山行き

やまいき


瀬戸では昔から火の神として秋葉大権現、土の神として山の神が祭られている。山の神については、古記録についてもあまり見られていないが、やきものの土を恵んでいただく有難い神として崇められるという極めて単純な発想からであろう。山の神の祭りは11月中旬頃、その日は職人衆は半日働いて午後から休むとか、或いは前日に仕事をやり越して、祭り当日は丸1日休むといったように、公認で仕事を休み、山の神詣出をする小型のレジャーを山行きと呼ぶようになった。山の神の祭に詣でなくても、慰安旅行をいつの間にか山行きと呼ぶようになり、近年では宿泊付の大型旅行が山行きと呼ばれている。山の神は山の中腹や、草花が生い繁った山の頂に、ひっそりと祭られていた。祭りの前日には、見習い職人達が自分の作った作品をそっと神様の前にお供えする。すると翌日親方の職人や窯主が審査して、見習いから職人に抜擢する人材登用の場でもあった。昔の山行きは信仰レジャーと技術上達の祈りをこめた祭礼であった。

性空祭

しょうくうさい


毎年4月24・25両日にわたって、雲興寺で行われる祭。盗難よけ、交通安全のお札を求めるお参りの人で賑わう。由来は、今から約600年ほど前、2代天先祖命禅師のとき、夜毎に山の悪鬼が里人を苦しめ殺した。深夜、盤の上で座禅をくみ「その広大な慈悲により我が業報告を解いて救い給え」と頼み悪鬼に般若経の無性法の義を授け「性空」と名付けた。仏法報恩の誠を尽くそうと、性空は禅師の前で「将来当山盗難鎮護の守護神たらん」と誓い、盤石を残してその姿を消したという。

名士七福神行列

めいししちふくじんぎょうれつ


初えびすの瀬戸名士七福神行列。深川神社の境内末社の初えびすは、毎年正月5日に祭典が挙げられ、近年は参詣者も激増して年々盛大になってきた。とりわけ大瀬戸新聞社がこの祭に協賛して1954年(昭和29年)以来とり行っている「瀬戸名士七福神行列」は、近郷近在まで評判になり、年頭の行事化して、一風変ったお祭として広く知られてきた。最初の年の七福神について瀬戸の名士にそれぞれ白羽の矢を立てて交渉したが、七福神に扮装して街頭を練るというので、オイソレとは承諾してもらえなかった。当時の瀬戸市警察長(署長)の柴田源治氏が、体重堂々28貫の太鼓腹の持主で、布袋そっくりの体?だったので、公安委員の河本礫亭氏はもちろんのこと、警察署長の引っ張り出しにも成功した。名士の扮装の役割は、お祭の当日、出発点の石神神社の社務所に集合して協議の上で決定するもので、弁財天の外は誰がどの神になるのか判っていない。大瀬戸新聞社では前年の暮から「誰が何になるか」の懸賞予想投票を募るので、年末年始にかけて、この話題で持ち切りになる。いよいよ正月5日の初えびすの当日になると、行列は石神神社から末広町を西進し、市役所前から蔵所橋を渡って朝日町を東へ、宮前から深川神社に入り、拝殿で厳かに祈?を行うのである。途中で福の神の家に入って小憩し、道中は楽人の奏でる雅楽も床しく静々と練り込むのであるが、沿道は黒山の人出となり、誰がどんな風に扮装するかを見たい人、七福神に触って福運を授かりたい人など、物凄いまでの賑わいとなる。

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。 

山口の警固祭り

やまぐちのけいごまつり


「警固」とは、一般的にはオマントと呼ばれる飾り馬と、山口地区では神社へ奉納する際、その護衛につく「棒の手」と「鉄砲隊」をも含めた総称。由来は、飾り馬を寺社へ一日だけ奉納する行事で、農耕や慶事に対する祈願やお礼参りから発展したものとされ、江戸時代にいくつものムラが連合した「合宿」が始まりといわれている。山口の警固は、古文書によれば1862年(文久2)には「合宿」への参加が確認され、現在では、毎年10月の第2に津曜日に郷祭りとして行われている。

郷社祭り

ごうしゃまつり


山口の八幡社は郷社の地位にあり、菱野、本地の他、現・長久手市の上郷地区(前熊、大草、北熊)の各ムラから飾り馬を奉納する習わしがあった。これを郷社祭りと呼んでいる。菱野郷倉文書によれば、明治14年(1881)、山口村祭礼係が菱野、本地、井田、瀬戸川、狩宿、今村に対し、猿投合宿の休年を連絡するのと合せて、「当年初テ氏神祭礼、猿投祭礼同格ニて相勤申度候」と知らせている。八幡社の祭礼が郷社祭りとして行われるようになったのはこの時からであろう。最近では平成25年(2013)6月に開催された。

