広久手第30号窯跡

ひろくてだいさんじゅうごうかまあと


瀬戸市指定史跡 15.2平方メートル
平成18年9月27日指定 所在地 瀬戸市吉野町
所有者 愛知県
文化財
時代 平安時代中期

瀬戸市南部の幡山丘陵には、鎌倉・室町時代の施釉陶器「古瀬戸」以前にさかのぼる古代の窯跡も分布する。中でも広久手第30号窯跡は市内最古のものである。南向きの斜面に築かれた本窯は窖窯と呼ばれる構造で、釉薬を施した大小の椀・皿類を中心とする窯業生産が行われていた。焼成室天井壁は残っていなかったが、残存部の長さは4.2メートル、幅1.5メートルの小ぶりの寸胴形の窖窯であった。
発掘調査後、あいち海上の森センターの歴史館として保存・展示されている。

広久手30号窯 窯体
広久手30号窯 覆屋

織田信長の制札

おだのぶながのせいさつ


瀬戸市指定歴史資料 1通
昭和53年11月1日指定 所在地・所有者 個人蔵
文化財 縦28.9、横42.9センチ 時代 室町時代(永禄六年)

この制札は織田信長が尾張一国を統一後間もない永禄六年(1563)発給されたもので全文3条からなり、末尾に信長の花押がある。第1条には瀬戸物を扱う諸郷で組織された商人の尾張国内での自由往来を認め、第2条で米穀や海産物などの取引を行う市の日の商馬の市への来訪を命じ、第3条では新たな諸課役を禁じている。
その後、瀬戸山離散で濃州水上村で窯業を営んでいた加藤新右衛門家は尾張初代藩主徳川義直に下品野村に召還され、弟三右衛門家と共に品野地区窯業再興の祖となった。制札は多くの古文書と共に累代の新右衛門家に伝えられてきた。

織田信長の制札

石樋

いしどい


瀬戸市指定名勝 約750平方メートル
平成4年2月21日指定 所在地 瀬戸市水北町
所有者 樋ヶ沢川(建設省)
文化財 『尾張名所図会』記載の名勝地

県道定光寺・山脇線に沿う水野川の支流樋ヶ沢川の河床に、幅10~15メートル、長さ60メートルに亘って「石樋」と呼ばれる景勝地がある。これは河川が長い年月をかけて花崗岩盤を樋のように浸食したもので、方状節理といわれる自然景観である。
この石樋は江戸時代から名勝地として知られており、『尾張名所図会』には「細流此所を経るに、大磐石の面に樋の如くなる窪みありて人工にうがちたるが如し、此の上を流るゝ水千筋に分かれほとばしるさま又なき一勝景なり」とある。

石樋

窯屋証文

かまやしょうもん


瀬戸市指定歴史資料 1通
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市寄託
所有者 個人蔵
文化財 縦16センチ、横44.3センチ
時代 江戸時代前期(慶長十五年)

所蔵者は江戸時代後期に下品野村の窯屋取締役を勤めた加藤定蔵家系に連なる窯屋である。「御用 御蔵会所」の木箱に納められた和紙半折の「諸役免除の窯屋証文」が残されている。「以上 春日井郡之内下品野村、瀬戸物やき方々より参候ものハ、諸役令免許候、少も相違有之間敷候者也、仍如件、 戌五月五日 寺西藤左衛門(黒印)・原田右衛門(花押) 新右衛門・三右衛門(宛て)」
慶長十五年(1610)に元瀬戸村窯屋の一族で美濃国水上村に離散していた加藤新右衛門・三右衛門兄弟が尾張藩から召還され、下品野村に五町五反歩の窯地を給され、その年貢その他の雑税を免ずるものであったことが分かる貴重な資料である。

窯屋証文

目鼻石

めはないし


瀬戸市指定名勝 約530平方メートル
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市十軒町・鹿乗町
所有者 水野川(建設省)
文化財 『尾張名所図会』記載の名勝地

水野川の河床に「目鼻石」と呼ばれる奇岩がある。天保年間の村絵図にすでに「目はな石」と記載されている。また『尾張名所図会』には、「奇岩所々にならび立つ中に、目鼻石とて恰も双眼鼻の如き自然の穴ある大石あり。是らのために川水せかれて白玉をなし、奔流するさま言語に絶えたり。」とある。
これは流水の浸食作用によって形成されたポットホール(甌穴)という自然景観で、大規模な例は豊川水系(東栄町)にある。それよりもここは、村人にとって大切な聖地であった。どんな干ばつの年でも、この目鼻石の孔穴を洗い浄めて祈れば、たちまち霊験あらたかに降雨があったという。

目鼻石

陶製梵鐘

とうせいぼんしょう


瀬戸市指定歴史資料 1口
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市深川町 所有者 法雲寺
文化財 高さ115センチ、直径79センチ 時代 昭和17年10月

