たぬきの米つき

たぬきのこめつき


伝承地 瀬戸市本地地区
 むかし、本地の川北の土手に大きな松の木がありました。二人の人が、両手を広げてつないだくらい太くて、その枝は七本に分かれていました。それで、村の人々からは、七本松と呼ばれていました。
 ある夜、村のおじいさんが七本松の近くを歩いていると、何か太鼓をたたくような、トントン、トコトン、トコトンという音が聞こえてきました。
「ありゃあ、いったい何の音だ。」少し聞こえにくいおじいさんの耳にも、はっきりと聞こえてきます。あたりを見回しましたが、だれもいません。ただ、月の光が明るくかがやいているだけでした。
「おかしいなあ。」と、様子をうかがっていると、七本松のあたりから音が聞こえてくるようです。草をかき分けて、そっと七本松の方に近づいてきました。
 すると、どうでしょう。松の木の下で、若いむすめたちが、米をついているではありませんか。
「どこのむすめたちだろう。」と、音をたてないようにして、そっと見続けていました。五、六人いたむすめたちは、みんな白いさらしの手ぬぐいを顔にかぶり、肩から赤いたすきをかけていました。トン トン むすめたちは、米をついています。月の光がむすめたちを明るく照らしています。米がつけたので、手を休め話をしはじめました。話し声はだんだんと大きくなり、ときどき笑い声もしてきました。
 おじいさんは、何を話しているのかと、耳をかたむけましたがよくわかりません。とても楽しそうな笑い声だけは、はっきりと分かりました。おじいさんは、もっと近づこうとして、そっと立って行きました。そのとき急に風が吹いて、ザワザワと草がゆれたと思ったら、むすめたちの姿は、まるで風に吹かれたかのように消えてしまいました。
「あれっ。どうしたこじゃ。」
「まるで、夢でも見ているようじゃ。」と、ボーッと立ちすくんでしまいました。
 しばらくして、風がやみ、おじいさんはいつもの自分にもどり、
「おーい、おーい。」と、大きな声で呼んでみましたが、返事はなく、ただ七本松だけがヒュー、ヒューと、不気味な音を立てているだけでした。おじいさんは、この不思議なできごとを村に帰って、多くに人に話しました。しかし、そんなことがあるはずがないと、全然信じてもらえませんでした。ただ、一人の若者だけが、本当かもしれないと思い、次の夜、七本松のところへ出かけて行きました。
 その夜も、月のきれいな夜でした。若者は草むらにひそんでいました。ずいぶん時間が過ぎました。やっぱりおじいさんの話は、ウソだったのかと思いはじめたとき、どこからか、トントン、トコトン、トコトントンという音が聞こえてきました。若者は、ハッと息をころして、耳をすませました。
「やっぱり、本当だ。」
「おじいさんの話は本当だ。」と、ドキドキしてきました。体をのり出して、七本松の方を見ると、むすめたちが米をついています。きのうのおじいさんの話とまったく同じです。若者は、知らずに体がだんだん前へ出てしまいました。そのとき、同じように急に風が吹いて来て、むすめたちの姿はフッと消えてしまいました。
 次の朝、若者は村の人たちに話しました。しかし、村の人たちは、そんなことがあるだろうかというような顔つきをしていました。話を聞いていた村一番の年寄りのじいさんが
「そりゃのう、きっとあの近くに住むたぬきじゃよ。」
「たぬきが、むすめたちに化けて出たんじゃよ。」と、言いました。また、他のじいさんは、「楽しそうに、米をついていたのじゃで、この村のみんなの幸せをあらわしておるのかもしれんの。」
「たぬきが化けとるなら、きっとええことがないぞ。」
「ばかされたら、どうなるのじゃ。」
「いっそ、あの七本松を切ってしまったらどうじゃろう。」
 村の人たちが相談し、松の木を切ってしまいました。それから後、あのおじいさんも、若者も、そして村のだれもたぬきの化けたむすめたちの米つきを見たという人はありませんでした。

