龍眼池

りゅうがんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 応永(おうえい)二五年(一四一八)ごろ、赤津の村人たちや、雲興寺(うんこうじ)のお坊さんが、わけのわからない病(やまい)に悩んでいました。
 ある日、この寺のお尚(おしょう)の祖命禅師(そめいぜんじ)が朝のおつとめをしようとしていたときに、猿投大明神(さなげだいみょうじん)が現れました。そして
「この寺の土地は、龍の形をしているが、大切な眼がない。だから、病気が直らないのだ。」とつげて、さっと消えました。
 そこで、さっそくお尚は、そのことを村人たちに話し、龍の眼ににせて、参道(さんどう)の両側に池をほり、「龍眼池」と名付けました。
 不思議なことに、その後、人々の病はぴたりと直ったそうです。
 また、この池の名について、「両眼池」と呼ばれていたものが、後になって「龍眼池」と呼ばれるようになったのだとも言われています。

弥蔵観音の物語

やぞうかんのんのものがたり


伝承地 瀬戸市古瀬戸町・西拝戸町
 時代背景 天保2年(1831)3月27日亡の梅心妙量信女という人が、できもので苦しみ、「私が死んだら祀っておくれ。きっとなおしてやる。」という地元に残された伝説。
 末広町から瀬戸公園下の近くの宝泉寺(ほうせんじ)の前を通り、赤津へぬける昔からの道があります。赤津の手前に洞(ほら)というところがあって、そこに伝わるお話です。
 むかし、むかし、洞に一人ぐらしの女の人が住んでいました。なんとその女の人は、頭のてっぺんからつま先まで、できものだらけでした。畑仕事をするにも家の中の仕事をするにもかゆみといたさで、仕事もきちんとできませんでした。その女の人は、どうしても直したくて、近くのお宮へ何度も何度もお参りしたり、できものがよくなるといううわさがある遠くのお宮へも行ってみたり、薬草をせんじて飲んでみたりしましたが、いっこうに良くなる様子がありません。自分の体じゅうにできたできものを見ては、悲しくなっていました。
 いろいろやってみてもどうしても直らないので、とうとう直すことをあきらめてしまいました。
「できもので悩むのはわたし一人でたくさんだ。わたしが死んだら、できもので困っている人の身代りになり、直してあげよう。」 そして村の人たちに会うたびに、
「わたしが死んだら村はずれの山の上に埋め、祀(まつ)ってくれ。できもので悩む人を救ってやるぞ。」と、口ぐせのように言っていました。
 女の人は、一人暮らしのまま、とうとう死んでしまいました。死ぬまぎわにも、
「わしを祀ってくれ。たのみます。」と、言い残して死んでいったそうです。ところが、村の人たちは女の人に身よりもなく、また貧乏だったので村のお墓に埋めておいただけでした。
 さて、女の人が死んで二・三日たつと、できものが村の人たちにできはじめました。そして、一人、二人とふえ続け、十日もたたぬまに村の人々全部にできものができてしまいました。お宮に参っても、薬をぬっても全くなおりません。とうとう、
「あの女のたたりじゃ。山の上に埋めて、祀ってやらなかったばちじゃ。」と、みんなが言い出しました。
 そこで、村中で、村はずれの山の上にほこらを作って祀ることにしました。すると、どうでしょう。祀ったその夜から一人づつできものが直っていくではありませんか。
 それからというもの、村では、できものができると、山のほこらへ行っておまいりするとすぐ直るため、手厚くいつまでもまつり続けました。おまけに、できものばかりか、腹いたにきくといううわさが広がり、できもの、腹いたで悩む人たちから、大変喜ばれました。
 このほこらに祀ってあるのが、弥蔵観音です。

品野祗園祭り

しなのぎおんまつり


毎年7月16日、下品野地区で行われる祭りである。下品野の町の国道沿いに南の方から、火の見下の社のあたりまでの家々の軒下に、意匠をこらした絵や書のかかれた祭提ちんが立並ぶ。提ちんに火の入る頃、全宝寺の坂の方から、大提ちんを先導に、三段に屋形のついた、きれいに飾り立てられた山車が、威勢のよい町内の男衆に引かれてやってくる。山車の中からは祭ばやしの音が聞こえ、山車のうしろには、ゆかた姿の女衆が、踊りを披露しながら一団となってついてくる。この「祗園祭り」の本祠は、京都東山区祗園町に鎮座する八坂神社で、火の見下の社は、祗園感神院の改められたものである。古くは「祗園ご霊会」といい、疫神に祈って疫病からまぬがれる信仰から出ているといわれる。津島神社(尾張津島市)も天王まつりといって、三段のさおに提ちんがたくさん灯されただんじりを船にのせる宵祭りが行われるが、下品野の祭司の方が、前日までに、津島神社から御神符を受けてこられ、祀っているのである。

