瀬戸市深川町
社記によれば「宝亀二(771)年勧請申伝候」とあり、延喜神名式には山田郡深川天神とある。五男三女神を祀る八王子社であり、瀬戸の産土神である。
神社境内に古墳が在り、瀬戸川流域の唯一の古墳である。裾を全て石材で組まれた直径9mの墳丘がある。石室の平面形はやや胴の張った長方形で、最大幅は1.74m、石室入り口から奥壁までは4mの横穴式古墳である。奥壁も1枚岩ではなく、側壁同様一辺50cm以上の大型石材(花崗岩)が3段で積み組まれている。羨道部は滅失し、直接石室入り口が開口している。出土遺物は不明である。
カテゴリー: 文化・文化財
吉野遺跡
よしのいせき
瀬戸市吉野町
瀬戸市南東部を流れる山口川(矢田川)の屋戸橋下流左岸(南側)の沖積地には、屋戸町遺跡・吉野遺跡・大坪東遺跡・大坪西遺跡と古代以降の遺物散布地が連続する。吉野遺跡は矢田川の支流吉田川の右岸(東側)に分布し、域内に吉田遺跡(弥生時代中期から後期にかけての土器検出)も含んでいる。
平成12年度から瀬戸環状線道路建設に先立って、「吉野・大坪西遺跡」の発掘調査が愛知県埋蔵文化財センターによって行われた。吉野遺跡からは水田跡が2枚見つかり、平行して掘られた2条の溝と畦が確認され出土した土器から弥生時代中期の遺構とされました。また、河道から導水するための堰と思われる丸木と横木を組み合わせた柵状遺構も出土、これは古墳時代の遺構と考えられる複合遺跡であることが確認された。
大坪西遺跡の南には縄文時代後期の住居跡を検出した大坪遺跡が、吉野遺跡の矢田川を挟んだ対岸には山鍵遺跡(弥生時代、現在は若宮遺跡に包含される)が分布し、濃密な古代遺跡が分布する地域である。
(参考 「愛知県埋蔵文化財センター 吉野・大坪遺跡」)
大目神社古墳
おおまじんじゃこふん
瀬戸市巡間町
大目(おおま)神社は赤津の氏神で、創始は不明であるが古くは「八王子社」と呼ばれた式内社であった。その鎮座地を「大目森(おおまもり)」といわれた。
大目神社境内の北側、社殿裏側に所在する。径10m前後の墳丘が残存しており、石室も一部残存している。ただし、社殿裏の石室は石垣として石が組み替えられており、遺存状態は良くない。
品野西遺跡
しなのにしいせき
瀬戸市品野町
品野西遺跡は、現在の瀬戸市域の北寄りの水野川が形成した品野盆地の西端に位置する。この品野盆地の周辺には、縄文時代以降の数多くの原始・古代遺跡が確認されている。品野西遺跡は品野町4・6丁目に広がる東西450m、南北500mの複合遺跡である。平成4~7年度にかけて区画整理事業の事前調査として発掘調査された。現状水田・畑地となっているが、隣接する西側の丘陵は八床粘土鉱山で域内には著名な八床古窯跡群が所在する。
遺跡の北西部の水野川左岸の後背湿地(沖積地)とその南東部に形成された河岸段丘(洪積台地)面に集落跡が集中する。遺物包含層及び旧河道からは縄文草創期(木葉形・有舌形尖頭器10点出土グリット)・中期(深鉢)・後期・晩期の遺物採集。また隅丸方形または長形竪穴住居跡は沖積地から4棟検出、台地上からは竪穴住居跡11棟、掘立柱建物跡5棟の大規模な集落跡が検出された。住居は奈良時代から平安時代初期のものと比定された。
品野町4丁目の丘陵東斜面(品野西遺跡の南端)からは室町時代の火葬遺構が多数検出されている。平面プランが長方形または楕円形の「火葬施設」24基は深さ10~50cmで底に石を敷くものと無いものがあった。火葬した遺骨を集めて埋納した「土擴墓」は17基(骨壺埋納2・骨片のみ13・その他)、火葬墓9基(底に石敷く6・石無し3)と当時の葬法を表すものであった。また銅銭などの副葬品や古代の住居跡(飛鳥時代)も発見された。
塚原古墳群
つかはらこふんぐん
瀬戸市若宮町2丁目
瀬戸市内には120基余の古墳が在るが、その半数近くが南部を流れる矢田川(山口川)流域に分布する。中でも山口谷奥の赤津川と海上川との合流地点の右岸(北側)丘陵、瀬戸市若宮町2丁目地内の標高150m前後の稜線を中心に多くの古墳が分布する。塚原古墳群(12基)・高塚山古墳群(3基)・山口堰堤古墳群(3基)が集中し、左岸丘陵地にも川原山古墳など6基が分布する。
昭和30年代初頭、地元の幡山東小学校の郷土史学習の一端として遺跡調査が行われ、塚原Ⅰ~7号古墳・高塚山1~3号古墳の所在が明らかにされた。さらに昭和41年には塚原1・4・6・7号墳、山口堰堤3号墳の主体部を中心とする発掘調査が行われている。
