金光教瀬戸教会

こんこんきょうせときょうかい


瀬戸市京町2-61
大正4年(1915)6月3日 布教開始。教会長 畔柳俊雄(くろやなぎ としお)。金光教は、教祖金光大神が1859年に家業をやめ、一切の生活を天地金乃神に捧げ、人々の願いを神取次ぎ、神の願いを人々に取付ぐことに始まる。教祖は、人々の苦悩や願いを聞いて神に祈り、人間のあらゆる営みに神の願いを現す生き方を、その人の実情と問題に即して、懇ろに導いた。人々は、この取次によって神の恩恵と願いに目覚め、生きる力と方向を見だし助かってきた。当教会は、教祖の取次の業を受け継ぎ、神とともに生きる自由で創造的な精神と、日常の生活実践を通して、人が助かる道の実現を願い、信徒会、青年会、少年少女などの活動をしている。岡山県金光町に本部広前があり、全国及び海外に1680余りの教会がある(1989年時点)。

金光教 瀬戸教会

曽野の礎石

そののそせき


瀬戸市曽野町
 瀬戸市曽野町の水田の中に「作石(つくりいし)」と呼ばれてきた花崗岩の巨石がある。この四角形の巨石は、縦180センチ、横190センチ、厚さ47センチで、上面の中央部には径57センチ、深さ6センチの浅い円形の孔が穿ってある。三味線胴形の張り出しもあり、瀬戸市史編纂監修者からは白鳳期の古代寺院の塔の心柱の礎石であるという見解が出されている。近くに「穴の宮」の地名はあるが寺院を示す遺構・遺物は全く見られず、そうした伝承もない。
 しかし、周辺には花崗岩の切り出し場もあり、この場所の近くで作られた礎石が残されたという見解もある。近くの住民の中に「作石(さくいし)」姓が残る。いずれにせよ、寺院の礎石であるとすれば、千余年前の寺院建築の一端を示すものとなり、瀬戸の古代を考える上で貴重な資料である。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)

瀬戸永泉教会

せとえいせんきょうかい


国登録文化財
平成22年4月28日指定 所在地 瀬戸市杉塚町 
所有者 瀬戸永泉教会
文化財 木造平屋建・切妻造・瓦葺 
時代 明治33年建造、昭和5年改修

 文化財に登録された礼拝堂は、瀬戸永泉教会(プロテスタント長老派)において礼拝を行う中心的な建造物である。明治33年(1900)の創建で、昭和5年(1930)に正面六角形のステンドグラスや正面・側面の上部半円形飾り窓を取り付ける等の改修工事を行っている。木造平屋建で桁行6間・梁間4間の比較的小規模な瓦葺建物である。屋内天井部分には洋風建築に見られるトラス構造と、土蔵等に多く見られる和小屋状の貫の構造が組み合った和洋折衷の特徴が見られる。
 移築せず現存する明治期の教会建築は県内には少なく、創建から今日まで基本構造が変わらず教会堂として活動する本礼拝堂は大変貴重な文化財である。

忠霊塔

ちゅれいとう


窯神神社の東側の御亭山に現在、忠霊塔(忠魂碑)がある。かつては現在のJRバス記念橋の場所にあった。1939年(昭和14年)発行の瀬戸読本に次のように記されている。忠魂碑:一、国の富をつくるてふ名に負ふ瀬戸の市中に桜若木に包まれて屹然立てり忠魂碑 二、日清役を始めとし聖戦ここにいくそたび護国の華と散りましし英霊祀る忠魂碑 三、右手に振ひし破邪の剣左手に高し日章旗興亜不朽の人柱勲輝く忠魂碑 四、神代このかた武に誇る日本男児の鑑にて万代不滅の光ぞと誉は高し忠魂碑 五、仰ぐ忠霊いや高く五万市民の朝夕に国の鎮めと虔みてかしこみまつる忠魂碑。

