がくの洞の雨乞い

がくのほらのあまごい


伝承地 瀬戸市鳥原町
 瀬戸の北東には、町を見おろすように、三国山とそれに連なる山々があります。その山すそに、四季おりおりのすばらしい自然美を見せてくれる岩屋堂があります。夏にはここにあるプールで、子どもたちが泳ぎ回り、その歓声があたりのセミの鳴き声をかき消すほどです。
 このプールの上を山あいの渓谷にそって行くと、地なりを思わせる大きな音におどろかされます。鳥原川の清流を、岩がせきとめて作った滝があり、清流が滝から落ちる音です。
 このあたりには、いくつもの滝があって、「岩屋七滝」と呼ばれています。その岩屋七滝の一つが、「めおとたき」と呼ばれています。そして、この滝の滝つぼのことを「がくの洞(ほら)」と呼んでいます。
 この洞の主は、「龍神(りゅうじん)さま」で、雨を降らせる神様だということです。
 鳥原川から、田や畑の水をひいている品野の人たちは、日照りが続くと代表者を立て、その人と岩屋堂の入口にある浄源寺の住職とで、雨乞いをするそうです。
 雨乞いのしかたは、代表者と住職とが、水で身体を清めたうえ、幣束(へいそく)を持って、滝の近くの洞穴の龍神さまに祈ります。祈りがすむと、滝のところへ行き、願いごとをとなえながら、手にした幣束を、がくの洞へ投げ込みます。そのとく、滝つぼの水が渦を巻きながら幣束を巻き込んでしまえば、願いどおり必ず雨が降るといわれています。

菱野のおでくさん

ひしののおでくさん


伝承地 瀬戸市菱野地区
 時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
 天(てん)正(しょう)十二年、今から約四百年ほど前のお話です。
 徳川(とくがわ)方と豊臣(とよとみ)方が長久手(ながくて)で戦った時のことです。
 徳川方に敗れ、負けいくさになった豊臣方の総大将池田勝(しょう)入(にゅう)信(のぶ)輝(てる)の家臣梶(かじ)田(た)甚五郎(じんごろう)直(なお)政(まさ)は、ひどい傷(きず)を負い、ようやく菱(ひし)野(の)までたどり着きましたが、もう動くこともできなくなっていました。
 そこで村人に、
「わたしは猿投(さなげ)山に行きたいが、とうていこの体ではむりだ。」
と、苦しい息の下から、
「わたしの命もこれまで。だれか早く介錯(かいしゃく)して葬(ほうむ)ってはくれまいか。」
と、たのみました。
 しかし、後のたたりを恐れてだれ一人手を出す人はいませんでした。
 そうしている間に甚五郎は、その場で息をひきとってしまいました。
 村人はあわれに思って、千寿寺(せんじゅじ)の覚(かく)心(しん)和尚(おしょう)にこのことを話し、手厚く葬ってもらいました。しかし、そのときに馬の鞍(くら)の下にあった小判三十枚を、みんなで分けて持ち帰ってしまいました。
 それ以来、菱野に悪い病気がはやって若者がつぎつぎに亡くなったり、米や野菜などの農作物がとれなくなってしまいました。
 困り果てた村人が、占(うらな)い師に相談すると、
「以前この土地で若武者が一人亡くなっている。そのとき、若武者が持っていた小判を持ち去って後、法要も何もしていないので、そのたたりじゃ。」
というお告げがあったそうです。
 驚いた村人たちは、さっそく法要をして、いろいろ相談した結果、猿投山に行きたいと言っていた甚五郎の姿を馬印(うまじるし)に猿投神社の祭礼(さいれい)に奉納(ほうのう)しようということに話が決まりました。
 それ以来、猿投祭りには甚五郎の姿の人形を乗せた馬が奉納されました。すると、不思議に今まではやっていた病気もうそのように治まり、米もとれるようになったということです。
 その後、菱野近くの赤(あか)重(しげ)に梶田甚五郎のお宮を建てて、梶田神社としてお祀りしました。
今でも菱野熊野社の祭礼には、梶田甚五郎直政の姿の木偶(でく)(人形)を乗せた馬が奉納され、盛大に祭りが行われています。