しょうじがね池 

しょうじがねいけ


伝承地 瀬戸市西山町
 西山町に茶碗や皿の割れたものなど工場から出るごみを捨てるところがありますが、知っていますか。あのあたりに伝わるお話をしましょう。
 このごみ捨て場あたりは、しょうじがね池という名前の池でした。そして、この池のほかにも、まだ二つ・三つの池がありました。
 ここに池がたくさんあったのは、およそ五〇〇年前、このあたりをおさめていた松原下総守(しもふさのかみ)広長※1が池をつくったからです。自然のままのこのあたりは、水の便が悪くて田畑にもあまりなりません。また、雨が降れば、山から一度に水が流れて百姓たちを苦しめていました。
 そこで、広長は山から水が一度にあふれ出ないようにし、作物も取れるようにしようと考えました。広長は、工事の先頭に立って、モッコ(縄を網のようにあんで、土や石を運ぶようにしたもの)をかつぎ、段々にいくつかのため池(田畑に使う水をためておく池)をつくり、水路で池をつなぎ、水が一度にあふれ出ないようにしました。そのため、作物はできるようになり、山もくずれることがなくなりました。百姓たちはますます広長を慕っていきました。
しょうじがね池は、今はすっかり埋め立てられてしまい、池のまわりの山は切り開かれて、家がたくさん建ちました。とても考えられないくらい、発展しました。しかし、ちょっと大雨が降ると、水はすごい勢いで電車の線路を越え、川北町・川西町あたりの道路を川にしてしまいます※2。こんなとき、しょうじがね池のことが思い出されます。
※1 「およそ五四〇年前」
 松原広長は、室町時代に今村城の城主であり、今村を拠点とした在地領主と考えられています。文明14年(1482)には、科野郷(現在の品野地区)の桑下城を居城とする在地領主の永井(長江)民部と、安土坂(現在の安戸町あたり)他で対戦の末、敗れ戦死したと伝えられています。
また、江戸時代に編纂された『張州府志』に、「文明5年(1473)9月、松原広長が今村八王子社を造進」と記載されます。

加藤唐四郎春慶翁伝来記

かとうとうしろうしゆんけいおうでんらいき


 藤四郎の伝記については幾多の書物に記されているが、いずれも伝説の域を脱けないもので、歴史的(学問的)裏付けはできていない。今座右にある伝記関係のものだけを挙げても大変な数にのぼる。尾張瀬戸藤四郎一子相伝、茶器弁玉集、森田久右エ門江戸旅日記尾陽雑記、塩尻、万宝全書、瀬戸窯業の由来書、張州府誌、尾張国人物志略、張州雑志、古今名物類聚、瀬戸陶器濫觴、尾張志、陶器考、本朝陶器放証など明治以前のものでものれだけだが、明治以降になると数え切れない。瀬戸市陶原町の加藤繁氏所蔵の「加藤唐四郎春慶翁伝来記」は毛筆書きの原本で、瀬戸地方に現存する藤四郎伝記類のうち最古のものと思われる。内容は道元が野田の密蔵院に折々来たので、藤四郎が訪ねて禅門に入り、それが縁となって道元の入宋に従ったことになっている。道元の入宋は貞応二年(1223年)、密蔵院の創建は嘉暦3年(1328年)であるから入宋前の二人は会見したことになる。おしいことにこれらの記述のため瀬戸最古の文献も、史的価値は、大きく割引されねばならない。しかしこうした事は藤四郎伝記書のすべてが荷負うところの宿命である。

一子相続制

いっしそうぞくせい


一子相続制、1607年(慶長12年)家康の第九子、徳川義直が尾張藩主となると、“瀬戸もの”の復活に力を入れた。藩主が様々な保護奨励といった政策を打ち出した。しかし皮肉な事にも瀬戸は過剰生産に悩まされる事になってしまった。ついには現地瀬戸から生産の規制を尾張藩庁に願い出る事になり、その結果、発令されたものが「一子相続の制度である。これにより瀬戸地方では「筋目の者出なくては窯焼きはできない。もし筋目でない者にうら間(登り窯の一部)などを使用させた場合は、予告せずに窯を打ち壊す。血筋の者にでも窯株を売る等のことは禁ずる。男子のない者は一人に限り養子を認める」といった厳重な申し合わせをした。これにより厳しい生産を規制した。

