山の田町

やまのたちょう


昭和45年4月15日、大字本地の一部を町名設定。もとは本地の一部。寛政5年の本地村村絵図にも「山ノ田」や雨池,(山ノ田池)が描かれており、「カリマタ,(雁又)」の沢に開田された水田の呼称であったようである。

山路町

やまじちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。山路嶋は江戸期からの郷で、『尾張徇行記』にも「支邑山路ト云、是ハ本郷ヨリ二十町ホトヘタチ、三州猿投山境ニアリ、元ハ本田所ナリシカ、頽敗シテ再見取畠ヲヒラケリ、此山路ハ万治年中ニ再興スト也」と記し、弘化2年の記録では戸数4戸の集落であったとあり、江戸時代には赤津村の支村として山路があったとされる。山路町は、猿投山の西山麓に位置し、山口町から猿投山に登る険しい山道があるところから、山路と呼ばれるようになったといわれる。

洞町

ほらまち


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、西洞町は明治期の瀬戸村大字瀬戸字東郷・仲洞・一里塚の一部、仲洞町は同東郷・仲洞の一部、東洞町は同東洞・仲洞の一部。山地の谷が行きづまる所を洞と呼び、瀬戸村東部にある宝泉寺の南方を通称洞と呼んでいた。町名設定の際、この地を西、仲、東と三つに分けて町名にしたものである。
西洞町
仲洞町
東洞町

弁天町

べんてんちょう


昭和54年12月1日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。幡山中学校の正門横に池があり、これを昔から弁天池と呼んでいる。この池のほとりに弁天様が祀ってあるところから、弁天池と呼ばれている。この池の北側の地を弁天町と呼ぶようになった。

東松山町

ひがしまつやまちょう


昭和32年7月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。
→松山町
→マメナシ・瀬戸市指定天然記念物

東吉田町

ひがしよしだちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。昭和41年からは1~3丁目がある。昭和41年田端町・川北町・效範町・南山町と境界変更、同43年横山町の一部を編入。