日中戦争が勃発した翌昭和13年に、家庭用品を中心にした銅・鉄製品の製造規制が始まり、それと共に金属器の「代用品」を陶磁器で生産することが奨励されるようになった。昭和16年8月には「金属類回収令」が公布され、翌年5月には仏具・』梵鐘類などの強制譲渡の法制化へとエスカレートしていった。
法雲寺の梵鐘も昭和17年10月に出征したので、すぐに同時に代用品として製作したのがこの陶製梵鐘である。鐘を突くという実用性は度外視した、国内でも稀な大型「代用品」である。法雲寺は真宗大谷派で明治16年に房社が設立された。

陶製梵鐘

マルバタラヨウ

まるばたらよう


瀬戸市指定天然記念物 1本
平成9年11月18日指定 所在地 瀬戸市中水野町
所有者 三社大明神社(境内)
文化財 樹高18メートル、幹周り110センチ、枝張り東西5×南北7メートル

モチノキとタラヨウはいずれもモチノキ科の常緑樹であり、雄木と雌木がある。モチノキは4月上旬、タラヨウは5月上旬頃に開花し本来は両者の交雑はありえない。昭和54年に地元の研究者日比野修氏が発見、「マルバタラヨウ」の命名は平成8年12月、「植物地理・分類研究」誌に新種として発表された。「日本産の新木本植物」と同定した初島住彦博士は「タラヨウはモチノキ科の木で本来の自生地は山口県以西、外国では中国の中部に自生する。タラヨウは雑種の非常にできにくい種であり、自然の状態で交配し雑種ができたのが確認されたのは、今回の瀬戸市での発見が初めてである。世界的にも例を見ない極めて重要な発見である。大切に保護されたい。」としている。

マルバタラヨウ
マルバタラヨウ(葉)

祠堂帳

しどうちょう


瀬戸市指定歴史資料 1巻
平成11年11月12日指定 所在地 瀬戸市定光寺町
所有者 定光寺
文化財 巻子装一巻幅29.9センチ、長さ1080.3センチ
時代 室町時代

定光寺は濃尾地方で活躍した禅僧覚源禅師により建武三年(1336)に開山、室町時代から戦国時代にかけて、朝廷や武家の後援を得て地域に基盤を据えて発展した。同寺院には多くの古文献が残るが、祠堂帳は地域的基盤の具体相を記す古文書である。祠堂帳は文明年間(15世紀中)から天正七年(1579)にかけて書き継がれたもので、信仰者が永代供養を依願して動産・不動産を寄進したことを年次を追って記入されている。瀬戸市内は勿論、東濃・尾張東部など各地の地名・人名の記載が豊か、瀬戸市内の中世史を語る文献史料である。
寛政五年(1793)と昭和58年の修補で現況(表紙・裏打紙・軸)とした。

祠堂帳

マメナシ

まめなし


瀬戸市指定天然記念物 1本
平成16年2月6日指定 所在地 瀬戸市東松山町
所有者 水南小学校校地
文化財 樹高9メートル、幹周り117センチ、枝張り東西9×11メートル

マメナシはバラ科に属し、ナシの原種といわれ、4月上旬に白い花を開花させ、秋には豆粒大の実を結実させる。食用のナシより実が小さいため、マメナシ(豆梨)・イヌナシ(犬梨)の名がついたといわれる。この樹木は更新世からの遺存植物で世界的にも希少な植物である。日本では本州中部の極めて狭い地域に分布が限られており、愛知県に於いては主に尾張東部に分布していて、本市はその東限となっている。かつてはため池などの湧き水のある場所に多く見られたが、市内の東松山町から進陶町の群落もわずか数本を残すのみとなった。地元においてこの木を保存するため「マメナシ観察会」が結成され、保護活動を積極的に行っている。

マメナシ

笠原村・両半田川村国境争論絵図

かさはらむら・りょうはだがわむらくにざかいそうろんえず


瀬戸市指定歴史資料 1枚
平成16年2月6日指定 所在地 瀬戸市寄託
所有者 上・下半田川町自治会
文化財 絵図縦151.5センチ、横272.7センチ
時代 江戸時代(元禄十四年)

この絵図は元禄十四年(1701)に尾張国上・下半田川村(現瀬戸市)と美濃国笠原村(現多治見市)との間で起こった村境と入会権の論争について、江戸幕府の評定所(現在の最高裁判所に相当)が裁定した裁許状と幕府が確定した絵図である。
この争論は国境をまたいでの争いであったため、笠原村が幕府に訴え、幕府評定所が判断を下したもので、最終的には尾張側の主張が認められて絵図に示す国境が確定された。同様の絵図は両者に渡されたが、尾張の両半田川村ではこの決定を後世に伝えるため交互に保管、毎年引渡しの際に「絵図披き」を行う行事があった。
江戸時代の「山と生活」を巡る史料としても貴重なものである。

笠原村・両半田川村国境争論絵図