伝承地 瀬戸市白坂町
応永(おうえい)二五年(一四一八)ごろ、赤津の村人たちや、雲興寺(うんこうじ)のお坊さんが、わけのわからない病(やまい)に悩んでいました。
ある日、この寺のお尚(おしょう)の祖命禅師(そめいぜんじ)が朝のおつとめをしようとしていたときに、猿投大明神(さなげだいみょうじん)が現れました。そして
「この寺の土地は、龍の形をしているが、大切な眼がない。だから、病気が直らないのだ。」とつげて、さっと消えました。
そこで、さっそくお尚は、そのことを村人たちに話し、龍の眼ににせて、参道(さんどう)の両側に池をほり、「龍眼池」と名付けました。
不思議なことに、その後、人々の病はぴたりと直ったそうです。
また、この池の名について、「両眼池」と呼ばれていたものが、後になって「龍眼池」と呼ばれるようになったのだとも言われています。
カテゴリー: 伝説・昔話
弥蔵観音の物語
やぞうかんのんのものがたり
伝承地 瀬戸市古瀬戸町・西拝戸町
時代背景 天保2年(1831)3月27日亡の梅心妙量信女という人が、できもので苦しみ、「私が死んだら祀っておくれ。きっとなおしてやる。」という地元に残された伝説。
末広町から瀬戸公園下の近くの宝泉寺(ほうせんじ)の前を通り、赤津へぬける昔からの道があります。赤津の手前に洞(ほら)というところがあって、そこに伝わるお話です。
むかし、むかし、洞に一人ぐらしの女の人が住んでいました。なんとその女の人は、頭のてっぺんからつま先まで、できものだらけでした。畑仕事をするにも家の中の仕事をするにもかゆみといたさで、仕事もきちんとできませんでした。その女の人は、どうしても直したくて、近くのお宮へ何度も何度もお参りしたり、できものがよくなるといううわさがある遠くのお宮へも行ってみたり、薬草をせんじて飲んでみたりしましたが、いっこうに良くなる様子がありません。自分の体じゅうにできたできものを見ては、悲しくなっていました。
いろいろやってみてもどうしても直らないので、とうとう直すことをあきらめてしまいました。
「できもので悩むのはわたし一人でたくさんだ。わたしが死んだら、できもので困っている人の身代りになり、直してあげよう。」 そして村の人たちに会うたびに、
「わたしが死んだら村はずれの山の上に埋め、祀(まつ)ってくれ。できもので悩む人を救ってやるぞ。」と、口ぐせのように言っていました。
女の人は、一人暮らしのまま、とうとう死んでしまいました。死ぬまぎわにも、
「わしを祀ってくれ。たのみます。」と、言い残して死んでいったそうです。ところが、村の人たちは女の人に身よりもなく、また貧乏だったので村のお墓に埋めておいただけでした。
さて、女の人が死んで二・三日たつと、できものが村の人たちにできはじめました。そして、一人、二人とふえ続け、十日もたたぬまに村の人々全部にできものができてしまいました。お宮に参っても、薬をぬっても全くなおりません。とうとう、
「あの女のたたりじゃ。山の上に埋めて、祀ってやらなかったばちじゃ。」と、みんなが言い出しました。
そこで、村中で、村はずれの山の上にほこらを作って祀ることにしました。すると、どうでしょう。祀ったその夜から一人づつできものが直っていくではありませんか。
それからというもの、村では、できものができると、山のほこらへ行っておまいりするとすぐ直るため、手厚くいつまでもまつり続けました。おまけに、できものばかりか、腹いたにきくといううわさが広がり、できもの、腹いたで悩む人たちから、大変喜ばれました。
このほこらに祀ってあるのが、弥蔵観音です。
金井神社
かないじんじゃ
伝承地 瀬戸市川西町
どこの学区にも、たいていお寺やお宮があり、そこが子どもたちの遊び場になっていることがよくあります。しかし、狭くて、薄暗かったので、お宮を他へ移してしまったというお話をしましょう。
旧效範小学校の校区には、今お宮がありません。七五年ほど前まで※1は、今の川西町のどこかにお宮があったと聞きました。
そこで、お年寄りの方にいろいろ教えていただくと、尾州府志(一七五年※2に出された愛知県の地理の本)という古い本にもついている金井神社ということが分かりました。
