小田妻古窯跡群

おだづまこようせきぐん


瀬戸市本郷町・はぎの台2
 中水野の本郷・小田妻地区は水野川左岸(南側)に在って標高100m前後のゆるやかな水野丘陵が展開している。昭和40年代に入って、東の穴田丘陵地の穴田企業団地造成、上水野南部丘陵地の水野準工業団地造成などが発表され、小田妻地区でも大規模な住宅団地(面積約90万㎡)の造成が始まった。地域内には小田妻古窯跡群の所在が確認されており、昭和42年7月より瀬戸市教職員考土サークルによる緊急調査発掘が行われた。第1号窯(13世紀・山茶碗窯)・3号窯(山茶碗窯・滅失)・6号窯(12世紀・均質手)と山茶碗・四耳壺・銭貨などが出土した中世の祭祀遺跡が明らかにされた。
 さらに、昭和58年に水野団地の西側の丘陵地約46haに住宅都市整備公団による水野特定土地区画整備事業が計画され、愛知県埋蔵文化財センターによる確認調査と平成元年からの事前発掘調査が実施された。その結果、山茶碗などを焼成した窯体6基(小田妻2・4・5・7~9号窯)、掘りかけの窯2基、工房跡1ヶ所、炭焼き窯1基を検出した。全体に窯体の残存状況は良好で、いずれも分炎柱を有する窖窯で長さは10m前後であるが、焼成室の最大幅は3mを超える大型のものが多かった。何故か2基の掘りかけの窯が検出されたがその築窯方法を知る手がかりに、楕円形プランの炭焼き窯や工房跡のカマド・ロクロピットなどは生活を知る資料となった。遺物は山茶碗が中心であったが、それらに混じって陶錘や陶丸、施釉陶器である灰釉四耳壺が出土している。焼成品は全て13世紀代のものであるが、灰層の最下層からは12世紀にさかのぼる可能性のある胎土の清良な山茶碗や火舎形香炉も出土している。生産品以外では窯体の前庭部や工房跡などから土師器鍋・釜がかなり出土している。
(県埋蔵文化財センター「小田妻古窯跡群」)

大坪遺跡

おおつぼいせき


瀬戸市上之山町2丁目
 国道155号線西側の斜面に立地している。民家の庭となっており、昭和31年に山口遺跡保存調査会によって一部が発掘調査され、縄文時代後期の住居跡が1軒検出されている。
 検出された遺構は、平地式住居跡で東西約6.5m、南北約5mのほぼ円形の平面プランで、床面は比較的固く締まっており、7個の柱穴と中央やや東に径50cm、深さ25cmの炉跡が検出されている。東側と南西側には周堤状の盛り土も確認されている。出土遺物には深鉢型と浅鉢型の縄文土器と石器があった。石器には、石鏃・石錐・石匙・打製石斧・磨製石斧などがあり、出土した土器の特徴から、本遺跡は約3000年前の縄文時代後期中葉から後葉の遺跡と比定された。
 周辺には大六遺跡・屋戸遺跡・西米泉遺跡などの縄文時代の遺跡や吉田遺跡・山鍵遺跡などの弥生時代の遺跡が所在し、丘陵地には群集墳が分布する。
(参考文献 「瀬戸市の先史遺跡―大坪遺跡」)

四ツ谷古墳群

よつやこふんぐん


瀬戸市内田町1丁目
 瀬戸市域内には120基余の古墳が確認されているが、その半数が、水野川流域に分布する。水野川が形成した水野谷の最下流部にあるのが四ツ谷古墳群(5基)と隣接する七郎左古墳群(8基)で海抜100m前後の丘陵上に分布する。
 旧下水野四ツ谷の採石場で緊急発掘調査が行われたのが、四ツ谷3号古墳で昭和35年12月から同36年1月にかけてのことであった。比高17mの急崖上で崩落寸前の墳丘と石室が発見され、瀬戸市教職員考土サークルによって事前調査された。その結果、封土の殆どは流失しており、石室の石が散乱する状態であったが、両袖の羨道・詰石・柱石・奥壁側に丸味をもった縦長の石室・鏡石・敷石を備えた一般的な横穴式古墳であった。基盤の岩石は古生層の砂岩・粘板岩およびチャートである。石室は全長6m、主軸の方向はN30度Eで、羨道部は長さ2.2m、幅1.4m(奥)・1.3m(羨門)の側壁・床面が残存した。平瓶・提瓶・高杯などの須恵器、青銅製環や刀子などが出土した。また2次面からは四耳壺・山茶碗・小皿などの中世陶器が出土した。
 報告書中に隣接する七郎左第3号古墳(旧中水野通称七郎左所在)の情報が載る。個人宅の納屋新築中の壁土採土で須恵器(蓋付・高杯・坩など)7個体、鉄鏃15本、ガラス玉33個を採集している。石室は最下段の石積みが一部残存したが大部分は滅失していたとされる。
(参考文献 「四ツ谷三号古墳」)

