津金文左衛門胤臣たねおみ

享保12(1727)年9月9日~享和元(1801)年12月19日
江戸中期の尾張藩士。金方御納戸役津金文左衛門胤忠の長子として生まれた。
寛政3(1791)年熱田奉行に仰せ付けられ熱田前新田の開発に従事した。享和元(1801)年に熱田新田の築立工事が完了すると、排水・用水路・道路の開設などのため国内各地から入植の農民を募ったところ、瀬戸村からも十数人の応募者があった。その中の加藤吉左衛門・民吉父子に目を留めた津金は、瀬戸村窯屋の現状を知ると吉左衛門に磁器の製法を教えた。盃程度の小さいものが作れるようになると熱田新田古堤に窯を築きたてようとするも病にかかり同年12月19日に病死。享年75歳。
その後磁器開発指導・援助は養嗣子の津金庄七へと引き継がれ瀬戸の磁器生産は発展していった。

津金胤臣父子頌徳碑

加藤四郎左衛門景正かげまさ

加藤四郎左衛門景正は、「春慶」とも号し、鎌倉時代に瀬戸窯を開いた人物「陶祖」として、瀬戸ではこれまで伝えられてきた。江戸時代の諸本史料に伝えられた陶祖伝記では、貞応2(1223)年に曹洞宗開祖の道元に従って中国(宋)へ渡り、作陶修業の後に帰国し、瀬戸において良土を発見して窯を築き、これにより瀬戸窯が始まったとされる。
しかし、陶祖に関する史料に江戸時代以前からのものが全くみられないことや、瀬戸窯の始まりが平安時代まで遡ることが考古学調査等によって明らかになるにつれ、陶祖藤四郎の瀬戸窯開窯説が疑問視されるようになり、人物そのものの存否についても論争がなされている。
「藤四郎」の名が、史料上でみられる最も古いものは、鎌倉時代末期の正応2(1289)年の年号が記された鉄釉肩衝茶入とされているが、実物の所在は不明で、実在が確認される記載史料は室町時代末に作成された春日井市の『円福寺寄進帳』に「藤四郎茶碗」が寄進物として記載されている。16世紀の戦国時代には、葉茶壺として利用される「祖母懐」壺に「藤四郎」銘のものがあり、同時期の堺や博多の豪商や茶人らの記した茶会記には中国製の「唐物」茶入が全盛な中「春ケイ茶入」の記述もあり、戦国時代から江戸時代前期には茶入の祖、茶陶の名工として「藤四郎」が位置づけられていたとみられる。江戸時代中期以降には、瀬戸の窯屋が、加藤景正からの正統性である「筋目」を示すものとして、藤四郎陶祖伝記が語り継がれることとなり、その出生や出身地、瀬戸で窯を築くまでの経歴が伝記に加わり整えられていく。それらの陶祖伝記が完成され、幕末に再び藤四郎顕彰の機運が高まった中で制作されたのが、六角陶碑(陶祖碑)である。
参考文献:服部郁・岩井理2014『陶祖傳-陶祖伝記とその時代-』

加藤四郎左衛門景正(瀬戸蔵ミュージアム蔵)

 

加藤民吉

かとうたみきち


明和8年(1771)2月20日~文政7年(1824)7月4日

江戸時代後期の瀬戸染付磁器の技術躍進に尽力した陶工。その功績により、瀬戸では「磁祖」として尊崇を集めている。
大松窯の加藤吉左衛門の次男として瀬戸西谷(現:瀬戸市西谷町)に生まれ幼いころから家業を手伝い陶器を生産するも、当時の瀬戸では長男のみしか窯を継ぐことができなかったため、次男であった民吉は家族を連れて熱田前新田の開発に取り組むこととなった。
伝説では元来百姓ではない民吉は田畑に関することは不慣れであったため、視察に来ていた熱田奉行津金文左衛門(胤臣)の目にとまり、民吉が瀬戸村より来た窯屋の者であるとわかると、磁器の製法に明るかった文左衛門は吉左衛門・民吉父子にその製法を伝授することにしたとなっている。また、文左衛門の指導のもと染付焼の製作を行うも精巧なものは作れなかったため、享和3年(1803)に三田の窯(現:兵庫県三田市)へ視察に行ったとされているが定かではない。
瀬戸で染付焼を作るも精巧なものは作れず、吉左衛門は九州に行ってその技法を学ぶべしと考え、民吉を九州へ遣わし磁器生産を学ばせたいと水野代官水野権平へ出願した。その後文左衛門の養嗣子である津金庄七や水野権平、加藤唐左衛門の尽力により尾張藩の許可を得た民吉は愛知郡菱野村(現:菱野町)出身の天中和尚を頼り文化元年(1804)2月22日に瀬戸を出発して東向寺(熊本県天草市)へ向かった。その後曹洞宗の寺院を渡り歩き、自分の身分を明かした上で磁器生産について学んだ。製土法・成形法・釉薬調合法・焼成法・絵付技法などを学んだ民吉は文化4年(1807)5月13日に帰国の途につき、6月18日瀬戸へと帰った。その後、磁器を焼くための丸窯を瀬戸の各所に作成、また磁器にふさわしい素地を作り出し瀬戸焼発展に尽力した。

参考 瀬戸市史編纂委員会『瀬戸市史 陶磁史篇三』(1967年)
加藤庄三『民吉街道 瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』(1982年)
藤井能成『民吉読本 民吉ものがたり』(1997年)

民吉街道
加藤民吉翁碑
加藤民吉翁像
津金文左衛門胤臣
西谷町