この神社は、ヒロクニオシタケカナヒノミコト(二七代の安閑天皇の御名は広国押武金日命という)という神様をおまつりしていました。その神様の名のカナヒがカナイにかわり、お宮の名前になったのだろうということです。
その神社は、川西町一丁目あたりで、七アールばかりの細長い土地で、木や竹がたくさん生えて、日の光があまり当らない薄暗いところだったということです。
朝夕ほとんど太陽の光が当たらないところだったので、七五年ほど前に、八王子神社の境内に移されたということです。
その跡地は、開墾して畑にしたということですが、おそろしく古い時代に天皇をまつったお宮が川西町にあったというのは確かなことのようです。
※1 不明
※2 「張州府志」(宝暦二年(一七五二)完成)
龍天池
りゅうてんいけ
伝承地 瀬戸市白坂町
時代背景 室町幕府官領家の細川勝元派と有力守護大名の山名特豊派とが、応仁元年(1467)から約10年にわたり続いた戦乱で、京都に始まり全国規模に発展した 京都で応仁の乱(おうにんのらん:今から五一〇年ほど前※1)が始まったころの話です。
雲興寺の三代目のお尚は、朝夕お経を読み、村人に仏の道を教えていました。
一四六六年の一一月三〇日の朝のことです。お尚は、けさもいつものようにお経を読んでいました。すると急にあたり一面が暗くなり、大粒の雨が降り出し、風も強まってきました。お尚は急いで本堂の雨戸を閉めようとしたとき、目の前の小さな池の中がざわめいたかと思うと、渦を巻いて竜巻のように登り始めました。その中から小さな龍がおどり出て、岩の上にとまりました。お尚はびっくりして、じっと龍を見つめていました。龍も同じように、お尚をじっと見つめていました。
さきほどの強い雨はおさまり、あたりは明るさを取り戻していました。お尚は落ち着いたことばで、龍に話しかけました。
「お前はいったい何ものなのか。また、どうしてこんな所へ出てきたのだ。」
龍も待っていたかのように、訴えるようなことばで話を始めました。
「お尚さん、わたしは、わたしの住む所を探し求めて、あちらこちらさまよい歩きました。この池は、大変住み心地がよく、ここへ来てから三年にもなります。お尚さんの毎朝、毎夕のお経を池の中で聞き、また村の人々にいろいろ話をしておられる様子を見て、直接お尚さんから教えのことばをいただき、できればお尚さんのお仕事を手伝わせてもらいたい。こう考えてまいりました。」
お尚は、龍の話を聞いていたが、
「京都の方では大きな戦いが始まっている。その戦いがこちらの方へ広がってきている。村の人々の不安は日増しにこくなっている。わたしは村を守り、人々が安心して住める村にしたいものだと、思っている。」
「わたしと一緒に寺や村を守ってくれるか。仏さまにお仕えするものが、池の中に住むわけにもいくまい。厨子(ずし)をつくってやるから、その中で暮らすようにしなさい。」
りっぱな厨子ができあがり、龍は厨子の中にはいることになりました。
「お尚さん。約束はきっと守ります。他の人からながめられると、わたしは余力(よりょく)がなくなってしまいます。どうかこの扉を開けないでください。」
こう言って、扉の中へはいりました。
それから何年かたちました。村々に日照りが続き、田畑に水がなくなると、人々はこの池を掃除し、雨が降るように厨子に向かってお祈りをしました。するとどうでしょう。雨が降るではありませんか。
この話が名古屋城主にも伝わり、お使いをさしむけて、雨乞いをしたという話も伝えられています。
この池をだれ言うとなく、龍天池と呼ぶようになりました。本堂の本尊右側にその厨子が祀ってあり、裏庭の龍天池は、小さいが枯れることなくきれいな水をたたえています。
※1 今から五四〇年ほど前
品野の又サ
しなののまたさ
伝承地 瀬戸市西谷町
西谷(にしたに)の墓地に「品野の又(また)治郎(じろう)」と、彫(ほ)ってある墓石(ぼせき)があります。
この品野の又治郎という人は、たいそう変わった人でした。
「ああ、酔(よ)った。酔った。今日も朝からよう飲(の)んだなあ。つぎは、どこで酒を飲もうかなあ。」
