初えびすの瀬戸名士七福神行列。深川神社の境内末社の初えびすは、毎年正月5日に祭典が挙げられ、近年は参詣者も激増して年々盛大になってきた。とりわけ大瀬戸新聞社がこの祭に協賛して1954年(昭和29年)以来とり行っている「瀬戸名士七福神行列」は、近郷近在まで評判になり、年頭の行事化して、一風変ったお祭として広く知られてきた。最初の年の七福神について瀬戸の名士にそれぞれ白羽の矢を立てて交渉したが、七福神に扮装して街頭を練るというので、オイソレとは承諾してもらえなかった。当時の瀬戸市警察長(署長)の柴田源治氏が、体重堂々28貫の太鼓腹の持主で、布袋そっくりの体?だったので、公安委員の河本礫亭氏はもちろんのこと、警察署長の引っ張り出しにも成功した。名士の扮装の役割は、お祭の当日、出発点の石神神社の社務所に集合して協議の上で決定するもので、弁財天の外は誰がどの神になるのか判っていない。大瀬戸新聞社では前年の暮から「誰が何になるか」の懸賞予想投票を募るので、年末年始にかけて、この話題で持ち切りになる。いよいよ正月5日の初えびすの当日になると、行列は石神神社から末広町を西進し、市役所前から蔵所橋を渡って朝日町を東へ、宮前から深川神社に入り、拝殿で厳かに祈?を行うのである。途中で福の神の家に入って小憩し、道中は楽人の奏でる雅楽も床しく静々と練り込むのであるが、沿道は黒山の人出となり、誰がどんな風に扮装するかを見たい人、七福神に触って福運を授かりたい人など、物凄いまでの賑わいとなる。
カテゴリー: 文化・文化財
弥蔵観音
やぞうかんのん
古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。
山口の警固祭り
やまぐちのけいごまつり
「警固」とは、一般的にはオマントと呼ばれる飾り馬と、山口地区では神社へ奉納する際、その護衛につく「棒の手」と「鉄砲隊」をも含めた総称。由来は、飾り馬を寺社へ一日だけ奉納する行事で、農耕や慶事に対する祈願やお礼参りから発展したものとされ、江戸時代にいくつものムラが連合した「合宿」が始まりといわれている。山口の警固は、古文書によれば1862年(文久2)には「合宿」への参加が確認され、現在では、毎年10月の第2に津曜日に郷祭りとして行われている。
郷社祭り
ごうしゃまつり
山口の八幡社は郷社の地位にあり、菱野、本地の他、現・長久手市の上郷地区(前熊、大草、北熊)の各ムラから飾り馬を奉納する習わしがあった。これを郷社祭りと呼んでいる。菱野郷倉文書によれば、明治14年(1881)、山口村祭礼係が菱野、本地、井田、瀬戸川、狩宿、今村に対し、猿投合宿の休年を連絡するのと合せて、「当年初テ氏神祭礼、猿投祭礼同格ニて相勤申度候」と知らせている。八幡社の祭礼が郷社祭りとして行われるようになったのはこの時からであろう。最近では平成25年(2013)6月に開催された。
金井神社
かないじんじゃ
伝承地 瀬戸市川西町
どこの学区にも、たいていお寺やお宮があり、そこが子どもたちの遊び場になっていることがよくあります。しかし、狭くて、薄暗かったので、お宮を他へ移してしまったというお話をしましょう。
旧效範小学校の校区には、今お宮がありません。七五年ほど前まで※1は、今の川西町のどこかにお宮があったと聞きました。
そこで、お年寄りの方にいろいろ教えていただくと、尾州府志(一七五年※2に出された愛知県の地理の本)という古い本にもついている金井神社ということが分かりました。
この神社は、ヒロクニオシタケカナヒノミコト(二七代の安閑天皇の御名は広国押武金日命という)という神様をおまつりしていました。その神様の名のカナヒがカナイにかわり、お宮の名前になったのだろうということです。
その神社は、川西町一丁目あたりで、七アールばかりの細長い土地で、木や竹がたくさん生えて、日の光があまり当らない薄暗いところだったということです。
朝夕ほとんど太陽の光が当たらないところだったので、七五年ほど前に、八王子神社の境内に移されたということです。
その跡地は、開墾して畑にしたということですが、おそろしく古い時代に天皇をまつったお宮が川西町にあったというのは確かなことのようです。
※1 不明
※2 「張州府志」(宝暦二年(一七五二)完成)
龍天池
りゅうてんいけ
伝承地 瀬戸市白坂町
