旧山繁商店 離れ・事務所・旧事務所・土蔵・新小屋・前倉庫・中倉庫・奥倉庫

きゅうやましげしょうてん


国登録文化財
平成27年11月17日登録 所在地 瀬戸市仲切町・深川町
所有者 瀬戸市
文化財 離れ:木造二階建・寄棟造・瓦葺(明治22年)
    事務所:木造平屋建・寄棟造・瓦葺上に鉄板葺(昭和22年)
    旧事務所:木造二階建・入母屋造・瓦葺、(大正3年)
    土蔵:土蔵造二階建・切妻造・瓦葺(明治36年)
    新小屋:土蔵造二階建・切妻造・瓦葺(大正3年)
    前倉庫:木造平屋建・切妻造・瓦葺上に鉄板葺(昭和初期)
    中倉庫:木造平屋建・切妻造・瓦葺(昭和22年(登記年))
    奥倉庫:木造平屋建・切妻造・鉄板葺(昭和25年)
    塀:木造・瓦葺・石垣付(明治中期)

 旧山繁商店は、「北新谷」と呼ばれる瀬戸川北岸の丘陵地に所在する陶磁器卸問屋であった。初代加藤繁太郎は万延元年(1860)に瀬戸南新谷の染付磁器生産の名家である「白雲堂」加藤周兵衛家の4男として生まれ、幼くして北新谷の大物磁器生産で著名な「蓬莱軒」加藤杢左衛門家の養嗣子となった。明治12年(1879)には杢左衛門家近くの現在の敷地に繁太郎家の主屋(現在滅失)が建てられた。
 明治18年(1885)に初代繁太郎は杢左衛門家から分家独立し、明治19・20年ごろから陶磁器卸問屋「山繁陶磁器商店」を起業する。明治22年(1889)には主屋を挟んで南側に二階建ての離れと塀を建造。この離れは明治44年(1911)の梨本宮守正王、昭和2年の(1927)の李鍝公ら内外の要人が瀬戸来訪の折に宿泊所として使用された。大正3年(1914)には事業拡大に伴い西側旧道通り沿いに旧事務所と新小屋が建造されている。
 三代目繁太郎の代である第二次世界大戦終戦前には前倉庫・中倉庫が建造される。昭和22年(1947)には東側新道(池田通り)沿いに事務所が建造され、搬出入の起点となった。次いで絵付加工場などとして昭和25年(1950)に奥倉庫が建造され、戦後の企業成長を支えた。
 旧山繁商店は広大な敷地内に明治から昭和の建築様式を残した建物が同時に存在しており、瀬戸市における該期の陶磁器流通を物語る貴重な文化財である。

参考 『旧山繁商店 保存活用計画』

北新谷
三代目加藤繁太郎

秦川城址

はたかわじょうあと


所在地 下半田川町
旧下半田川はかっての濃州笠原村(東)・一之倉村(北)・小木村(北西)と境する尾張北東端の村で、四方を山で囲まれた山間盆地で小さな独立王国の趣がある。地勢的にも生活圏としても美濃とのかかわりが深かった。
旧国道248号線は品野から蛇ヶ洞川沿いに下り、村の中心花川橋で東向して多治見に抜けた。この花川橋たもとには下半田川バス停がある。江戸時代には高札が立っていた。バス停の西、川西島の裏山がかつての秦川(はたかわ)城跡であり、一名「半田川の古屋敷」とも呼ばれていた。近くには東屋敷・西屋敷・櫓場などの地名も残っている。
城主は美濃池田城主安藤将監の家臣尾関六左衛門秦であった。尾関氏は室町時代以来この地の土豪で、小牧・長久手合戦従軍後は一族は尾呂に隠れ住んだと伝えられてきた(戸田修二、1966『瀬戸古城史談』)。尾呂は江戸時代の絵図面別紙の覚えに記載される枝郷で「尾呂古窯跡群」で知られている。

