阿弥陀ヶ峰城址

あみだがみねじょうあと


所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺境内)
 信州飯田街道が瀬戸村追分で三州小原道と分岐して安戸坂を登って下品野村八床に向かう。大松山全宝寺(曹洞宗・元阿弥陀堂と呼ばれ創建不詳)は信州飯田街道の入り口にあって、地蔵堂(江戸時代造の石地蔵祀る)や庚申堂(文化十年銘青面金銅像祀る)を持つ。
 文明十四年(1482)5月、応仁の乱の余波として細川方品野に勢力をもつ桑下城主・永井(長江)民部と山名方今村城主・松原広長との間で合戦が開かれた。品野勢は品野の南端阿弥陀ヶ峰に城砦を築いて陣取った。今村勢は松原広長を総大将に赤津・山口・本地・今村城などの兵力を集めて安戸坂を攻め上ってきた。この地を陣屋河原という。大槙山(全宝寺西の丘陵地帯)の戦いで今村勢は追い落とされ、若狭ヶ洞での戦いで品野方が大勝した。「広長戦死の地を殿死洞といひ、兜の落ちたる所を兜洞とよぶ」(「寛文記」)。阿弥陀ヶ峰城は武士の居城ではなく、砦としての一時的軍事拠点であったと考えられ、小高い全宝寺境内地がその故地である。