志段味古墳群(尾張戸神社古墳)

しだみこふんぐん(おわりべじんじゃこふん)


国指定史跡
瀬戸市十軒町
東谷山山頂の尾張戸神社の社が墳丘上に構築されている。尾張戸神社は旧水野村(下水野)と志談味村(上志談味)にまたがる郷社で尾張国造尾張氏の祖先を祀るとされる。境内社に中之社と南之社がありいずれも古墳域に祭られている。
名古屋市教育委員会の調査では、市内最高峰の東谷山(198m)の山頂から山裾、その西麓に広がる河岸段丘上には総数67基の古墳群が分布し「志段味古墳群」と呼称されている。尾張戸神社古墳は、墳径27.5の円墳で2段築成か、墳丘斜面に角礫を主とする葺石。テラス面に石英の敷石がある。4世紀前半代に前方後円墳の白鳥塚古墳(国史跡)とともに群中で最古の築造である。
中之社を祭る中社古墳は、墳長63.5mの前方後円墳で平面形は柄鏡形に近い。地形的な影響で主軸に対し左右非対称、後円部は3段・前方部2段築成で墳丘斜面に円礫を主とする葺石がある。後円部北側の堀割に埴輪列がきわめて良好な状態で残存する。南社古墳は、墳径30mの円墳で2段築成。斜面上段は円礫による葺石、下段は角礫による葺石、テラス面に埴輪列がある。埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪がある。円筒埴輪には三角形の透孔が開けられており、中社古墳と同時期の4世紀中頃とされている。

尾張戸神社古墳

大六遺跡

だいろくいせき


瀬戸市南山口町
 西流する山口川(矢田川)に南の丘陵部から支流台六川が流入する。合流地点に近い段丘上に南側から舌状に伸びた台六台地があり、ここに台六遺跡が所在する。昭和37年に山口遺跡調査保存会によって発掘調査され、縄文時代以降の出土品や古墳時代の住居跡が検出された複合遺跡である。
 縄文遺跡面は住居跡の西側に隣接した地点で、甕棺2個体その他の縄文土器片が出土した。同地点からは多数の石器も採集され、石鏃・石斧・磨石・石棒・石刀・石錐・石匙など多種類にのぼる。石鏃は300個体を採集、石質は硬砂岩が254個、チャート44個、黒耀石と水晶各1個体であった。土器の特徴から縄文時代晩期に比定された。隣接する弥生面からは壺形土器及び高坏形土器も出土した。
 住居跡は東西3.6m(北側)~3.5m(南側)、南北3.9m(東側)~3.7m(西側)の隅丸方形竪穴平面プランであった。北側の中ほどに炉跡もあった。住居内からは生活用品としての甑・碗・高坏片が出土した。併出する須恵器片から古墳時代の住居跡と比定された。
(参考文献 「瀬戸市大六遺跡」)

深川神社古墳

ふかがわじんじゃこふん


瀬戸市深川町
 社記によれば「宝亀二(771)年勧請申伝候」とあり、延喜神名式には山田郡深川天神とある。五男三女神を祀る八王子社であり、瀬戸の産土神である。
 神社境内に古墳が在り、瀬戸川流域の唯一の古墳である。裾を全て石材で組まれた直径9mの墳丘がある。石室の平面形はやや胴の張った長方形で、最大幅は1.74m、石室入り口から奥壁までは4mの横穴式古墳である。奥壁も1枚岩ではなく、側壁同様一辺50cm以上の大型石材(花崗岩)が3段で積み組まれている。羨道部は滅失し、直接石室入り口が開口している。出土遺物は不明である。