若宮遺跡

わかみやいせき


瀬戸市若宮町
 矢田川右岸に形成された沖積地に、東西約700ⅿ、南北約500ⅿの範囲に広がる集落遺跡。石田遺跡の東側に位置し、平成15年度以降、数次にわたり発掘調査が行われている。
 平成26年度調査では、2世紀後半~3世紀前半に位置付けられる土器溜まりをはじめ、6世紀前半までの土師器や6・7世紀の須恵器などが主体となってまとまった量の遺物が出土した。また、8世紀のものと思われる移動式の竈(かまど)も出土しており注目される。平成27年度調査では、3世紀~6世紀の土師器や須恵器が出土しているほか、同時代に比定される竪穴式住居跡が、本遺跡内では初めて発見された。本遺跡の北側丘陵には、塚原古墳群や高塚山古墳群など、多くの古墳が群集していることがよく知られており、本遺跡の竪穴式住居跡が、こうした古墳を造営した集落の一つであった可能性も十分に考えられる。

石田遺跡

いしだいせき


瀬戸市石田町・池田町・東米泉町・西米泉町
瀬戸市南部を西流する矢田川右岸に形成された沖積地において、東西約1.2㎞、南北0.5㎞の広範囲に広がる集落遺跡。近年増加する宅地開発に伴い、瀬戸市によって数次にわたり発掘調査が行われている。その中で、平成23年に行われた池田町196番・197番地点の調査では、8世紀~9世紀前半の間に機能したと考えられる竪穴式住居跡や、掘立柱建物跡などが検出された。この他、当該期に使われたと考えられる土師器の甕や須恵器の杯身・杯蓋を中心に、まとまった量の遺物が出土しており、中には7世紀代に比定されるものもみられることから集落の出現がそこまで遡る可能性も考えられている。矢田川右岸の沖積地上には、比較的大規模な遺跡の存在が知られているが、その中で明確な古代集落の存在を初めて確認することができた貴重な事例である。

瓶子陶器窯跡

へいじとうきあまあと


国指定史跡 4,520平方メートル
平成27年10月7日指定
所在地 瀬戸市凧山町 所有者 瀬戸市・国土交通省
文化財 古窯跡及び工房跡 時代 江戸時代前期

江戸時代の旧赤津村は、尾張藩の御用を務めた「御窯屋」が所在するなど、藩との結びつきが強いやきもの生産地であった。当時の窯は、現在の集落や陶磁器工房の中心部となる、赤津盆地北側丘陵斜面に構築される例が多かったが、瓶子陶器窯跡は盆地南側に単独で構築された立地状況となっている。2基の窯体(1号窯・2号窯)と工房跡・物原からなり、平成10・11年度には瀬戸市により窯体と工房跡の確認調査が、平成15年には愛知県により物原部分の発掘調査が行われた。
1号窯は、下半部分は大窯構造、上半部分は連房式登窯構造をなす、いわゆる「大窯・連房連結窯」という特異な構造となる。残存長は15.4ⅿで、連房部分は6房確認された。2号窯は一般的な連房式登窯で、残存長は28.3ⅿにも及び、房数は14~15房であったと推定される。
出土遺物には、当時赤津村で一般的に生産された擂鉢や銭甕の他、天目茶碗や茶入といった茶陶関係の製品が多くみられ、その年代から本窯の操業は17世紀前葉から末葉であったと考えられる。また、愛知県の物原調査時には、尾張藩士の名前が書かれた「付け札」が出土し、藩との関わりがあったことが明らかにされた。

1号窯連房部
1号窯大窯部

金井神社

かないじんじゃ


伝承地 瀬戸市川西町
 どこの学区にも、たいていお寺やお宮があり、そこが子どもたちの遊び場になっていることがよくあります。しかし、狭くて、薄暗かったので、お宮を他へ移してしまったというお話をしましょう。
 旧效範小学校の校区には、今お宮がありません。七五年ほど前まで※1は、今の川西町のどこかにお宮があったと聞きました。
 そこで、お年寄りの方にいろいろ教えていただくと、尾州府志(一七五年※2に出された愛知県の地理の本)という古い本にもついている金井神社ということが分かりました。
 この神社は、ヒロクニオシタケカナヒノミコト(二七代の安閑天皇の御名は広国押武金日命という)という神様をおまつりしていました。その神様の名のカナヒがカナイにかわり、お宮の名前になったのだろうということです。
 その神社は、川西町一丁目あたりで、七アールばかりの細長い土地で、木や竹がたくさん生えて、日の光があまり当らない薄暗いところだったということです。
 朝夕ほとんど太陽の光が当たらないところだったので、七五年ほど前に、八王子神社の境内に移されたということです。
 その跡地は、開墾して畑にしたということですが、おそろしく古い時代に天皇をまつったお宮が川西町にあったというのは確かなことのようです。
※1 不明
※2 「張州府志」(宝暦二年(一七五二)完成)

