加藤 釥

かとう しょう


陶芸 鉄釉技法 愛知県指定工芸技術 1件
平成12年11月21日指定 平成13年8月17日解除(死亡)  
保持者 瀬戸市西窯町 加藤釥 昭和2年1月17日生 

 代々父祖の地赤津で陶業を守る家系に生まれた。昭和23年東京工芸大学専門部窯業科を卒業して帰郷、直ちに作陶活動に入った。昭和38年の日展初入選以来、各種公募展に数々受賞、昭和40年代以降は各種陶芸展・協会の審査委員、評議委員を歴任、多くの弟子や後輩を指導してきた。
 瀬戸は伝統的に灰釉系と鉄釉系の施釉陶器「古瀬戸」を墨守してきた。鉄釉系には原料の配合・鉄分の含有量・焼成具合等様々に発色する。氏は歴史ある鉄釉の奥深さに魅せられ、「無釉」から「蒼釉」、「白釉」、「刻文」に「金彩」と伝統の中に独自の鉄釉技法を大成し、金彩を施すという現代感覚に合った作品を生み出した。
平成9年に瀬戸市「陶芸 鉄釉技法」保持者として指定されている。 

加藤 英一

かとう えいいち


陶芸 掻落し技法 瀬戸市指定工芸技術1件
昭和62年4月18日指定 平成元年10月4日解除(死亡)
保持者 瀬戸市泉町 加藤英一 明治32年2月8日生

 掻落し技法は、中国の宋代に生まれた装飾技法の一つで、磁州窯で盛んに焼成された伝統技法である。保持者は長年に亘る研究と製作技術の研鑽により、赤土の素地に白色の化粧土を塗り、それを丹念に掻き落して文様を出す技法を完成させた。
 保持者は瀬戸の製陶業の家に生まれ、自然に陶芸の道を志す。後に藤井達吉に師事し、その人格にふれて陶芸のみならず人生面でも大きな影響を受けた。謙虚で端正な趣のある作品を作り出している。40数年に亘る掻落し技法の製作活動は、高度なロクロ技術とあいまって、創意工夫が加えられた優れた技法として高く評価されてきた。

黒田 政憲

くろだ まさのり


福岡県朝倉郡秋月町に生まれる。明治24年(1891)(明治20年(1887)?)、東京工業学校瑠璃破璃科(現東京工業大学)を卒業。明治33年(1897)兵庫県津名郡陶器学校長となり、次いで明治33年(1900)愛知県瀬戸陶器学校長、明治42年(1909)中国四川省成都中等工業学校に招かれた。明治44年(1911)佐賀県立有田工業学校長となり、大正3年(1914)佐賀県技師を兼ねた。
東京工業学校時代にワグネル博士に石炭窯の焼き方の指導を受けたことを基に、瀬戸陶器学校内に石炭試験窯を作らせ、明治35年(1902)瀬戸地方で初めての石炭窯に火が入れられた。黒い石炭で白いやきものを焼く試みは無茶だと言われながら、瀬戸で最初に石炭窯を導入して実験を重ねたことは高く評価される。黒田の業績は後世にも残り、『愛知に輝く人々』の愛知県小中学校編の中で、あるいは瀬戸市内の小学校の社会科副読本にも紹介されている。
クロース・コーレマン『定量分析書』、ランゲニペック『陶器製造科学』等の訳書、瀬戸陶器学校長当時の執筆にかかる『実用製陶学』『瀬戸の陶業』などの好著があり、和文窯業書の普及に関しても多大の貢献をなした。

小山 冨士夫

こやま ふじお


明治33年(1900)3月24日~昭和50年(1975)10月7日
岡山県玉島郡上成村(現倉敷市)に生まれる。大正9年(1920)東京商科大学(現一橋大学)に入学、その後退学し社会主義思想に興味を持ち、カムチャッカで蟹工船に1年近く乗ったりもした。大正14年(1925)、瀬戸の陶芸家矢野陶々に弟子入りし人一倍働き技術を習得、小長曽窯跡をみたことが古窯発掘へ引き込む発端となる。昭和7年(1932)、東洋陶磁研究所研究員となり、研究誌『陶磁』の編集に携わるうちに学者への道を進むようになる。昭和21年(1946)日本陶磁協会が発足し理事に就任、昭和25年(1950)文化財保護委員会が発足し、同事務局美術工芸課、無形文化課に勤務し工芸の調査、文化財指定に携わった。昭和36年(1961)「永仁の壷」の重要文化財指定解除問題により、文化財保護委員を辞職。この事件で一切の公職から身を引いた。昭和39年(1964)から鎌倉の自宅で作陶を再開し、昭和47年(1972)には岐阜県土岐市に花の木窯を築窯した。昭和48年(1973)東洋陶磁学会が発足し、常任委員長に就任した。官職を退いた後も、著述や作陶で多忙を極めた。
日本を代表するやきもの産地の瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前・備前の六産地を「六古窯」の名称を提唱したのは小山冨士夫である。

