てんぐの弾蔵さん

てんぐのぜんぞうさん


伝承地 瀬戸市若宮町
時代背景 常夜灯が奉納された寛政十一年(1799)
私は山口村に住んでおり、名前は弾蔵(だんぞう)と申し、父の名は猶(ます)七(じち)、母の名はおたけ、兄弟は九人あり、私は末っ子で別居しており、妻(つま)おすきとの間に五人の子があります。
さて、寛政十一年十二月七日、用事があって海上(かいしょ)へ行き、多度(たど)権現(ごんげん)の鳥居先(とりいさき)を通ろうと社(やしろ)の方を見ると、社の片すみに一人の老人がヒョッコリ現(あらわ)れました。不思議(ふしぎ)に思いながら行き過ぎようとすると、その老人が、
「お前さんはどこへ行かれるのか。その方に頼(たの)みたいことがある。」と言いました。
「私はこの海上の松(まつ)右衛門(えもん)さんに、用事があって参(まい)ります。」
と言ってその場を立ち去ろうとすると、
「では、しばらく待っていよう。私には、このごろ供(とも)の者がいない。三年の間、お前が供をしてくれないか。」
と申されるので、
「私には、妻や子もあります。それに、もう六十歳にもなりますから、どうぞお許(ゆる)し願います。ともかく、海上の用事をすませとうございます。」と言うと、
「では、その間ここで待とう。」
と申されたので、いそいで松右衛門さんの家へ行き、用事をすませたあとで、さきほどのことをこと細かく話しました。
松右衛門さんは
「そりゃ、化(ば)け物のしわざじゃないか。」とびっくりされました。
そこで私は、
「じゃあ、お前さんも一緒(いっしょ)に来てみてください。」
と言って、みんなで先ほどの森の鳥居のそばへ行ってみますと、例の老人は元のところに待っていました。
私は前へ進み、手をついてお断(ことわ)りしましたが、私以外の人には声は聞こえても老人の姿を見ることはできませんでした。
老人から、
「私は、高い山を巡(めぐ)り歩く天狗(てんぐ)だ。さきほどから申すとおりぜひ供をしてくれよ。」
と、強く頼まれましたので、何回もお断りしたのですが、とうとう私は供をすることにしました。
そこで、松右衛門さんに
「お供をすることにしたので、このことを妻や子に伝えてください。」と言って、社の前で手を洗(あら)い、口を清(きよ)めました。こうする間に、松右衛門さんたちには私の姿が見えなくなってしまったそうです。
さて、私はその時、大木に登るにも、大地を行くように身が軽くなりましたが、高いこずえの細いところでハッと目まいがして、何もかも分からなくなってしまいました。
気がついたとき、
「ここはどこでしょうか。」
と、お尋(たず)ねしてみたら、
「上州(群馬県)筑波山(つくばやま)だ。」
とのことでした。
男体(なんたい)権現(ごんげん)、女体(にょたい)権現をおがみ伊勢(いせ)の浅間山から讃岐(さぬき)の国の象(ぞう)頭(ず)山へ飛んで、金毘羅(こんぴら)大(だい)権現をおがみました。
それからどこの国の高山か分かりませんが、あちらこちらと飛び回りました。
そして、どこか大きな森のあるところに下りました。
「ここはどこのやまですか。」
と天狗(てんぐ)さまにお尋ねしたら、
「善光寺(ぜんこうじ)の山だ。」と申されました。
私は急に故郷のことを思い出して、
「帰りたい。」
とお願いしたら、すぐに聞いてくだされ、膏薬(こうやく)の作り方や、のどに物がささったのを取る方法や、馬や牛の病気をまじなう方法なども教わりました。
はじめて自由の体になって、山を下り身につけていたぼろぼろの着物を着替(きが)えて、その年の十二月七日、ちょうど三年前の同じ日に帰り着きました。
そうして、天狗さまから教わった膏薬を練り、試してみましたら、よく効くことてきめん、近くの村はもちろん遠いところからも、われもわれもと、たくさんの人が訪(たず)ねて来られ、小さな私の家はいっぱいで、行列(ぎょうれつ)ができたほどでした。とてもだめだと言われた病気もこの膏薬を塗ると不思議や不思議、たちまち治ってしまいました。
弾蔵さんは、その後お金をもうけて、本泉寺(ほんせんじ)の一隅(ひとすみ)を借り、「奉納(ほうのう)諸山(しょざん)」の碑と常夜燈(じょうやとう)を奉納(ほうのう)されました。

奉納諸山碑と弾蔵の常夜燈