時代背景 室町幕府官領家の細川勝元派と有力守護大名の山名特豊派とが、応仁元年(1467)から約10年にわたり続いた戦乱で、京都に始まり全国規模に発展した 京都で応仁の乱(おうにんのらん:今から五一〇年ほど前※1)が始まったころの話です。
雲興寺の三代目のお尚は、朝夕お経を読み、村人に仏の道を教えていました。
一四六六年の一一月三〇日の朝のことです。お尚は、けさもいつものようにお経を読んでいました。すると急にあたり一面が暗くなり、大粒の雨が降り出し、風も強まってきました。お尚は急いで本堂の雨戸を閉めようとしたとき、目の前の小さな池の中がざわめいたかと思うと、渦を巻いて竜巻のように登り始めました。その中から小さな龍がおどり出て、岩の上にとまりました。お尚はびっくりして、じっと龍を見つめていました。龍も同じように、お尚をじっと見つめていました。
さきほどの強い雨はおさまり、あたりは明るさを取り戻していました。お尚は落ち着いたことばで、龍に話しかけました。
「お前はいったい何ものなのか。また、どうしてこんな所へ出てきたのだ。」
龍も待っていたかのように、訴えるようなことばで話を始めました。
「お尚さん、わたしは、わたしの住む所を探し求めて、あちらこちらさまよい歩きました。この池は、大変住み心地がよく、ここへ来てから三年にもなります。お尚さんの毎朝、毎夕のお経を池の中で聞き、また村の人々にいろいろ話をしておられる様子を見て、直接お尚さんから教えのことばをいただき、できればお尚さんのお仕事を手伝わせてもらいたい。こう考えてまいりました。」
お尚は、龍の話を聞いていたが、
「京都の方では大きな戦いが始まっている。その戦いがこちらの方へ広がってきている。村の人々の不安は日増しにこくなっている。わたしは村を守り、人々が安心して住める村にしたいものだと、思っている。」
「わたしと一緒に寺や村を守ってくれるか。仏さまにお仕えするものが、池の中に住むわけにもいくまい。厨子(ずし)をつくってやるから、その中で暮らすようにしなさい。」
りっぱな厨子ができあがり、龍は厨子の中にはいることになりました。
「お尚さん。約束はきっと守ります。他の人からながめられると、わたしは余力(よりょく)がなくなってしまいます。どうかこの扉を開けないでください。」
こう言って、扉の中へはいりました。
それから何年かたちました。村々に日照りが続き、田畑に水がなくなると、人々はこの池を掃除し、雨が降るように厨子に向かってお祈りをしました。するとどうでしょう。雨が降るではありませんか。
この話が名古屋城主にも伝わり、お使いをさしむけて、雨乞いをしたという話も伝えられています。
この池をだれ言うとなく、龍天池と呼ぶようになりました。本堂の本尊右側にその厨子が祀ってあり、裏庭の龍天池は、小さいが枯れることなくきれいな水をたたえています。
※1 今から五四〇年ほど前
品野の又サ
しなののまたさ
伝承地 瀬戸市西谷町
西谷(にしたに)の墓地に「品野の又(また)治郎(じろう)」と、彫(ほ)ってある墓石(ぼせき)があります。
この品野の又治郎という人は、たいそう変わった人でした。
「ああ、酔(よ)った。酔った。今日も朝からよう飲(の)んだなあ。つぎは、どこで酒を飲もうかなあ。」
と、もじゃもじゃの頭をかきながら、ぼろぼろの着物を着て、又治郎はぶらりぶらりと町の中を歩いています。
子どもたちは、又治郎を見ると、
「品野の又サが来た。又サが来た。こわいよう。」
と、言って逃(に)げ出します。
けれど、又治郎は決して悪い人ではありません。いつも酔っぱらってまっ赤になり、きたないかっこうをして近寄ってくるので、子どもたちはこわがって逃げるのです。
そこで、子どもがわがままを言って泣きやまないときは、
「それ、品野の又サが来るぞ。」
と言うと、泣いていた子どももぴたりと泣きやんだそうです。
「今日は、あそこで嫁入(よめい)りがあるそうじゃ。酒が思いっきり飲めるぞ。昼からは、その向こうで葬式(そうしき)だ。そこでも存分に飲んでやろう。」
と、又治郎は不思議(ふしぎ)に、いつ、どこで嫁入りがあるのか、どこで葬式があるのか、よく知っています。又サが来ない嫁入りや葬式は、まずないといっていいくらいです。
だから、
「坊さんが来ても、又サが来ないと葬式にならない。嫁さんが来ても又サが来ないと結婚式にならない。」
