加藤四郎左衛門景正は、「春慶」とも号し、鎌倉時代に瀬戸窯を開いた人物「陶祖」として、瀬戸ではこれまで伝えられてきた。江戸時代の諸本史料に伝えられた陶祖伝記では、貞応2(1223)年に曹洞宗開祖の道元に従って中国(宋)へ渡り、作陶修業の後に帰国し、瀬戸において良土を発見して窯を築き、これにより瀬戸窯が始まったとされる。
しかし、陶祖に関する史料に江戸時代以前からのものが全くみられないことや、瀬戸窯の始まりが平安時代まで遡ることが考古学調査等によって明らかになるにつれ、陶祖藤四郎の瀬戸窯開窯説が疑問視されるようになり、人物そのものの存否についても論争がなされている。
「藤四郎」の名が、史料上でみられる最も古いものは、鎌倉時代末期の正応2(1289)年の年号が記された鉄釉肩衝茶入とされているが、実物の所在は不明で、実在が確認される記載史料は室町時代末に作成された春日井市の『円福寺寄進帳』に「藤四郎茶碗」が寄進物として記載されている。16世紀の戦国時代には、葉茶壺として利用される「祖母懐」壺に「藤四郎」銘のものがあり、同時期の堺や博多の豪商や茶人らの記した茶会記には中国製の「唐物」茶入が全盛な中「春ケイ茶入」の記述もあり、戦国時代から江戸時代前期には茶入の祖、茶陶の名工として「藤四郎」が位置づけられていたとみられる。江戸時代中期以降には、瀬戸の窯屋が、加藤景正からの正統性である「筋目」を示すものとして、藤四郎陶祖伝記が語り継がれることとなり、その出生や出身地、瀬戸で窯を築くまでの経歴が伝記に加わり整えられていく。それらの陶祖伝記が完成され、幕末に再び藤四郎顕彰の機運が高まった中で制作されたのが、六角陶碑(陶祖碑)である。
参考文献:服部郁・岩井理2014『陶祖傳-陶祖伝記とその時代-』