てんぐの弾蔵さん

てんぐのぜんぞうさん


伝承地 瀬戸市若宮町
時代背景 常夜灯が奉納された寛政十一年(1799)
私は山口村に住んでおり、名前は弾蔵(だんぞう)と申し、父の名は猶(ます)七(じち)、母の名はおたけ、兄弟は九人あり、私は末っ子で別居しており、妻(つま)おすきとの間に五人の子があります。
さて、寛政十一年十二月七日、用事があって海上(かいしょ)へ行き、多度(たど)権現(ごんげん)の鳥居先(とりいさき)を通ろうと社(やしろ)の方を見ると、社の片すみに一人の老人がヒョッコリ現(あらわ)れました。不思議(ふしぎ)に思いながら行き過ぎようとすると、その老人が、
「お前さんはどこへ行かれるのか。その方に頼(たの)みたいことがある。」と言いました。
「私はこの海上の松(まつ)右衛門(えもん)さんに、用事があって参(まい)ります。」
と言ってその場を立ち去ろうとすると、
「では、しばらく待っていよう。私には、このごろ供(とも)の者がいない。三年の間、お前が供をしてくれないか。」
と申されるので、
「私には、妻や子もあります。それに、もう六十歳にもなりますから、どうぞお許(ゆる)し願います。ともかく、海上の用事をすませとうございます。」と言うと、
「では、その間ここで待とう。」
と申されたので、いそいで松右衛門さんの家へ行き、用事をすませたあとで、さきほどのことをこと細かく話しました。
松右衛門さんは
「そりゃ、化(ば)け物のしわざじゃないか。」とびっくりされました。
そこで私は、
「じゃあ、お前さんも一緒(いっしょ)に来てみてください。」
と言って、みんなで先ほどの森の鳥居のそばへ行ってみますと、例の老人は元のところに待っていました。
私は前へ進み、手をついてお断(ことわ)りしましたが、私以外の人には声は聞こえても老人の姿を見ることはできませんでした。
老人から、
「私は、高い山を巡(めぐ)り歩く天狗(てんぐ)だ。さきほどから申すとおりぜひ供をしてくれよ。」
と、強く頼まれましたので、何回もお断りしたのですが、とうとう私は供をすることにしました。
そこで、松右衛門さんに
「お供をすることにしたので、このことを妻や子に伝えてください。」と言って、社の前で手を洗(あら)い、口を清(きよ)めました。こうする間に、松右衛門さんたちには私の姿が見えなくなってしまったそうです。
さて、私はその時、大木に登るにも、大地を行くように身が軽くなりましたが、高いこずえの細いところでハッと目まいがして、何もかも分からなくなってしまいました。
気がついたとき、
「ここはどこでしょうか。」
と、お尋(たず)ねしてみたら、
「上州(群馬県)筑波山(つくばやま)だ。」
とのことでした。
男体(なんたい)権現(ごんげん)、女体(にょたい)権現をおがみ伊勢(いせ)の浅間山から讃岐(さぬき)の国の象(ぞう)頭(ず)山へ飛んで、金毘羅(こんぴら)大(だい)権現をおがみました。
それからどこの国の高山か分かりませんが、あちらこちらと飛び回りました。
そして、どこか大きな森のあるところに下りました。
「ここはどこのやまですか。」
と天狗(てんぐ)さまにお尋ねしたら、
「善光寺(ぜんこうじ)の山だ。」と申されました。
私は急に故郷のことを思い出して、
「帰りたい。」
とお願いしたら、すぐに聞いてくだされ、膏薬(こうやく)の作り方や、のどに物がささったのを取る方法や、馬や牛の病気をまじなう方法なども教わりました。
はじめて自由の体になって、山を下り身につけていたぼろぼろの着物を着替(きが)えて、その年の十二月七日、ちょうど三年前の同じ日に帰り着きました。
そうして、天狗さまから教わった膏薬を練り、試してみましたら、よく効くことてきめん、近くの村はもちろん遠いところからも、われもわれもと、たくさんの人が訪(たず)ねて来られ、小さな私の家はいっぱいで、行列(ぎょうれつ)ができたほどでした。とてもだめだと言われた病気もこの膏薬を塗ると不思議や不思議、たちまち治ってしまいました。
弾蔵さんは、その後お金をもうけて、本泉寺(ほんせんじ)の一隅(ひとすみ)を借り、「奉納(ほうのう)諸山(しょざん)」の碑と常夜燈(じょうやとう)を奉納(ほうのう)されました。