と、もじゃもじゃの頭をかきながら、ぼろぼろの着物を着て、又治郎はぶらりぶらりと町の中を歩いています。
子どもたちは、又治郎を見ると、
「品野の又サが来た。又サが来た。こわいよう。」
と、言って逃(に)げ出します。
けれど、又治郎は決して悪い人ではありません。いつも酔っぱらってまっ赤になり、きたないかっこうをして近寄ってくるので、子どもたちはこわがって逃げるのです。
そこで、子どもがわがままを言って泣きやまないときは、
「それ、品野の又サが来るぞ。」
と言うと、泣いていた子どももぴたりと泣きやんだそうです。
「今日は、あそこで嫁入(よめい)りがあるそうじゃ。酒が思いっきり飲めるぞ。昼からは、その向こうで葬式(そうしき)だ。そこでも存分に飲んでやろう。」
と、又治郎は不思議(ふしぎ)に、いつ、どこで嫁入りがあるのか、どこで葬式があるのか、よく知っています。又サが来ない嫁入りや葬式は、まずないといっていいくらいです。
だから、
「坊さんが来ても、又サが来ないと葬式にならない。嫁さんが来ても又サが来ないと結婚式にならない。」
という人もいるほどでした。嫁入りの家は、又サにお酒をわたしました。
嫁入りや葬式があっても、又サが来ない家では、
「又サは、どうして来ないのだろう。うちにだけ来てくれないんだろうか。」
と言って、不安に思う人もいました。
又サは、いつも酔っぱらっていました。朝も昼も夜も、酔っぱらっていました。
こういう有様だったので、又サは瀬戸の名物男になりましたが、又サがどこに住んでいるのか、人々は知りませんでした。
こんなに名物男(めいぶつおとこ)の又サは、もう何十年か前のとても寒い晩(ばん)に、酔っぱらって窯(かま)の中で寝ているうちに、死んでしまいましたので、町のだれかがお墓を作ってとむらいました。今でも子どもの夜泣(よな)きが止まらないと、又サのお墓にお参りに行く人があり、たいそうご利益があるとのことです。
又サのお墓には、今でも線香(せんこう)の煙(けむり)が絶(た)えることなく、ときにはお酒も供(そな)えられています。
十三塚
とみづか
伝承地 瀬戸市十三塚町
時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に、十三塚は村落への悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から得られたものと考えられている。
今から四百年ほど前(千六百年ごろ)、長久手(ながくて)というところで豊臣(とよとみ)方の軍勢(ぐんぜい)三万が、一万八千の徳川方の軍勢にうしろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ※1。
敗れた豊臣勢の侍(さむらい)は、てんでばらばらに逃げたそうな。いくさに勝った徳川方の侍は口々に、
「相手の侍は、一人も逃がすな。」
と、追手(おって)を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、きびしい囲みの中を逃げ出し、そのうちの十三人が何とか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。
「しっかりせよ。」
「なんとか落(お)ち延(の)びよう。」
と、お互い励まし合いながら逃げて、ようやく瀬戸にたどりついた時には、のどはからから、腹はぺこぺこ。そこで、近くの村人たちの家にかけ込んで、
「食べものを少しくだされ。」
「水をのませてくだされ。」
と、口々にたのんだそうじゃ。
しかし、村人たちば、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれてはたまらないと考え、侍たちに食べものや水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて、村人たちは、いつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたんじゃ。