首無し地蔵

くびなしじぞう


伝承地 瀬戸市石田町
 時代背景 天和年間(1681~1684)の村八合の大水
 それはそれは、むかしのことです。
 ひとりの立派な身なりをしたお侍(さむらい)さまが殺されて、首を持って行かれてしまいました。
 あわれに思った村人たちが、首のない小さなお地蔵さんを作っておまつりしていましたが、いつの間にか、お地蔵さんの姿も見えなくなり、すっかり忘れられていました。
 それから、何十年たったでしょうか。
 天和(てんな)(一六八一年~一六八四年)のむかし、村八合といわれる大水がありました。降りつづく雨に川の堤防が切れて、村の家や橋などは、見る見るうちに流されてしまいました。川の北側の田んぼは石と砂で埋まって川原のようになってしまい、その上たくさんの死者が出たということです。
 やがて、雨がやんで水が引くと村の人たちは、土砂に埋まった田んぼを見回りに出かけました。
 すると、がれきの中に石のお地蔵さんが埋(う)まっているではありませんか。さっそく堀出してみると、そのお地蔵さんには首がありませんでした。
「そうだ、むかし首のないお地蔵さんがあったということだが、そのお地蔵さんにちがいない。あのおそろしい大水に流されずに、よう無事だった。かわいそうなお地蔵さん。さっそく供養(くよう)しなければ・・・。」
と、みんなで相談して田んぼのすみにお祀(まつ)りしました。
 その頃、このあたりは、あまり米がとれなくて、赤ん坊が生まれても母親の乳が出ず、よく死んでしまったそうです。そんなときに、ある母親がこのお地蔵さんに、
「どうか乳がよく出ますように。赤ん坊が助かりますように。」
とお願いすると、不思議に乳が出るようになり、赤ん坊がすくすく育ったそうです。
 それからというものは、
「このお地蔵さんにお願い事をすると、何でも聞いてくださる。」
というので、そのうわさがあちこちに広まって、遠いところからもお参りに来る人がだんだん多くなり、今でも線香の煙がたえません。
 そして、だれ言うことなく、
「白い布で作った乳房をお地蔵さんの肩にかけて、お供えした白米の半分を家に持ち帰り、七日間おかゆを作って食べると母乳がよく出る。」
というようになりました。そして、
「願い事を何でも聞いてくださるお地蔵さんに首がないのは、かわいそうだ。」
と、村の人たちが川原で丸い石を探して首を作ってあげたそうです。

猿のミイラ

さるのみいら


伝承地 瀬戸市駒前町
 時代背景 天保年間(1830年~1844年)
 むかし、天保(てんぽう)のころ(江戸時代末期(まっき)、一八三〇年~一八四四年)、瀬戸本地(ほんじ)村に、菱野から名古屋に通じる松並木(まつなみき)の街道(かいどう)がありました。ときどき松並木の上や、街道筋で猿が遊んでいるのを見かけたそうです。その付近に壷井(つぼい)左内(さない)というお医者(いしゃ)さまがいました。
 酒好きで知られる左内は、毎日のように居酒屋(いざかや)や家で酒を飲み赤い顔をして、よろよろとして街道を歩いておりました。
「左内先生、猿から酒をもらったそうな。」
と、村人たちがうわさをしていましたが、どうして猿から酒をもらったかはわかりません。
 そんなある夜ふけ、左内の表(おもて)戸(ど)を軽(かる)くたたくものがありました。出てみると、猿が立っていて、いろいろ身(み)振(ぶ)り手振(てぶ)りをします。どうも腹痛(ふくつう)のようなので、薬草(やくそう)を飲ませて帰しました。
 数日後の夜ふけ、すっかり元気になった猿の夫婦が、お礼に一升(いっしょう)どっくりに自分で作った「さる酒」をつめて持って来たのでした。
 その後も、たびたび左内を訪ねては治療(ちりょう)してもらい、酒をお礼に持ってきましたが、この夫婦の猿もしばらくして姿が見えなくなり、人々の記憶(きおく)から消えていました。
 しかし、それからずっと後になって(昭和三〇年ごろ)、本地村のお百姓さんたちは、田植えを終わり、田の雑草を抜くまでの合間(あいま)を利用して、宝生寺(ほうしょうじ)本堂(ほんどう)の屋根のふき替えを行いまし。
住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)の話し合いで、かやぶきの屋根を瓦にかえることになりました。
 檀家総出で、草屋根をめくっていくと、屋根裏と天井(てんじょう)の間に、ほこりやワラにまじって、何かがひそんでいるようでした。近寄ってみると、二匹の猿が抱(だ)き合うように座(すわ)っており、ミイラ化していました。この寺の本尊(ほんぞん)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)でしたが、別に庚申(こうしん)像(ぞう)も祀ってありました。猿のミイラは、この庚申像の天井あたりで発見されたので、村人の驚(おどろ)きは一層(いっそう)大きかったのです。
 猿は庚申のお使いものといわれ、宝生寺の庚申像のひざ元には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三びきの猿の像が置かれていたのです。
 檀家のお年寄りの間には、天保年間の左内医者と猿の話を思い出す者がいて、
「あのときの猿に違いない。あのときの猿は庚申さまの使いだったのだ。」
と、驚き、思わず手を合わせる村人もいました。
 発見の様子(ようす)から、庚申像を祀った本堂の屋根裏で死に、残った一ぴきは、その死体をだいたまま、何も食べずに命をたったものと思われます。一ぴきはミイラ化した姿で、もう一ぴきはやや腐敗(ふはい)した形で見つかったからです。
 人々は、二つのミイラから、猿の愛情がこまやかで、かえって賢(かしこ)いはずの人間の方が見習わなくてはと話し合って、おおいに反省したとのことです。

