十三塚

とみづか


伝承地 瀬戸市十三塚町

十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に、十三塚は村落への悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から得られたものと考えられている。現在は、現地に塚はみられないが、当地に伝わる十三塚落武者慰霊供養の位牌などがおさめられた地蔵堂がある。

十三塚地蔵堂の堂内
昭和34年に作られた供養の位牌

「十三塚」という地名の由来については諸説あるが、①16世紀中頃の稲生合戦の折の落武者、あるいは②16世紀後半の小牧長久手の戦いの折の落武者の言い伝えがある。

①織田信長と弟信行が戦った稲生合戦(弘治2(1556)年)にまつわるもの

弘治2年8月24日に信行方についた守山城主松平信貞は信長の勢力に破れて瀬戸へ落ちた。これらの落武者は、瀬戸の追分(現在の十三塚)で13名が自害したが、1名をこの戦を後世に伝えるためと、墓守として品野へ逃がした。しかし、東方の宮脇にて村人に刺され、瀬戸川左岸の前田にて討ち死にをした。後に、村人はこれを哀れみ、その後落武者が自害した辺りを十三塚と呼び、8月24日を供養するようになったと伝えられる。

②小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))にまつわるもの

地域に伝わるむかしばなしの一つ

今から400年ほど前(千六百年ごろ)、長久手というところで豊臣方の軍勢3万が、1万8千の徳川方の軍勢にうしろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ※1。
敗れた豊臣勢の侍は、てんでばらばらに逃げたそうな。いくさに勝った徳川方の侍は口々に、
「相手の侍は、一人も逃がすな。」
と、追手を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、きびしい囲みの中を逃げ出し、そのうちの十三人が何とか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。
「しっかりせよ。」
「なんとか落(お)ち延(の)びよう。」
と、お互い励まし合いながら逃げて、ようやく瀬戸にたどりついた時には、のどはからから、腹はぺこぺこ。そこで、近くの村人たちの家にかけ込んで、
「食べものを少しくだされ。」
「水をのませてくだされ。」
と、口々にたのんだそうじゃ。
しかし、村人たちば、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれてはたまらないと考え、侍たちに食べものや水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて、村人たちは、いつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたんじゃ。
数年後、村に亡霊が出たり、庄屋になった人が不思議な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜が取れないといった不思議なことがおこったそうじゃ。
「どうしたことだろ。」
「何のたたりだろう」
と、村の人たちは、話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落武者のことを思い出し、
「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ」
と、悔んだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなで拝(おが)んだそうじゃ。
それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、八月二四日を
「侍のたましいをなぐさめる日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。
尾張のところどころに、長久手の合戦(かっせん)の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。
※1 「四三〇年ほど前」とは 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い

雨降り地蔵

あめふりじぞう


伝承地 瀬戸市駒前町(地蔵堂:駒前町171番地 寶生寺境内)
時代背景  名古屋築城におけるの堀・石垣の普請は、慶長15年(1610)のこと。
今から400年ほど昔、名古屋城をつくっているころのお話です。
ある日のこと、本地の宝生寺のお寺の下あたりで、運んできた大きな石が車から落ちてしまいました。落ちた石を車にのせようとしましたが、
「重くて運べません。」
「もう、腹が減って動きません・」と、百姓たちは汗をふきながら言うばかりで、石はどうしても、動かすことはできません。
そこで、この石は運ぶのをあきらめて、そのままにしておきました。しかし、このままでは目立つし、邪魔になるので、何とかできないものかと、庄屋山中心に相談を始めました。すると、仲間の老人が、
「この石を石屋にたのんで、お地蔵さんの姿にしてもらったらどうだろう。」と、言いました。
「それは、よい考えだ。」と、みんなはあいづちをうちました。
宝生寺の境内にお祀りしてあるのが、そのお地蔵さんだということです。
毎年八月二三日の地蔵まつりの日に、必ずと言ってよいくらい雨が降るそうです。
そこで、人々はいつのころか、この地蔵さんのことを「雨降り地蔵」と呼ぶようになりました。
また、このお地蔵さんに雨乞いをすると、雨が降ると言われています。