がくの洞の雨乞い

がくのほらのあまごい


伝承地 瀬戸市鳥原町
 瀬戸の北東には、町を見おろすように、三国山とそれに連なる山々があります。その山すそに、四季おりおりのすばらしい自然美を見せてくれる岩屋堂があります。夏にはここにあるプールで、子どもたちが泳ぎ回り、その歓声があたりのセミの鳴き声をかき消すほどです。
 このプールの上を山あいの渓谷にそって行くと、地なりを思わせる大きな音におどろかされます。鳥原川の清流を、岩がせきとめて作った滝があり、清流が滝から落ちる音です。
 このあたりには、いくつもの滝があって、「岩屋七滝」と呼ばれています。その岩屋七滝の一つが、「めおとたき」と呼ばれています。そして、この滝の滝つぼのことを「がくの洞(ほら)」と呼んでいます。
 この洞の主は、「龍神(りゅうじん)さま」で、雨を降らせる神様だということです。
 鳥原川から、田や畑の水をひいている品野の人たちは、日照りが続くと代表者を立て、その人と岩屋堂の入口にある浄源寺の住職とで、雨乞いをするそうです。
 雨乞いのしかたは、代表者と住職とが、水で身体を清めたうえ、幣束(へいそく)を持って、滝の近くの洞穴の龍神さまに祈ります。祈りがすむと、滝のところへ行き、願いごとをとなえながら、手にした幣束を、がくの洞へ投げ込みます。そのとく、滝つぼの水が渦を巻きながら幣束を巻き込んでしまえば、願いどおり必ず雨が降るといわれています。

菱野のおでくさん

ひしののおでくさん


伝承地 瀬戸市菱野地区
 時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
 天(てん)正(しょう)十二年、今から約四百年ほど前のお話です。
 徳川(とくがわ)方と豊臣(とよとみ)方が長久手(ながくて)で戦った時のことです。
 徳川方に敗れ、負けいくさになった豊臣方の総大将池田勝(しょう)入(にゅう)信(のぶ)輝(てる)の家臣梶(かじ)田(た)甚五郎(じんごろう)直(なお)政(まさ)は、ひどい傷(きず)を負い、ようやく菱(ひし)野(の)までたどり着きましたが、もう動くこともできなくなっていました。
 そこで村人に、
「わたしは猿投(さなげ)山に行きたいが、とうていこの体ではむりだ。」
と、苦しい息の下から、
「わたしの命もこれまで。だれか早く介錯(かいしゃく)して葬(ほうむ)ってはくれまいか。」
と、たのみました。
 しかし、後のたたりを恐れてだれ一人手を出す人はいませんでした。
 そうしている間に甚五郎は、その場で息をひきとってしまいました。
 村人はあわれに思って、千寿寺(せんじゅじ)の覚(かく)心(しん)和尚(おしょう)にこのことを話し、手厚く葬ってもらいました。しかし、そのときに馬の鞍(くら)の下にあった小判三十枚を、みんなで分けて持ち帰ってしまいました。
 それ以来、菱野に悪い病気がはやって若者がつぎつぎに亡くなったり、米や野菜などの農作物がとれなくなってしまいました。
 困り果てた村人が、占(うらな)い師に相談すると、
「以前この土地で若武者が一人亡くなっている。そのとき、若武者が持っていた小判を持ち去って後、法要も何もしていないので、そのたたりじゃ。」
というお告げがあったそうです。
 驚いた村人たちは、さっそく法要をして、いろいろ相談した結果、猿投山に行きたいと言っていた甚五郎の姿を馬印(うまじるし)に猿投神社の祭礼(さいれい)に奉納(ほうのう)しようということに話が決まりました。
 それ以来、猿投祭りには甚五郎の姿の人形を乗せた馬が奉納されました。すると、不思議に今まではやっていた病気もうそのように治まり、米もとれるようになったということです。
 その後、菱野近くの赤(あか)重(しげ)に梶田甚五郎のお宮を建てて、梶田神社としてお祀りしました。
今でも菱野熊野社の祭礼には、梶田甚五郎直政の姿の木偶(でく)(人形)を乗せた馬が奉納され、盛大に祭りが行われています。