品野の又サ

しなののまたさ


伝承地 瀬戸市西谷町
 西谷(にしたに)の墓地に「品野の又(また)治郎(じろう)」と、彫(ほ)ってある墓石(ぼせき)があります。
 この品野の又治郎という人は、たいそう変わった人でした。
「ああ、酔(よ)った。酔った。今日も朝からよう飲(の)んだなあ。つぎは、どこで酒を飲もうかなあ。」
と、もじゃもじゃの頭をかきながら、ぼろぼろの着物を着て、又治郎はぶらりぶらりと町の中を歩いています。
 子どもたちは、又治郎を見ると、
「品野の又サが来た。又サが来た。こわいよう。」
と、言って逃(に)げ出します。
 けれど、又治郎は決して悪い人ではありません。いつも酔っぱらってまっ赤になり、きたないかっこうをして近寄ってくるので、子どもたちはこわがって逃げるのです。
 そこで、子どもがわがままを言って泣きやまないときは、
「それ、品野の又サが来るぞ。」
と言うと、泣いていた子どももぴたりと泣きやんだそうです。
「今日は、あそこで嫁入(よめい)りがあるそうじゃ。酒が思いっきり飲めるぞ。昼からは、その向こうで葬式(そうしき)だ。そこでも存分に飲んでやろう。」
と、又治郎は不思議(ふしぎ)に、いつ、どこで嫁入りがあるのか、どこで葬式があるのか、よく知っています。又サが来ない嫁入りや葬式は、まずないといっていいくらいです。
 だから、
「坊さんが来ても、又サが来ないと葬式にならない。嫁さんが来ても又サが来ないと結婚式にならない。」
という人もいるほどでした。嫁入りの家は、又サにお酒をわたしました。
 嫁入りや葬式があっても、又サが来ない家では、
「又サは、どうして来ないのだろう。うちにだけ来てくれないんだろうか。」
と言って、不安に思う人もいました。
 又サは、いつも酔っぱらっていました。朝も昼も夜も、酔っぱらっていました。
 こういう有様だったので、又サは瀬戸の名物男になりましたが、又サがどこに住んでいるのか、人々は知りませんでした。
 こんなに名物男(めいぶつおとこ)の又サは、もう何十年か前のとても寒い晩(ばん)に、酔っぱらって窯(かま)の中で寝ているうちに、死んでしまいましたので、町のだれかがお墓を作ってとむらいました。今でも子どもの夜泣(よな)きが止まらないと、又サのお墓にお参りに行く人があり、たいそうご利益があるとのことです。
 又サのお墓には、今でも線香(せんこう)の煙(けむり)が絶(た)えることなく、ときにはお酒も供(そな)えられています。