龍天池

りゅうてんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 時代背景 室町幕府官領家の細川勝元派と有力守護大名の山名特豊派とが、応仁元年(1467)から約10年にわたり続いた戦乱で、京都に始まり全国規模に発展した 京都で応仁の乱(おうにんのらん:今から五一〇年ほど前※1)が始まったころの話です。
 雲興寺の三代目のお尚は、朝夕お経を読み、村人に仏の道を教えていました。
 一四六六年の一一月三〇日の朝のことです。お尚は、けさもいつものようにお経を読んでいました。すると急にあたり一面が暗くなり、大粒の雨が降り出し、風も強まってきました。お尚は急いで本堂の雨戸を閉めようとしたとき、目の前の小さな池の中がざわめいたかと思うと、渦を巻いて竜巻のように登り始めました。その中から小さな龍がおどり出て、岩の上にとまりました。お尚はびっくりして、じっと龍を見つめていました。龍も同じように、お尚をじっと見つめていました。
 さきほどの強い雨はおさまり、あたりは明るさを取り戻していました。お尚は落ち着いたことばで、龍に話しかけました。
「お前はいったい何ものなのか。また、どうしてこんな所へ出てきたのだ。」
 龍も待っていたかのように、訴えるようなことばで話を始めました。
「お尚さん、わたしは、わたしの住む所を探し求めて、あちらこちらさまよい歩きました。この池は、大変住み心地がよく、ここへ来てから三年にもなります。お尚さんの毎朝、毎夕のお経を池の中で聞き、また村の人々にいろいろ話をしておられる様子を見て、直接お尚さんから教えのことばをいただき、できればお尚さんのお仕事を手伝わせてもらいたい。こう考えてまいりました。」
お尚は、龍の話を聞いていたが、
「京都の方では大きな戦いが始まっている。その戦いがこちらの方へ広がってきている。村の人々の不安は日増しにこくなっている。わたしは村を守り、人々が安心して住める村にしたいものだと、思っている。」
「わたしと一緒に寺や村を守ってくれるか。仏さまにお仕えするものが、池の中に住むわけにもいくまい。厨子(ずし)をつくってやるから、その中で暮らすようにしなさい。」
 りっぱな厨子ができあがり、龍は厨子の中にはいることになりました。
「お尚さん。約束はきっと守ります。他の人からながめられると、わたしは余力(よりょく)がなくなってしまいます。どうかこの扉を開けないでください。」
 こう言って、扉の中へはいりました。
 それから何年かたちました。村々に日照りが続き、田畑に水がなくなると、人々はこの池を掃除し、雨が降るように厨子に向かってお祈りをしました。するとどうでしょう。雨が降るではありませんか。
 この話が名古屋城主にも伝わり、お使いをさしむけて、雨乞いをしたという話も伝えられています。
 この池をだれ言うとなく、龍天池と呼ぶようになりました。本堂の本尊右側にその厨子が祀ってあり、裏庭の龍天池は、小さいが枯れることなくきれいな水をたたえています。
※1 今から五四〇年ほど前

龍眼池

りゅうがんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 応永(おうえい)二五年(一四一八)ごろ、赤津の村人たちや、雲興寺(うんこうじ)のお坊さんが、わけのわからない病(やまい)に悩んでいました。
 ある日、この寺のお尚(おしょう)の祖命禅師(そめいぜんじ)が朝のおつとめをしようとしていたときに、猿投大明神(さなげだいみょうじん)が現れました。そして
「この寺の土地は、龍の形をしているが、大切な眼がない。だから、病気が直らないのだ。」とつげて、さっと消えました。
 そこで、さっそくお尚は、そのことを村人たちに話し、龍の眼ににせて、参道(さんどう)の両側に池をほり、「龍眼池」と名付けました。
 不思議なことに、その後、人々の病はぴたりと直ったそうです。
 また、この池の名について、「両眼池」と呼ばれていたものが、後になって「龍眼池」と呼ばれるようになったのだとも言われています。