雨降り地蔵尊

地蔵堂について

現在の地蔵堂は平成30年7月に完成し、10月に落慶法要が行われた。その時晋山退薫式もあり、住職が17世俊峰弘人となった。

寶生寺境内の地蔵堂(左手前)
参考文献

瀬戸市教育委員会1982『瀬戸の石造物』

大野栄人・横山住雄1982『尾張 雲興寺史』

幡山村誌編纂委員会1992『幡山村誌』

瀬戸尾張旭郷土史研究同好会2005『せと・おわりあさひのむかしばなし 雨降り地蔵』

龍天池

りゅうてんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 時代背景 室町幕府官領家の細川勝元派と有力守護大名の山名特豊派とが、応仁元年(1467)から約10年にわたり続いた戦乱で、京都に始まり全国規模に発展した 京都で応仁の乱(おうにんのらん:今から五一〇年ほど前※1)が始まったころの話です。
 雲興寺の三代目のお尚は、朝夕お経を読み、村人に仏の道を教えていました。
 一四六六年の一一月三〇日の朝のことです。お尚は、けさもいつものようにお経を読んでいました。すると急にあたり一面が暗くなり、大粒の雨が降り出し、風も強まってきました。お尚は急いで本堂の雨戸を閉めようとしたとき、目の前の小さな池の中がざわめいたかと思うと、渦を巻いて竜巻のように登り始めました。その中から小さな龍がおどり出て、岩の上にとまりました。お尚はびっくりして、じっと龍を見つめていました。龍も同じように、お尚をじっと見つめていました。
 さきほどの強い雨はおさまり、あたりは明るさを取り戻していました。お尚は落ち着いたことばで、龍に話しかけました。
「お前はいったい何ものなのか。また、どうしてこんな所へ出てきたのだ。」
 龍も待っていたかのように、訴えるようなことばで話を始めました。
「お尚さん、わたしは、わたしの住む所を探し求めて、あちらこちらさまよい歩きました。この池は、大変住み心地がよく、ここへ来てから三年にもなります。お尚さんの毎朝、毎夕のお経を池の中で聞き、また村の人々にいろいろ話をしておられる様子を見て、直接お尚さんから教えのことばをいただき、できればお尚さんのお仕事を手伝わせてもらいたい。こう考えてまいりました。」
お尚は、龍の話を聞いていたが、
「京都の方では大きな戦いが始まっている。その戦いがこちらの方へ広がってきている。村の人々の不安は日増しにこくなっている。わたしは村を守り、人々が安心して住める村にしたいものだと、思っている。」
「わたしと一緒に寺や村を守ってくれるか。仏さまにお仕えするものが、池の中に住むわけにもいくまい。厨子(ずし)をつくってやるから、その中で暮らすようにしなさい。」
 りっぱな厨子ができあがり、龍は厨子の中にはいることになりました。
「お尚さん。約束はきっと守ります。他の人からながめられると、わたしは余力(よりょく)がなくなってしまいます。どうかこの扉を開けないでください。」
 こう言って、扉の中へはいりました。
 それから何年かたちました。村々に日照りが続き、田畑に水がなくなると、人々はこの池を掃除し、雨が降るように厨子に向かってお祈りをしました。するとどうでしょう。雨が降るではありませんか。
 この話が名古屋城主にも伝わり、お使いをさしむけて、雨乞いをしたという話も伝えられています。
 この池をだれ言うとなく、龍天池と呼ぶようになりました。本堂の本尊右側にその厨子が祀ってあり、裏庭の龍天池は、小さいが枯れることなくきれいな水をたたえています。
※1 今から五四〇年ほど前

