若杉 敬

わかすぎ けい


大正14年(1924)11月12日~昭和44年(1969)11月11月9日
東春日井郡旭村(現尾張旭市)に生まれ、昭和2年(1927)に瀬戸市に引っ越す。愛知県立窯業学校、愛知青年師範学校を卒業、水無瀬中学校を皮切りに瀬戸市内の中学校に勤務する。昭和31年(1956)に発足した「瀬戸孝土サークル」の会員となる。この頃から考古学に興味を持ち初め、熱心に古窯の調査を進めた。昭和36年(1961)、日本陶磁会瀬戸支部長北川勲との交流を得て、同会支部主催の古陶磁展の委員として活躍し、戸田紋平とともに古陶磁研究を始め、さらに本多静雄、赤塚幹也らの古窯研究者から指導を受け研究を深める。交通事故により43歳の若さで永眠した。昭和48年(1973)、『陶説』に投稿した論文、地方紙や雑誌に発表した随筆、発掘日誌を集録した遺稿集『古瀬戸孝』が谷口順三らにより風媒社から刊行された。

石田 武至

いしだ たけし


日展評議員。昭和7年(1932)に名古屋に生まれ、愛知県立瀬戸窯業高等学校を卒業後、父であり当時を代表する彫刻家であった石田清氏に師事し、彫刻家への道を歩む。昭和32年(1957)に日展初入選、昭和38年(1963)には日展で特選を受賞するなど、若い頃からその作品は高い評価を得ている。その後、日展の審査員、文部科学大臣表彰を受けるなど、日本を代表する彫刻家として活躍していく。
作品は、女性像が多いのが特徴で、女性の外観の美しさだけを表現するのではなく、その内面をも表現されており、そのシャープで洗練された彫刻表現は「石田彫刻」として独特なものとなっている。作品は多くのファンを有しており、ハワイや東京そして愛知県内など国内外各地に数多くの作品が設置されている。
平成16年(2004)まで、名古屋芸術大学の教授として後進の指導にあたる。

加藤 昭男

かとう あきお


 新制作協会会員。昭和2年(1927)に瀬戸に生まれる。父加藤華仙(鶴一)は陶土採掘・販売を生業としながら陶芸家としても帝展、文展等に出品しており、そういう環境の中で物心つく頃から粘土を身近な遊び道具として育った。愛知県立窯業学校、京都工業専門学校を卒業、昭和30年(1955)に東京芸術大学彫刻専攻科を修了。昭和49年(1974)中原悌二郎賞「月に飛ぶ」、同年長野市野外彫刻賞「母と子」、昭和57年(1982)高村光太郎大賞展優秀賞、平成14年(2002)円空大賞を受賞。瀬戸市美術館をはじめ全国にパブリックアートとして作品が設置される。平成26年に瀬戸市の依頼で「陶祖800年祭記念事業」を記念して「陶祖像」を制作、陶祖公園に設置された。
また、平成10年まで武蔵野美術大学彫刻科教授として後進の指導にあたる。

加藤 顕清

かとう けんせい


日本芸術院会員、日展常任理事、日本彫塑会会長、昭和41年(1966)11月11日歿。
明治27年(1894)12月19日生まれ。両親は岐阜県出身で、北海道に移住して間もなく生まれ(本名鬼頭太)、幼少年時代を過ごした。上京して大正4年(1915)東京美術学校彫刻科に入学、高村光雲教授、白井雨山教授の教えを受ける。同9年(1922)3月同科塑造部本科を卒業、12年同研究科を修業した。引続いて西洋画科本科に再入学して、藤島武二教授、長原孝太郎教授の教を受け、油絵を修め昭和3年(1928)3月卒業した。彫刻科在学中の大正10年第3回帝展に「静寂」が初入選し、以後毎年入選した。昭和3年第9回帝展で「女人像」が特選に挙げられ、第10回「群像」・11回「立像」と連続して特選を受賞した。その後長年に亙って、帝展、文展、日展等の審査員をつとめるなど、終始官展系の有力作家として活躍し、また後進の指導育成に尽した。
窯神神社境内に磁祖加藤民吉翁の銅像及び頌徳碑を建設し、永久に翁の遺業を伝え、益々の陶磁器の発展に資せんと陶磁器関係者が中心となって発起し、その銅像の製作者には加藤顕清に依頼した。昭和12年(1937)9月のせともの祭当日、盛大に竣工式が行われた。また、終戦直後、西古瀬戸町にあった「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」の所長を務めるなど、沼田一雅、笠置季雄、赤塚幹也らと共に陶彫を中心として多くの作家が集う半工半農の工芸家村建設構想の推進に携わった。

亀谷 政代司

かめたに まさよし


日展会員、 日本彫刻会員、 筑波大学芸術学群彫塑領域非常勤講師、アトリエ・カメタニ代表。
昭和27年(1952)愛知県名古屋市に生まれる。昭和47年(1972)、長江録弥日本芸術院会員に師事。亀谷政代司の世界では奈良時代に栄えた漆の彫刻や土の風合を活かしたテラコッタ、金属固有の堅牢さを持つブロンズなど、様々な材質と技法により作品を製作、またテーマも、神話の世界からモチーフを得たり、動物たちの野性味や愛嬌のある一面などを捕らえ、多様な表情を追い求めている。昭和57年(1982)第11回「眠りの形態」、翌年12回日彫展「エヴァの日々」にて日彫賞受賞。昭和60年(1988)第17回「夢もう一杯」、昭和63年20回日展「The Man」にて特選受賞。平成9年(1997)第27回日彫展「ダナエ」にて西望賞を受賞。日彫展3回、日展3回の審査員をつとめる。
 また、全国の各寺院の依頼に応じて仏像を納仏しているが、九州博多区の聖福寺に阿弥陀如来・釈迦如来坐像等を納仏したことにより、平成21年(2009)には第百三十三世白峰宗慧老師より雲岫斎慧慶(うんしゅうさいえきょう)の大佛師号を拝受している。
また、後進の指導に当たる一方、公共施設等への作品の設置や、瀬戸市文化協会会長、公益財団法人瀬戸市文化振興財団理事などをとおして、文化・芸術の振興に努めている。

