秦川城址

はたかわじょうあと


所在地 下半田川町
旧下半田川はかっての濃州笠原村(東)・一之倉村(北)・小木村(北西)と境する尾張北東端の村で、四方を山で囲まれた山間盆地で小さな独立王国の趣がある。地勢的にも生活圏としても美濃とのかかわりが深かった。
旧国道248号線は品野から蛇ヶ洞川沿いに下り、村の中心花川橋で東向して多治見に抜けた。この花川橋たもとには下半田川バス停がある。江戸時代には高札が立っていた。バス停の西、川西島の裏山がかつての秦川(はたかわ)城跡であり、一名「半田川の古屋敷」とも呼ばれていた。近くには東屋敷・西屋敷・櫓場などの地名も残っている。
城主は美濃池田城主安藤将監の家臣尾関六左衛門秦であった。尾関氏は室町時代以来この地の土豪で、小牧・長久手合戦従軍後は一族は尾呂に隠れ住んだと伝えられてきた(戸田修二、1966『瀬戸古城史談』)。尾呂は江戸時代の絵図面別紙の覚えに記載される枝郷で「尾呂古窯跡群」で知られている。

山口城址

やまぐちじょうあと


所在地 瀬戸市矢形町(本泉寺境内)
山口城は「上菱野城」・「屋形の城」とも呼ばれた。地名の「矢形町」は中世の城(屋形・館)の名残であろう。本泉寺(真宗高田派)の境内全域がその城跡である。この城は鎌倉時代の菱野・上菱野(山口)の地頭職であった山田泰親が、その職を子の重元にゆずり、弘安年間現在の本泉寺境内に築いた城である。自らは弘安四年(1281)仏門に入り、下野国高田専修寺の顕智上人に帰依して浄顕と号した。そして居城の南方に本泉寺を建てて自ら開祖となった。現在の本泉寺は江戸時代初期の慶長十八年(1613)にかつての城跡に移したものである。本泉寺境内の南側には現在も土塁や堀の名残と考えられる土手や池が残っている。

山口城  現在の本泉寺(右手奥)に残る土塁跡(左手の林)・堀跡(右手前の池)

山崎城址

やまざきじょうし


所在地 品野町8丁目
 藩政時代の中品野村川北島にあたる。品野川(水野川)とその支流石場川(山崎川)に挟まれた小高い尾根上は通称「五輪山」と呼ばれ、山神が祀られているがここに古い宝篋印塔(高さ45~78センチ)も立っている。戦国時代に品野城攻略のために織田方が「付城(つけじろ)」として築いた山崎城跡であったと伝えられている。南麓の民家の裏手に切石をもって積み上げられた「おがたの井戸」と呼ぶ古井戸も残っている。
 「桶狭間合戦記」によると、永禄元年(1558)の品野合戦の際は織田信長家臣の竹村孫七郎らが守備していたが、品野城の松平監物家次が豪雨の夜に奇襲をかけ、不意を突かれた織田方の将兵50余人が討ち死に敗走したとある。古石塔は敗将の供養塔と伝えられている。

横山城址

よこやまじょうあと


所在地 瀬戸市效範町2丁目
 「瀬戸古城史談」には名鉄瀬戸線の旧根の鼻駅の東南、県道の南一帯の畑地を「横山殿様の居城」と呼んだとある。城跡は方80間ほどあって、東側は林と竹薮で中に庵寺が在ったと記載するがそれ以上は不明である。
(参考文献:愛知県史跡整備市町村協議会 2021『「あいちのお城」調査最前線!資料集』)

落合城址

おちあいじょうあと


所在地 瀬戸市落合町
 旧下品野村の本郷北を品野川(水野川)が西に流れる右岸山崎の地に、氏神神明社が建つ。社伝によれば後亀山朝、信州の豪族村上理之介の後裔品野城主となった村上勘助の勧請と伝えている。山崎川を挟んだその西に龍洞山久雲寺が建つ。この寺は曹洞宗・雲興寺末で永禄四年(1561)林三郎兵衛正俊が創建、開山は雲興寺14世居雲和尚と伝えられている。さらにその西丘陵に天白山が在り、そこがかつての落合城跡(別称に「天白の城」)である。
 「落合城、東西53間・南北45間、戸田殿居城と申伝へ候」(「寛文記」)とある。応永頃は戸田弾正宗繁、文明頃は長江修理が城主だったという。城畑と呼ばれる山麓部にはかつての空堀・土居・古井・礎石が残り、周辺に城坂・物見坂・乗鞍・御所ヶ根などの地名を残している(「古城史談」)。戸田は地域に多い姓である。