龍眼池

りゅうがんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 応永(おうえい)二五年(一四一八)ごろ、赤津の村人たちや、雲興寺(うんこうじ)のお坊さんが、わけのわからない病(やまい)に悩んでいました。
 ある日、この寺のお尚(おしょう)の祖命禅師(そめいぜんじ)が朝のおつとめをしようとしていたときに、猿投大明神(さなげだいみょうじん)が現れました。そして
「この寺の土地は、龍の形をしているが、大切な眼がない。だから、病気が直らないのだ。」とつげて、さっと消えました。
 そこで、さっそくお尚は、そのことを村人たちに話し、龍の眼ににせて、参道(さんどう)の両側に池をほり、「龍眼池」と名付けました。
 不思議なことに、その後、人々の病はぴたりと直ったそうです。
 また、この池の名について、「両眼池」と呼ばれていたものが、後になって「龍眼池」と呼ばれるようになったのだとも言われています。

弥蔵観音の物語

やぞうかんのんのものがたり


伝承地 瀬戸市古瀬戸町・西拝戸町
 時代背景 天保2年(1831)3月27日亡の梅心妙量信女という人が、できもので苦しみ、「私が死んだら祀っておくれ。きっとなおしてやる。」という地元に残された伝説。
 末広町から瀬戸公園下の近くの宝泉寺(ほうせんじ)の前を通り、赤津へぬける昔からの道があります。赤津の手前に洞(ほら)というところがあって、そこに伝わるお話です。
 むかし、むかし、洞に一人ぐらしの女の人が住んでいました。なんとその女の人は、頭のてっぺんからつま先まで、できものだらけでした。畑仕事をするにも家の中の仕事をするにもかゆみといたさで、仕事もきちんとできませんでした。その女の人は、どうしても直したくて、近くのお宮へ何度も何度もお参りしたり、できものがよくなるといううわさがある遠くのお宮へも行ってみたり、薬草をせんじて飲んでみたりしましたが、いっこうに良くなる様子がありません。自分の体じゅうにできたできものを見ては、悲しくなっていました。
 いろいろやってみてもどうしても直らないので、とうとう直すことをあきらめてしまいました。
「できもので悩むのはわたし一人でたくさんだ。わたしが死んだら、できもので困っている人の身代りになり、直してあげよう。」 そして村の人たちに会うたびに、
「わたしが死んだら村はずれの山の上に埋め、祀(まつ)ってくれ。できもので悩む人を救ってやるぞ。」と、口ぐせのように言っていました。
 女の人は、一人暮らしのまま、とうとう死んでしまいました。死ぬまぎわにも、
「わしを祀ってくれ。たのみます。」と、言い残して死んでいったそうです。ところが、村の人たちは女の人に身よりもなく、また貧乏だったので村のお墓に埋めておいただけでした。
 さて、女の人が死んで二・三日たつと、できものが村の人たちにできはじめました。そして、一人、二人とふえ続け、十日もたたぬまに村の人々全部にできものができてしまいました。お宮に参っても、薬をぬっても全くなおりません。とうとう、
「あの女のたたりじゃ。山の上に埋めて、祀ってやらなかったばちじゃ。」と、みんなが言い出しました。
 そこで、村中で、村はずれの山の上にほこらを作って祀ることにしました。すると、どうでしょう。祀ったその夜から一人づつできものが直っていくではありませんか。
 それからというもの、村では、できものができると、山のほこらへ行っておまいりするとすぐ直るため、手厚くいつまでもまつり続けました。おまけに、できものばかりか、腹いたにきくといううわさが広がり、できもの、腹いたで悩む人たちから、大変喜ばれました。
 このほこらに祀ってあるのが、弥蔵観音です。

金井神社

かないじんじゃ


伝承地 瀬戸市川西町
 どこの学区にも、たいていお寺やお宮があり、そこが子どもたちの遊び場になっていることがよくあります。しかし、狭くて、薄暗かったので、お宮を他へ移してしまったというお話をしましょう。
 旧效範小学校の校区には、今お宮がありません。七五年ほど前まで※1は、今の川西町のどこかにお宮があったと聞きました。
 そこで、お年寄りの方にいろいろ教えていただくと、尾州府志(一七五年※2に出された愛知県の地理の本)という古い本にもついている金井神社ということが分かりました。
 この神社は、ヒロクニオシタケカナヒノミコト(二七代の安閑天皇の御名は広国押武金日命という)という神様をおまつりしていました。その神様の名のカナヒがカナイにかわり、お宮の名前になったのだろうということです。
 その神社は、川西町一丁目あたりで、七アールばかりの細長い土地で、木や竹がたくさん生えて、日の光があまり当らない薄暗いところだったということです。
 朝夕ほとんど太陽の光が当たらないところだったので、七五年ほど前に、八王子神社の境内に移されたということです。
 その跡地は、開墾して畑にしたということですが、おそろしく古い時代に天皇をまつったお宮が川西町にあったというのは確かなことのようです。
※1 不明
※2 「張州府志」(宝暦二年(一七五二)完成)