鳥原遺跡

とりはらいせき


瀬戸市鳥原町
 鳥原川沿いの沖積地に広がる散布地である。昭和62年に試掘調査を実施。
 域内の鳥原川に架かる境井橋の北の水田地帯に縄文式・弥生式土器片を出土した境井遺跡がある。昭和25年5月、境井橋・如来間の道路拡張工事の際の土採り場所の畑から多量の弥生式土器片が採集されている。土器の形式と文様からは弥生中期から後期にまたがるもので、やや粗製の石鏃も採集された。後日、採集地の北15mの丘陵西南端鳥原川に面した平地に5本のトレンチを入れる調査が行われた。その中からは縄文中期の土器片や石鏃・石屑が出土したが住居跡は発見されなかった。その上流部に鳥原縄文遺跡があって、現状宅地となっている。昭和35年5月に整地作業中に縄文土器や石鏃が出土するなど縄文土器や石器散布地となっている。
 鳥原川下流右岸(北側 品野町7丁目)一帯の低地は品野中部遺跡で、現状水田・ 畑地となっている。平成11年、「品野中部土地区画整理事業」の予備調査としトレンチ発掘が実施され、土師器・須恵器・山茶碗・施釉陶器の古代から近世遺物が確認された。中でも須恵質・土師質の平瓦や丸瓦が多数出土する地点が検出したが、事業は計画変更されて本調査に至らなかった。
(参考文献 「瀬戸市埋蔵文化財年報 昭和62年度」「研究紀要13輯」)

荏坪古墳

えつぼこふん


瀬戸市内田町1丁目
 荏坪(えつぼ)古墳は、瀬戸市内では最も石室の遺存状態の良い古墳である。水野川右岸(北側)丘陵に分布する古墳群の中では西端に位置する。古墳は個人住宅敷地内に在り、西隣りには旧下水野村氏神八幡社も在る。
 石室は横穴式石室で、棺を納める玄室とそこに至る羨道とによって構成されている。玄室の側壁、奥壁は勿論のこと天井石まで極めて良好に残っている。玄室内部の高さは2メートル以上あり、大人が立ってもなお余裕のある高さである。
 この古墳には江戸時代に和歌をよく詠む海丸という名の老人が住み、「海丸(かいまる)の穴」と呼ばれてきた。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)

志段味古墳群(尾張戸神社古墳)

しだみこふんぐん(おわりべじんじゃこふん)


国指定史跡
瀬戸市十軒町
東谷山山頂の尾張戸神社の社が墳丘上に構築されている。尾張戸神社は旧水野村(下水野)と志談味村(上志談味)にまたがる郷社で尾張国造尾張氏の祖先を祀るとされる。境内社に中之社と南之社がありいずれも古墳域に祭られている。
名古屋市教育委員会の調査では、市内最高峰の東谷山(198m)の山頂から山裾、その西麓に広がる河岸段丘上には総数67基の古墳群が分布し「志段味古墳群」と呼称されている。尾張戸神社古墳は、墳径27.5の円墳で2段築成か、墳丘斜面に角礫を主とする葺石。テラス面に石英の敷石がある。4世紀前半代に前方後円墳の白鳥塚古墳(国史跡)とともに群中で最古の築造である。
中之社を祭る中社古墳は、墳長63.5mの前方後円墳で平面形は柄鏡形に近い。地形的な影響で主軸に対し左右非対称、後円部は3段・前方部2段築成で墳丘斜面に円礫を主とする葺石がある。後円部北側の堀割に埴輪列がきわめて良好な状態で残存する。南社古墳は、墳径30mの円墳で2段築成。斜面上段は円礫による葺石、下段は角礫による葺石、テラス面に埴輪列がある。埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪がある。円筒埴輪には三角形の透孔が開けられており、中社古墳と同時期の4世紀中頃とされている。