蛇が洞

じゃがほら


むかし、むかし※1、品野の村に小牧五郎(平景伴:たいらのかげとも、とも言うが、親しみやすい名前を使った)という人が住んでいました。勇気があり、大変力の強い人でした。魚つりが大好きで、毎日のように近くの川(半田川:はだがわのこと)へ出かけ、たくさん魚をつって帰るのを自慢にしていました。となり近所の人たちは、
「五郎さんちゅう人は、本当に魚つりがじょうずだのう。」
「うちは、五郎さんのおかげで助かっとるがん。ばんげは、魚のごっつおうばっかりで・・・」
「五郎さんに世話になるばかりじゃ悪いで、米や野菜を持ってっておるがん。」
 ある日、五郎はいつものように、たくさんつって帰ってきました。かごのふたを取って中をのぞいてみると、驚いたことに魚は一匹も見当たりません。ただ、竹の葉が五、六枚かごの底にひっついているだけでした。五郎は一瞬「ハッ」としましたが、どうしてこうなったか、思い当たることはありませんでした。そのため、五郎はその夜はよく眠れませんでした。次の日も川へ出かけました。
 いつものように、大そうよくつれました。喜んで家に帰って、かごのふたを取ってみると、またびっくりしました。魚の影も形もありません。
「これは、きっと何かわけがあるぞ。」
「何者のしわざだろう。」
 五郎はこう思いながら、次の日用心深く、川で糸をたれていました。すると、突然川上の方から生臭い風が強く吹いてきました。見ると、大きな岩の上に、白い一羽のハトが羽を広げてバタバタ音をたてているではありませんか。五郎は、
「こいつが化け物の本当の姿だな。」と思いながら、ハトをにらみつけました。そのとき、
「ボオー」というすごい音がして、白い煙があたり一面をおおいました。よく見ると、白いハトの姿はもうそこにはなく、かわって大きなへびが岩に体を巻き付けて、飛び上がるようなかっこうで、こちらをにらみつけているではありませんか。五郎は、
「ようし、この大蛇め。今にみておれ。」とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大蛇のひたいにぐさりとつき刺さりました。ひたいから、ドッと血があふれて川へ落ちました。大蛇は苦しそうにもがきながら、五郎に襲いかかりました。五郎は、
「エイッ」とばかりに、大蛇めがけて切りつけました。大蛇は頭をまっぷたつに切られ、「ドオッ」という音とともに川の中に沈みました。大蛇から流れ出る血は、まっ赤に川をそめました。
 この様子を岩陰から見ていた村の人たちは、
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、五郎さん。強い人だ。」
「竹の葉を魚にかえた化け物は、こいつだったんだな。」
「よかったのう。もう心して、つりができるぞ。」と、口々に話していました。
 その日から三日三晩、川は花のように赤くそまり、大蛇の骨も長く川底に残っていたということです。
 村には平和が訪れ、だれいうとなくこの川の淵を蛇が洞というようになりました。また、花のような川、花川、半田(はだ)川と移りかわって、この辺りの土地の名前にもなってしまったと伝えられています。
※1 大永年中(1521-1528)のこと。戦国時代。

曽野稲荷

そのいなり


水野村上水野村曽野(その)に曽野稲荷大明神というのがある。昔、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)が諸国(しょこく)遍歴(へんれき)の砌(みぎり)、薄暮曽野郷の一農家を訪れて、一夜の宿を乞われた。主人は快くおとめ申したが、深夜別室で人の叫喚(きょうかん)するのを聴いたので、上人は訝(いぶか)しんで主人にそのわけを問われると、「当郷には古来年を経た白狐が出没して里人を悩まし悶死(もんし)さすので、農民が次第に離散して隨(したが)って田園は荒蕪(こうぶ)に帰した。今宵は私の妻がそれに煩はされているのです。」と言って泣いて語った。そこで上人は可哀そうに思召され祈祷なされると忽ち快癒した。そこで農夫は上人に請うて、田中の社から曽野郷稲荷山に御分身を勧請することにした。その後この村には、白狐の出没が絶えたという。毎年旧二月初午の日には、お祭りがあって賽客が多い。<「愛知県伝説集」昭和12年より>