猿のミイラ

さるのみいら


伝承地 瀬戸市駒前町
 時代背景 天保年間(1830年~1844年)
 むかし、天保(てんぽう)のころ(江戸時代末期(まっき)、一八三〇年~一八四四年)、瀬戸本地(ほんじ)村に、菱野から名古屋に通じる松並木(まつなみき)の街道(かいどう)がありました。ときどき松並木の上や、街道筋で猿が遊んでいるのを見かけたそうです。その付近に壷井(つぼい)左内(さない)というお医者(いしゃ)さまがいました。
 酒好きで知られる左内は、毎日のように居酒屋(いざかや)や家で酒を飲み赤い顔をして、よろよろとして街道を歩いておりました。
「左内先生、猿から酒をもらったそうな。」
と、村人たちがうわさをしていましたが、どうして猿から酒をもらったかはわかりません。
 そんなある夜ふけ、左内の表(おもて)戸(ど)を軽(かる)くたたくものがありました。出てみると、猿が立っていて、いろいろ身(み)振(ぶ)り手振(てぶ)りをします。どうも腹痛(ふくつう)のようなので、薬草(やくそう)を飲ませて帰しました。
 数日後の夜ふけ、すっかり元気になった猿の夫婦が、お礼に一升(いっしょう)どっくりに自分で作った「さる酒」をつめて持って来たのでした。
 その後も、たびたび左内を訪ねては治療(ちりょう)してもらい、酒をお礼に持ってきましたが、この夫婦の猿もしばらくして姿が見えなくなり、人々の記憶(きおく)から消えていました。
 しかし、それからずっと後になって(昭和三〇年ごろ)、本地村のお百姓さんたちは、田植えを終わり、田の雑草を抜くまでの合間(あいま)を利用して、宝生寺(ほうしょうじ)本堂(ほんどう)の屋根のふき替えを行いまし。
住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)の話し合いで、かやぶきの屋根を瓦にかえることになりました。
 檀家総出で、草屋根をめくっていくと、屋根裏と天井(てんじょう)の間に、ほこりやワラにまじって、何かがひそんでいるようでした。近寄ってみると、二匹の猿が抱(だ)き合うように座(すわ)っており、ミイラ化していました。この寺の本尊(ほんぞん)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)でしたが、別に庚申(こうしん)像(ぞう)も祀ってありました。猿のミイラは、この庚申像の天井あたりで発見されたので、村人の驚(おどろ)きは一層(いっそう)大きかったのです。
 猿は庚申のお使いものといわれ、宝生寺の庚申像のひざ元には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三びきの猿の像が置かれていたのです。
 檀家のお年寄りの間には、天保年間の左内医者と猿の話を思い出す者がいて、
「あのときの猿に違いない。あのときの猿は庚申さまの使いだったのだ。」
と、驚き、思わず手を合わせる村人もいました。
 発見の様子(ようす)から、庚申像を祀った本堂の屋根裏で死に、残った一ぴきは、その死体をだいたまま、何も食べずに命をたったものと思われます。一ぴきはミイラ化した姿で、もう一ぴきはやや腐敗(ふはい)した形で見つかったからです。
 人々は、二つのミイラから、猿の愛情がこまやかで、かえって賢(かしこ)いはずの人間の方が見習わなくてはと話し合って、おおいに反省したとのことです。