三地蔵

さんじぞう


洞の元市会議員・加藤新治氏宅のあたりから北へ細道を登り切った山の頂きを地蔵ヶ嶺という。頂上に立つと眼の下に拝戸の人家が見える。その処の石室のように作られた場所に祀られているのが地蔵観音である。できものを癒す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日になっている。向って左に祀られている「人馬安全天保四年巳四月吉日」と刻んだ石像が地蔵観音で、向って右は「慶応四年辰三月廿一日、恵林明可信士」と刻んだ石像で、これは加藤親治氏の祖父・弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祀ったものである。弘三郎が『腹の痛むものは、私を頼めば癒してやる』と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祀りはじめたものである。地蔵観音として祀られているのは、武夫の高祖母に当る人で、俗名は判らないが「梅心妙量信女、天保二年三月廿七日亡」である。博助氏宅の南に当る山の中腹に「眼墓観音」という石碑があると聞き、博助氏の案内で調べると『天明三年四月三日、快運妙慶信女』と刻まれているが、誰人を祀ったものか判らない。眼墓観音というのだから、これも眼病に苦しんだ人の遺言によって建てられたものと想像されるが、地蔵観音よりも一時代古いので、伝承も廃れ、世人からも忘れ去られたのであろう。

三地蔵

東福寺

とうふくじ


菱野1829
旧菱野村東福寺は天台宗の寺院で、寺伝によれば12世紀に開かれ永正13年(1516)火災により全焼。翌14年(1517)の菱野熊野社棟札銘には「別当・東福寺秀海」とあり、東福寺の僧侶が熊野神社の別当を務めていたことが分かる。昭和25年(1950)に無住となり、廃寺となった。

東福寺
東福寺

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。

弥蔵観音

平等庵

びょうどうあん


瀬戸市東町
洞の東町の奥に平等庵がある。平等庵は名古屋の熱田の旗屋町にある登和山青大悲寺の末寺で御本尊は阿弥陀如来である。この寺は修業寺で、住職は本元の青大悲寺で厳しい修業をした尼さんが派遣されてくる。修業寺であるから日課は大変厳格に守られている。朝3時に起床、3時から5時30分まで座禅、5時30分からおつとめ、7時に食事、7時30分から座禅、また食事は参禅するとだされる質素なものである。この寺に檀家はない。宝泉寺の檀家をすこしばかりあずかって月まいりをする程度である。お祭りは春の花祭りとお彼岸とお寺のお祭りがある。お寺のお祭りは年に1回、本元の青大悲寺から指定された日に位の高い尼さんが派遣されておこなわれる。その日には地元の洞をはじめ、名古屋から多くの信者が集まり、座禅やおつとめや説教が盛大におこなわれる。

平等庵
平等庵

 

馬頭観音

ばとうかんのん


馬頭観音は、馬頭明王、馬頭金剛明王などと呼ばれ、八大明王の中にその名が見られる。大多数の造立の目的は、牛や馬、特に供養と民衆の信仰対象である。

法雲寺

ほううんじ


瀬戸市深川町30
紫雲山 法雲寺。真宗大谷派。明治16年(1883)他所から移住した真宗の信徒のために、信徒自らが坊舎を建立したのが、その始まりであり、明治29年(1896)には本山より布教使・本多智淳を派遣した。明治35年(1902)には本堂建立後に寺厨を改築し賓館を増築し次第に形を整え、昭和2年(1927)3月22日に、岐阜県恵那郡苗木町にあった法雲寺を移して、真宗の説教場より寺院に昇格し、本多智淳師が初代の住職となった。本尊は阿弥陀如来立像、年中行事としては3月・9月の春秋彼岸会、7月の孟蘭盆会、11月の報恩講が主なものとして挙げられる。また本堂脇には第二次世界大戦の際に金属供出でなくなった梵鐘の変わりとして作られた陶製の梵鐘が置かれている。

法雲寺
法雲寺