栗木 伎茶夫

くりき ぎさお


陶芸 赤絵技法 瀬戸市指定工芸技術 1件
昭和62年4月18日指定 平成23年2月1日解除(死亡) 
保持者 瀬戸市川合町 栗木儀三雄(伎茶夫) 明治41年10月15日生

 赤絵技法は、赤色を主調とする多彩な上絵付技法の一つで、中国の宋時代に始まる。日本では江戸時代の初期有田に始まる伝統技法である。保持者はこの伝統技法に研究を重ね、独創性あふれるデザインと闊達な筆さばきにより、独自の作風を創りだした。
 保持者は藤井達吉に師事し、芸術分野における陶芸の本道を大いに学んだ。自然を徹底的に写生しそれを題材に独自のデザインを工夫することだった。さらに、小森忍に彩色技法を学ぶとともに、愛知県工業試験場でデザインの研究を積むが、中でも赤絵技法は長年の研鑽により独特の技を完成した。

瀬戸 朝香

せと あさか


昭和51年(1976)12月12日生まれ。瀬戸市出身の女優、タレント。平成4年(1992)鮮烈映画デビュー、キネマ旬報・新人女優賞受賞。平成6年(1994)にはTVドラマ『君といた夏』でヒロインに抜擢されに出演、注目を集め、以来TVCMやドラマ、映画作品の数々に出演。また、映画では『とらばいゆ』で第24回ヨコハマ映画祭の主演女優賞を受賞。舞台では東山紀之との共演『ロミオとジュリエット』が話題に。
平成19年(2007)、井ノ原快彦と結婚、平成22年(2010)長男を出産。翌23年12月スタートのテレビドラマ、『悪女たちのメス』では悪女を演じ産後復帰を果たし、平成24年10月期『TOKYOエアポート?東京空港管制保安部?』で連続ドラマ復帰を果たした。平成25年、女児を出産。

楢崎 彰一 

ならさき しょういち


大正14年(1925)6月27日~平成22年(2010)1月10日
大阪府大阪市に生まれた。昭和24年(1949)3月に京都大学文学部史学科(考古学)を卒業、翌年4月から名古屋大学文学部史学科考古学研究室の開設に伴い助手として勤務、講師、助教授を経て、昭和53年(1978)教授となり平成元年(1989)年3月に定年退官した。退官後、平成元年に愛知県陶磁資料館参与(5年)、平成4年(1992)に財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター所長(13年)、平成7年には愛知県陶磁資料館総長(4年)等を歴任した。
大学時代は古墳時代の研究を行い、名古屋大学着任後も東海地方の古墳についての発掘調査を進めた。研究の一大転機となったのは、愛知用水建設工事に伴う昭和30年(1955)~36年(1961)にかけて実施された猿投山西南麓古窯跡群の発掘調査に中心として携わり、古墳時代から平安時代の陶器生産の実態を解明したことによる。それまで日本陶磁史において空白の時代とされてきた平安時代にも須恵器生産が継続され、灰釉陶器・緑釉陶器を新たに生産した猿投窯が日本の中心的な窯業地であり、中世の瀬戸窯や常滑窯へ展開する母胎であったことを初めて明らかにした。この猿投窯の研究を出発点として、愛知・岐阜県下を主なフィールドとして、以降考古学的な窯跡の発掘調査の成果を用いて、古墳時代の須恵器から桃山・江戸時代の陶器に至る編年研究に邁進し、古墳時代から平安時代における猿投窯の須恵器・灰釉陶器、中世の瀬戸窯、近世の瀬戸窯・美濃窯の編年を確立するとともに、古窯跡の構造とその変遷も解明した。この間数多くの陶磁史研究者を育成する一方、日本各地の古窯の発掘調査にも携わり陶磁史研究に大きな影響を与えた。胆管癌のため名古屋市中区の病院で他界、84歳であった。
『陶器全集31 猿投窯』(平凡社)、『陶磁大系5 三彩・緑釉・灰釉』(平凡社)、『日本の陶磁 古代・中世篇Ⅰ 土師器・須恵器・三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、『原色愛蔵版日本の陶磁 古代・中世篇2 三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、『日本陶磁全集6 白瓷』(中央公論社)、『世界陶磁全集2 日本古代』(小学館・共著)などの出版物が刊行されている。