奉納諸山碑と弾蔵の常夜燈

おしょうさんにしかられた龍

おしょうさんにしかられたりゅう


伝承地 瀬戸市定光寺町
定光寺の本堂(ほんどう)裏(うら)の小高い丘に、尾張藩(おわりはん)の殿様であった徳川(とくがわ)義(よし)直(なお)公(こう)(徳川家康の第九子)のお墓があります。その入口に龍門(りゅうもん)と呼ばれる門があります。その門の天井に、狩(かり)野(の)元信(もとのぶ)が描いたと伝えられている龍の絵があります。この龍は、人が寝静(ねしず)まると、門から百メートルほど坂を下ったところにある池に、毎晩のように水を飲(の)みに行くということです。
 真夜中になると、嵐(あらし)のようなざわめきに続いて、玉を転(ころ)がすようなとてもきれいな声の歌が聞こえてきました。いつも不思議(ふしぎ)に思っていたお尚(しょう)さんは、ある晩、雨戸を少し開けてすき間からじっと息をころして、外の様子(ようす)をうかがっていました。すると、どうでしょう。龍門の天井におさまっているはずの龍が、
「ああ、今晩も退屈(たいくつ)じゃ。どれ、のども渇(かわ)いたことだし、ちょいと水でも飲んでこよう。」と言いながら、山を揺(ゆ)るがし、嵐(あらし)のように池のふちまで行き、ぐびぐびと水を飲みはじめました。池の水がそんなにおいしいのでしょうか。目をつり上げ牙(きば)をむき出したいつもの恐ろしい顔とはうって変わって、龍は目じりを下げ、いかにも穏(おだ)やかな表情で、
「ひと口飲んではコオロ。ふた口飲んではコオロ、コロ。み口飲んでは、コオロ、コロコロ・・・。」と、気持ち良さそうに歌っています。お尚さんは、すっかり驚いてしまいました。そこで、さっそく、この池を龍吟(りゅうぎん)水(すい)と名づけました。
 ところが、ちょうどそのあと、
「どうも、近(ちか)ごろ、うちの田畑(たはた)が荒(あ)らされて困(こま)っとるが、おまあさんとこは、どおやな。」
「うん…。ほう言われや、おれんとこも、きんのう、なすがぎょうさん、ちぎられとったが、悪うやつがおるもんやな。」
「ほうや。うちのおっかぁもこの前、「いもを洗って、いかけに干しとったら、ひと晩のうちに全部のうなっとった。」と、怒(おこ)っとったがや。」と言う村人の声がお尚さんの耳に入りました。そういえば、龍は水を飲んだ後、ときどき上機嫌(じょうきげん)で村里へ下りて行くことを知っていたお尚さんは、
「これはきっとあの龍のしわざにちがいない。ことが大きくならないうちに、なんとか手をうたねばならない」と考えました。
 そして、あくる日、お尚さんは心を決(き)めて、龍門の龍に、
「やい、おまえ、そもそも源(げん)敬(けい)公(こう)(義直公の別名)の御霊(みたま)を守る役目にありながら、よくも役目を怠(おこた)ったな。そればかりか、村里の田畑を荒らすとは、もってのほか。覚悟(かくご)せい。」と言うが早いか、ふところに隠(かく)し持っていたのみを龍の目にうちこんで、龍が天井から降りられないようにしました。すると龍は、
「わたしが悪うございました。これからは、一歩たりともここを離れず源敬公の御霊をお守りしますから、これまでのことはどうぞお許(ゆる)しください。」と、大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)を流しながら、すなおにお尚さんにあやまりました。
 それ以来、龍が龍門の天井を離れたという話は聞かれなくなりましたが、あの美しい龍の歌声も聞かれなくなりました。きっとこの龍は、お尚さんの言いつけ通り、今も龍門の天井から源敬公の御霊を守り続けていることでしょう。