数年後、村に亡霊(ぼうれい)が出たり、庄屋(しょうや)になった人が不思議(ふしぎ)な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜が取れないといった不思議なことがおこったそうじゃ。
「どうしたことだろ。」
「何のたたりだろう」
と、村の人たちは、話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落武者のことを思い出しまし、
「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ」
と、悔んだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなで拝(おが)んだそうじゃ。
それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、八月二四日を
「侍のたましいをなぐさめる日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。
尾張のところどころに、長久手の合戦(かっせん)の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。
※1 「四三〇年ほど前」
天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
神明の小女郎ぎつね
しんめいのこじょろうぎつね
伝承地 瀬戸市新明町
むかしむかしのこと、新明(しんめい)というところに、小女郎ぎつねという女(おんな)きつねが住んでおったと。この小女郎ぎつねは、通りすがりの馬方(うまかた)(むかし、車のないころに、荷物などを運ぶ馬を引いていく人のこと)をたちに、いたずらをしては、おもしろがっていたそうじゃ。
ある日のこと、ひとりの馬方が荷物を赤津の方から瀬戸へ運んで行ったその帰り道、だんだん日が暮(く)れかかって辺(あた)りが薄暗(うすぐら)くなったころ、山道にさしかかったと。すると、向こうの方から見たことのないきれいな女の人が、とぼとぼと歩いて来て、
「日が暮れて困っています。どうぞ助けてください。」
と、頼んだそうじゃ。
「こんなところを、女がひとりで歩いているのはおかしいぞ。これは小女郎ぎつねにちがいない。」
と、女の人の後ろを見ると、なんと太(ふと)いきつねのしっぽが、にょきっと生(は)えていたと。
「やっぱり、そうか。」
そこで馬方は、小女郎ぎつねをこらしめてやろうと、だまされたふりをしていたそうな。そんなこととも知らず小女郎ぎつねは、馬方に、
「足が痛(いた)くてたまりません。どうか馬に乗せてください。」
と、頼んだそうな。
「それはお困りでしょう。さあ、どうぞお乗りなさい。」
と、言って馬方は、その女の人を馬に乗せてやったと。
そして、その女の人が馬から下りられないように、しっかりと鞍(くら)(馬や牛などの背(せ)につけて、人や荷物を乗せるもの)にしばりつけてしまいまったと。
女の人はびっくりして、
「わたしが悪うございました。わたしはきつねです。これからはいたずらをしたり、人をだましたりしません。どうかおゆるしください。」
と、泣(な)いて頼んだけれど、馬方は許さなんだと。小女郎ぎつねは、もう一度
「馬方さん、どんな願いでもかなえてあげますから、縄(なわ)をといてください。」
と、頼んだと。
どんな願いでも聞くと言われた馬方は、前から一度侍(さむらい)になって、いばってみたかったので、
「わしを、侍の姿にしてくれるなら、ゆるしてやる。」と、言ったと。
そのとたん、みすぼらしい姿の馬方はそれはそれは立派(りっぱ)なお侍の姿にかわったと。
願いかなって侍姿になった馬方は、小女郎ぎつねを逃(に)がしてやると、馬にまたがり大いばりになって家に帰ったそうな。馬方は、姿が侍になって、きゅうに自分がえらくなったように思ったんじゃな。
ところが、家についてみると、すっかり元の馬方の姿に戻っていたそうな。
馬方はだまされたことを知って、じだんだ踏(ふ)んで悔(くや)しがったということじゃ。
節句の鯉のぼり
せっくのこいのぼり
伝承地 瀬戸市宮脇町