本多 静雄

ほんだ しずお


明治31年(1898)1月5日~平成11年(1999)5月6日
西加茂郡上郷村花本(後の猿投村、現豊田市花本町)に生まれる。第八高等学校(現名古屋大学)を経て、大正13年(1924)京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。逓信省に入省し、数々の要職を歴任した後、昭和18年(1943)内閣技術院第一部長を最後に退官し、同年故郷に帰る。昭和21年(1946)西加茂郡猿投村越戸(現豊田市平戸橋町)に転居。昭和25年(1950)日本技術㈱、同29年(1954)日本電話施設㈱、昭和44年(1969)には、愛知音楽FM(現㈱エフエム愛知)・中部通信サービス㈱(現㈱NTTドコモ東海) をそれぞれ設立し社長に就任する。このように、本多は電気通信の技術者として通信事業に生涯関与するとともに、戦前は技術官僚として、戦後には企業経営者としての事業家であった。
昭和18年に内閣技術院を退官し郷里に帰るが、そこで加藤唐九郎と知り合い親交を持ち、次第に陶磁器の世界に魅せられていった。昭和20年(1945)民芸運動の主導者柳宗悦を知り、「民芸運動」の理解者となった。翌年には日本陶磁協会による小長曽窯跡の発掘調査に参加して、古陶磁に対する興味を深めていった。昭和29年(1954)西加茂郡三好町黒笹で平安時代の古窯址群を発見し、多くの陶片資料を採取した。これが猿投山西南麓古窯址群の解明の発端となった。こうした活動と並行して民俗・民芸資料へと展開していき、本多の関心・関与は茶の湯、古陶磁、民芸、骨董から狂言に至るまで幅広い分野に及んだ。「本多コレクション」と呼ばれる膨大な資料は、学術資料として高い評価を得ている。
陶磁器に関する総合的な研究施設の必要性を痛感した本多は、川崎音三(当時丸栄社長)らとともに愛知県陶磁資料館(現陶磁美術館)、豊田市民芸館の建設に尽力した。

宮石 宗弘

みやいし むねひろ


大正7年(1918)10月13日~平成元年(1989)11月19日
碧海郡刈谷町(現刈谷市)に生まれる。両親はともに小学校の教師で、6歳のとき父の転勤で瀬戸市に引っ越した。立命館大学専門部文学科へ入学、この頃考古学に初めて興味を持ち、歴史科の学生たちと京都、奈良の古寺、古墳を片っ端から回ったという。卒業後、木材会社に就職、取締役までになるが、突然会社は倒産。これを機に、幡山東小学校の教壇に立つ。以後、休みのほとんどを古窯や古墳の発掘調査や民俗調査に費やし、主に瀬戸市内の教員たちでつくる「瀬戸孝土サークル」の責任者として活動した。
昭和53年(1978)10月、瀬戸市歴史民俗資料館開館と同時に初代館長に就任し、瀬戸市の文化財の保護・保存、普及啓発に大いに力を注いだ。また、昭和52年(1977)に設立した東海民具学会でも会長に就任し活躍した。
著書には、『瀬戸市史陶磁史篇ニ』、『瀬戸市史 資料編村絵図』(共著)、『日本のやきものシリーズ・瀬戸』(講談社)、『古瀬戸名品図録』(光美術工芸社)などがある。

村瀬 一郎

みらせ いちろう


大正5年(1916)11月8日~平成17年(2005)2月25日
岐阜市加納東丸町に生まれる。岐阜第2中学校に入学するが、3年生の時愛知県立第5中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ転校。この頃から漢文や漢詩が好きになり、漢詩作りは中学4年のときからかじり始めている。岐阜師範学校を卒業後、加納尋常高等小学校で教鞭をとった。その後、広島高等師範学校教育科を卒業、広島文理大学へ進んだ。卒業後は名古屋市中村区に居住し、名古屋市立の高等学校で国語教師として勤務した。昭和53年(1978)定年を迎えてからは、毎日文化センターなどで漢詩入門講座の講師に就任し、平成8年(1996)80歳の区切りまで講師を続けた。昭和61年(1986)、高齢者マンションのミソノピアが開設されると同時にここを永住の地とした。
村瀬は、不慣れな瀬戸で徒歩、自転車、車で碑文を探す毎日を送った。そして、『瀬戸歩き-瀬戸の石ぶみ』『瀬戸の文学-漢詩文編』を出版した。さらに、陶祖藤四郎に関する著作物や研究書、文献をくまなく調査し、『幻の藤四郎 陶祖加藤春慶翁考』も刊行した。