流れてきた観音さま

ながれてきたかんのんさま


伝承地 瀬戸市?
 菱野村を流れる山口川の南側には、昔から、川上に一つと川下に一つ、合わせて二つの水の取り入れ口があり、そこから川の水を引いて、田んぼに水を入れていました。
 ある年、雨が降り続いて、川の水がいっぱいになり、堤防が危なくなったので、その様子を見回っていた村人が、川下の水の取り入れ口に、流れて引っかかっていた一体の観音(かんのん)さまを見つけました。
「大水で、観音さまが流れてござったけど、どうしよう。」
「そうさなあ。おらたちで、お祀りするか。」
「そうだ。みんなで、お祀りしよう。」ということになり、水の取り入れ口の近くに、小さなお堂を建てて、流れてきた観音さまをお祀りしました。
 はじめのうちは、珍しさもあって、村人たちも観音さまの世話をよくしましたが、だんだんと世話をする人もなくなり、お堂もササや雑草におおわれてしまうほど、荒れはててしまいました。
「このままでは、観音さまがお気の毒だ。」
「前のように、もう少しお世話しようじゃないか。」
「話はわかるが、おらたちも忙しいので、観音さままで手がまわらんがな。」
「そうだ、ここでは遠いので、お寺へでもお移ししたらどうだ。」
「それは、いい考えだ。」というので、村人たちは、観音さまをお寺へ移し、お世話をすることにしました。
 ところが次の年、どうしたことか、村の米が取れなくなったり、村人が重い病気にかかったりしました。
「どうして、こんなふうになるんだろう。」
「困った。困った。」と、話し合っていると、ふとひとりの老人が、
「この間まで、水の取り入れ口に観音さまがござった。その観音さまを、勝手に動かしたたたりじゃぞ。」と、言いましたので、他の村人たちも、
「そうかも、しれんなあ。」
「これはきっと、観音さまのたたりにちがいない。」
「観音さまは、あそこがよかったのじゃ。」
「観音さまを、元のところへもどそう。」
 村人たちは、さっそく観音さまを、また元のところへ戻しました。すると、どうでしょう・・・。観音さまのお顔もどことなくにこやかに感じになられ、米もよく取れるようになり、病気もおさまったと、いうことです。
 その後、この観音さまを、だれ言うともなく、川下の取り入れ口にある観音さまということで、「下杁観音」と、呼ぶようになり、病気を直してくださる観音さまとして、お参り人も多くなりました。
 昭和四三年に、お堂も建てかえ、奉賛会(ほうさんかい)の手で、今でもお世話していると、いうことです。

