛門と弟仁兵衛は、慶長十五年(1610)に尾張藩主義直の帰還命令により赤津村に戻り、藩御用を仰せつかった。この時、利右衛門は唐三郎と改名、唐三郎家の家祖となり、現在まで十二代に亘って唐三郎を襲名している。
文書は慶長十五年の赤津窯再興以来明治維新に至る同家の所蔵文書で、内容は同家の家譜由緒から御窯屋御用・焼立、日常生活に係る窯屋資料、尾張家御庭焼の記録などの行政文書で、近世の窯業技術史の貴重な記録である。

加藤唐三郎家文書

永享年銘梵鐘

えいきょうねんめいぼんしょう


瀬戸市指定工芸品 1口
昭和57年3月1日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 高さ87.3センチ
時代 室町中期(永享十年)

梵鐘とは、寺院で使用された釣鐘のことで、人を集めたり、時刻を知らせたりする時に打ち鳴らす役目をする。この梵鐘は瀬戸市内に遺存する最古のもので、高さ87.3センチ、重さは約80貫(300キロ)あり、青銅製である。龍頭は双龍が宝珠を戴いた形をとり、乳は四面に16個宛て計64個付いており、撞座には単片八葉蓮華文で装飾されている。現世・末世に対する願いと祈りを込めた銘文から、永享十年(1438)に八王子社(深川神社)に奉納されたこと、この頃の神仏習合を知る事ができる。
慶長年間の大火、明治初期の神仏分離による廃物稀釈、そして第2次世界大戦中の金属供出のいずれからも免れたものである。

永享年銘梵鐘

加藤新右衛門家文書

かとうしんうえもんけもんじょ


瀬戸市指定古文書 140点
平成6年2月18日指定 所在地 瀬戸市窯町
所有者 個人蔵
文化財 各種の形式・内容の古文書類(一括)
時代 江戸時代

加藤新右衛門家は江戸時代初期に下品野窯を再興、明治維新まで庄屋や窯元取締役を勤めた。同家には「織田信長発給の制札」を始め、宝暦年間(18世紀中)から明治維新に至る多数の古文書が残されている。
各年次の窯屋人別書上帳や本業焼荷物出荷帳などは、近世の本業焼の解明に貴重な資料であり、また安永八年(1779)に始まり数年間に及んだ村方と窯屋との詳細な出入り一件の記録は、近世村方騒動(農村史)を知る貴重な資料である。
本文書の全容は「加藤唐三郎家文書」同様、市史編纂委員会により「瀬戸市近世文書集」として翻刻・発刊している。

加藤新右衛門家文書