時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
五月には、男の子が強く、たくましく育つようにという願いをこめた端午(たんご)の節句があります。だから、昔から男の子がいる家では、のぼりを立てたり、武者人形を座敷(ざしき)にかざったり、お餅をついたりしてお祝いをします。しかし、深川神社のそばの宮脇町あたりでは、不思議(ふしぎ)に五月の節句になってものぼりを立てる家はありません。それには、こんなわけがあるからです。
四百年ほど前(千六百年ごろ)、豊臣(とよとみ)方(かた)と徳川方の軍勢(ぐんぜい)が長久手(ながくて)村でいくさをしました※1。このいくさでは、はげしくやりで腹を刺されたり、刀で背中を切られたりして、両方の侍(さむらい)がたくさん命を失(うしな)いました。負けた豊臣方の一人の侍が、傷(きず)つきながらも逃げてきました。その侍の体はやりや刀の傷で血だらけで、よろいは破れ、傷ついた足を引きずり、つるの切れた弓をつえにして、ようやく一軒(いっけん)の農家の前までたどり着(つ)きました。
そこは、ちょうど瀬戸の宮脇あたりでした。侍は、百姓の家の戸をドンドンドンドン、ドンドンドンドンとたたき、
「おたのみ申(もう)す。何か食べものをくだされ。腹がへって倒(たお)れそうじゃ。」。
戸を開けた百姓は、血だらけで、髪の毛をふり乱(みだ)し、ギラギラと光るするどい目つきの侍が立っていたので、思わず震えあがってしまいました。
百姓は、とっさに考えました。
「もし、この侍を助けたら、あとで私たちが敵の侍にどんな仕返しをされるかわからない」とおもい、
「食べるようなものは、何もありゃせん。」
と、どなり返しました。すると、侍は刀をぬいて家の中へ入ろうとしたので、
「出ていけっ。おーい、ぬすっとだあ。ぬすっとだあ。」
と、大声でまわりの家々にふれ回りました。
時は、ちょうど五月の節句の前、のぼりを立てるために用意してあった竹を持って、近くの人たちが走り出てきました。そうして、侍を追って行き、竹でたたいたり、突き刺したりして、とうとう殺してしまいました。
それからというものは、この宮前あたりでは、五月の節句にのぼりを立てると、立てた家の子どもが、次々に死んでしまうという不幸が続きました。
これは、きっとのぼり竿(ざお)で殺された侍のたたりだということになり、それからは節句にのぼりを立てる家がなくなったということです。
その後、村人たちは死んだ侍のためにお墓をつくり、花などをそなえてお参りをしているそうです。
※1 「四三〇年ほど前」
天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
せともの祭に雨が降る
せとものまつりにあめがふる
瀬戸地域に伝わる伝承。事実とは異なるものである。
伝承地 瀬戸市窯神町
時代背景 民吉が、磁器の製法技術を身につけるため九州へ旅立ち、平戸の佐々で福本仁左衛門の窯場で働き、技術を学んで文化4年(1807)に瀬戸に帰った。
「そなたたち、ここで、焼き物作ってみないか。」
熱田奉行あつたぶぎょう、津金文左衛門の思いがけない言葉に民吉と父吉右衛門は、うれしくなって涙がこぼれそうになった。
「わしが、南京焼という清国しんこく中国)の焼き物を書物で学んだ。それをそなたたちに教えようと思うがどうじゃ。」
「なんとありがたいお話でございましょう。どうか、ぜひお願いいたします。」
父吉右衛門と民吉は、夢でも見ているような心地で、額を地面にすりつけた。
文左衛門は、翌日、民吉たちに「陶説」という本を見せた。
「これが南京焼じゃ。よく見るがいい。」
民吉たちは眼を見張った。清国の陶工たちの焼き物をつくる様子が挿し絵入りで詳しく描(えが)かれていたのだ。二人は、文左衛門の繰っていくページを隅から隅まで食い入るように見つめた。
「これが、あの有田焼と同じ磁器と呼ばれる焼き物なのだ。」