若杉 敬

わかすぎ けい


大正14年(1924)11月12日~昭和44年(1969)11月11月9日
東春日井郡旭村(現尾張旭市)に生まれ、昭和2年(1927)に瀬戸市に引っ越す。愛知県立窯業学校、愛知青年師範学校を卒業、水無瀬中学校を皮切りに瀬戸市内の中学校に勤務する。昭和31年(1956)に発足した「瀬戸孝土サークル」の会員となる。この頃から考古学に興味を持ち初め、熱心に古窯の調査を進めた。昭和36年(1961)、日本陶磁会瀬戸支部長北川勲との交流を得て、同会支部主催の古陶磁展の委員として活躍し、戸田紋平とともに古陶磁研究を始め、さらに本多静雄、赤塚幹也らの古窯研究者から指導を受け研究を深める。交通事故により43歳の若さで永眠した。昭和48年(1973)、『陶説』に投稿した論文、地方紙や雑誌に発表した随筆、発掘日誌を集録した遺稿集『古瀬戸孝』が谷口順三らにより風媒社から刊行された。

石田 武至

いしだ たけし


日展評議員。昭和7年(1932)に名古屋に生まれ、愛知県立瀬戸窯業高等学校を卒業後、父であり当時を代表する彫刻家であった石田清氏に師事し、彫刻家への道を歩む。昭和32年(1957)に日展初入選、昭和38年(1963)には日展で特選を受賞するなど、若い頃からその作品は高い評価を得ている。その後、日展の審査員、文部科学大臣表彰を受けるなど、日本を代表する彫刻家として活躍していく。
作品は、女性像が多いのが特徴で、女性の外観の美しさだけを表現するのではなく、その内面をも表現されており、そのシャープで洗練された彫刻表現は「石田彫刻」として独特なものとなっている。作品は多くのファンを有しており、ハワイや東京そして愛知県内など国内外各地に数多くの作品が設置されている。
平成16年(2004)まで、名古屋芸術大学の教授として後進の指導にあたる。

加藤 昭男

かとう あきお


 新制作協会会員。昭和2年(1927)に瀬戸に生まれる。父加藤華仙(鶴一)は陶土採掘・販売を生業としながら陶芸家としても帝展、文展等に出品しており、そういう環境の中で物心つく頃から粘土を身近な遊び道具として育った。愛知県立窯業学校、京都工業専門学校を卒業、昭和30年(1955)に東京芸術大学彫刻専攻科を修了。昭和49年(1974)中原悌二郎賞「月に飛ぶ」、同年長野市野外彫刻賞「母と子」、昭和57年(1982)高村光太郎大賞展優秀賞、平成14年(2002)円空大賞を受賞。瀬戸市美術館をはじめ全国にパブリックアートとして作品が設置される。平成26年に瀬戸市の依頼で「陶祖800年祭記念事業」を記念して「陶祖像」を制作、陶祖公園に設置された。
また、平成10年まで武蔵野美術大学彫刻科教授として後進の指導にあたる。

加藤 顕清

かとう けんせい


日本芸術院会員、日展常任理事、日本彫塑会会長、昭和41年(1966)11月11日歿。
明治27年(1894)12月19日生まれ。両親は岐阜県出身で、北海道に移住して間もなく生まれ(本名鬼頭太)、幼少年時代を過ごした。上京して大正4年(1915)東京美術学校彫刻科に入学、高村光雲教授、白井雨山教授の教えを受ける。同9年(1922)3月同科塑造部本科を卒業、12年同研究科を修業した。引続いて西洋画科本科に再入学して、藤島武二教授、長原孝太郎教授の教を受け、油絵を修め昭和3年(1928)3月卒業した。彫刻科在学中の大正10年第3回帝展に「静寂」が初入選し、以後毎年入選した。昭和3年第9回帝展で「女人像」が特選に挙げられ、第10回「群像」・11回「立像」と連続して特選を受賞した。その後長年に亙って、帝展、文展、日展等の審査員をつとめるなど、終始官展系の有力作家として活躍し、また後進の指導育成に尽した。
窯神神社境内に磁祖加藤民吉翁の銅像及び頌徳碑を建設し、永久に翁の遺業を伝え、益々の陶磁器の発展に資せんと陶磁器関係者が中心となって発起し、その銅像の製作者には加藤顕清に依頼した。昭和12年(1937)9月のせともの祭当日、盛大に竣工式が行われた。また、終戦直後、西古瀬戸町にあった「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」の所長を務めるなど、沼田一雅、笠置季雄、赤塚幹也らと共に陶彫を中心として多くの作家が集う半工半農の工芸家村建設構想の推進に携わった。