吉野遺跡

よしのいせき


瀬戸市吉野町 
 瀬戸市南東部を流れる山口川(矢田川)の屋戸橋下流左岸(南側)の沖積地には、屋戸町遺跡・吉野遺跡・大坪東遺跡・大坪西遺跡と古代以降の遺物散布地が連続する。吉野遺跡は矢田川の支流吉田川の右岸(東側)に分布し、域内に吉田遺跡(弥生時代中期から後期にかけての土器検出)も含んでいる。
 平成12年度から瀬戸環状線道路建設に先立って、「吉野・大坪西遺跡」の発掘調査が愛知県埋蔵文化財センターによって行われた。吉野遺跡からは水田跡が2枚見つかり、平行して掘られた2条の溝と畦が確認され出土した土器から弥生時代中期の遺構とされました。また、河道から導水するための堰と思われる丸木と横木を組み合わせた柵状遺構も出土、これは古墳時代の遺構と考えられる複合遺跡であることが確認された。
 大坪西遺跡の南には縄文時代後期の住居跡を検出した大坪遺跡が、吉野遺跡の矢田川を挟んだ対岸には山鍵遺跡(弥生時代、現在は若宮遺跡に包含される)が分布し、濃密な古代遺跡が分布する地域である。
(参考 「愛知県埋蔵文化財センター 吉野・大坪遺跡」)

大目神社古墳

おおまじんじゃこふん


瀬戸市巡間町
 大目(おおま)神社は赤津の氏神で、創始は不明であるが古くは「八王子社」と呼ばれた式内社であった。その鎮座地を「大目森(おおまもり)」といわれた。
大目神社境内の北側、社殿裏側に所在する。径10m前後の墳丘が残存しており、石室も一部残存している。ただし、社殿裏の石室は石垣として石が組み替えられており、遺存状態は良くない。

品野西遺跡

しなのにしいせき


瀬戸市品野町
 品野西遺跡は、現在の瀬戸市域の北寄りの水野川が形成した品野盆地の西端に位置する。この品野盆地の周辺には、縄文時代以降の数多くの原始・古代遺跡が確認されている。品野西遺跡は品野町4・6丁目に広がる東西450m、南北500mの複合遺跡である。平成4~7年度にかけて区画整理事業の事前調査として発掘調査された。現状水田・畑地となっているが、隣接する西側の丘陵は八床粘土鉱山で域内には著名な八床古窯跡群が所在する。
 遺跡の北西部の水野川左岸の後背湿地(沖積地)とその南東部に形成された河岸段丘(洪積台地)面に集落跡が集中する。遺物包含層及び旧河道からは縄文草創期(木葉形・有舌形尖頭器10点出土グリット)・中期(深鉢)・後期・晩期の遺物採集。また隅丸方形または長形竪穴住居跡は沖積地から4棟検出、台地上からは竪穴住居跡11棟、掘立柱建物跡5棟の大規模な集落跡が検出された。住居は奈良時代から平安時代初期のものと比定された。
 品野町4丁目の丘陵東斜面(品野西遺跡の南端)からは室町時代の火葬遺構が多数検出されている。平面プランが長方形または楕円形の「火葬施設」24基は深さ10~50cmで底に石を敷くものと無いものがあった。火葬した遺骨を集めて埋納した「土擴墓」は17基(骨壺埋納2・骨片のみ13・その他)、火葬墓9基(底に石敷く6・石無し3)と当時の葬法を表すものであった。また銅銭などの副葬品や古代の住居跡(飛鳥時代)も発見された。

塚原古墳群

つかはらこふんぐん


瀬戸市若宮町2丁目
瀬戸市内には120基余の古墳が在るが、その半数近くが南部を流れる矢田川(山口川)流域に分布する。中でも山口谷奥の赤津川と海上川との合流地点の右岸(北側)丘陵、瀬戸市若宮町2丁目地内の標高150m前後の稜線を中心に多くの古墳が分布する。塚原古墳群(12基)・高塚山古墳群(3基)・山口堰堤古墳群(3基)が集中し、左岸丘陵地にも川原山古墳など6基が分布する。
昭和30年代初頭、地元の幡山東小学校の郷土史学習の一端として遺跡調査が行われ、塚原Ⅰ~7号古墳・高塚山1~3号古墳の所在が明らかにされた。さらに昭和41年には塚原1・4・6・7号墳、山口堰堤3号墳の主体部を中心とする発掘調査が行われている。
平成10年、都市計画道路瀬戸環状東部線(国道248号バイパス)が決定されたが、事業区域内に塚原古墳群が所在する事が明らかとなった。平成12年に瀬戸市埋蔵文化財センターによって試掘調査、同17年度範囲確認調査、同18年度に塚原1・4・11号墳の発掘調査が実施された。
最大級の横穴式石室をもつ第1号墳は全長7.3m、幅2.3m、高さ1.7mの規模で出土した須恵器から6世紀後半代と比定された。この古墳は歴史広場に移築保存された。
多くの須恵器や金属製品が出土しているが、古墳の規模・形式などからも、4号墳・7号墳は6世紀末から7世紀前葉、6号墳は7世紀中葉、11号墳は7世紀後葉に築造された円墳であった。
(参考文献 瀬戸市教職員考土サークル「考土」、「塚原古墳群」)