という人もいるほどでした。嫁入りの家は、又サにお酒をわたしました。
嫁入りや葬式があっても、又サが来ない家では、
「又サは、どうして来ないのだろう。うちにだけ来てくれないんだろうか。」
と言って、不安に思う人もいました。
又サは、いつも酔っぱらっていました。朝も昼も夜も、酔っぱらっていました。
こういう有様だったので、又サは瀬戸の名物男になりましたが、又サがどこに住んでいるのか、人々は知りませんでした。
こんなに名物男(めいぶつおとこ)の又サは、もう何十年か前のとても寒い晩(ばん)に、酔っぱらって窯(かま)の中で寝ているうちに、死んでしまいましたので、町のだれかがお墓を作ってとむらいました。今でも子どもの夜泣(よな)きが止まらないと、又サのお墓にお参りに行く人があり、たいそうご利益があるとのことです。
又サのお墓には、今でも線香(せんこう)の煙(けむり)が絶(た)えることなく、ときにはお酒も供(そな)えられています。
神明の小女郎ぎつね
しんめいのこじょろうぎつね
伝承地 瀬戸市新明町
むかしむかしのこと、新明(しんめい)というところに、小女郎ぎつねという女(おんな)きつねが住んでおったと。この小女郎ぎつねは、通りすがりの馬方(うまかた)(むかし、車のないころに、荷物などを運ぶ馬を引いていく人のこと)をたちに、いたずらをしては、おもしろがっていたそうじゃ。
ある日のこと、ひとりの馬方が荷物を赤津の方から瀬戸へ運んで行ったその帰り道、だんだん日が暮(く)れかかって辺(あた)りが薄暗(うすぐら)くなったころ、山道にさしかかったと。すると、向こうの方から見たことのないきれいな女の人が、とぼとぼと歩いて来て、
「日が暮れて困っています。どうぞ助けてください。」
と、頼んだそうじゃ。
「こんなところを、女がひとりで歩いているのはおかしいぞ。これは小女郎ぎつねにちがいない。」
と、女の人の後ろを見ると、なんと太(ふと)いきつねのしっぽが、にょきっと生(は)えていたと。
「やっぱり、そうか。」
そこで馬方は、小女郎ぎつねをこらしめてやろうと、だまされたふりをしていたそうな。そんなこととも知らず小女郎ぎつねは、馬方に、
「足が痛(いた)くてたまりません。どうか馬に乗せてください。」
と、頼んだそうな。
「それはお困りでしょう。さあ、どうぞお乗りなさい。」
と、言って馬方は、その女の人を馬に乗せてやったと。
そして、その女の人が馬から下りられないように、しっかりと鞍(くら)(馬や牛などの背(せ)につけて、人や荷物を乗せるもの)にしばりつけてしまいまったと。
女の人はびっくりして、
「わたしが悪うございました。わたしはきつねです。これからはいたずらをしたり、人をだましたりしません。どうかおゆるしください。」
と、泣(な)いて頼んだけれど、馬方は許さなんだと。小女郎ぎつねは、もう一度
「馬方さん、どんな願いでもかなえてあげますから、縄(なわ)をといてください。」
と、頼んだと。
どんな願いでも聞くと言われた馬方は、前から一度侍(さむらい)になって、いばってみたかったので、
「わしを、侍の姿にしてくれるなら、ゆるしてやる。」と、言ったと。
そのとたん、みすぼらしい姿の馬方はそれはそれは立派(りっぱ)なお侍の姿にかわったと。
願いかなって侍姿になった馬方は、小女郎ぎつねを逃(に)がしてやると、馬にまたがり大いばりになって家に帰ったそうな。馬方は、姿が侍になって、きゅうに自分がえらくなったように思ったんじゃな。
ところが、家についてみると、すっかり元の馬方の姿に戻っていたそうな。
馬方はだまされたことを知って、じだんだ踏(ふ)んで悔(くや)しがったということじゃ。
節句の鯉のぼり
せっくのこいのぼり
伝承地 瀬戸市宮脇町
時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
五月には、男の子が強く、たくましく育つようにという願いをこめた端午(たんご)の節句があります。だから、昔から男の子がいる家では、のぼりを立てたり、武者人形を座敷(ざしき)にかざったり、お餅をついたりしてお祝いをします。しかし、深川神社のそばの宮脇町あたりでは、不思議(ふしぎ)に五月の節句になってものぼりを立てる家はありません。それには、こんなわけがあるからです。