山行き

やまいき


瀬戸では昔から火の神として秋葉大権現、土の神として山の神が祭られている。山の神については、古記録についてもあまり見られていないが、やきものの土を恵んでいただく有難い神として崇められるという極めて単純な発想からであろう。山の神の祭りは11月中旬頃、その日は職人衆は半日働いて午後から休むとか、或いは前日に仕事をやり越して、祭り当日は丸1日休むといったように、公認で仕事を休み、山の神詣出をする小型のレジャーを山行きと呼ぶようになった。山の神の祭に詣でなくても、慰安旅行をいつの間にか山行きと呼ぶようになり、近年では宿泊付の大型旅行が山行きと呼ばれている。山の神は山の中腹や、草花が生い繁った山の頂に、ひっそりと祭られていた。祭りの前日には、見習い職人達が自分の作った作品をそっと神様の前にお供えする。すると翌日親方の職人や窯主が審査して、見習いから職人に抜擢する人材登用の場でもあった。昔の山行きは信仰レジャーと技術上達の祈りをこめた祭礼であった。

性空祭

しょうくうさい


毎年4月24・25両日にわたって、雲興寺で行われる祭。盗難よけ、交通安全のお札を求めるお参りの人で賑わう。由来は、今から約600年ほど前、2代天先祖命禅師のとき、夜毎に山の悪鬼が里人を苦しめ殺した。深夜、盤の上で座禅をくみ「その広大な慈悲により我が業報告を解いて救い給え」と頼み悪鬼に般若経の無性法の義を授け「性空」と名付けた。仏法報恩の誠を尽くそうと、性空は禅師の前で「将来当山盗難鎮護の守護神たらん」と誓い、盤石を残してその姿を消したという。

名士七福神行列

めいししちふくじんぎょうれつ


初えびすの瀬戸名士七福神行列。深川神社の境内末社の初えびすは、毎年正月5日に祭典が挙げられ、近年は参詣者も激増して年々盛大になってきた。とりわけ大瀬戸新聞社がこの祭に協賛して1954年(昭和29年)以来とり行っている「瀬戸名士七福神行列」は、近郷近在まで評判になり、年頭の行事化して、一風変ったお祭として広く知られてきた。最初の年の七福神について瀬戸の名士にそれぞれ白羽の矢を立てて交渉したが、七福神に扮装して街頭を練るというので、オイソレとは承諾してもらえなかった。当時の瀬戸市警察長(署長)の柴田源治氏が、体重堂々28貫の太鼓腹の持主で、布袋そっくりの体?だったので、公安委員の河本礫亭氏はもちろんのこと、警察署長の引っ張り出しにも成功した。名士の扮装の役割は、お祭の当日、出発点の石神神社の社務所に集合して協議の上で決定するもので、弁財天の外は誰がどの神になるのか判っていない。大瀬戸新聞社では前年の暮から「誰が何になるか」の懸賞予想投票を募るので、年末年始にかけて、この話題で持ち切りになる。いよいよ正月5日の初えびすの当日になると、行列は石神神社から末広町を西進し、市役所前から蔵所橋を渡って朝日町を東へ、宮前から深川神社に入り、拝殿で厳かに祈?を行うのである。途中で福の神の家に入って小憩し、道中は楽人の奏でる雅楽も床しく静々と練り込むのであるが、沿道は黒山の人出となり、誰がどんな風に扮装するかを見たい人、七福神に触って福運を授かりたい人など、物凄いまでの賑わいとなる。