首無し地蔵

くびなしじぞう


伝承地 瀬戸市石田町
 時代背景 天和年間(1681~1684)の村八合の大水
 それはそれは、むかしのことです。
 ひとりの立派な身なりをしたお侍(さむらい)さまが殺されて、首を持って行かれてしまいました。
 あわれに思った村人たちが、首のない小さなお地蔵さんを作っておまつりしていましたが、いつの間にか、お地蔵さんの姿も見えなくなり、すっかり忘れられていました。
 それから、何十年たったでしょうか。
 天和(てんな)(一六八一年~一六八四年)のむかし、村八合といわれる大水がありました。降りつづく雨に川の堤防が切れて、村の家や橋などは、見る見るうちに流されてしまいました。川の北側の田んぼは石と砂で埋まって川原のようになってしまい、その上たくさんの死者が出たということです。
 やがて、雨がやんで水が引くと村の人たちは、土砂に埋まった田んぼを見回りに出かけました。
 すると、がれきの中に石のお地蔵さんが埋(う)まっているではありませんか。さっそく堀出してみると、そのお地蔵さんには首がありませんでした。
「そうだ、むかし首のないお地蔵さんがあったということだが、そのお地蔵さんにちがいない。あのおそろしい大水に流されずに、よう無事だった。かわいそうなお地蔵さん。さっそく供養(くよう)しなければ・・・。」
と、みんなで相談して田んぼのすみにお祀(まつ)りしました。
 その頃、このあたりは、あまり米がとれなくて、赤ん坊が生まれても母親の乳が出ず、よく死んでしまったそうです。そんなときに、ある母親がこのお地蔵さんに、
「どうか乳がよく出ますように。赤ん坊が助かりますように。」
とお願いすると、不思議に乳が出るようになり、赤ん坊がすくすく育ったそうです。
 それからというものは、
「このお地蔵さんにお願い事をすると、何でも聞いてくださる。」
というので、そのうわさがあちこちに広まって、遠いところからもお参りに来る人がだんだん多くなり、今でも線香の煙がたえません。
 そして、だれ言うことなく、
「白い布で作った乳房をお地蔵さんの肩にかけて、お供えした白米の半分を家に持ち帰り、七日間おかゆを作って食べると母乳がよく出る。」
というようになりました。そして、
「願い事を何でも聞いてくださるお地蔵さんに首がないのは、かわいそうだ。」
と、村の人たちが川原で丸い石を探して首を作ってあげたそうです。

猿のミイラ

さるのみいら


伝承地 瀬戸市駒前町
 時代背景 天保年間(1830年~1844年)
 むかし、天保(てんぽう)のころ(江戸時代末期(まっき)、一八三〇年~一八四四年)、瀬戸本地(ほんじ)村に、菱野から名古屋に通じる松並木(まつなみき)の街道(かいどう)がありました。ときどき松並木の上や、街道筋で猿が遊んでいるのを見かけたそうです。その付近に壷井(つぼい)左内(さない)というお医者(いしゃ)さまがいました。
 酒好きで知られる左内は、毎日のように居酒屋(いざかや)や家で酒を飲み赤い顔をして、よろよろとして街道を歩いておりました。
「左内先生、猿から酒をもらったそうな。」
と、村人たちがうわさをしていましたが、どうして猿から酒をもらったかはわかりません。
 そんなある夜ふけ、左内の表(おもて)戸(ど)を軽(かる)くたたくものがありました。出てみると、猿が立っていて、いろいろ身(み)振(ぶ)り手振(てぶ)りをします。どうも腹痛(ふくつう)のようなので、薬草(やくそう)を飲ませて帰しました。
 数日後の夜ふけ、すっかり元気になった猿の夫婦が、お礼に一升(いっしょう)どっくりに自分で作った「さる酒」をつめて持って来たのでした。
 その後も、たびたび左内を訪ねては治療(ちりょう)してもらい、酒をお礼に持ってきましたが、この夫婦の猿もしばらくして姿が見えなくなり、人々の記憶(きおく)から消えていました。
 しかし、それからずっと後になって(昭和三〇年ごろ)、本地村のお百姓さんたちは、田植えを終わり、田の雑草を抜くまでの合間(あいま)を利用して、宝生寺(ほうしょうじ)本堂(ほんどう)の屋根のふき替えを行いまし。
住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)の話し合いで、かやぶきの屋根を瓦にかえることになりました。
 檀家総出で、草屋根をめくっていくと、屋根裏と天井(てんじょう)の間に、ほこりやワラにまじって、何かがひそんでいるようでした。近寄ってみると、二匹の猿が抱(だ)き合うように座(すわ)っており、ミイラ化していました。この寺の本尊(ほんぞん)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)でしたが、別に庚申(こうしん)像(ぞう)も祀ってありました。猿のミイラは、この庚申像の天井あたりで発見されたので、村人の驚(おどろ)きは一層(いっそう)大きかったのです。
 猿は庚申のお使いものといわれ、宝生寺の庚申像のひざ元には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三びきの猿の像が置かれていたのです。
 檀家のお年寄りの間には、天保年間の左内医者と猿の話を思い出す者がいて、
「あのときの猿に違いない。あのときの猿は庚申さまの使いだったのだ。」
と、驚き、思わず手を合わせる村人もいました。
 発見の様子(ようす)から、庚申像を祀った本堂の屋根裏で死に、残った一ぴきは、その死体をだいたまま、何も食べずに命をたったものと思われます。一ぴきはミイラ化した姿で、もう一ぴきはやや腐敗(ふはい)した形で見つかったからです。
 人々は、二つのミイラから、猿の愛情がこまやかで、かえって賢(かしこ)いはずの人間の方が見習わなくてはと話し合って、おおいに反省したとのことです。