品野の又サ

しなののまたさ


伝承地 瀬戸市西谷町
 西谷(にしたに)の墓地に「品野の又(また)治郎(じろう)」と、彫(ほ)ってある墓石(ぼせき)があります。
 この品野の又治郎という人は、たいそう変わった人でした。
「ああ、酔(よ)った。酔った。今日も朝からよう飲(の)んだなあ。つぎは、どこで酒を飲もうかなあ。」
と、もじゃもじゃの頭をかきながら、ぼろぼろの着物を着て、又治郎はぶらりぶらりと町の中を歩いています。
 子どもたちは、又治郎を見ると、
「品野の又サが来た。又サが来た。こわいよう。」
と、言って逃(に)げ出します。
 けれど、又治郎は決して悪い人ではありません。いつも酔っぱらってまっ赤になり、きたないかっこうをして近寄ってくるので、子どもたちはこわがって逃げるのです。
 そこで、子どもがわがままを言って泣きやまないときは、
「それ、品野の又サが来るぞ。」
と言うと、泣いていた子どももぴたりと泣きやんだそうです。
「今日は、あそこで嫁入(よめい)りがあるそうじゃ。酒が思いっきり飲めるぞ。昼からは、その向こうで葬式(そうしき)だ。そこでも存分に飲んでやろう。」
と、又治郎は不思議(ふしぎ)に、いつ、どこで嫁入りがあるのか、どこで葬式があるのか、よく知っています。又サが来ない嫁入りや葬式は、まずないといっていいくらいです。
 だから、
「坊さんが来ても、又サが来ないと葬式にならない。嫁さんが来ても又サが来ないと結婚式にならない。」
という人もいるほどでした。嫁入りの家は、又サにお酒をわたしました。
 嫁入りや葬式があっても、又サが来ない家では、
「又サは、どうして来ないのだろう。うちにだけ来てくれないんだろうか。」
と言って、不安に思う人もいました。
 又サは、いつも酔っぱらっていました。朝も昼も夜も、酔っぱらっていました。
 こういう有様だったので、又サは瀬戸の名物男になりましたが、又サがどこに住んでいるのか、人々は知りませんでした。
 こんなに名物男(めいぶつおとこ)の又サは、もう何十年か前のとても寒い晩(ばん)に、酔っぱらって窯(かま)の中で寝ているうちに、死んでしまいましたので、町のだれかがお墓を作ってとむらいました。今でも子どもの夜泣(よな)きが止まらないと、又サのお墓にお参りに行く人があり、たいそうご利益があるとのことです。
 又サのお墓には、今でも線香(せんこう)の煙(けむり)が絶(た)えることなく、ときにはお酒も供(そな)えられています。

神明の小女郎ぎつね

しんめいのこじょろうぎつね


伝承地 瀬戸市新明町
 むかしむかしのこと、新明(しんめい)というところに、小女郎ぎつねという女(おんな)きつねが住んでおったと。この小女郎ぎつねは、通りすがりの馬方(うまかた)(むかし、車のないころに、荷物などを運ぶ馬を引いていく人のこと)をたちに、いたずらをしては、おもしろがっていたそうじゃ。
 ある日のこと、ひとりの馬方が荷物を赤津の方から瀬戸へ運んで行ったその帰り道、だんだん日が暮(く)れかかって辺(あた)りが薄暗(うすぐら)くなったころ、山道にさしかかったと。すると、向こうの方から見たことのないきれいな女の人が、とぼとぼと歩いて来て、
「日が暮れて困っています。どうぞ助けてください。」
と、頼んだそうじゃ。
「こんなところを、女がひとりで歩いているのはおかしいぞ。これは小女郎ぎつねにちがいない。」
と、女の人の後ろを見ると、なんと太(ふと)いきつねのしっぽが、にょきっと生(は)えていたと。
「やっぱり、そうか。」
 そこで馬方は、小女郎ぎつねをこらしめてやろうと、だまされたふりをしていたそうな。そんなこととも知らず小女郎ぎつねは、馬方に、
「足が痛(いた)くてたまりません。どうか馬に乗せてください。」
と、頼んだそうな。
「それはお困りでしょう。さあ、どうぞお乗りなさい。」
と、言って馬方は、その女の人を馬に乗せてやったと。
そして、その女の人が馬から下りられないように、しっかりと鞍(くら)(馬や牛などの背(せ)につけて、人や荷物を乗せるもの)にしばりつけてしまいまったと。
女の人はびっくりして、
「わたしが悪うございました。わたしはきつねです。これからはいたずらをしたり、人をだましたりしません。どうかおゆるしください。」
と、泣(な)いて頼んだけれど、馬方は許さなんだと。小女郎ぎつねは、もう一度
「馬方さん、どんな願いでもかなえてあげますから、縄(なわ)をといてください。」
と、頼んだと。
どんな願いでも聞くと言われた馬方は、前から一度侍(さむらい)になって、いばってみたかったので、
「わしを、侍の姿にしてくれるなら、ゆるしてやる。」と、言ったと。
 そのとたん、みすぼらしい姿の馬方はそれはそれは立派(りっぱ)なお侍の姿にかわったと。
願いかなって侍姿になった馬方は、小女郎ぎつねを逃(に)がしてやると、馬にまたがり大いばりになって家に帰ったそうな。馬方は、姿が侍になって、きゅうに自分がえらくなったように思ったんじゃな。
 ところが、家についてみると、すっかり元の馬方の姿に戻っていたそうな。
馬方はだまされたことを知って、じだんだ踏(ふ)んで悔(くや)しがったということじゃ。