曽野稲荷大明神(参道)
曽野稲荷大明神

雨乞いの軸

あまごいのじく


伝承地 瀬戸市巡間町
瀬戸の南東の方角に、ちょうど平野部と山間部をしきるように、一本の川がゆるやかに流れています。赤津川です。赤津川にかけられた風月橋を渡ると、あたりの水田の一角のこんもりとした森の中に「大目(おおま)神社」があります。
むかしむかし、来る日も来る日も、お天とうさまはかんかん照り。やっとくもったかなと思うと、すぐ晴れ上がってお天等さまが顔を出す。田んぼの水は干上(ひあ)がり、やがて川の水もかれてきそうな。もう村中、いいや、ここだけじゃのうて、日本の東の方はみんな、それはそれはひどいもんじゃったそうな。水がなくなると、田んぼや畑の作物はみんな駄目になり、村には食べるものも、飲むものもなくなり、果(は)ては山の草木を食べ、次は家畜(かちく)を、その次は犬や猫を・・・という順に食いつくし、村人はばたばたと倒れ、ついには人っ子一人いなくなってしまうという所もあったそうな。
これが、「天明の大飢饉(だいききん)」と呼ばれ、今でもその頃のひどいありさまが、語り伝えられとるんじゃ。
 その頃、ここ赤津の村の衆(しゅう)も、もう血まなこになって、雨を降らせる手だてを試(ため)してみたんじゃが、みんなだめだった。
そこで、とうとう長谷山(はせやま)観音(かんのん)の善声院(ぜんせいいん)さんが、京都の泰寮院(たいりょういん)という所から「雨乞いの軸」ちゅうもんを買ってきなさったんじゃと。軸には、何やら龍神さまのことが書いてあり、雨を降らせるのに、たいそう効(き)き目(め)があるとのこと。さっそく村の衆がお宮さん(大目神社)こもって、いつものとおり、神様にお神酒(みき)をそなえ、お年寄りの代表が熱心に祝詞(のりと)(神様に祈ることば)をとなえ始めたと。そして、雨を降らせたい一心に、「雨乞いの軸」をするするするっと、一気に全部開けてしまったんだそうな。
すると、急に空が真っ暗になり、大地が張(は)り裂(さ)けんばかりの雷と、稲光(いなびかり)がとどろき、滝のような雨が降り出して、みるみる一面の水びたし。村の衆は、飛び上がって喜び合いながら、急いでそれぞれ自分たちの家へ帰ったと。そして、家の者と空を見上げては、うるおってきた田んぼや畑のことを考え、神さまにお礼をいったと。
 ところが、今度は二日たっても三日たっても何日たっても、雨は止まらんかったと。とうとう、田んぼも畑も川も水があふれて、ありがたがっていた人も心配になりだして、善声院さんを訪(たず)ねたそうな。善声院さんは、
「そりゃ、村の衆。雨乞いの軸の使い方を間違えておったんじゃよ。あれはな、決して全部開いてはいけないんじゃ。そんなことをすれば、軸に書かれた龍神さまのごりやくがいっぺんにあらわれ、今度のような、洪水(こうずい)になってしまうんじゃよ。軸は、真ん中あたりまでしか、開(あ)けてはならんのじゃよ。」
と、言われたそうな。
 それからというものは、日照りが続いて、どうしても雨を降らせたいとき、村人が集(あつ)まって、この「雨乞いの軸」を取り出して、願いがかなうまで繰(く)り返(かえ)し、大目神社で祈ったそうな。決(けっ)して全部開いてはならぬという教えを固く守りながらのう。
 今では、このあたりもすっかり様子が変わり、農業用の水路も引かれ、昔のような心配事は、のうなった。おかげで、この雨乞いの軸を広げて使うことものうなった。
 じゃが、この軸は、氏子(うじこ)総代(そうだい)の人が、代々大切に預って、しまっておいてくださっとるということじゃ。

