古瀬戸瓶子(個人蔵)

こせとへいし


瀬戸市指定工芸品 1対
平成25年3月18日指定 所在地 瀬戸市赤津町
所有者 個人蔵
文化財 1高さ35.7 センチ、2高さ34.8センチ
時代 鎌倉時代後半

ほぼ同形状の一対の締腰形の瓶子である。1本は口径5.4、器高35.7、胴径21.3、底径10.9センチ、他の1本は口径5.4、器高34.8、胴径21.0、底径10.2センチの法量である。肩部に2段にわたる櫛描きによる平行沈線3~4条施される。成形は紐輪積み成形で、釉薬は部分的に剥落しているが灰釉が全面に刷毛塗りされており、肩から胴部下方に釉流れが見られる。13世紀後半代の作である。
瓶子は内箱と外箱が入れ子になっており、古い内箱の蓋表には「堀 御神壺」、裏には「瀬戸山林 馬ヶ城ノ堀」と「所有者の名 七十三翁」銘の箱書きがある。瀬戸の窯跡から出土したものを「ほりのて」と呼称し、馬ヶ城は著名な椿窯など古瀬戸生産の中心地であったことから、伝世された数少ない有品である。

古瀬戸瓶子

加藤唐三郎家文書

かとうとうざぶろうけもんじょ


瀬戸市指定古文書 481点
平成6年2月18日指定 所在地 瀬戸市窯元町
所有者 個人蔵
文化財 各種の形式・内容の古文書類(一括)
時代 江戸時代、一部明治初期

赤津窯の加藤唐三郎家は、江戸時代を通じて尾張徳川家の御庭焼御用を勤めた「御窯屋」であった。尾張藩の記録によれば、瀬戸山離散して美濃国土岐郡郷之木村に居た加藤利右衛門と弟仁兵衛は、慶長十五年(1610)に尾張藩主義直の帰還命令により赤津村に戻り、藩御用を仰せつかった。この時、利右衛門は唐三郎と改名、唐三郎家の家祖となり、現在まで十二代に亘って唐三郎を襲名している。
文書は慶長十五年の赤津窯再興以来明治維新に至る同家の所蔵文書で、内容は同家の家譜由緒から御窯屋御用・焼立、日常生活に係る窯屋資料、尾張家御庭焼の記録などの行政文書で、近世の窯業技術史の貴重な記録である。

加藤唐三郎家文書

永享年銘梵鐘

えいきょうねんめいぼんしょう


瀬戸市指定工芸品 1口
昭和57年3月1日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 高さ87.3センチ
時代 室町中期(永享十年)

梵鐘とは、寺院で使用された釣鐘のことで、人を集めたり、時刻を知らせたりする時に打ち鳴らす役目をする。この梵鐘は瀬戸市内に遺存する最古のもので、高さ87.3センチ、重さは約80貫(300キロ)あり、青銅製である。龍頭は双龍が宝珠を戴いた形をとり、乳は四面に16個宛て計64個付いており、撞座には単片八葉蓮華文で装飾されている。現世・末世に対する願いと祈りを込めた銘文から、永享十年(1438)に八王子社(深川神社)に奉納されたこと、この頃の神仏習合を知る事ができる。
慶長年間の大火、明治初期の神仏分離による廃物稀釈、そして第2次世界大戦中の金属供出のいずれからも免れたものである。

永享年銘梵鐘

加藤新右衛門家文書

かとうしんうえもんけもんじょ


瀬戸市指定古文書 140点
平成6年2月18日指定 所在地 瀬戸市窯町
所有者 個人蔵
文化財 各種の形式・内容の古文書類(一括)
時代 江戸時代

加藤新右衛門家は江戸時代初期に下品野窯を再興、明治維新まで庄屋や窯元取締役を勤めた。同家には「織田信長発給の制札」を始め、宝暦年間(18世紀中)から明治維新に至る多数の古文書が残されている。
各年次の窯屋人別書上帳や本業焼荷物出荷帳などは、近世の本業焼の解明に貴重な資料であり、また安永八年(1779)に始まり数年間に及んだ村方と窯屋との詳細な出入り一件の記録は、近世村方騒動(農村史)を知る貴重な資料である。
本文書の全容は「加藤唐三郎家文書」同様、市史編纂委員会により「瀬戸市近世文書集」として翻刻・発刊している。

加藤新右衛門家文書

一里塚本業窯

いちりづかほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
昭和50年7月21日指定 所在地 瀬戸市一里塚町
所有者 水野雅之
文化財 全長16メートル・最大幅9メートル
時代 昭和25年再建

