山口の警固祭り

やまぐちのけいごまつり


「警固」とは、一般的にはオマントと呼ばれる飾り馬と、山口地区では神社へ奉納する際、その護衛につく「棒の手」と「鉄砲隊」をも含めた総称。由来は、飾り馬を寺社へ一日だけ奉納する行事で、農耕や慶事に対する祈願やお礼参りから発展したものとされ、江戸時代にいくつものムラが連合した「合宿」が始まりといわれている。山口の警固は、古文書によれば1862年(文久2)には「合宿」への参加が確認され、現在では、毎年10月の第2に津曜日に郷祭りとして行われている。

郷社祭り

ごうしゃまつり


山口の八幡社は郷社の地位にあり、菱野、本地の他、現・長久手市の上郷地区(前熊、大草、北熊)の各ムラから飾り馬を奉納する習わしがあった。これを郷社祭りと呼んでいる。菱野郷倉文書によれば、明治14年(1881)、山口村祭礼係が菱野、本地、井田、瀬戸川、狩宿、今村に対し、猿投合宿の休年を連絡するのと合せて、「当年初テ氏神祭礼、猿投祭礼同格ニて相勤申度候」と知らせている。八幡社の祭礼が郷社祭りとして行われるようになったのはこの時からであろう。最近では平成25年(2013)6月に開催された。

品野祗園祭り

しなのぎおんまつり


毎年7月16日、下品野地区で行われる祭りである。下品野の町の国道沿いに南の方から、火の見下の社のあたりまでの家々の軒下に、意匠をこらした絵や書のかかれた祭提ちんが立並ぶ。提ちんに火の入る頃、全宝寺の坂の方から、大提ちんを先導に、三段に屋形のついた、きれいに飾り立てられた山車が、威勢のよい町内の男衆に引かれてやってくる。山車の中からは祭ばやしの音が聞こえ、山車のうしろには、ゆかた姿の女衆が、踊りを披露しながら一団となってついてくる。この「祗園祭り」の本祠は、京都東山区祗園町に鎮座する八坂神社で、火の見下の社は、祗園感神院の改められたものである。古くは「祗園ご霊会」といい、疫神に祈って疫病からまぬがれる信仰から出ているといわれる。津島神社(尾張津島市)も天王まつりといって、三段のさおに提ちんがたくさん灯されただんじりを船にのせる宵祭りが行われるが、下品野の祭司の方が、前日までに、津島神社から御神符を受けてこられ、祀っているのである。

性空祭

しょうくうさい


毎年4月24・25両日にわたって、雲興寺で行われる祭。盗難よけ、交通安全のお札を求めるお参りの人で賑わう。由来は、今から約600年ほど前、2代天先祖命禅師のとき、夜毎に山の悪鬼が里人を苦しめ殺した。深夜、盤の上で座禅をくみ「その広大な慈悲により我が業報告を解いて救い給え」と頼み悪鬼に般若経の無性法の義を授け「性空」と名付けた。仏法報恩の誠を尽くそうと、性空は禅師の前で「将来当山盗難鎮護の守護神たらん」と誓い、盤石を残してその姿を消したという。

名士七福神行列

めいししちふくじんぎょうれつ


初えびすの瀬戸名士七福神行列。深川神社の境内末社の初えびすは、毎年正月5日に祭典が挙げられ、近年は参詣者も激増して年々盛大になってきた。とりわけ大瀬戸新聞社がこの祭に協賛して1954年(昭和29年)以来とり行っている「瀬戸名士七福神行列」は、近郷近在まで評判になり、年頭の行事化して、一風変ったお祭として広く知られてきた。最初の年の七福神について瀬戸の名士にそれぞれ白羽の矢を立てて交渉したが、七福神に扮装して街頭を練るというので、オイソレとは承諾してもらえなかった。当時の瀬戸市警察長(署長)の柴田源治氏が、体重堂々28貫の太鼓腹の持主で、布袋そっくりの体?だったので、公安委員の河本礫亭氏はもちろんのこと、警察署長の引っ張り出しにも成功した。名士の扮装の役割は、お祭の当日、出発点の石神神社の社務所に集合して協議の上で決定するもので、弁財天の外は誰がどの神になるのか判っていない。大瀬戸新聞社では前年の暮から「誰が何になるか」の懸賞予想投票を募るので、年末年始にかけて、この話題で持ち切りになる。いよいよ正月5日の初えびすの当日になると、行列は石神神社から末広町を西進し、市役所前から蔵所橋を渡って朝日町を東へ、宮前から深川神社に入り、拝殿で厳かに祈?を行うのである。途中で福の神の家に入って小憩し、道中は楽人の奏でる雅楽も床しく静々と練り込むのであるが、沿道は黒山の人出となり、誰がどんな風に扮装するかを見たい人、七福神に触って福運を授かりたい人など、物凄いまでの賑わいとなる。

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。