釜ヶ洞古窯跡群

かまがほらこようせきぐん


瀬戸市白山町1・緑町1・東赤重町2
 愛知県住宅供給公社による人口3万人規模の県営菱野団地の建設が昭和44年から始まった。それに先立って、昭和42年から造成地内の24古窯址の発掘調査が実施された。この菱野団地の県道愛知青少年公園・瀬戸線を挟んだ南西の丘陵地も国鉄岡多線建設や新設高校などの公共施設建設の「南部土地区画整理事業」が計画された。それに先立って昭和51・52年に丘陵地に確認されていた5基の窯跡が調査された。先の調査を補完(菱野団地古窯跡群の支群)するものであった。
 釜ヶ洞1・2号窯 1号窯は2号窯の南約25m(標高125m)の西向き斜面に位置する。トレンチ調査により、舟底形の窯体痕は確認できたが、窯壁も床面も自然流失していた。物原からは、下層に見込みに印花をもつ瀬戸系、上層からは行基系碗が出土、かねて瀬戸唯一の古瓦出土の窯と知られていたが、巴紋軒先丸瓦・唐草文軒先平瓦などの瓦類、四耳壺・洗・水瓶・入子・おろし皿など多種類の陶器片が出土した。2号窯は、すでに既設の信用金庫グランド造成の際に物原は削平され、丘陵斜面の窯跡(標高125m)も滅失確認できなかった。わずかな灰原からは行基系碗・皿・こね鉢が出土した。
 平子2号窯 戦中・戦後の開墾地で現状は一面の笹原に盗掘により、左側壁の一部が露出していた。標高96mの細砂性粘土の緩斜面に分炎柱前後の窯体が検出された。燃焼室は長さ1.2mで最大幅1.6mのやや落し込み床面、分炎柱は径60×40cmのスサ入粘土で整形、燃焼室は長さ1.6m、幅2.4mが残存した。出土品は瀬戸系の上手碗・皿、四耳壺、入子、合子蓋(竹管印花文)、象形物(馬)などがあった。
 緑1・2号窯 すでに造成された新設高校グランド西に向かい合う丘陵山頂部(標高110m)に古窯跡があり、盗掘により窯壁の一部が露出し、遺物が散乱していた。東側の1号窯は比較的保存状態が良く、アーチを残す窖窯を復元することができた。焚口から残存する窯体の長さ8.8m、最大幅2.9m比較的規模の大きなもので、少なくとも2次焼成された痕跡があった。出土品は瀬戸系・行基系の碗(印花)・皿、四耳壺、こね鉢、瓶子・水注・洗・合子(刻目文)などであった。
 併存する西側の2号窯跡は分炎柱(径52×56cm)と焼成室(長さ5.2×最大幅2.4m、焼台10個残)が検出された。出土品は行基系碗・皿・陶弾であった。稼働時期としては、釜ヶ洞1号窯は12世紀、同2号窯は12~13世紀、平子2号窯及び緑1・2号窯はそれぞれ13世紀代に比定される。(「釜ヶ洞古窯址群―菱野団地古窯阯群の支群」)