瀬戸永泉教会

せとえいせんきょうかい


国登録文化財
平成22年4月28日指定 所在地 瀬戸市杉塚町 
所有者 瀬戸永泉教会
文化財 木造平屋建・切妻造・瓦葺 
時代 明治33年建造、昭和5年改修

 文化財に登録された礼拝堂は、瀬戸永泉教会(プロテスタント長老派)において礼拝を行う中心的な建造物である。明治33年(1900)の創建で、昭和5年(1930)に正面六角形のステンドグラスや正面・側面の上部半円形飾り窓を取り付ける等の改修工事を行っている。木造平屋建で桁行6間・梁間4間の比較的小規模な瓦葺建物である。屋内天井部分には洋風建築に見られるトラス構造と、土蔵等に多く見られる和小屋状の貫の構造が組み合った和洋折衷の特徴が見られる。
 移築せず現存する明治期の教会建築は県内には少なく、創建から今日まで基本構造が変わらず教会堂として活動する本礼拝堂は大変貴重な文化財である。

駒前第1号墳

こままえだいいちごうふん


瀬戸市駒前町
 瀬戸市域の南部は山口川(矢田川)が東西に細長い沖積平野を形成、北に菱野丘陵、南に幡山丘陵が展開している。駒前第1号墳はこの幡山丘陵から段丘面に向かって小さく張り出した支丘先端の標高93mの位置に在る。仏法山寶生寺の境内裏山で、平成10年墓地造成工事の事前発掘調査が実施された。
 調査から、古墳1基とそれに伴う主体部1基、墳丘を取り巻く埴輪列が検出され、埴輪列の残存状況から瀬戸市域では始めての一辺が14mの方墳であることが確認された。小支丘の先端部の北側と西側に大量の土砂で盛り土をして墳丘を作り、0.5m~1m間隔で埴輪が配置されていた。埴輪列は円筒形埴輪を主体に、朝顔形埴輪・形象(家形)埴輪が出土した。主体部は墳丘中央やや東寄りに東西を主軸に1基構築され、全長3.3m、幅0.8~1mの粘土郭(木棺直葬)が確認された。出土遺物としては、先の埴輪類の他に蓋杯・高杯・壺・大甕などの須恵器で実年代では5世紀末葉に比定された。鉄製品では鉄刀2点、鉄斧、刀子、鉄鏃、金具類があった。
 本古墳の同一丘陵上には駒前第2号・同3号古墳が在り、いずれも円墳と考えられる。また、眼下北西150mの地点に瀬戸市史跡指定の本地大塚古墳(前方後円墳)が分布する。
(参考文献 「駒前第1号墳」)

暁古窯跡群

あかつきこようせきぐん


瀬戸市暁町
 水野川左岸(南側)には低山性丘陵が続く。県道中水野・品野線沿線地帯が、昭和44年から県企業局によって穴田企業団地(面積59.2ha)造成が始まり、次いで暁工業団地(面積31.3ha)造成に引き続いた。この地域には穴田古窯跡群・穴田古窯跡群・暁古窯跡群の多くの中世古窯跡が分布する。
 暁1・2号窯は昭和58年の暁地区内陸工業用地造成に伴う発掘調査で、いずれも13~14世紀に稼働した山茶碗・施釉陶器を焼造した窯であることが確認された。次いで昭和62年に暁西企業団地造成に伴う暁3・4・5号窯の緊急発掘調査が実施された。3~5号窯跡はいずれも水野丘陵北端の標高110~115mの東側斜面に並列して築造されていた。その東約500mに同1・2号窯跡が位置する。窯体部の保存状態が最も良好だった第5号窯で全長8.2m・最大幅2.6mの燃焼室・焼成室を持ち、焼成室の天井壁は滅失していたが残存する床面は32~37°の角度で上昇する。分炎柱付近は窯廃棄後に工房に改造された痕跡が確認された。物原からは工房跡(ロクロピット・土坑など)や炭焼き窯も出土した。
 3~5号窯はいずれも14世紀代の稼働で、無釉の山茶碗・小皿・片口鉢・入子や天目茶碗・平碗・皿・瓶子・四耳壺・祖母懐壺などの施釉陶器で焼造していた。
 昭和58年の調査の際には、隣接する数成口1・2号窯跡(13~14世紀代の山茶碗・施釉陶器焼成)も発掘調査されている。
(参考文献 「暁窯跡」)