民吉親子は、瀬戸村で、ずっと焼き物を作ってきた。ところが、瀬戸の焼き物は、九州有田の磁器と呼ばれる焼き物に押されて売れなくなり、ひどい不景気となった。吉左衛門は仕方なく、焼き物作りを長男に任せて、大勢の農民を募る熱田前新田(名古屋市港区)へ、二男の民吉と働きに来たのだった。新田を取り仕切る文左衛門は、二人のあまりに不慣れな百姓ぶりを見かねて、「ここで焼き物を」と声をかけたのだった。
「今日からまた焼き物作りができる。」
民吉の心の中に、明るい光が広がっていった。
文左衛門に教えられて、盃や小皿やはし立てなどを次々に焼きあげていった。しかし、あの固くてつやのあるみごとな細工の有田焼には、かなわなかった。
その年の暮れ、文左衛門が病でなくなり、二人はその後、息子の津金庄七の世話になって焼き物を作り続けた。
(早く有田焼のような焼き物が作りたい。)
二人は、借金をして磁器を焼くための丸窯(登り窯)を築いた。しかし、思うようにうまくいかなかった。
「やはり、有田へ行くしかない。」
津金庄七や瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門らと相談して、とうとう民吉が有田へ行き、技法を学んで来ることになった。しかし、有田ではその頃、技法は秘密でよそ者に教えることを固く禁じていた。秘密を知った者は、生きて帰れないと言われていた。下品野村で、村人にこっそり秘法を伝えていた有田の陶工副島勇七は、連れ戻されてうち首にあっていた。
(命がけの旅だ。だが、瀬戸村の焼き物のために役立つなら・・・)
文化元年(一八〇四)二月、民吉は、ついに九州へと旅立った。
九州・天草島(熊本県)には、さいわい菱野村(瀬戸市菱野町)出身の天中和尚がいた。和尚の計らいで、高浜村の窯場に住み込み、毎日、慣れない蹴ろくろで茶碗を作った。茶碗を作りながら、密かに土や釉薬や窯のことを探った。
半年後、民吉は平戸の三河内山(長崎県)の窯場に変わったが、働き始めて十日後「よそ者は留めおくことならぬ。」ときびしいお触れが届いて、すぐにそこを離れなければならなかった。
十二月も暮れになって、やっと平戸・佐々浦の福本仁左衛門の窯場で働くことになった。
(よかった。ようやく落ち着いて働ける。早くいろいろ覚えねば・・・)
民吉は夢中で働いた。
仁左衛門には、「さき」という娘がいた。さきは働き者で窯場をよく手伝った。
「民吉さんもお茶にしましょうよ。」
さきは、いつもやさしく声をかけてくれた。さきの入れてくれたお茶を飲みながら、民吉はよく格子窓の向こうの空をながめた。さきも、そっと民吉の横に座って、空を見つめた。
「よう働いてくれる。それにお前さんなかなか腕がいい。ちょうど人手が足りなくて困っておったところだ。本当に助かる。」
仁左衛門は、しだいに民吉を頼りにするようになった。
夏になって、仁左衛門は息子の小助とお伊勢参りに行くことになり、民吉に言った。
「留守中、窯場はお前さんに任せる。わからぬことはさきに聞いてくだされ。よろしく頼みますぞ。」
民吉はうれしかった。さきならきっといろいろと教えてくれるにちがいない。
「さきさん、土に混ぜている白い粉は石の粉だね。」
「そうよ。固い磁器を作るために、天草の陶石を混ぜるのよ。」
「色やつやを出すために、どんな釉薬をかけているんだい。」
「いす灰という灰よ。鮮やかなきれいな色がでるわ。」
民吉は、さきと一緒に調合した。それから二人で、たくさんの作品を窯詰めした。
いよいよ窯焚きの日がきた。
民吉は、さきや手伝いの人たちと薪を燃やし続けてついに、固くつやのある見事な磁器を焼きあげた。仁左衛門は大喜びだった。
「ようやった。今夜はみんなで祝おう。」
庭にござを敷いて、賑やかに飲んで歌い、踊った。月明りのきれいな夜だった。
「民吉さん、早くいっしょに踊りましょうよ。」
さきに誘われ、見よう見まねで手を上げ足を上げ・・・・。
星もきらきら輝いていた。
夢のように二年が過ぎて、民吉は、もう瀬戸村に帰らねばならなかった。
(さようなら。恩は一生忘れない。)
民吉の去って行った方を、さきはいつまでも見つめていた。
民吉は瀬戸村に帰り、学んできたことをみんなに伝えて、さらに工夫をと忙しい毎日を送っていた。いつしか十二年の歳月が流れた。
ある秋の夕暮れ、民吉の家の前に、一人の女の人と子どもが立っていた。