おろちの花川

おろちのはなかわ


伝承地 瀬戸市下半田川町
 国道二四八号線を、蛇(じゃ)ケ(が)洞(ほら)浄水場(じょうすいじょう)から旧道へ折れ、峠から通称七曲(ななま)がりの坂を下りきって、胴坂(どうざか)とぶつかる所は、かつては、南からの本流と東からの支流がいっしょになって、岩にくだける水音がごうごうと鳴り響く谷川の景観でした。特別天然記念物「オオサンショウウオ」の県内唯一の繁殖地としても知られていますが、最近は環境汚染などで生息が危ぶまれています。
 さて、この谷川にまつわる昔話
 それは、大永(だいえい)年間というから、世の中は乱れて豪族(ごうぞく)が争い、戦乱に明け暮れた戦国時代のころのこと。
 春は桜、秋はもみじの国定公園「岩屋堂(いわやどう)」の渓流から流れ出る鳥原川の流域、鳥原の里は古くから人が住んで遺跡もあることから昔のままの山里の名残りを今も留めています。
 この鳥原の「岩松」という家に身を寄せていた平景(たいらのかげ)伴(とも)という武士がいました。魚釣りが大好きで、毎日のように近くの川へ出かけてたくさんの魚を釣って帰るのを自慢にしておりました。
 今日も、えものを探して釣り竿とビク(釣った魚を入れるふたのあるかご)を持ち、そのころ三国川といったこの谷川にやってきました。岩陰の深みに糸をたれていると、釣れるは釣れるは、大きな白ハエが次から次へとかかってくるではありませんか。
 われを忘れて釣っているうちにビクにいっぱいになりました。
 景伴は、思わぬ大漁にうきうきとして胴坂を上り、夕日にそまった山道を家路に向かいました。日が暮れかかったころ、岩松の家について、どっかとビクを下した景伴は、出迎えの人々に大いばりで
「みなの方々、まず拙者(せっしゃ)の腕前(うでまえ)をご覧くだされ。このとおり・・」
ぞうりもぬがずに大声でわめく声に、みんなはビクのまわりを取り囲みました。意気揚々(いきようよう)の景伴は、得意(とくい)顔(がお)でビクのふたを取りました。
「あっ、こりゃどうじゃ。」
肩にずっしりと重かったはずの獲物が、開けてびっくり。白ハエの銀色が笹の葉の緑に変わってビクにぎっしり。
「こりゃ、なんとしたことじゃ。」
大いばりで大声をあげた手前、かっこう悪くなった景伴は、すっかりしょげて、
「この村には悪い狐がおりまするでなあ。それにしても、景伴さまともあろう方をたぶらかすとは太いやつじゃて・・・」
恐ろしくむずかしい顔をして考え込んでしまいました。
 気まずい夕食を終えた景伴は、あくる日も同じように同じ場所へ出かけて釣りをしました。そして、同じようにたくさん釣れました。
 景伴は、ビクの中を見直し、ぴちぴち跳(は)ねるハエがふたの近くまで盛り上がって動いているのを見て、
「たしかに白ハエだな。よし。」
用心深くビクのふたをして立ち上がりました。途中、何度となく立ち止まっては中をのぞいて帰って来ました。
「今日はたしかに魚だぞ。ほーれ。」
と、開けたビクの中は、何とまた笹(ささ)の葉ばかり・・・。
「やっ! またやりおったか。うーむ。にくい奴め。うーむ。」
 出迎えた岩松はなぐさめることばもありませんでした。
 その夜、まんじりともしなかった景伴は、次の日いつもより早く出かけて、同じ場所あたりに気を配りながら釣り糸をたれていました。
 すると、すっと川上から生臭い風が吹いてきました。見ると、岩に体を巻き付けて頭を持ちあげ、大きな口を開けて今にも跳びかかりそうにじっとこちらをにらんでいる大蛇(だいじゃ)がいました。景伴は、
「おのれ! こやつの仕業じゃな思い知れ。」
とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大きく開いた大蛇の口深くにつき刺さりました。と思う間に、一てん、にわかにかき曇って雷鳴(らいめい)がとどろき、たたきつけるようなどしゃぶりの雨が一時間余りも降り続きました。
雷鳴も次第に収まり、ようやく明るくなり始めた岩の上に、びしょぬれのまま二の矢をつがえてつっ立った石像のような景伴の姿がありました。
気がつくと、さすがの大蛇も急所(きゅうしょ)を射たれて力なく、首を濁流(だくりゅう)の中に突っ込み動こうともしません。大蛇の血は川の水を染めてまっ赤。川の流れは、流れても流れてもまっ赤に染まり、七日七夜の間、緋(ひ)桃(もも)の花を流したようだったと言います。
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、景伴さんは強いお人だのう。」
と、村人たちは、うわさしあいました。
 そして、この深みの主(大蛇)のたたりを恐れてささやかな祠を建ててお祀りしました。
 そうして、この深みのことを「蛇(じゃ)が(が)洞(ほら)」と言うようになりました。
三国川の名は、七日七夜流れた血潮の花くれないにちなんで「花川」と呼ぶようになり、その「花川」が移り変わって「はだ川」(半田川)と呼ばれるようになりました。そして、このあたりの地名にもなったということです。

