忠霊塔

ちゅれいとう


窯神神社の東側の御亭山に現在、忠霊塔(忠魂碑)がある。かつては現在のJRバス記念橋の場所にあった。1939年(昭和14年)発行の瀬戸読本に次のように記されている。忠魂碑:一、国の富をつくるてふ名に負ふ瀬戸の市中に桜若木に包まれて屹然立てり忠魂碑 二、日清役を始めとし聖戦ここにいくそたび護国の華と散りましし英霊祀る忠魂碑 三、右手に振ひし破邪の剣左手に高し日章旗興亜不朽の人柱勲輝く忠魂碑 四、神代このかた武に誇る日本男児の鑑にて万代不滅の光ぞと誉は高し忠魂碑 五、仰ぐ忠霊いや高く五万市民の朝夕に国の鎮めと虔みてかしこみまつる忠魂碑。

三地蔵

さんじぞう


洞の元市会議員・加藤新治氏宅のあたりから北へ細道を登り切った山の頂きを地蔵ヶ嶺という。頂上に立つと眼の下に拝戸の人家が見える。その処の石室のように作られた場所に祀られているのが地蔵観音である。できものを癒す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日になっている。向って左に祀られている「人馬安全天保四年巳四月吉日」と刻んだ石像が地蔵観音で、向って右は「慶応四年辰三月廿一日、恵林明可信士」と刻んだ石像で、これは加藤親治氏の祖父・弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祀ったものである。弘三郎が『腹の痛むものは、私を頼めば癒してやる』と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祀りはじめたものである。地蔵観音として祀られているのは、武夫の高祖母に当る人で、俗名は判らないが「梅心妙量信女、天保二年三月廿七日亡」である。博助氏宅の南に当る山の中腹に「眼墓観音」という石碑があると聞き、博助氏の案内で調べると『天明三年四月三日、快運妙慶信女』と刻まれているが、誰人を祀ったものか判らない。眼墓観音というのだから、これも眼病に苦しんだ人の遺言によって建てられたものと想像されるが、地蔵観音よりも一時代古いので、伝承も廃れ、世人からも忘れ去られたのであろう。

三地蔵

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。

弥蔵観音

馬頭観音

ばとうかんのん


馬頭観音は、馬頭明王、馬頭金剛明王などと呼ばれ、八大明王の中にその名が見られる。大多数の造立の目的は、牛や馬、特に供養と民衆の信仰対象である。