滝本 知二

たきもと ともじ


明治33年(1900)~昭和51年(1976)7月22日
岡山県真庭郡久世町に生まれる。早稲田大学を卒業後、若くして久世町長代行を務め、昭和2年(1927)には岡山県議会議員に当選した。昭和8年(1933)、大阪に出て政治評論誌「筆陣」を創刊し論筆活動につく。昭和10年(1935)に名古屋に転居したが、太平洋戦争の戦火で被災し、瀬戸に移り住んだ。
瀬戸の陶祖藤四郎について、「大瀬戸」新聞にその研究成果を14年間400回にわたり発表を続けた。昭和32年(1957)から瀬戸市史編纂委員として活動、『陶磁史篇三』を昭和42年(1967)に執筆刊行している。また、陶芸家の自作瓶子が国の重要文化財に指定されたことについて、昭和34年(1959)文化財保護委員会に対し「重要文化財指定取消し要望書」を提出し、度重ねて国側に対応をせまった。ついに、昭和36年(1961)指定解除に至ったことは「永仁の壷」事件として広く知られる。

浅井 慎平

あさい しんぺい


昭和12年(1937)瀬戸市生まれ。写真家。早稲田大学政治経済学部中退。日本広告写真家協会賞受賞後、昭和41年(1971)「ビートルズ東京」でデビュー。主としてコマーシャル、雑誌の分野で活躍。多芸に秀でているので、「キッドナッピングブルース」では脚本・監修・撮影を一人でこなした。
「美術館のある風景」をコンセプトに、平成元年(1991)5月、四季折々の季節の豊かさに魅かれ選んだ千葉県千倉町に「海岸美術館」を開館した。館内は、夏には風が吹き、冬には暖炉に火が焚かれ、空には雲が行き、自然と一体化をうたっている。世界各国で出会った風景、そして時間を切り取った作品50余点を常設展示。また、浅井愼平の手によるガラス工芸作品も展示している。

戸田 修二

とだ しゅうじ


下品野生まれで、品野信用組合長の戸田兼助の二男。郷土史は飯より好きな男といわれた。末広町(末広商店街)に住み、鍼灸・マッサージとミシン販売をしていたが、郷土史のこととなると飛び歩くことが多かった。古陶磁や刀剣の鑑定ができ、詩吟も上手で師範の免許状を持っていた。昭和28年(1953)瀬戸市史編纂事業準備委員会に、昭和33年(1958)には瀬戸市史編纂委員に委嘱される。
文献・資料等を調査、蒐集し「瀬戸古城史談」を発表、その成果は『日本城郭全集 東海編』に掲載される。

石川 秀美

いしかわ ひでみ


昭和41年(1966)7月13日生まれ。瀬戸市出身のタレント歌手で、昭和57年(1982)「妖精時代」でデビュー。各音楽祭で新人賞を獲得する。1980年代に活動し、同期デビューの小泉今日子、シブがき隊、堀ちえみ、早見優、松本伊代、中森明菜らとともに「花の82年組」と呼ばれた。平成2年(1990)、俳優でタレントの元シブがき隊薬丸裕英との結婚を機に芸能界を引退した。代表曲は昭和59年(1984)の「ミステリーウーマン」、翌年の「もっと接近しましょ」など。
西城秀樹の2人目の妹(ちなみに1人目は河合奈保子)。82年組アイドルのなかでは中堅どころを常にキープしていた。永瀬正敏と共演した「翔んだカップル」(月ドラ)は、その魅力を充分発揮した作品といえる。

戸田 紋平

とだ もんぺい


明治36年(1903)1月6日~昭和40年(1965)11月20日
東春日井郡品野町(現瀬戸市)に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)、東洋大学専門学部東洋文学科を卒業し、大正15年(1926)安城高等学校に国語教師として就職する。昭和9年(1934)頃より、やきものに興味を覚え収集を始める。昭和23年(1948)、母校の瀬戸窯業高等学校に転任。同校60周年で記念館に陳列室ができ、当時の赤塚幹也校長が大量の研究用の陶片を寄贈、陶磁史クラブは顧問紋平の指導で整理・分類・復元作業を行い、古窯調査の基礎を作る。昭和24年(1949)、瀬戸陶磁器研究会を組織し、瀬戸染付回顧展、徳川期陶芸回顧展を開催する。昭和30年(1955)、日本陶磁協会瀬戸支部主催の古陶磁展で活躍、この頃より『陶説』、地方紙等に研究成果の記事を投稿した。本多静雄・加藤唐九郎・楢崎彰一・谷口順三らと親交があり、瀬戸の陶業界に古陶器の研究・発掘で大きな影響を与えた。昭和40年(1965)、62歳で脳出血により急逝。翌年、本多静雄の発起により、楢崎彰一・若杉敬らが中心となり遺稿集『瀬戸のやきもの』が風媒社から刊行された。

瀬戸 朝香

せと あさか


昭和51年(1976)12月12日生まれ。瀬戸市出身の女優、タレント。平成4年(1992)鮮烈映画デビュー、キネマ旬報・新人女優賞受賞。平成6年(1994)にはTVドラマ『君といた夏』でヒロインに抜擢されに出演、注目を集め、以来TVCMやドラマ、映画作品の数々に出演。また、映画では『とらばいゆ』で第24回ヨコハマ映画祭の主演女優賞を受賞。舞台では東山紀之との共演『ロミオとジュリエット』が話題に。
平成19年(2007)、井ノ原快彦と結婚、平成22年(2010)長男を出産。翌23年12月スタートのテレビドラマ、『悪女たちのメス』では悪女を演じ産後復帰を果たし、平成24年10月期『TOKYOエアポート?東京空港管制保安部?』で連続ドラマ復帰を果たした。平成25年、女児を出産。