萩御殿

はぎごてん


伝承地 瀬戸市萩殿町
 時代背景 明治33年(1900)、愛知県による大規模なハゲ山復旧工事が、萩殿町一帯などにおいて実施され、多くの見学者がありました。この人たちの便宜を図るため、工事現場が一望できる位置に、萩を多く用いた建物を建てました。この建物を人々を「萩の茶屋」と呼んでいました。明治43年(1910)11月17日、この地に皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓され、「萩の茶屋」から緑に回復しつつある山々をご覧になり、記念にアカマツの苗を植栽されました。
愛知県の平成16年度治山事業「萩殿の森環境防災林整備事業」として南公園内の森林は整備され、森林の手入れや歩道、案内板などの整備をはじめ、当時の萩御殿を模した休憩施設が設置されています。

 今から六、七〇年ほど前、昭和の初めごろまで、今の萩(はぎ)殿(どの)町あたりに「萩(はぎ)御殿(ごてん)」というのがあったそうじゃ。
今日は、その萩御殿のお話をしようかのう。
そのころよりずっと前じゃが、そこいらから山口にかけての山はのう、大雨が降ると、土や砂がぎょうさん崩(くず)れて流れ出し、大変じゃったと。
村人たちはお役人に山崩れを防ぐ工事を願い出たんじゃ。
そこで、工事が始まったんじゃが、その工事が大がかりでのう。工事面積が、そこいたでは見られないぐらい、とてつものう広かったんで、おおぜいの学者や外国人までも見に来たと。
あんまりおおぜいの人々が見に来るので、工事の様子がよう見える丘に小屋を作ったそうな。
その小屋はのう、はじめは四本の柱を立てて屋根をつけただけの粗末なものじゃったそうな。だけど、それではさびしかったので、辺りにたくさん咲いている萩(はぎ)という木をとって、柱と柱の間に取り付けたんじゃと。
すると、なかなかよい小屋に見えるようになり、見学にきた人もこの小屋でゆっくり工事のお話を聞いたり、お茶をごちそうになったりしたそうな。そして、いつの間にか、だれ言うとなくこの萩で囲った小屋を「萩の茶屋」と言うようになったんじゃと。
そのとき、東宮(とうぐう)さま(のちの大正天皇)が、いくさの演習をご覧に愛知県に来られたのじゃ。そして、瀬戸の工事のことを聞いて、この萩の茶屋に登(のぼ)られ工事の様子をご覧になったそうな。そして、東宮さまが来てくださったことを記念して、この萩の茶屋を「萩御殿」というようになったんじゃと。
その後、萩御殿は古くなって壊(こわ)れてしまったけど、せめてゆかりの地として名前を残そうということになり、新しく町の名前を決めるときに「萩殿町」と決めたということです。いま、祖母壊小学校の校区にある萩殿町と御殿橋がこれじゃよ。