節句の鯉のぼり

せっくのこいのぼり


伝承地 瀬戸市宮脇町
時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
五月には、男の子が強く、たくましく育つようにという願いをこめた端午(たんご)の節句があります。だから、昔から男の子がいる家では、のぼりを立てたり、武者人形を座敷(ざしき)にかざったり、お餅をついたりしてお祝いをします。しかし、深川神社のそばの宮脇町あたりでは、不思議(ふしぎ)に五月の節句になってものぼりを立てる家はありません。それには、こんなわけがあるからです。
四百年ほど前(千六百年ごろ)、豊臣(とよとみ)方(かた)と徳川方の軍勢(ぐんぜい)が長久手(ながくて)村でいくさをしました※1。このいくさでは、はげしくやりで腹を刺されたり、刀で背中を切られたりして、両方の侍(さむらい)がたくさん命を失(うしな)いました。負けた豊臣方の一人の侍が、傷(きず)つきながらも逃げてきました。その侍の体はやりや刀の傷で血だらけで、よろいは破れ、傷ついた足を引きずり、つるの切れた弓をつえにして、ようやく一軒(いっけん)の農家の前までたどり着(つ)きました。
そこは、ちょうど瀬戸の宮脇あたりでした。侍は、百姓の家の戸をドンドンドンドン、ドンドンドンドンとたたき、
「おたのみ申(もう)す。何か食べものをくだされ。腹がへって倒(たお)れそうじゃ。」。
戸を開けた百姓は、血だらけで、髪の毛をふり乱(みだ)し、ギラギラと光るするどい目つきの侍が立っていたので、思わず震えあがってしまいました。
百姓は、とっさに考えました。
「もし、この侍を助けたら、あとで私たちが敵の侍にどんな仕返しをされるかわからない」とおもい、
「食べるようなものは、何もありゃせん。」
と、どなり返しました。すると、侍は刀をぬいて家の中へ入ろうとしたので、
「出ていけっ。おーい、ぬすっとだあ。ぬすっとだあ。」
と、大声でまわりの家々にふれ回りました。
時は、ちょうど五月の節句の前、のぼりを立てるために用意してあった竹を持って、近くの人たちが走り出てきました。そうして、侍を追って行き、竹でたたいたり、突き刺したりして、とうとう殺してしまいました。
それからというものは、この宮前あたりでは、五月の節句にのぼりを立てると、立てた家の子どもが、次々に死んでしまうという不幸が続きました。
これは、きっとのぼり竿(ざお)で殺された侍のたたりだということになり、それからは節句にのぼりを立てる家がなくなったということです。
その後、村人たちは死んだ侍のためにお墓をつくり、花などをそなえてお参りをしているそうです。
※1 「四三〇年ほど前」 
天正12年(1584)の小牧長久手の戦い