穴田古墳群

あなだこふんぐん


瀬戸市穴田町
 県道中水野・品野線北側の丘陵内に11基の古墳群が分布した。現在は企業団地造成事業によって大半が滅失した。
 昭和44年8月、愛知県企業局による内陸用地造成事業(穴田企業団地)の事前調査として穴田第2・3・4号古墳の発掘調査が実施された。域内の西端の民地の1号墳と北端の5号墳は現状保存された。2号墳は標高138mの稜線に築かれ、東西径12m、南北11mの円墳で、横穴式石室は長さ7.1mの玄室と羨道、高さ1.1mまでの側壁と片袖形の奥壁は遺存していた。平瓶・蓋抔・高杯片と金環3個が出土した。3号墳も径12mほどの円墳であるが、石室の一部を残して大半が破壊され、出土品も残っていなかった。4号墳は天井石を除いて横穴式円墳の保存状態がよく、高さ1.5mまでの側壁・奥壁の花崗岩は残されていた。出土品は高杯・蓋杯・平瓶や金環・鉄鏃であったが、羨道の焼土面に中世の山茶碗が複数出土した。
 昭和46年・47年には穴田第6・7・8・10号墳の事前調査が実施された。第1次調査地に隣接した東側で造成事業の最中に発見されたものが多い。
 第6号墳は天井石をのぞいて比較的保存状態がよく、当時の床面には平瓶・高坏や土師壺や棺を置いたと思われる位置に15個体の鉄釘も出土している。第7号墳はその南約60mの位置に在り、6号墳と同じような平面プランと出土品の構成をもっていたが、保存状態はよくなかった。第10号墳の墳丘は自然流出していたが、玄室内からは石棺の蓋が出土している。1次調査の古墳が6世紀後葉から7世紀前葉代に比定されるのに対し、2次調査古墳群のものは7世紀中葉以降の築造と推定された。なお、穴田2号墳は愛知県森林公園植物園内に移築復元、4号墳は原位置で保存展示、6号墳は瀬戸市立南山中学校校庭内に移築復元されて保存されている。
 穴田第11号墳は貯水施設造成工事の事前調査で発見され昭和62年に発掘された。主体部は南に開口し、長さ4.8m、最大幅1.3m、残存側壁1.2mの両袖形構造の横穴式石室である。羨道は長さ2.5m、閉塞石が残存した。出土須恵器から7世紀後半代の古墳と比定された。
(参考文献 「穴田古墳群」「同 第2集」「穴田11号墳」)

小田妻古窯跡群

おだづまこようせきぐん


瀬戸市本郷町・はぎの台2
 中水野の本郷・小田妻地区は水野川左岸(南側)に在って標高100m前後のゆるやかな水野丘陵が展開している。昭和40年代に入って、東の穴田丘陵地の穴田企業団地造成、上水野南部丘陵地の水野準工業団地造成などが発表され、小田妻地区でも大規模な住宅団地(面積約90万㎡)の造成が始まった。地域内には小田妻古窯跡群の所在が確認されており、昭和42年7月より瀬戸市教職員考土サークルによる緊急調査発掘が行われた。第1号窯(13世紀・山茶碗窯)・3号窯(山茶碗窯・滅失)・6号窯(12世紀・均質手)と山茶碗・四耳壺・銭貨などが出土した中世の祭祀遺跡が明らかにされた。
 さらに、昭和58年に水野団地の西側の丘陵地約46haに住宅都市整備公団による水野特定土地区画整備事業が計画され、愛知県埋蔵文化財センターによる確認調査と平成元年からの事前発掘調査が実施された。その結果、山茶碗などを焼成した窯体6基(小田妻2・4・5・7~9号窯)、掘りかけの窯2基、工房跡1ヶ所、炭焼き窯1基を検出した。全体に窯体の残存状況は良好で、いずれも分炎柱を有する窖窯で長さは10m前後であるが、焼成室の最大幅は3mを超える大型のものが多かった。何故か2基の掘りかけの窯が検出されたがその築窯方法を知る手がかりに、楕円形プランの炭焼き窯や工房跡のカマド・ロクロピットなどは生活を知る資料となった。遺物は山茶碗が中心であったが、それらに混じって陶錘や陶丸、施釉陶器である灰釉四耳壺が出土している。焼成品は全て13世紀代のものであるが、灰層の最下層からは12世紀にさかのぼる可能性のある胎土の清良な山茶碗や火舎形香炉も出土している。生産品以外では窯体の前庭部や工房跡などから土師器鍋・釜がかなり出土している。
(県埋蔵文化財センター「小田妻古窯跡群」)

大坪遺跡

おおつぼいせき


瀬戸市上之山町2丁目
 国道155号線西側の斜面に立地している。民家の庭となっており、昭和31年に山口遺跡保存調査会によって一部が発掘調査され、縄文時代後期の住居跡が1軒検出されている。
 検出された遺構は、平地式住居跡で東西約6.5m、南北約5mのほぼ円形の平面プランで、床面は比較的固く締まっており、7個の柱穴と中央やや東に径50cm、深さ25cmの炉跡が検出されている。東側と南西側には周堤状の盛り土も確認されている。出土遺物には深鉢型と浅鉢型の縄文土器と石器があった。石器には、石鏃・石錐・石匙・打製石斧・磨製石斧などがあり、出土した土器の特徴から、本遺跡は約3000年前の縄文時代後期中葉から後葉の遺跡と比定された。
 周辺には大六遺跡・屋戸遺跡・西米泉遺跡などの縄文時代の遺跡や吉田遺跡・山鍵遺跡などの弥生時代の遺跡が所在し、丘陵地には群集墳が分布する。
(参考文献 「瀬戸市の先史遺跡―大坪遺跡」)