がくの洞の雨乞い

がくのほらのあまごい


伝承地 瀬戸市鳥原町
 瀬戸の北東には、町を見おろすように、三国山とそれに連なる山々があります。その山すそに、四季おりおりのすばらしい自然美を見せてくれる岩屋堂があります。夏にはここにあるプールで、子どもたちが泳ぎ回り、その歓声があたりのセミの鳴き声をかき消すほどです。
 このプールの上を山あいの渓谷にそって行くと、地なりを思わせる大きな音におどろかされます。鳥原川の清流を、岩がせきとめて作った滝があり、清流が滝から落ちる音です。
 このあたりには、いくつもの滝があって、「岩屋七滝」と呼ばれています。その岩屋七滝の一つが、「めおとたき」と呼ばれています。そして、この滝の滝つぼのことを「がくの洞(ほら)」と呼んでいます。
 この洞の主は、「龍神(りゅうじん)さま」で、雨を降らせる神様だということです。
 鳥原川から、田や畑の水をひいている品野の人たちは、日照りが続くと代表者を立て、その人と岩屋堂の入口にある浄源寺の住職とで、雨乞いをするそうです。
 雨乞いのしかたは、代表者と住職とが、水で身体を清めたうえ、幣束(へいそく)を持って、滝の近くの洞穴の龍神さまに祈ります。祈りがすむと、滝のところへ行き、願いごとをとなえながら、手にした幣束を、がくの洞へ投げ込みます。そのとく、滝つぼの水が渦を巻きながら幣束を巻き込んでしまえば、願いどおり必ず雨が降るといわれています。

菱野のおでくさん

ひしののおでくさん


伝承地 瀬戸市菱野地区
 時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
 天(てん)正(しょう)十二年、今から約四百年ほど前のお話です。
 徳川(とくがわ)方と豊臣(とよとみ)方が長久手(ながくて)で戦った時のことです。
 徳川方に敗れ、負けいくさになった豊臣方の総大将池田勝(しょう)入(にゅう)信(のぶ)輝(てる)の家臣梶(かじ)田(た)甚五郎(じんごろう)直(なお)政(まさ)は、ひどい傷(きず)を負い、ようやく菱(ひし)野(の)までたどり着きましたが、もう動くこともできなくなっていました。
 そこで村人に、
「わたしは猿投(さなげ)山に行きたいが、とうていこの体ではむりだ。」
と、苦しい息の下から、
「わたしの命もこれまで。だれか早く介錯(かいしゃく)して葬(ほうむ)ってはくれまいか。」
と、たのみました。
 しかし、後のたたりを恐れてだれ一人手を出す人はいませんでした。
 そうしている間に甚五郎は、その場で息をひきとってしまいました。
 村人はあわれに思って、千寿寺(せんじゅじ)の覚(かく)心(しん)和尚(おしょう)にこのことを話し、手厚く葬ってもらいました。しかし、そのときに馬の鞍(くら)の下にあった小判三十枚を、みんなで分けて持ち帰ってしまいました。
 それ以来、菱野に悪い病気がはやって若者がつぎつぎに亡くなったり、米や野菜などの農作物がとれなくなってしまいました。
 困り果てた村人が、占(うらな)い師に相談すると、
「以前この土地で若武者が一人亡くなっている。そのとき、若武者が持っていた小判を持ち去って後、法要も何もしていないので、そのたたりじゃ。」
というお告げがあったそうです。
 驚いた村人たちは、さっそく法要をして、いろいろ相談した結果、猿投山に行きたいと言っていた甚五郎の姿を馬印(うまじるし)に猿投神社の祭礼(さいれい)に奉納(ほうのう)しようということに話が決まりました。
 それ以来、猿投祭りには甚五郎の姿の人形を乗せた馬が奉納されました。すると、不思議に今まではやっていた病気もうそのように治まり、米もとれるようになったということです。
 その後、菱野近くの赤(あか)重(しげ)に梶田甚五郎のお宮を建てて、梶田神社としてお祀りしました。
今でも菱野熊野社の祭礼には、梶田甚五郎直政の姿の木偶(でく)(人形)を乗せた馬が奉納され、盛大に祭りが行われています。