石投げ名人「久六」


伝承地 瀬戸市城屋敷町
 時代背景 文明14年に大槇山、安土坂、若ヶ狭洞で合戦したと伝えられる。
 毎年七月になると、大相撲名古屋場所がはじまります。その時期になると、押尾川部屋が、今村八王子神社を宿舎として朝早くから激しい稽古をしています。この八王子神社は、今村城主の松原広長公により、五百年ほど前に建てられました。村人たちは豊作や村中の安全を祈願してお参りをしました。
 今村城ができた頃の日本は、京都を中心に応仁の乱(一四六七年)にも土地の攻め合いが起こるようになりました。
 今村城でも、戦いにそなえて、週に一回くらい、剣・弓・槍・鉾・乗馬などの訓練がありました。練武場(訓練する場所)へ集まる人たちはふだんは農業や土木工事をしていました。
 西隣りの狩宿村に、太刀の名手といわれていた渡辺数馬という人がいました。数馬の娘淡路は、剣術が好きで、いつも父とともに練武場へ来ていました。
 その後、広長公の父吉之丞(飽津城主)に見込まれて広長公の奥方となりました。
 淡路は、太刀や乗馬の不得意な若者たちを集めて「投石隊」をつくりました。投石は殺傷力は弱いけれども、森や山坂の多いこの地方では、相手を攻めるのにとても有効な戦術でした。石は、場所や距離によって形や大きさを選び、素手で戦うことができました。
 投石隊の訓練は、追分の勢子山の山林で行われました。はじめは思うように投げられず、命中率もせいぜい五割くらいでしたが、投石のコツをつかむと百発百中のものも現れました。とくに久六は、兎や鳥のように動き回る動物にも命中させる石投げ名人となり、淡路から投石隊の隊長に任命されました。はじめの頃は、「エイッ」「ヤーツ」とかけ声をかけていましたが、最後には無言で投げられるようになりました。
 文明十四年(一四八二年)五月十五日、安土坂の戦いが始まりました。品野の永井勢と今村の松原勢との合戦でした。最初は大槇山付近で戦いましたが、松原勢は次第に押されて安土坂まで後退し、この地で両軍の決戦が行われました。松原勢も投石隊を使った作戦で必死の戦いをしましたが、ついに敗北し、広長公は若狭洞で切腹をしてしまいました。亡骸は、家来たちの手で赤津の万徳寺へ運ばれ、円林上人によって手厚く葬られました。
 久六は、奥方淡路のあとを追って赤津の万徳寺に移り、墓守りとしてその生涯を広長公の供養に捧げたといわれています。
 これ以来、赤津の人々は、御戸偈池の近くで「ピュー」「ピュー」という石を投げる音を耳にするようになったということです。