国道工事前の塚原古墳群の分布

上品野遺跡

かみしなのいせき


瀬戸市上品野町
 国道363号線の南側、上品野向橋南遺跡(須恵器・山茶碗・施釉陶器採集)のある沖積地と南側丘陵の間にある沖積地および丘陵末端部。昭和63年に鉄塔敷部分の事前調査が行われ、平成7年に自動車道工事に伴う試掘調査、翌年から発掘調査が行われた。
 平成8年の愛知県埋蔵文化財センターによる発掘調査で紀元前2.8万年紀火山灰層中から、台葉石器・局部磨製石斧他数点の後期旧石器時代の出土があった。
 昭和63年の調査では、もともと湿地帯であったため明確な遺構は存在しなかったが、湿地帯に堆積した土砂には主に丘陵上から流れ込んだ古墳時代初頭から江戸時代にかけての多量の土器、陶磁器類や木製品が含まれていた。中でも平安時代後半の灰釉陶器の碗・皿類が大量に出土した。さらに底部外部に「東」「吉」「財万」「万□」などと墨書されたものが含まれていた。また木製品では奈良時代末から平安時代初頭と思われる祓いに使用された「馬形代」や斎串が出土し、律令制下の役所で発見されることが多く、この地域に有力な豪族が存在したことが推測される。
 またこの遺跡の北、水野川対岸一帯の沖積地は水田や畑地が広がっている。北から水野川に流入する蟹川との合流地点を中心に「上品野蟹川遺跡」が広がる。縄文時代から中世にかけての遺物が散布するが、平成7年に品野台小学校の移設造成工事の事前調査として発掘が行われた。遺物包含層としては第Ⅰ期(縄文時代・後期~晩期)、第Ⅱ期(8・9世紀の須恵器、9~11世紀の灰釉陶器)、第Ⅲ期(12世紀後半~16世紀末の施釉陶器など)であった。調査区が限定されていて遺構は発見されなかったが、丘陵端の桑下城や大窯跡に隣接しそれに関連した出土品(銅銭・生活用具・大窯製品など)も出土している。
(参考文献 「瀬戸市 上品野遺跡―中電鉄塔」「上品野蟹川遺跡」)

山口八幡社古墳群

やまぐちはちまんしゃこふんぐん


瀬戸市八幡町・矢形町
旧山口村の氏神は現在山口八幡社で戦前は郷社の格をもっていた。社伝では承久の変(1221)後敗れた山田次郎重忠が山口村に落ち延び、ここに八幡宮を勧請したという。末社稲荷社は横穴式石室の中に社殿がある。この円墳が山口八幡1号墳で須恵器・金環・鉄製品が採集されている。境内には通称「杉塚」と呼ばれる古墳群がある。八幡神社の裏山の尾根上の先端部分に径15~20mの墳丘が(2号墳)、さらにその上段の尾根上に径約10mの墳丘(3号墳)が確認できる。西に隣接する本泉寺境内に本泉寺古墳(円墳)、さらにその西側に矢形古墳(滅失)が分布する。

山口八幡1号墳 石室
山口八幡3号墳

陶製梵鐘

とうせいぼんしょう


瀬戸市指定歴史資料 1口
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市深川町 所有者 法雲寺
文化財 高さ115センチ、直径79センチ 時代 昭和17年10月

日中戦争が勃発した翌昭和13年に、家庭用品を中心にした銅・鉄製品の製造規制が始まり、それと共に金属器の「代用品」を陶磁器で生産することが奨励されるようになった。昭和16年8月には「金属類回収令」が公布され、翌年5月には仏具・』梵鐘類などの強制譲渡の法制化へとエスカレートしていった。
法雲寺の梵鐘も昭和17年10月に出征したので、すぐに同時に代用品として製作したのがこの陶製梵鐘である。鐘を突くという実用性は度外視した、国内でも稀な大型「代用品」である。法雲寺は真宗大谷派で明治16年に房社が設立された。

陶製梵鐘