尾張戸神社古墳

大六遺跡

だいろくいせき


瀬戸市南山口町
 西流する山口川(矢田川)に南の丘陵部から支流台六川が流入する。合流地点に近い段丘上に南側から舌状に伸びた台六台地があり、ここに台六遺跡が所在する。昭和37年に山口遺跡調査保存会によって発掘調査され、縄文時代以降の出土品や古墳時代の住居跡が検出された複合遺跡である。
 縄文遺跡面は住居跡の西側に隣接した地点で、甕棺2個体その他の縄文土器片が出土した。同地点からは多数の石器も採集され、石鏃・石斧・磨石・石棒・石刀・石錐・石匙など多種類にのぼる。石鏃は300個体を採集、石質は硬砂岩が254個、チャート44個、黒耀石と水晶各1個体であった。土器の特徴から縄文時代晩期に比定された。隣接する弥生面からは壺形土器及び高坏形土器も出土した。
 住居跡は東西3.6m(北側)~3.5m(南側)、南北3.9m(東側)~3.7m(西側)の隅丸方形竪穴平面プランであった。北側の中ほどに炉跡もあった。住居内からは生活用品としての甑・碗・高坏片が出土した。併出する須恵器片から古墳時代の住居跡と比定された。
(参考文献 「瀬戸市大六遺跡」)

深川神社古墳

ふかがわじんじゃこふん


瀬戸市深川町
 社記によれば「宝亀二(771)年勧請申伝候」とあり、延喜神名式には山田郡深川天神とある。五男三女神を祀る八王子社であり、瀬戸の産土神である。
 神社境内に古墳が在り、瀬戸川流域の唯一の古墳である。裾を全て石材で組まれた直径9mの墳丘がある。石室の平面形はやや胴の張った長方形で、最大幅は1.74m、石室入り口から奥壁までは4mの横穴式古墳である。奥壁も1枚岩ではなく、側壁同様一辺50cm以上の大型石材(花崗岩)が3段で積み組まれている。羨道部は滅失し、直接石室入り口が開口している。出土遺物は不明である。

吉野遺跡

よしのいせき


瀬戸市吉野町 
 瀬戸市南東部を流れる山口川(矢田川)の屋戸橋下流左岸(南側)の沖積地には、屋戸町遺跡・吉野遺跡・大坪東遺跡・大坪西遺跡と古代以降の遺物散布地が連続する。吉野遺跡は矢田川の支流吉田川の右岸(東側)に分布し、域内に吉田遺跡(弥生時代中期から後期にかけての土器検出)も含んでいる。
 平成12年度から瀬戸環状線道路建設に先立って、「吉野・大坪西遺跡」の発掘調査が愛知県埋蔵文化財センターによって行われた。吉野遺跡からは水田跡が2枚見つかり、平行して掘られた2条の溝と畦が確認され出土した土器から弥生時代中期の遺構とされました。また、河道から導水するための堰と思われる丸木と横木を組み合わせた柵状遺構も出土、これは古墳時代の遺構と考えられる複合遺跡であることが確認された。
 大坪西遺跡の南には縄文時代後期の住居跡を検出した大坪遺跡が、吉野遺跡の矢田川を挟んだ対岸には山鍵遺跡(弥生時代、現在は若宮遺跡に包含される)が分布し、濃密な古代遺跡が分布する地域である。
(参考 「愛知県埋蔵文化財センター 吉野・大坪遺跡」)

大目神社古墳

おおまじんじゃこふん


瀬戸市巡間町
 大目(おおま)神社は赤津の氏神で、創始は不明であるが古くは「八王子社」と呼ばれた式内社であった。その鎮座地を「大目森(おおまもり)」といわれた。
大目神社境内の北側、社殿裏側に所在する。径10m前後の墳丘が残存しており、石室も一部残存している。ただし、社殿裏の石室は石垣として石が組み替えられており、遺存状態は良くない。