四百年ほど前(千六百年ごろ)、豊臣(とよとみ)方(かた)と徳川方の軍勢(ぐんぜい)が長久手(ながくて)村でいくさをしました※1。このいくさでは、はげしくやりで腹を刺されたり、刀で背中を切られたりして、両方の侍(さむらい)がたくさん命を失(うしな)いました。負けた豊臣方の一人の侍が、傷(きず)つきながらも逃げてきました。その侍の体はやりや刀の傷で血だらけで、よろいは破れ、傷ついた足を引きずり、つるの切れた弓をつえにして、ようやく一軒(いっけん)の農家の前までたどり着(つ)きました。
そこは、ちょうど瀬戸の宮脇あたりでした。侍は、百姓の家の戸をドンドンドンドン、ドンドンドンドンとたたき、
「おたのみ申(もう)す。何か食べものをくだされ。腹がへって倒(たお)れそうじゃ。」。
戸を開けた百姓は、血だらけで、髪の毛をふり乱(みだ)し、ギラギラと光るするどい目つきの侍が立っていたので、思わず震えあがってしまいました。
百姓は、とっさに考えました。
「もし、この侍を助けたら、あとで私たちが敵の侍にどんな仕返しをされるかわからない」とおもい、
「食べるようなものは、何もありゃせん。」
と、どなり返しました。すると、侍は刀をぬいて家の中へ入ろうとしたので、
「出ていけっ。おーい、ぬすっとだあ。ぬすっとだあ。」
と、大声でまわりの家々にふれ回りました。
時は、ちょうど五月の節句の前、のぼりを立てるために用意してあった竹を持って、近くの人たちが走り出てきました。そうして、侍を追って行き、竹でたたいたり、突き刺したりして、とうとう殺してしまいました。
それからというものは、この宮前あたりでは、五月の節句にのぼりを立てると、立てた家の子どもが、次々に死んでしまうという不幸が続きました。
これは、きっとのぼり竿(ざお)で殺された侍のたたりだということになり、それからは節句にのぼりを立てる家がなくなったということです。
その後、村人たちは死んだ侍のためにお墓をつくり、花などをそなえてお参りをしているそうです。
※1 「四三〇年ほど前」
天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
せともの祭に雨が降る
せとものまつりにあめがふる
瀬戸地域に伝わる伝承。事実とは異なるものである。
伝承地 瀬戸市窯神町
時代背景 民吉が、磁器の製法技術を身につけるため九州へ旅立ち、平戸の佐々で福本仁左衛門の窯場で働き、技術を学んで文化4年(1807)に瀬戸に帰った。
「そなたたち、ここで、焼き物作ってみないか。」
熱田奉行あつたぶぎょう、津金文左衛門の思いがけない言葉に民吉と父吉右衛門は、うれしくなって涙がこぼれそうになった。
「わしが、南京焼という清国しんこく中国)の焼き物を書物で学んだ。それをそなたたちに教えようと思うがどうじゃ。」
「なんとありがたいお話でございましょう。どうか、ぜひお願いいたします。」
父吉右衛門と民吉は、夢でも見ているような心地で、額を地面にすりつけた。
文左衛門は、翌日、民吉たちに「陶説」という本を見せた。
「これが南京焼じゃ。よく見るがいい。」
民吉たちは眼を見張った。清国の陶工たちの焼き物をつくる様子が挿し絵入りで詳しく描(えが)かれていたのだ。二人は、文左衛門の繰っていくページを隅から隅まで食い入るように見つめた。
「これが、あの有田焼と同じ磁器と呼ばれる焼き物なのだ。」
民吉親子は、瀬戸村で、ずっと焼き物を作ってきた。ところが、瀬戸の焼き物は、九州有田の磁器と呼ばれる焼き物に押されて売れなくなり、ひどい不景気となった。吉左衛門は仕方なく、焼き物作りを長男に任せて、大勢の農民を募る熱田前新田(名古屋市港区)へ、二男の民吉と働きに来たのだった。新田を取り仕切る文左衛門は、二人のあまりに不慣れな百姓ぶりを見かねて、「ここで焼き物を」と声をかけたのだった。
「今日からまた焼き物作りができる。」
民吉の心の中に、明るい光が広がっていった。
文左衛門に教えられて、盃や小皿やはし立てなどを次々に焼きあげていった。しかし、あの固くてつやのあるみごとな細工の有田焼には、かなわなかった。
その年の暮れ、文左衛門が病でなくなり、二人はその後、息子の津金庄七の世話になって焼き物を作り続けた。
(早く有田焼のような焼き物が作りたい。)