首無し地蔵

くびなしじぞう


伝承地 瀬戸市石田町
 時代背景 天和年間(1681~1684)の村八合の大水
 それはそれは、むかしのことです。
 ひとりの立派な身なりをしたお侍(さむらい)さまが殺されて、首を持って行かれてしまいました。
 あわれに思った村人たちが、首のない小さなお地蔵さんを作っておまつりしていましたが、いつの間にか、お地蔵さんの姿も見えなくなり、すっかり忘れられていました。
 それから、何十年たったでしょうか。
 天和(てんな)(一六八一年~一六八四年)のむかし、村八合といわれる大水がありました。降りつづく雨に川の堤防が切れて、村の家や橋などは、見る見るうちに流されてしまいました。川の北側の田んぼは石と砂で埋まって川原のようになってしまい、その上たくさんの死者が出たということです。
 やがて、雨がやんで水が引くと村の人たちは、土砂に埋まった田んぼを見回りに出かけました。
 すると、がれきの中に石のお地蔵さんが埋(う)まっているではありませんか。さっそく堀出してみると、そのお地蔵さんには首がありませんでした。
「そうだ、むかし首のないお地蔵さんがあったということだが、そのお地蔵さんにちがいない。あのおそろしい大水に流されずに、よう無事だった。かわいそうなお地蔵さん。さっそく供養(くよう)しなければ・・・。」
と、みんなで相談して田んぼのすみにお祀(まつ)りしました。
 その頃、このあたりは、あまり米がとれなくて、赤ん坊が生まれても母親の乳が出ず、よく死んでしまったそうです。そんなときに、ある母親がこのお地蔵さんに、
「どうか乳がよく出ますように。赤ん坊が助かりますように。」
とお願いすると、不思議に乳が出るようになり、赤ん坊がすくすく育ったそうです。
 それからというものは、
「このお地蔵さんにお願い事をすると、何でも聞いてくださる。」
というので、そのうわさがあちこちに広まって、遠いところからもお参りに来る人がだんだん多くなり、今でも線香の煙がたえません。
 そして、だれ言うことなく、
「白い布で作った乳房をお地蔵さんの肩にかけて、お供えした白米の半分を家に持ち帰り、七日間おかゆを作って食べると母乳がよく出る。」
というようになりました。そして、
「願い事を何でも聞いてくださるお地蔵さんに首がないのは、かわいそうだ。」
と、村の人たちが川原で丸い石を探して首を作ってあげたそうです。

猿のミイラ

さるのみいら


伝承地 瀬戸市駒前町
 時代背景 天保年間(1830年~1844年)
 むかし、天保(てんぽう)のころ(江戸時代末期(まっき)、一八三〇年~一八四四年)、瀬戸本地(ほんじ)村に、菱野から名古屋に通じる松並木(まつなみき)の街道(かいどう)がありました。ときどき松並木の上や、街道筋で猿が遊んでいるのを見かけたそうです。その付近に壷井(つぼい)左内(さない)というお医者(いしゃ)さまがいました。
 酒好きで知られる左内は、毎日のように居酒屋(いざかや)や家で酒を飲み赤い顔をして、よろよろとして街道を歩いておりました。
「左内先生、猿から酒をもらったそうな。」
と、村人たちがうわさをしていましたが、どうして猿から酒をもらったかはわかりません。
 そんなある夜ふけ、左内の表(おもて)戸(ど)を軽(かる)くたたくものがありました。出てみると、猿が立っていて、いろいろ身(み)振(ぶ)り手振(てぶ)りをします。どうも腹痛(ふくつう)のようなので、薬草(やくそう)を飲ませて帰しました。
 数日後の夜ふけ、すっかり元気になった猿の夫婦が、お礼に一升(いっしょう)どっくりに自分で作った「さる酒」をつめて持って来たのでした。
 その後も、たびたび左内を訪ねては治療(ちりょう)してもらい、酒をお礼に持ってきましたが、この夫婦の猿もしばらくして姿が見えなくなり、人々の記憶(きおく)から消えていました。
 しかし、それからずっと後になって(昭和三〇年ごろ)、本地村のお百姓さんたちは、田植えを終わり、田の雑草を抜くまでの合間(あいま)を利用して、宝生寺(ほうしょうじ)本堂(ほんどう)の屋根のふき替えを行いまし。
住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)の話し合いで、かやぶきの屋根を瓦にかえることになりました。
 檀家総出で、草屋根をめくっていくと、屋根裏と天井(てんじょう)の間に、ほこりやワラにまじって、何かがひそんでいるようでした。近寄ってみると、二匹の猿が抱(だ)き合うように座(すわ)っており、ミイラ化していました。この寺の本尊(ほんぞん)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)でしたが、別に庚申(こうしん)像(ぞう)も祀ってありました。猿のミイラは、この庚申像の天井あたりで発見されたので、村人の驚(おどろ)きは一層(いっそう)大きかったのです。
 猿は庚申のお使いものといわれ、宝生寺の庚申像のひざ元には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三びきの猿の像が置かれていたのです。
 檀家のお年寄りの間には、天保年間の左内医者と猿の話を思い出す者がいて、
「あのときの猿に違いない。あのときの猿は庚申さまの使いだったのだ。」
と、驚き、思わず手を合わせる村人もいました。
 発見の様子(ようす)から、庚申像を祀った本堂の屋根裏で死に、残った一ぴきは、その死体をだいたまま、何も食べずに命をたったものと思われます。一ぴきはミイラ化した姿で、もう一ぴきはやや腐敗(ふはい)した形で見つかったからです。
 人々は、二つのミイラから、猿の愛情がこまやかで、かえって賢(かしこ)いはずの人間の方が見習わなくてはと話し合って、おおいに反省したとのことです。