曽野のお稲荷さん

そののおいなりさん


伝承地 瀬戸市曽野町
 時代背景 文化14年(1817)、盛淳上人が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。
 お稲荷さんといえば、初午。初午といえば曽野のお稲荷さんと、昔からお参りする人が絶えません。
江戸時代の終わりごろ(一八一七年ごろ)のある春の夕暮れのことです※1。
 上水野村の曽野の山道を、一人のお坊さんがつかれた足取りで歩いていました。この坊さんは、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)(稲荷総本山宮、愛染寺別当盛淳上人)といい、山城の国の愛染寺(あいぜんじ)というお寺の身分の高いお坊さんで、修行のため全国を旅している途中でした。春になったとはいっても、日が沈むと寒さがまだ身にしみます。あたりには、人の住む家らしい家もなく、今夜の宿をどこにしようかと困っていると、荒れはてた田んぼの中に、ふと一軒(いっけん)の粗末(そまつ)な小屋らしいものが目にとまりました。そこからは、かすかに明りらしいものがもれています。
 さっそく、むしろ戸(わらで編(あ)んだむしろが入口の戸のかわりに付けてあることをいう。貧しい家の様子を表す。)をたたき、泊(と)めてくれるようにたのむと、その家の主人はこころよく引き受けてくれました。そして、主人といろいろ世の中の話をしていると、となりの部屋から女の人のすすり泣く声が聞こえてきました。上人は不思議に思って、
「あの泣き声は?」と、たずねると、主人は、
「よく聞いてくださいました。実(じつ)は、ずい分前からこの里に年とった白いきつねがあらわれ、村人を苦しめて困っております。そのため、くるい死にする人がでたり、きつねのたたりを恐れて、村を離れる人が多く、里がさびれてしまいました。家のかみさんもそのきつねにつかれて苦しんでいるのでございます。わたしも、どうしたらよいのか分からず、困っているところです。何とか助けていただけないものでしょうか。」
と、涙を流してたのみました。それを聞いて、
「そうでしたか。それならば、わたしが日ごろ尊敬している神様のお力によって、助けてあげましょう。」
と、言って西の方を向き、両手の指をむすんでじゅ文をとなえました。
 すると、不思議なことに、それまで苦しんでいたおかみさんは、悪い夢からさめたようにおだやかな顔になり、安心して眠りにつきました。
それを見て、主人は大変喜び、
「ああ、ありがたいことです。ぜひ、あなた様の守り神をわたしどもの里へも、おまつりさせてください。」
と、たのんで、上人がおつかえしていた山城の国の田中の社から、神様を分けてもらい、曽野の山の上にまつりました。
 それからというもの、白いきつねも、ぱったりと出なくなり、里の人たちも安心して暮らせるようになりました。
 このお宮さんが「曽野のお稲荷さん」で、毎年旧暦の二月の初午の日には、このあたりの人々をはじめ、遠くからも大ぜいの人がお参りに集まり、盛大なおまつりが行われています。
※1 文化14年(1817)、盛淳が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。梶田義賢著「曽野稲荷大明神縁起記」

立石

たていし


伝承地 瀬戸市?町
 時代背景 慶長年間(1596-1615)、名古屋築城は慶長15年(1610)。
 水野立石(あるいは、屹立石(きりついし)ともいいます)という石が、むかし、中水野の感応寺の近くにありました。
 この石は、もと小金山(おがねさん)のほら穴の中にあり、高さ一??余り(三・三メートル)のみごとなものでした。
 慶長年間(四〇〇年前)※1、名古屋所城をつくるときに、石だたみ用として、役人や村人が、ほら穴から持ち出しました。
 この石を、中水野村まで運んできたとき、不思議にもにわかに重くなり、びくとも動かなくなりました。役人や、村人たちは困ってしまい、みんなでいろいろ話し合いました。
「これは、感応寺の観音さまが、石を持ち出すのを、おしまれたからじゃろう。」とい声があがりました。これには、
「なるほど。そうかもしれん。」と、うなずく者も多く、とうとうそこに置くことになりました。
 しかし、宝暦(ほうれき)のはじめ(二二〇年前※2)、大洪水がおこり、この石は倒れ、山崩れで土の中に埋まってしまいました。
 今では、名前こそ残っていますが、もうこの石を見ることはできません。
※1 「(四〇〇年前)」
慶長年間(1596-1615)、名古屋築城は慶長15年(1610)。
※2 「二六〇年前」
宝暦の洪水 宝暦3年(1753)の木曽三川の洪水

ちゃぼ

ちゃぼ


伝承地 瀬戸市三沢町
時代背景 戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が一色山城に居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられる。
 金鶏伝説(きんけいでんせつ)は、山や塚に埋められた金鶏が、多くは元旦に鳴くという伝説で、このような伝説は日本全国各地に数多く伝えられている。