四ツ谷古墳群

よつやこふんぐん


瀬戸市内田町1丁目
 瀬戸市域内には120基余の古墳が確認されているが、その半数が、水野川流域に分布する。水野川が形成した水野谷の最下流部にあるのが四ツ谷古墳群(5基)と隣接する七郎左古墳群(8基)で海抜100m前後の丘陵上に分布する。
 旧下水野四ツ谷の採石場で緊急発掘調査が行われたのが、四ツ谷3号古墳で昭和35年12月から同36年1月にかけてのことであった。比高17mの急崖上で崩落寸前の墳丘と石室が発見され、瀬戸市教職員考土サークルによって事前調査された。その結果、封土の殆どは流失しており、石室の石が散乱する状態であったが、両袖の羨道・詰石・柱石・奥壁側に丸味をもった縦長の石室・鏡石・敷石を備えた一般的な横穴式古墳であった。基盤の岩石は古生層の砂岩・粘板岩およびチャートである。石室は全長6m、主軸の方向はN30度Eで、羨道部は長さ2.2m、幅1.4m(奥)・1.3m(羨門)の側壁・床面が残存した。平瓶・提瓶・高杯などの須恵器、青銅製環や刀子などが出土した。また2次面からは四耳壺・山茶碗・小皿などの中世陶器が出土した。
 報告書中に隣接する七郎左第3号古墳(旧中水野通称七郎左所在)の情報が載る。個人宅の納屋新築中の壁土採土で須恵器(蓋付・高杯・坩など)7個体、鉄鏃15本、ガラス玉33個を採集している。石室は最下段の石積みが一部残存したが大部分は滅失していたとされる。
(参考文献 「四ツ谷三号古墳」)

鳥原遺跡

とりはらいせき


瀬戸市鳥原町
 鳥原川沿いの沖積地に広がる散布地である。昭和62年に試掘調査を実施。
 域内の鳥原川に架かる境井橋の北の水田地帯に縄文式・弥生式土器片を出土した境井遺跡がある。昭和25年5月、境井橋・如来間の道路拡張工事の際の土採り場所の畑から多量の弥生式土器片が採集されている。土器の形式と文様からは弥生中期から後期にまたがるもので、やや粗製の石鏃も採集された。後日、採集地の北15mの丘陵西南端鳥原川に面した平地に5本のトレンチを入れる調査が行われた。その中からは縄文中期の土器片や石鏃・石屑が出土したが住居跡は発見されなかった。その上流部に鳥原縄文遺跡があって、現状宅地となっている。昭和35年5月に整地作業中に縄文土器や石鏃が出土するなど縄文土器や石器散布地となっている。
 鳥原川下流右岸(北側 品野町7丁目)一帯の低地は品野中部遺跡で、現状水田・ 畑地となっている。平成11年、「品野中部土地区画整理事業」の予備調査としトレンチ発掘が実施され、土師器・須恵器・山茶碗・施釉陶器の古代から近世遺物が確認された。中でも須恵質・土師質の平瓦や丸瓦が多数出土する地点が検出したが、事業は計画変更されて本調査に至らなかった。
(参考文献 「瀬戸市埋蔵文化財年報 昭和62年度」「研究紀要13輯」)

荏坪古墳

えつぼこふん


瀬戸市内田町1丁目
 荏坪(えつぼ)古墳は、瀬戸市内では最も石室の遺存状態の良い古墳である。水野川右岸(北側)丘陵に分布する古墳群の中では西端に位置する。古墳は個人住宅敷地内に在り、西隣りには旧下水野村氏神八幡社も在る。
 石室は横穴式石室で、棺を納める玄室とそこに至る羨道とによって構成されている。玄室の側壁、奥壁は勿論のこと天井石まで極めて良好に残っている。玄室内部の高さは2メートル以上あり、大人が立ってもなお余裕のある高さである。
 この古墳には江戸時代に和歌をよく詠む海丸という名の老人が住み、「海丸(かいまる)の穴」と呼ばれてきた。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)

聖徳太子伝

しょうとくたいしでん


瀬戸市指定典籍 5冊
平成18年2月10日 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 全5冊204丁(縦26センチ、横20センチ)
時代 室町時代中期

『聖徳太子伝』は聖徳太子の伝記である。『聖徳太子絵伝』と共に、寛正五年(1454)に今村城主松原広長によって寄進されたものである。聖徳太子は6世紀末に推古天皇の摂政として日本古代の政治・文化に数多くの業績を残した人物である。太子は仏教に深く帰依していたため、後の仏教徒にとって聖人とみなされた。中でも浄土真宗では、開祖の親鸞が熱烈な太子信奉者であったため太子の絵伝などを伝える寺院が数多くある。『聖徳太子伝』にはさまざまな説話を集めたものであるが、万徳寺蔵のものはこれらの中でも、中心的な系統の写本には無い説話も見られ、興味深く貴重な典籍である。

聖徳太子伝