品野の又サ

しなののまたさ


伝承地 瀬戸市西谷町
 西谷(にしたに)の墓地に「品野の又(また)治郎(じろう)」と、彫(ほ)ってある墓石(ぼせき)があります。
 この品野の又治郎という人は、たいそう変わった人でした。
「ああ、酔(よ)った。酔った。今日も朝からよう飲(の)んだなあ。つぎは、どこで酒を飲もうかなあ。」
と、もじゃもじゃの頭をかきながら、ぼろぼろの着物を着て、又治郎はぶらりぶらりと町の中を歩いています。
 子どもたちは、又治郎を見ると、
「品野の又サが来た。又サが来た。こわいよう。」
と、言って逃(に)げ出します。
 けれど、又治郎は決して悪い人ではありません。いつも酔っぱらってまっ赤になり、きたないかっこうをして近寄ってくるので、子どもたちはこわがって逃げるのです。
 そこで、子どもがわがままを言って泣きやまないときは、
「それ、品野の又サが来るぞ。」
と言うと、泣いていた子どももぴたりと泣きやんだそうです。
「今日は、あそこで嫁入(よめい)りがあるそうじゃ。酒が思いっきり飲めるぞ。昼からは、その向こうで葬式(そうしき)だ。そこでも存分に飲んでやろう。」
と、又治郎は不思議(ふしぎ)に、いつ、どこで嫁入りがあるのか、どこで葬式があるのか、よく知っています。又サが来ない嫁入りや葬式は、まずないといっていいくらいです。
 だから、
「坊さんが来ても、又サが来ないと葬式にならない。嫁さんが来ても又サが来ないと結婚式にならない。」
という人もいるほどでした。嫁入りの家は、又サにお酒をわたしました。
 嫁入りや葬式があっても、又サが来ない家では、
「又サは、どうして来ないのだろう。うちにだけ来てくれないんだろうか。」
と言って、不安に思う人もいました。
 又サは、いつも酔っぱらっていました。朝も昼も夜も、酔っぱらっていました。
 こういう有様だったので、又サは瀬戸の名物男になりましたが、又サがどこに住んでいるのか、人々は知りませんでした。
 こんなに名物男(めいぶつおとこ)の又サは、もう何十年か前のとても寒い晩(ばん)に、酔っぱらって窯(かま)の中で寝ているうちに、死んでしまいましたので、町のだれかがお墓を作ってとむらいました。今でも子どもの夜泣(よな)きが止まらないと、又サのお墓にお参りに行く人があり、たいそうご利益があるとのことです。
 又サのお墓には、今でも線香(せんこう)の煙(けむり)が絶(た)えることなく、ときにはお酒も供(そな)えられています。