片草城址

かたくさじょうあと


所在地 瀬戸市片草町
 旧片草村は尾張の東端に在り、三国山(海抜701メートル)は文字通り、尾張・美濃・三河3州境となっている。名古屋城下から木曽山系の山間を縫って信州街道がここを通る。
 片草の氏神八幡神社の西に独立した小丘陵(海抜350メートル)に片草城跡が在る。山腹を削って二段構えとし、掘割で鶴翼形をした平山城の遺構を残している。このあたりの地名を「坂井ヶ根」という。片草城は「享禄二年(1529)上品野秋葉山城で松平勢と戦って敗走した織田方の坂井氏の族人が隠れた」伝承がある。また定光寺祠堂帳に寄進の記録が残る「坂井十郎」の城であったようでもある。地域には坂井姓の人達も居る。江戸時代の村絵図では「城主名不詳の古城跡」として記載されている。

桑下城址

くわしたじょうあと


所在地 瀬戸市上品野町
桑下城は旧中馬街道「城前」バス停の水野川を挟んだ対岸「桑下島」の丘陵地「城根」にある平山城で、「尾張志」には「城構えは東西30間・南北42間、永井民部少輔の居城なりし由」と伝え、石垣や井戸跡を残している。「永井民部は松平家重・その子家次に仕え、後に織田家に属してその位牌は祥雲寺に残る」と載せている。
桑下城跡は平成16年度(1次)、同19年度(2次)に国道363号線改良工事に伴う事前調査が行われた。愛知県埋蔵文化センターなどによる瀬戸市域における最初の発掘調査であった。道路予定地の限られた調査区ではあったが、本丸部分の掘立柱建物や基礎、土塁や井戸、本丸を囲む東西の薬研堀と北の箱堀構造、そして出土遺物として和鏡などの金属製品や什器などの木製品、多くの陶磁器製品が検出した。当時の土木技術が判明したのみならず、現在の城跡は在地領主である長江(永井)氏時代のものでなく、今川氏が関与した改築された時代のものという知見が示された。

品野城址

しなのじょうあと


所在地 瀬戸市上品野町
品野は古く「科野」と表し、山間傾斜地の地形状の特徴から起こった地名のようである。3州国境三国峠に近い高地から、順次上・中・下と3科野村があった。上品野は信州街道沿いに在ったが、その面影は氏神稲荷神社前の旧道によく残されている。この稲荷神社裏山の秋葉山頂が品野(科野)城跡である。東西20間、南北8間余、土塁・曲輪・堀切跡を残す山城で「秋葉山城」の別称がある。麓近くに「中屋敷・廓屋敷・御殿・的場」などの地名が残る。
城の創始は建保・承久年間(13世紀初頭)の頃、水野地域から進出してきた豪族大金重高とされ、享禄品野合戦(1529)以降は松平内膳正家重が城主、永禄元年(1558)3月には織田軍勢との間で永禄品野合戦があったことが伝えられている。
品野城跡の北側で集落を挟んだ向かい側に桑下城跡があり、桑下城は平時住まいの館城、品野城は緊急時の詰め城であったのではないかという説もある。

瀬戸城址(鯨見城)

せとじょうあと(くじらみじょう)


所在地 瀬戸市古瀬戸町~馬ケ城町あたり
瀬戸城は「鯨見の城」ともいい、古瀬戸小学校正門登り口の北東一帯の丘陵地にその跡があり、城主は加藤光泰で城構えは東西六十五間・南北八十間、三方掻揚げ堀、東大手門は字垣内という田畑になり、西桑原、東窯下という。北は高塚という。(「日本城郭全集」)
江戸時代の村絵図にはその古城跡の記載は無く、今日工場・民家が密集して古城跡を確認することはできない。

塔山城址

とうやまじょうあと


所在地 瀬戸市広久手町
塔山(とうやま)城は堂山城・相坂城ともいう。山口谷奥の通称「おごりんさん」と地元の人から呼ばれる室町期の五輪塔の並ぶ小高い山がある。「山口村古記」には城主は森河下総守が居城し、後大和国多武峰に移るとある。山口川右岸から取水する「森河用水」は今も活用されている。
「おごりんさん」から南に下った地点に東西約20メートル、南北約48メートルの本丸跡があり、三方に附属の曲輪が見られる。江戸時代の村絵図には「古城跡、武田信玄番持」の記述があるが、武田氏との関係は明らかではない。