加藤 釥

かとう しょう


陶芸 鉄釉技法 愛知県指定工芸技術 1件
平成12年11月21日指定 平成13年8月17日解除(死亡)  
保持者 瀬戸市西窯町 加藤釥 昭和2年1月17日生 

 代々父祖の地赤津で陶業を守る家系に生まれた。昭和23年東京工芸大学専門部窯業科を卒業して帰郷、直ちに作陶活動に入った。昭和38年の日展初入選以来、各種公募展に数々受賞、昭和40年代以降は各種陶芸展・協会の審査委員、評議委員を歴任、多くの弟子や後輩を指導してきた。
 瀬戸は伝統的に灰釉系と鉄釉系の施釉陶器「古瀬戸」を墨守してきた。鉄釉系には原料の配合・鉄分の含有量・焼成具合等様々に発色する。氏は歴史ある鉄釉の奥深さに魅せられ、「無釉」から「蒼釉」、「白釉」、「刻文」に「金彩」と伝統の中に独自の鉄釉技法を大成し、金彩を施すという現代感覚に合った作品を生み出した。
平成9年に瀬戸市「陶芸 鉄釉技法」保持者として指定されている。 

加藤 英一

かとう えいいち


陶芸 掻落し技法 瀬戸市指定工芸技術1件
昭和62年4月18日指定 平成元年10月4日解除(死亡)
保持者 瀬戸市泉町 加藤英一 明治32年2月8日生

 掻落し技法は、中国の宋代に生まれた装飾技法の一つで、磁州窯で盛んに焼成された伝統技法である。保持者は長年に亘る研究と製作技術の研鑽により、赤土の素地に白色の化粧土を塗り、それを丹念に掻き落して文様を出す技法を完成させた。
 保持者は瀬戸の製陶業の家に生まれ、自然に陶芸の道を志す。後に藤井達吉に師事し、その人格にふれて陶芸のみならず人生面でも大きな影響を受けた。謙虚で端正な趣のある作品を作り出している。40数年に亘る掻落し技法の製作活動は、高度なロクロ技術とあいまって、創意工夫が加えられた優れた技法として高く評価されてきた。

黒田 政憲

くろだ まさのり


福岡県朝倉郡秋月町に生まれる。明治24年(1891)(明治20年(1887)?)、東京工業学校瑠璃破璃科(現東京工業大学)を卒業。明治33年(1897)兵庫県津名郡陶器学校長となり、次いで明治33年(1900)愛知県瀬戸陶器学校長、明治42年(1909)中国四川省成都中等工業学校に招かれた。明治44年(1911)佐賀県立有田工業学校長となり、大正3年(1914)佐賀県技師を兼ねた。
東京工業学校時代にワグネル博士に石炭窯の焼き方の指導を受けたことを基に、瀬戸陶器学校内に石炭試験窯を作らせ、明治35年(1902)瀬戸地方で初めての石炭窯に火が入れられた。黒い石炭で白いやきものを焼く試みは無茶だと言われながら、瀬戸で最初に石炭窯を導入して実験を重ねたことは高く評価される。黒田の業績は後世にも残り、『愛知に輝く人々』の愛知県小中学校編の中で、あるいは瀬戸市内の小学校の社会科副読本にも紹介されている。
クロース・コーレマン『定量分析書』、ランゲニペック『陶器製造科学』等の訳書、瀬戸陶器学校長当時の執筆にかかる『実用製陶学』『瀬戸の陶業』などの好著があり、和文窯業書の普及に関しても多大の貢献をなした。

小山 冨士夫

こやま ふじお


明治33年(1900)3月24日~昭和50年(1975)10月7日
岡山県玉島郡上成村(現倉敷市)に生まれる。大正9年(1920)東京商科大学(現一橋大学)に入学、その後退学し社会主義思想に興味を持ち、カムチャッカで蟹工船に1年近く乗ったりもした。大正14年(1925)、瀬戸の陶芸家矢野陶々に弟子入りし人一倍働き技術を習得、小長曽窯跡をみたことが古窯発掘へ引き込む発端となる。昭和7年(1932)、東洋陶磁研究所研究員となり、研究誌『陶磁』の編集に携わるうちに学者への道を進むようになる。昭和21年(1946)日本陶磁協会が発足し理事に就任、昭和25年(1950)文化財保護委員会が発足し、同事務局美術工芸課、無形文化課に勤務し工芸の調査、文化財指定に携わった。昭和36年(1961)「永仁の壷」の重要文化財指定解除問題により、文化財保護委員を辞職。この事件で一切の公職から身を引いた。昭和39年(1964)から鎌倉の自宅で作陶を再開し、昭和47年(1972)には岐阜県土岐市に花の木窯を築窯した。昭和48年(1973)東洋陶磁学会が発足し、常任委員長に就任した。官職を退いた後も、著述や作陶で多忙を極めた。
日本を代表するやきもの産地の瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前・備前の六産地を「六古窯」の名称を提唱したのは小山冨士夫である。