二人は、借金をして磁器を焼くための丸窯(登り窯)を築いた。しかし、思うようにうまくいかなかった。
「やはり、有田へ行くしかない。」
津金庄七や瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門らと相談して、とうとう民吉が有田へ行き、技法を学んで来ることになった。しかし、有田ではその頃、技法は秘密でよそ者に教えることを固く禁じていた。秘密を知った者は、生きて帰れないと言われていた。下品野村で、村人にこっそり秘法を伝えていた有田の陶工副島勇七は、連れ戻されてうち首にあっていた。
(命がけの旅だ。だが、瀬戸村の焼き物のために役立つなら・・・)
文化元年(一八〇四)二月、民吉は、ついに九州へと旅立った。
九州・天草島(熊本県)には、さいわい菱野村(瀬戸市菱野町)出身の天中和尚がいた。和尚の計らいで、高浜村の窯場に住み込み、毎日、慣れない蹴ろくろで茶碗を作った。茶碗を作りながら、密かに土や釉薬や窯のことを探った。
半年後、民吉は平戸の三河内山(長崎県)の窯場に変わったが、働き始めて十日後「よそ者は留めおくことならぬ。」ときびしいお触れが届いて、すぐにそこを離れなければならなかった。
十二月も暮れになって、やっと平戸・佐々浦の福本仁左衛門の窯場で働くことになった。
(よかった。ようやく落ち着いて働ける。早くいろいろ覚えねば・・・)
民吉は夢中で働いた。
仁左衛門には、「さき」という娘がいた。さきは働き者で窯場をよく手伝った。
「民吉さんもお茶にしましょうよ。」
さきは、いつもやさしく声をかけてくれた。さきの入れてくれたお茶を飲みながら、民吉はよく格子窓の向こうの空をながめた。さきも、そっと民吉の横に座って、空を見つめた。
「よう働いてくれる。それにお前さんなかなか腕がいい。ちょうど人手が足りなくて困っておったところだ。本当に助かる。」
仁左衛門は、しだいに民吉を頼りにするようになった。
夏になって、仁左衛門は息子の小助とお伊勢参りに行くことになり、民吉に言った。
「留守中、窯場はお前さんに任せる。わからぬことはさきに聞いてくだされ。よろしく頼みますぞ。」
民吉はうれしかった。さきならきっといろいろと教えてくれるにちがいない。
「さきさん、土に混ぜている白い粉は石の粉だね。」
「そうよ。固い磁器を作るために、天草の陶石を混ぜるのよ。」
「色やつやを出すために、どんな釉薬をかけているんだい。」
「いす灰という灰よ。鮮やかなきれいな色がでるわ。」
民吉は、さきと一緒に調合した。それから二人で、たくさんの作品を窯詰めした。
いよいよ窯焚きの日がきた。
民吉は、さきや手伝いの人たちと薪を燃やし続けてついに、固くつやのある見事な磁器を焼きあげた。仁左衛門は大喜びだった。
「ようやった。今夜はみんなで祝おう。」
庭にござを敷いて、賑やかに飲んで歌い、踊った。月明りのきれいな夜だった。
「民吉さん、早くいっしょに踊りましょうよ。」
さきに誘われ、見よう見まねで手を上げ足を上げ・・・・。
星もきらきら輝いていた。
夢のように二年が過ぎて、民吉は、もう瀬戸村に帰らねばならなかった。
(さようなら。恩は一生忘れない。)
民吉の去って行った方を、さきはいつまでも見つめていた。
民吉は瀬戸村に帰り、学んできたことをみんなに伝えて、さらに工夫をと忙しい毎日を送っていた。いつしか十二年の歳月が流れた。
ある秋の夕暮れ、民吉の家の前に、一人の女の人と子どもが立っていた。
「あのー、おたのみ申します。ここに民吉さんという人はおられますか。平戸の佐々浦から参りましたさきと申します。
「そ、そんな人ここにおらんでよう。はよ帰りゃあ。」
家の人は決して民吉に会わせようとしなかった。それは、民吉が佐々浦へ連れ戻され、殺されるのではと恐れたからだった。
さきは、仕方なく、子どもを抱き寄せると、すがるような目で、振り返り振り返りしては、冷たい風の吹く中を去って行った。
瀬戸の「白と青との色鮮やかな染付焼」は、民吉たちによって完成され、日本中に評判が広まって、注文がたくさんくるようになった。瀬戸の人々は民吉を磁祖と敬い、毎年九月にせともの祭を催す。けれどきまって、祭りにはよく雨が降る。雨は佐々浦のさきの
「悲しみの涙が雨となって、せともの祭に降るそうだ。」
いつの頃からか、瀬戸の人々は、そう言うようになった。