弥蔵観音の物語

やぞうかんのんのものがたり


伝承地 瀬戸市古瀬戸町・西拝戸町
 時代背景 天保2年(1831)3月27日亡の梅心妙量信女という人が、できもので苦しみ、「私が死んだら祀っておくれ。きっとなおしてやる。」という地元に残された伝説。
 末広町から瀬戸公園下の近くの宝泉寺(ほうせんじ)の前を通り、赤津へぬける昔からの道があります。赤津の手前に洞(ほら)というところがあって、そこに伝わるお話です。
 むかし、むかし、洞に一人ぐらしの女の人が住んでいました。なんとその女の人は、頭のてっぺんからつま先まで、できものだらけでした。畑仕事をするにも家の中の仕事をするにもかゆみといたさで、仕事もきちんとできませんでした。その女の人は、どうしても直したくて、近くのお宮へ何度も何度もお参りしたり、できものがよくなるといううわさがある遠くのお宮へも行ってみたり、薬草をせんじて飲んでみたりしましたが、いっこうに良くなる様子がありません。自分の体じゅうにできたできものを見ては、悲しくなっていました。
 いろいろやってみてもどうしても直らないので、とうとう直すことをあきらめてしまいました。
「できもので悩むのはわたし一人でたくさんだ。わたしが死んだら、できもので困っている人の身代りになり、直してあげよう。」 そして村の人たちに会うたびに、
「わたしが死んだら村はずれの山の上に埋め、祀(まつ)ってくれ。できもので悩む人を救ってやるぞ。」と、口ぐせのように言っていました。
 女の人は、一人暮らしのまま、とうとう死んでしまいました。死ぬまぎわにも、
「わしを祀ってくれ。たのみます。」と、言い残して死んでいったそうです。ところが、村の人たちは女の人に身よりもなく、また貧乏だったので村のお墓に埋めておいただけでした。
 さて、女の人が死んで二・三日たつと、できものが村の人たちにできはじめました。そして、一人、二人とふえ続け、十日もたたぬまに村の人々全部にできものができてしまいました。お宮に参っても、薬をぬっても全くなおりません。とうとう、
「あの女のたたりじゃ。山の上に埋めて、祀ってやらなかったばちじゃ。」と、みんなが言い出しました。
 そこで、村中で、村はずれの山の上にほこらを作って祀ることにしました。すると、どうでしょう。祀ったその夜から一人づつできものが直っていくではありませんか。
 それからというもの、村では、できものができると、山のほこらへ行っておまいりするとすぐ直るため、手厚くいつまでもまつり続けました。おまけに、できものばかりか、腹いたにきくといううわさが広がり、できもの、腹いたで悩む人たちから、大変喜ばれました。
 このほこらに祀ってあるのが、弥蔵観音です。

品野祗園祭り

しなのぎおんまつり


毎年7月16日、下品野地区で行われる祭りである。下品野の町の国道沿いに南の方から、火の見下の社のあたりまでの家々の軒下に、意匠をこらした絵や書のかかれた祭提ちんが立並ぶ。提ちんに火の入る頃、全宝寺の坂の方から、大提ちんを先導に、三段に屋形のついた、きれいに飾り立てられた山車が、威勢のよい町内の男衆に引かれてやってくる。山車の中からは祭ばやしの音が聞こえ、山車のうしろには、ゆかた姿の女衆が、踊りを披露しながら一団となってついてくる。この「祗園祭り」の本祠は、京都東山区祗園町に鎮座する八坂神社で、火の見下の社は、祗園感神院の改められたものである。古くは「祗園ご霊会」といい、疫神に祈って疫病からまぬがれる信仰から出ているといわれる。津島神社(尾張津島市)も天王まつりといって、三段のさおに提ちんがたくさん灯されただんじりを船にのせる宵祭りが行われるが、下品野の祭司の方が、前日までに、津島神社から御神符を受けてこられ、祀っているのである。