菱野のおでく警固祭り

ひしのおでくけいごまつり


瀬戸市指定無形民俗 1件
平成20年9月12日指定 所在地東菱野町
保持者 菱野文化財調査保存会

この地方では近隣の村々で合同して猿投神社に「飾り馬」(馬を標具により飾ったもの)を奉納する行事があり、「合宿」または「合属」と呼ばれていた。菱野村を含む近隣10ヵ村は「山口合宿」を行ったが、菱野村は「おでく」を標具とするのが慣わしであった。山口合宿は大正5年を最後に行われなくなったが、その後は明治14年より始まった「郷社祭り」で各村から警固を出す変わらぬ形式であった。
近年、この「郷社祭り」も特別な慶事に開催されることとなり、菱野のおでくも地区の祭りには出されなくなった。「おでくと警固祭り」の伝承を保存するため、3年に一度菱野熊野社に奉納することとなった。

 

菱野のおでく警固祭り
鉄砲隊

古瀬戸瓶子(宝泉寺蔵)

こせとへいし


瀬戸市指定工芸品 1対
平成17年2月10日指定 所在地 瀬戸市寺本町
所有者 宝泉寺
文化財 1)口径5.4、器高33.5、胴径20.0、底径11.7センチ
2)口径5.2、器高34.2、胴径20.8、底径12.4センチ
時代 鎌倉時代中期

宝泉寺に藤四郎作として伝えられた1対の古瀬戸瓶子である。器高34センチ前の割りに小さな口と肩が張り出し、胴部は下に向かうほどすぼまる締腰型の典型的な形態で、肩に2段の櫛目沈線が施されている。また灰釉は不安定に流れ、古瀬戸前期後半の様式の特徴を示している。
寺に明治以前からのこされていた「春慶作 酒器壺 一對」史料から、大変貴重な伝世品であることが分かる。

古瀬戸瓶子(宝泉寺蔵)

本地大塚古墳

ほんじおおつかこふん


瀬戸市指定史跡 1基
昭和51年5月1日指定 所在地 瀬戸市西本地町
所有者
文化財 前方後円墳
時代 古墳時代

本地大塚古墳は、瀬戸市の南西部に所在する前方後円墳である。一説にはこの子墳墓は応神天皇の皇子誉治別命(ほむじわけのみこと)の陵であり、本地村の村名の起こりとなったと言われている。
墳丘は全長33メートル、後円部の径は22.5メートルで、いわゆる帆立貝式古墳である。昭和34年に発掘調査され、墳丘部より須恵質円筒埴輪・朝顔型埴輪・形象埴輪・須恵器などが出土しており、それらの資料から5世紀末から6世紀初頭に成立した古墳であることが判明している。瀬戸市内最大・最古の古墳である。

本地大塚古墳

聖徳太子伝

しょうとくたいしでん


瀬戸市指定典籍 5冊
平成18年2月10日 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 全5冊204丁(縦26センチ、横20センチ)
時代 室町時代中期

『聖徳太子伝』は聖徳太子の伝記である。『聖徳太子絵伝』と共に、寛正五年(1454)に今村城主松原広長によって寄進されたものである。聖徳太子は6世紀末に推古天皇の摂政として日本古代の政治・文化に数多くの業績を残した人物である。太子は仏教に深く帰依していたため、後の仏教徒にとって聖人とみなされた。中でも浄土真宗では、開祖の親鸞が熱烈な太子信奉者であったため太子の絵伝などを伝える寺院が数多くある。『聖徳太子伝』にはさまざまな説話を集めたものであるが、万徳寺蔵のものはこれらの中でも、中心的な系統の写本には無い説話も見られ、興味深く貴重な典籍である。

聖徳太子伝

宮地古墳群

みやちこふんぐん


瀬戸市指定史跡 1542平方メートル
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市上之山町
所有者 瀬戸市
文化財 3基の古墳群
時代 古墳時代

宮地古墳群は瀬戸市南部の豊田市境に所在する。現在のところ3基の古墳が確認されており、内1基は前方後円墳(宮地第1号墳)、同第2・3号墳は円墳とされている。この宮地古墳群の周辺には、他に吉田・吉田奥・塚原・来姓などの古墳群15基が確認されており、瀬戸市南部の矢田川流域における古墳分布の中心地になっている。これらの古墳はいずれも古墳時代後期に属し、その出土遺物から6世紀中葉から7世紀始めにかけての古墳群である。
周辺は古墳公園として整備され、一角に発掘調査された竪穴系横口式石室をもつ吉田第2号墳が移築保存されている。