平成10年、都市計画道路瀬戸環状東部線(国道248号バイパス)が決定されたが、事業区域内に塚原古墳群が所在する事が明らかとなった。平成12年に瀬戸市埋蔵文化財センターによって試掘調査、同17年度範囲確認調査、同18年度に塚原1・4・11号墳の発掘調査が実施された。
最大級の横穴式石室をもつ第1号墳は全長7.3m、幅2.3m、高さ1.7mの規模で出土した須恵器から6世紀後半代と比定された。この古墳は歴史広場に移築保存された。
多くの須恵器や金属製品が出土しているが、古墳の規模・形式などからも、4号墳・7号墳は6世紀末から7世紀前葉、6号墳は7世紀中葉、11号墳は7世紀後葉に築造された円墳であった。
(参考文献 瀬戸市教職員考土サークル「考土」、「塚原古墳群」)

上品野遺跡
かみしなのいせき
瀬戸市上品野町
国道363号線の南側、上品野向橋南遺跡(須恵器・山茶碗・施釉陶器採集)のある沖積地と南側丘陵の間にある沖積地および丘陵末端部。昭和63年に鉄塔敷部分の事前調査が行われ、平成7年に自動車道工事に伴う試掘調査、翌年から発掘調査が行われた。
平成8年の愛知県埋蔵文化財センターによる発掘調査で紀元前2.8万年紀火山灰層中から、台葉石器・局部磨製石斧他数点の後期旧石器時代の出土があった。
昭和63年の調査では、もともと湿地帯であったため明確な遺構は存在しなかったが、湿地帯に堆積した土砂には主に丘陵上から流れ込んだ古墳時代初頭から江戸時代にかけての多量の土器、陶磁器類や木製品が含まれていた。中でも平安時代後半の灰釉陶器の碗・皿類が大量に出土した。さらに底部外部に「東」「吉」「財万」「万□」などと墨書されたものが含まれていた。また木製品では奈良時代末から平安時代初頭と思われる祓いに使用された「馬形代」や斎串が出土し、律令制下の役所で発見されることが多く、この地域に有力な豪族が存在したことが推測される。
またこの遺跡の北、水野川対岸一帯の沖積地は水田や畑地が広がっている。北から水野川に流入する蟹川との合流地点を中心に「上品野蟹川遺跡」が広がる。縄文時代から中世にかけての遺物が散布するが、平成7年に品野台小学校の移設造成工事の事前調査として発掘が行われた。遺物包含層としては第Ⅰ期(縄文時代・後期~晩期)、第Ⅱ期(8・9世紀の須恵器、9~11世紀の灰釉陶器)、第Ⅲ期(12世紀後半~16世紀末の施釉陶器など)であった。調査区が限定されていて遺構は発見されなかったが、丘陵端の桑下城や大窯跡に隣接しそれに関連した出土品(銅銭・生活用具・大窯製品など)も出土している。
(参考文献 「瀬戸市 上品野遺跡―中電鉄塔」「上品野蟹川遺跡」)
山口八幡社古墳群
やまぐちはちまんしゃこふんぐん
惣作・鐘場遺跡
そうさく・かねばいせき
瀬戸市惣作町・鐘場町
猿投山を水源として赤津地区を流れる赤津川(矢田川)の左岸(南側)の沖積低地・河岸段丘面は古代から近世に亘る遺物散布地となっている。この遺跡の上流部は大目神社古墳や大目神社遺跡に接し、下流部には旧石器が発見された太子遺跡や太子縄文遺跡を包含する。
平成14・15年度、瀬戸市道新明・鐘場線建設工事に先立つ事前発掘調査が瀬戸市埋蔵文化財センターによって行われた。その結果、縄文時代から江戸時代までの土器・土師器・須恵器・山茶碗・古瀬戸製品・大窯製品など多種多様な出土遺物を採集した。また弥生時代・古墳時代・奈良時代の各竪穴式住居跡も検出し、とくに戦国時代の大溝や土坑の遺構はこの時代の集落形態を考える際の貴重な資料である。
平成15・16年度に大目神社南の「惣作・鐘場遺跡Ⅱ」の発掘調査も継続され、その際には後期旧石器時代のナイフ形石器や縄文時代草創期の石器製作跡を検出、また古墳時代から古代・中世の各集落遺構・遺物を多数検出した。
(参考文献 瀬戸市埋蔵文化財センター「惣作・鐘場遺跡Ⅰ・Ⅱ」)
宮地古墳群
みやちこふんぐん
祠堂帳
しどうちょう
瀬戸市指定歴史資料 1巻
平成11年11月12日指定 所在地 瀬戸市定光寺町
所有者 定光寺
文化財 巻子装一巻幅29.9センチ、長さ1080.3センチ
時代 室町時代
定光寺は濃尾地方で活躍した禅僧覚源禅師により建武三年(1336)に開山、室町時代から戦国時代にかけて、朝廷や武家の後援を得て地域に基盤を据えて発展した。同寺院には多くの古文献が残るが、祠堂帳は地域的基盤の具体相を記す古文書である。祠堂帳は文明年間(15世紀中)から天正七年(1579)にかけて書き継がれたもので、信仰者が永代供養を依願して動産・不動産を寄進したことを年次を追って記入されている。瀬戸市内は勿論、東濃・尾張東部など各地の地名・人名の記載が豊か、瀬戸市内の中世史を語る文献史料である。
寛政五年(1793)と昭和58年の修補で現況(表紙・裏打紙・軸)とした。