「本業窯」は連房式登窯の一種で、江戸時代以降専ら陶器本業製品を焼成する窯として使用され、磁器製品を焼成した「丸窯」と共に瀬戸を代表する窯炉であった。
本窯は昭和25年に東洞町に在った13連房の奥洞窯の窯材を使用して再築したもので、胴木間・捨間・四の間までの焼成室、煙室(コクド)など以前の構造をよく残している。昭和50年に文化財指定を受けるまで、火鉢・水甕・擂鉢などを年3回ほど焼成していたが、擂鉢だけなら約1万個を焼成することができたという。昭和63年に、窯鞘(屋根)の葺替工事を実施している。付属するツク・タナ板などの窯道具類も指定に含まれている。

一里塚本業窯

直入橋

ちょくにゅうばし


瀬戸市指定建造物 1橋
昭和58年6月1日指定 所在地 瀬戸市定光寺町
所有者 定光寺
文化財 石造、長さ9.4メートル、幅 2.6メートル
時代 江戸時代前期(承応二年)

応夢山定光寺の参道入口の池に架かる橋で、「直入橋」という。『尾張名所図会』の中では「下馬橋」と記されている。この橋は尾張藩二代藩主徳川光友が、時の奉行熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応二年(1653)2月に着工し、同年5月に完成している。
直入橋は全て花崗岩製で、その構造は池両岸の石積みに長さ6m以上もある3本の橋桁を渡し、その橋桁に主な橋部を組み合わせている。江戸時代には、池に蓮を植えたり、参道に桜並木を作るなど、橋と良く調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「応夢山十境」の一つとされていた。

直入橋

石燈籠(神明社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成4年2月21日指定 所在地 瀬戸市落合町
所有者 神明社(境内)
文化財 総高196センチ
時代 江戸時代前期(明暦四年)

神明社は旧下品野村の氏神であり、その由緒には「社伝明らかならずも、本朝元中七年(1390)後亀山天皇の御世創設」とある。
長い石段を登った本殿前にある六角円柱型の石燈籠(花崗岩製)は、瀬戸市内に在るものの中で最古の記年銘をもつ。総高196センチ、宝珠と笠の部分が一体化し、特別な装飾をもたないシンプルなものとなっており、保存状態も良好である。竿の銘文に「奉壽進御寶前 明暦四年戊戌林鐘吉日 下品野村村上長次郎寄進」とある。村上長次郎は、品野窯を再興した加藤新右衛門系譜にある人である。そのため、藩政時代の下品野村における窯屋の由来を知る歴史性も有している。

石燈籠(神明社)

石燈籠(八幡社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 総高178センチ
時代 江戸時代前期(延宝七年)

八幡社は江戸時代には山口村及び近隣村の総氏神として崇敬されていた。明治5年に郷社に列挌され、幡山地区及び長久手上郷地区24ヵ村の総社となった。
瀬戸市内最古の石燈籠は旧下品野村神明社の石燈籠(明暦四年銘)で、本件はそれに次いで古いものである。石燈籠は花崗岩製で、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分に別れ、笠には六つの太い蕨手が付く。三味線胴型にふくらんだ六角火袋、力強い竿は大振りで堂々としており、均整がとれている。「延宝七己未九月十五日」の記年銘がある。境内にある石造鳥居も同時期に築造されていることから、この頃に大規模な神社の再建が行われたようである。

石燈籠(八幡社)

石造鳥居(八幡社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 高さ308センチ、幅386センチ
時代 江戸時代前期(延宝五年)

延喜式神名帳の山田郡19座の中の「小口神社」は山口神社とされ、地域の総氏神として崇敬されてきた。境内には多くの末社が合祀され、棟札も多数残されている。
神社鳥居は近世以前その殆どが木造であり、明治以降順次石造鳥居に造り替えられてきた。瀬戸市内38基(平成4年現在)の石造鳥居の内、近世以前に建立されたものは、本件と赤津の大目神社(宝暦五年銘)の2基のみである。
鳥居は、花崗岩製・明神鳥居で、やや小型ではあるが均整がとれていて姿は美しい。「延宝五年丁巳閏十二月吉日 尾州愛智郡山田庄山口村氏子(以下判読不明)」とあり、瀬戸市内最古の鳥居である。

石造鳥居(八幡社)

洞本業窯

ほらほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市東洞町
所有者 水野半次郎
文化財 全長14メートル、最大幅7メートル
時代 昭和24年再建

本窯も一里塚町の本業窯と同じ構造の連房式登窯である。この本業窯2基は奇しくも「奥洞本業窯」として活動していたが、昭和23年に解体された。同24年に本窯(半次郎窯)、同25年に一里塚窯(義郎窯)として同じ窯グレ(炉材)を使用して移築された。そのため、同じ構造とほぼ同様規模を持っている。本窯も昭和54年5月の焼成を最後に現在まで使用されていないが、次の焼成のための松割木(燃料)や窯道具のツク・タナ板などが準備されており、それらも一括指定されている。
奥洞窯は代々水野半次郎家の本業窯で、明治・大正・昭和と稼働した。最盛期には13連房の焼成室を有していた。

洞本業窯(胴木間)
洞本業窯(焼成室)