「あのー、おたのみ申します。ここに民吉さんという人はおられますか。平戸の佐々浦から参りましたさきと申します。
「そ、そんな人ここにおらんでよう。はよ帰りゃあ。」
家の人は決して民吉に会わせようとしなかった。それは、民吉が佐々浦へ連れ戻され、殺されるのではと恐れたからだった。
さきは、仕方なく、子どもを抱き寄せると、すがるような目で、振り返り振り返りしては、冷たい風の吹く中を去って行った。
瀬戸の「白と青との色鮮やかな染付焼」は、民吉たちによって完成され、日本中に評判が広まって、注文がたくさんくるようになった。瀬戸の人々は民吉を磁祖と敬い、毎年九月にせともの祭を催す。けれどきまって、祭りにはよく雨が降る。雨は佐々浦のさきの
「悲しみの涙が雨となって、せともの祭に降るそうだ。」
いつの頃からか、瀬戸の人々は、そう言うようになった。
曽野のお稲荷さん
そののおいなりさん
伝承地 瀬戸市曽野町
時代背景 文化14年(1817)、盛淳上人が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。
お稲荷さんといえば、初午。初午といえば曽野のお稲荷さんと、昔からお参りする人が絶えません。
江戸時代の終わりごろ(一八一七年ごろ)のある春の夕暮れのことです※1。
上水野村の曽野の山道を、一人のお坊さんがつかれた足取りで歩いていました。この坊さんは、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)(稲荷総本山宮、愛染寺別当盛淳上人)といい、山城の国の愛染寺(あいぜんじ)というお寺の身分の高いお坊さんで、修行のため全国を旅している途中でした。春になったとはいっても、日が沈むと寒さがまだ身にしみます。あたりには、人の住む家らしい家もなく、今夜の宿をどこにしようかと困っていると、荒れはてた田んぼの中に、ふと一軒(いっけん)の粗末(そまつ)な小屋らしいものが目にとまりました。そこからは、かすかに明りらしいものがもれています。
さっそく、むしろ戸(わらで編(あ)んだむしろが入口の戸のかわりに付けてあることをいう。貧しい家の様子を表す。)をたたき、泊(と)めてくれるようにたのむと、その家の主人はこころよく引き受けてくれました。そして、主人といろいろ世の中の話をしていると、となりの部屋から女の人のすすり泣く声が聞こえてきました。上人は不思議に思って、
「あの泣き声は?」と、たずねると、主人は、
「よく聞いてくださいました。実(じつ)は、ずい分前からこの里に年とった白いきつねがあらわれ、村人を苦しめて困っております。そのため、くるい死にする人がでたり、きつねのたたりを恐れて、村を離れる人が多く、里がさびれてしまいました。家のかみさんもそのきつねにつかれて苦しんでいるのでございます。わたしも、どうしたらよいのか分からず、困っているところです。何とか助けていただけないものでしょうか。」
と、涙を流してたのみました。それを聞いて、
「そうでしたか。それならば、わたしが日ごろ尊敬している神様のお力によって、助けてあげましょう。」
と、言って西の方を向き、両手の指をむすんでじゅ文をとなえました。
すると、不思議なことに、それまで苦しんでいたおかみさんは、悪い夢からさめたようにおだやかな顔になり、安心して眠りにつきました。
それを見て、主人は大変喜び、
「ああ、ありがたいことです。ぜひ、あなた様の守り神をわたしどもの里へも、おまつりさせてください。」
と、たのんで、上人がおつかえしていた山城の国の田中の社から、神様を分けてもらい、曽野の山の上にまつりました。
それからというもの、白いきつねも、ぱったりと出なくなり、里の人たちも安心して暮らせるようになりました。
このお宮さんが「曽野のお稲荷さん」で、毎年旧暦の二月の初午の日には、このあたりの人々をはじめ、遠くからも大ぜいの人がお参りに集まり、盛大なおまつりが行われています。
※1 文化14年(1817)、盛淳が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。梶田義賢著「曽野稲荷大明神縁起記」