永代ろくろ一挺の制

えいだいろくろいっちょうのせい


1780年(安永9年)『瀬戸窯業家人数覚』つまり、窯屋調の記録に記されている制度である。当時、尾張藩主による窯業保護奨励といった政策によりついには、過剰生産となった。これにより別項の『一子相続制』が発令され、『永代ろくろ一挺』と定められた者は11人だった。つまり、11軒の窯屋には特例が認められその他は一代限りと定められた。しかし後にそれらの者にも既得権が認められ、世襲制となった。

徒弟制度

とていせいど


明治時代には、10~12歳の「ヤロ」といわれる少年が働いていた。家庭が貧しくて教育を受けることのできない少年が多く、なかには、岐阜・石川・京都の陶業地から働きにくる者もいた。彼らは、業者の家に住み込んで、衣服をもらい、不定期に少しばかりの給金をもらっていた。おもな仕事は、土うち・土ふみ・土おし、などであった。研究熱心な少年は、余暇を利用して、ろくろ・陶画の練習をし、やがては工人になる者もあった。工人になると、「一日いくら」の給金が与えられた。このように、ヤロといわれた少年が一人前の工人になるには、少なくとも8~9年の年月が必要であったといわれている。なかには一人前の工人になれず、雑役工として終わる者も多くいた。大正時代になると、特殊な技術を必要としなくなり、技術を習得する期間も短縮され、このような徒弟制度は、しだいになくなっていった。

永仁の壺事件

えいにんのつぼじけん


1943年(昭和18年)頃、当時東春日井郡上志段味村(現名古屋市守山区)で発掘されたといわれる高さ27㎝、口径4㎝の酒器記で、正式には「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」という壺に関わる事件である。永仁二甲午年十一月、水埜政春作というこの壺が1959年(昭和34年)に重要文化財に指定された後、瀬戸市の古陶磁器研究家らによって「偽物」との意義申立てがあり、事件へと発展していった。文化財保護委員会と古陶磁研究家たちとの間で様々なやり取りがあったが、1960年(昭和35年)日本を去ってヨーロッパへ旅立った、事件の中心人物である、陶芸家加藤唐九郎の「私が作った」という声明により一段と混迷の度合いを深めた。しかし、これ以後、事件に関する納得のいくコメントは得られず、事件の徹底解明にはならなかった。加藤唐九郎を語るうえにおいては欠くことのできない事件であり、また当時の瀬戸では、このセンセーショナルな事件にあやかって、「永仁湯呑」「永仁最中」「永仁観光バス」「永仁定期預金」等のブームをひきおこした。まことに奇妙な事件である。

永仁最中

えいにんもなか


1960年(昭和35年)に㈱永仁堂本舗(平町1-50、TEL 82-2786)が当時重要文化財に指定されていた「永仁の壺」に似せて最中を発売した。おりしも「永仁の壺」が偽物であると発覚し各界を巻き込んだ大事件となったので当時は爆発的に売れ、現在も瀬戸名菓として親しまれている。

瀬戸本業窯

せとほんぎょうがま


尾張国へ徳川家康の第九子義直が1607年(慶長12年)に封ぜられ、尾張国の江戸時代の幕あけとなった。初代徳川義直の時代は、豊臣の残党や外様の動静に心を配り、一旦緩急あらば、譜代と力を合わせて鎮圧しなければならない。それぞれが自藩の政策として、富国強兵策をおし進めた。富国には産業振興が必要で、「瀬戸山離散」によって、美濃で陶業に励んでいた名工を、本国へ召還している。まず美濃国郷の木に移住していた加藤利右衛門、加藤仁兵衛を赤津村へ、また美濃国水上村に移住していた加藤新右衛門、加藤三右衛門を品野村へ帰郷させて、石高10石、金10両を与え、諸税を免じ、御用窯として陶業につかせた。これが本業窯のはじまりであり、明治初頭までやきものの主流となる。その座を退き始めたのは有田に興った磁器が伊万里港から諸国へ、白くて薄く、しかも丈夫な染付磁器を売り捌き出したからである。不況にあえぐ瀬戸に光をもたらしたのは、1807年(文化4年)加藤民吉が肥前国(長崎・佐賀県)から磁器の製法を修練して帰り、瀬戸に「新製焼」をもたらした。こうして瀬戸は本業から新製へと転向していった。大正から昭和へと洞では盛んであった本業窯も現在では東洞の半次郎窯1本を残すのみとなってしまった。