市場町の火事

いちばちょうのかじ


伝承地 瀬戸市品野町三丁目
 時代背景 
 今から、およそ二百年くらい前(江戸時代後期、一八〇〇年ごろ)※1のお話です。
 中馬(ちゅうま)街道(かいどう)(名古屋から瀬戸をとおり、品野を経て長野県の飯田へ抜ける道)筋(すじ)にある下品野村は、山の高地にあるので、よそよりは寒さがきびしく、その年の大晦日(おおみそか)は村の人たちをふるえあがらせていました。
 街道から少し西に入った中山家では、一人暮らしのお玉がこれから夕食のしたくにかかろうと、古い汚(よご)れた行灯(あんどん)(木の枠に紙をはり、中に油受けをおいて、火をともす照明(しょうめい)器具)に火をつけました。この貧(まず)しそうに見える台所に一つだけ目立つものがありました。それは、よく磨(みが)かれて黒光りのする由緒(ゆいしょ)のありそうな茶釜(ちゃがま)です。茶釜は火がかけられ、ことことと湯をたぎらせていました。
 中馬街道の中山家といえば、人に知られた家でしたが十年前に主人に死なれてからは、急に貧しくなって、その日の暮らしにも困るほどになっていました。
「こんばんわ。」
と、市場屋(いちばや)の手代(てだい)(店で働く人の位。番頭-手代-小僧)の喜蔵(きぞう)が入ってきました。
「へっ、ごっさま。すまんこっちゃがけさの話ああ、今夜どうしても、何とかしてもらえんかのう。・・・」
 お玉のむすこが、店の見習いの旅に出かけるときに親類の市場屋から五両(今の二十五万円くらい。)のお金を借りて行ったので、そのお金を取りに来たのです。
「主人が、やかましく言うもんで・・・。今日中に返してもらわんと、わたしが困るで、たのみますわ。」
「喜蔵さ、ぶっといてすまんけど、わたしゃ、その日のことにも困っとるで、どうにもならんがな。まあ少し待ってもらうよう、だんなにたのんでくれんかん。」
「気の毒じゃが、今日は暮れじゃでなあ・・・。わたしも、だんなに言いわけが立たんでなあ・・・。お前さんがどうにもならんというなら、何か代りになるものをもらっていこうか。」
「こんな貧乏(びんぼう)な家に、金目のものなどありゃせんがな」
あたりを見回した喜蔵は、たぎっている茶釜を見つけて、
「・・・そうじゃ、この茶釜、五両には足(た)らんが、こいつをもらっていくか。」
「・・・まあ、喜蔵さ。これはお前さ、ご先祖(せんぞ)様の大切なものじゃで・・・、ばちがあたるわな。」
「ご先祖様も何もありゃせん。今のお前さんにはいらんもんじゃ。これをよこさっせ。」
「喜蔵さ、あんまりじゃぞな、いくらなんでも・・・。この大事な茶釜を持って行ってみなされ、ええ、わしゃあ、はなしゃせんぞな。しmでも・・・。」
 泣きわめきながら、ぐらぐら煮えたぎった茶釜にしがみつくお玉に、おじけづいた喜蔵は、手にした茶釜のふただけを持って走りだしました。
「喜蔵さ、ふた返せ。ふたよこせ・・・。」
半狂乱(はんきょうらん)になって泣きわめくお玉のそばに、ふたを取られた茶釜が、ふつふつとたぎって、白い湯気(ゆげ)をもうもうと立ち昇らせていました。
喜蔵から、詳しい話を聞いた市場屋の主人四郎(しろ)兵衛(べえ)は、
「喜蔵、こりゃ、ちょっとやり過ぎたなあ」
と、言いましたが、店の売りあげ勘定(かんじょう)に忙しく、そのまま過ぎてしまいました。
勘定もやっと終わって、店の者たちは年越(としこ)しのご馳走(ちそう)をいただくと、それぞれ自分たちの部屋へ、引きさがりました。
広い屋敷(やしき)から蔵(くら)の中まですっかり掃除(そうじ)を終わって、お正月の飾り付けもすませた市場屋も、九ツ(夜の十二時)を過ぎると、朝からの風音以外はしんと静まりかえっていました。昼間の仕事の疲れで、店の者はすぐに
街道の馬(うま)市(いち)を取り仕しきり、酒造りと油(あぶら)問屋(とんや)とを兼ねた品野の市場屋といえば、中馬街道でも有名な大店(おおだな)です。蔵が三戸分ぐるりと広い屋敷を取り巻き、今の国道沿いの戸田国助さん宅からココストアを経てプラット愛電館みずの(電気屋さん)あたりまで、西はずっと稲田になっている所までの人構えだったというから大したものです。
 八ツ(午前二時)と思われるころ、西の蔵のあたりから、こげくさい臭いとともに、パチパチ音がしたと思う間(ま)に急に火が吹き出し、蔵は火の海となりました。南の蔵には、油が入っているから大変です。あれよあれよという間に火は燃え広がり、さすが広い市場屋も、母(おもや)屋(家の人たちが住んでいる建物)からいくつかの蔵まで、全部灰(はい)になってしまいました。そればかりか、家の中に寝ていた主人の四郎兵衛も、奥さんも、一人娘も、召し使いたちも、みんな焼け死んで、だれ一人と助かりませんでした。
 街道でも有名な億万長者(おくまんちょうじゃ)の市場屋も、あっという間に燃え広がった火事のために、滅びてしまいました。火事のあった夜ふけに気が抜けたようになって、市場屋の蔵のあたりをうろつくお玉を見たという者やはげしく燃える火の中に、、
「ふた返せ。ふたよこせ。」
と、さけぶお玉の声を聞いたという者もいたので、
「つけ火だ。つけ火だ。恨(うら)みのつけ火だ。」
と、だれ言うことなく、村の人々はうわさし合って、怖(こわ)がりました。
 広い焼け跡には、灰となったいくつかの白骨のなかに、例の茶釜のふたをしっかりとにぎっている骨もあったとか。・・・・
手代の喜蔵は、自分のしたことからこんな大事になり、半病人のような毎日でした。後悔(こうかい)してあやまりましたが、市場屋は元には戻りません。
  品野こげても、市場屋はこげぬ
 (品野の峠を越えることができても、市場屋より金持ちになることはできない)
  こげぬ市場屋も 火にゃこげる
 (そんな大金持ちの市場屋も、火には燃えてしまう)
  億万長者の市場屋さえも
  燃やしゃ 一夜で灰となる
 信州通(しんしゅうかよ)いの馬子(まご)(馬を引いて人や荷物を運ぶことを仕事にしている人)たちは、街道(かいどう)名物(めいぶつ)、市場屋が滅(ほろ)びたことを悲(かな)しんで、このように歌ったということです。
 その後、旅から戻って悲しんで死んだお玉のむすこと、お玉へのとむらいとして、喜蔵は小さな碑(ひ)をたてました。
 市場屋屋敷から国道をへだてた小高い丘の中腹に、昔は杉の木立などありましたが、そこにささやかな碑が今でも残っていて、だれ言うとなく、「イボ」ができたらこの碑におまいりすると、不思議に取れるという言い伝えが生まれました。「いぼ神様」といって、品野坂上から窯町にぬける「やきもの小道」の途中にあり、みんながお参りして、お線香のけむりが絶えません。