 むかし、水野村の一色(いっしき)山に立派(りっぱ)な、美しいお城がありました。このお城の名前は、一色城と言い、またの名を城ヶ(しろが)嶺(ね)城とも、五万石(ごまんごく)城とも言って、村人たちの自慢(じまん)の城でした。この城は、左近(さこん)という殿様(とのさま)のお城でした。
殿様は、朝と夕方になると、お城の庭(にわ)に出て、東谷山(とうごくさん)や水野川の両わきに広がる田んぼをながめ、農家の人たちの働(はたら)く姿(すがた)を見るのをとても楽しみにしておりました。そして碁(ご)がとても好(す)きでした。今日も、近くの感応寺(かんのうてら)へ行って、お尚(しょう)さんとのんびり碁をうっておりました。
 春の日差しが部屋まで入り込み、とても気持ちのよい昼下がりで、むすめの倶姫(ともひめ)のことやいろいろ話をしながら碁を楽しんでいる最中に、家来(けらい)の者があわててかけ込み、
「お殿様、大変(たいへん)でございます。今、お城が攻(せ)められております。お急(いそ)ぎください。」と知らせました。でも、殿様はゆうゆうとして、
「何を言う。白は、こちらが先手(せんて)じゃ。」と、少しもあわてませんでした。碁に熱中のあまりお城のことなど、頭にありませんでした。碁が終わってから、城に帰ってみると大変でした。品野の落合城の侍(さむらい)たちが城を攻(せ)め落とした後でした。殿様は、
「ひきょう者め、わしが留守(るす)の間に城を攻め落とすとは、わしが追っかけて逆(ぎゃく)に滅ぼしてやる。」というなり、一人で追いかけました。余(よ)床(どこ)まで追って、敵に追いつきました。
「わしは、一色城主 左近だ。」と、名のり、勇(いさ)ましく戦(たたか)いましたが、相手は大変(だいへん)な数で、ついになすすべもなく敗(やぶ)れてしまいました。
 この悲しい知らせを聞いた一人娘の倶姫は、大変悲しみました。姫は、日ごろお父さんをしたっていたので、自分ももう生きてはおれないと小さな胸を痛(いた)めました。殿様が大切にして床の間にかざっていたちゃぼをしっかり抱(だ)いて火でくすぶっている城のうらに出ました。そして、姫はちゃぼを抱いたまま、井戸(いど)へ若い身を投げて死んでしまいました。その日は、一月一日の明け方でした。
 その後、一月一日になると不思議なことに一色山の頂上から、姫をなぐさめるかのように、「コケコッコー」というちゃぼの美しい声が周辺の山々に、そして村々に聞こえるようになったそうです。
⇒ 「一色山城(水野城)」の項参照

長命井

ちょうめいせい


伝承地 瀬戸市本地地区?
 時代背景 清州城と信長 弘治元年(1555)、信秀の後を継いでいた信長は、一族の織田信友を滅ぼして那古野城から清州城に移った。信長は桶狭間の戦い(永禄3年(1560))に出陣したのは清州城からである。
 むかし、本地の植田に尼寺(あまでら)があり、この寺の水は、尼さんがいつも水をくんで使い、代々長生きをしたそうです。その中で、隋円(ずいえん)という尼さんは、一三六歳まで生きたということです。そのようなわけで、だれ言うともなく、この井戸の水を飲む者は必ず長生きをするということで、長命井と名付けられたそうです。
 この井戸のことを、このあたりのお年寄りに聞いてみたら、次のような言い伝えを話してくれました。
 今からおよそ四〇〇年ほど前※1、この長命井のうわさを耳にした清州(きよす)のお殿様は、長く生きようとおもったのでしょうか、
「本地というところへ行けば、長命を保つという井戸があるそうだ。そのいわれのある水をくんでまいれ。」と、言いつけました。
 家来はさっそく、その水をくみに出かけて行きました。
 こんこんとわき出る水をひょうたんにくみ、腰にぶら下げて急いで帰りました。何のはずみか、早く届けようとして、そそうし、その水をこぼしてしまいました。
 皮肉なことに、この水はとうとう清州城へ届かず、信長の口には入らなかったということです。
 なお、この隋円の用いた茶釜や、その当時祀ってあったという薬師如来(やくしにょらい)は、本地の海雲山正覚寺(かいうんざんしょうかくじ)にあると、言い伝えられていたが、今ははっきりしていません。
 長命井の跡がなくて残念ですが、もし、昔のままであったなら、興味深いものです。しかし、つくりかえられた井戸が、今でも水をたたえています。
※1 「今からおよそ四五〇年前」