塔山城址

とうやまじょうあと


所在地 瀬戸市広久手町
塔山(とうやま)城は堂山城・相坂城ともいう。山口谷奥の通称「おごりんさん」と地元の人から呼ばれる室町期の五輪塔の並ぶ小高い山がある。「山口村古記」には城主は森河下総守が居城し、後大和国多武峰に移るとある。山口川右岸から取水する「森河用水」は今も活用されている。
「おごりんさん」から南に下った地点に東西約20メートル、南北約48メートルの本丸跡があり、三方に附属の曲輪が見られる。江戸時代の村絵図には「古城跡、武田信玄番持」の記述があるが、武田氏との関係は明らかではない。

菱野城址

ひしのじょうあと


所在地 瀬戸市羽根町
 山口川(矢田川)の高座橋のやや下流左岸(南側)には、羽根屋敷と呼ばれる小高い台地状の土地がある。ここには戦国時代に林次郎左衛門が居城したとされる菱野城跡である。林次郎左衛門は永正十四年(1517)の菱野熊野社の棟札にもその名が残り、田幡(名古屋市北区)から狩宿・井田(尾張旭市)周辺まで勢力を伸ばして織田家の重臣も輩出したとされる。
 また別の考証では、鎌倉時代初頭に山田荘の地頭職をに補された山田重忠がこの地域を支配し、その後その係累の山田泰親・親氏兄弟が居城、城構えは東西三十九間・南北五十三間、土居・堀跡などの一部を残す現在地がそれという。山田泰親はその後上菱野に山口城を築造している。
 江戸時代の村絵図の西島城徳の地に「城主石碑」が描かれている。この石碑は現在北山墓苑に移築され、自然石に「古今常徳居士」と刻まれ、林次郎左衛門のこととされている。

本地城址

ほんじじょうあと


所在地 瀬戸市西本地町1丁目
 旧本地村は現瀬戸市域の南西端に位置する。江戸時代の村絵図には氏神八幡社の南に古城跡が描かれ、「古城跡と申傳候場所屋敷畑等ニ相成、城主相分リ不申候」と記載される。『尾張志』には、城構えは東西三十五間、南北二十四間ばかりあり、東・北二方に堀の址いささか存れり、城主は松原平内なりとある。
 松原平内については、今村城主松原広長の叔父であり、文明十四年(1482)の安戸坂の戦いで広長と共に討ち死にしたと地元では伝えられている。
 現在は東側の堀部分が県道駒前線となり、堀や土塁などを地上から確認することはできないが、城跡西隣の崖下に「松原平内公本地城跡」の碑が建っている。