宮地古墳群

大般若経

だいはんにゃきょう


瀬戸市指定典籍 155巻
平成20年9月12日指定 所在地 瀬戸市東菱野町
所有者 菱野文化財保存会
文化財 楮打紙・染紙(黄)刊本、縦25.5センチ・横9.5センチ、42~49折
時代 鎌倉・室町時代

旧菱野村東福寺は天台宗の寺院で、寺伝によれば12世紀に開かれ、永正十三年の火災で全焼した。翌年秀海法印により中興されたが熊野権現の別当寺院であった。昭和25年 に無住となり廃寺となったが、所蔵の「大般若経」などは地元の郷蔵に保管されたもので、現在は155巻が保存されている。
『大般若経』は『大般若波羅蜜多経』の通称で、仏教経典の中で最も巻数が多く全部で600巻にも及ぶ。東福寺のものは木箱2個に収納され、蓋書に「東福寺二百八十八巻」とあり、元亀三年(1572)に隣村本地村より寄進とある。その際の経典は元亀以前のものであったが、鎌倉時代に印刷されたものが4巻(五十二・五十三・五十四・五十七巻)含まれている。

大般若経

広久手第30号窯跡

ひろくてだいさんじゅうごうかまあと


瀬戸市指定史跡 15.2平方メートル
平成18年9月27日指定 所在地 瀬戸市吉野町
所有者 愛知県
文化財
時代 平安時代中期

瀬戸市南部の幡山丘陵には、鎌倉・室町時代の施釉陶器「古瀬戸」以前にさかのぼる古代の窯跡も分布する。中でも広久手第30号窯跡は市内最古のものである。南向きの斜面に築かれた本窯は窖窯と呼ばれる構造で、釉薬を施した大小の椀・皿類を中心とする窯業生産が行われていた。焼成室天井壁は残っていなかったが、残存部の長さは4.2メートル、幅1.5メートルの小ぶりの寸胴形の窖窯であった。
発掘調査後、あいち海上の森センターの歴史館として保存・展示されている。

広久手30号窯 窯体
広久手30号窯 覆屋

織田信長の制札

おだのぶながのせいさつ


瀬戸市指定歴史資料 1通
昭和53年11月1日指定 所在地・所有者 個人蔵
文化財 縦28.9、横42.9センチ 時代 室町時代(永禄六年)

この制札は織田信長が尾張一国を統一後間もない永禄六年(1563)発給されたもので全文3条からなり、末尾に信長の花押がある。第1条には瀬戸物を扱う諸郷で組織された商人の尾張国内での自由往来を認め、第2条で米穀や海産物などの取引を行う市の日の商馬の市への来訪を命じ、第3条では新たな諸課役を禁じている。
その後、瀬戸山離散で濃州水上村で窯業を営んでいた加藤新右衛門家は尾張初代藩主徳川義直に下品野村に召還され、弟三右衛門家と共に品野地区窯業再興の祖となった。制札は多くの古文書と共に累代の新右衛門家に伝えられてきた。

織田信長の制札

石樋

いしどい


瀬戸市指定名勝 約750平方メートル
平成4年2月21日指定 所在地 瀬戸市水北町
所有者 樋ヶ沢川(建設省)
文化財 『尾張名所図会』記載の名勝地

県道定光寺・山脇線に沿う水野川の支流樋ヶ沢川の河床に、幅10~15メートル、長さ60メートルに亘って「石樋」と呼ばれる景勝地がある。これは河川が長い年月をかけて花崗岩盤を樋のように浸食したもので、方状節理といわれる自然景観である。
この石樋は江戸時代から名勝地として知られており、『尾張名所図会』には「細流此所を経るに、大磐石の面に樋の如くなる窪みありて人工にうがちたるが如し、此の上を流るゝ水千筋に分かれほとばしるさま又なき一勝景なり」とある。

石樋

窯屋証文

かまやしょうもん


瀬戸市指定歴史資料 1通
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市寄託
所有者 個人蔵
文化財 縦16センチ、横44.3センチ
時代 江戸時代前期(慶長十五年)

所蔵者は江戸時代後期に下品野村の窯屋取締役を勤めた加藤定蔵家系に連なる窯屋である。「御用 御蔵会所」の木箱に納められた和紙半折の「諸役免除の窯屋証文」が残されている。「以上 春日井郡之内下品野村、瀬戸物やき方々より参候ものハ、諸役令免許候、少も相違有之間敷候者也、仍如件、 戌五月五日 寺西藤左衛門(黒印)・原田右衛門(花押) 新右衛門・三右衛門(宛て)」
慶長十五年(1610)に元瀬戸村窯屋の一族で美濃国水上村に離散していた加藤新右衛門・三右衛門兄弟が尾張藩から召還され、下品野村に五町五反歩の窯地を給され、その年貢その他の雑税を免ずるものであったことが分かる貴重な資料である。

窯屋証文