大槇

おおまき


伝承地 瀬戸市品野町1丁目
 時代背景 文明14年の大槇山、安土坂、若ヶ狭洞の合戦
 今から一二〇〇年も前※1のことです。人々は、伝染病や地震、日照りなどの天災(大水や地震など、自然による災害)が続いて、大変苦しんでおりました。
「去年は、大雨で品野川があふれ、米がよう取れなんだ。」
「今年は今年で、日照りが続き、田んぼの水がかれてひび割れてきた。このままでは、稲はみんな枯れてしまうぞ。」
「それに、このごろは訳の分からぬはやり病(伝染病のこと)が広まり、死人も出るほどじゃ。」
「困った。困ったものじゃ。」と、村人たちのなげくのが、あちらこちらで見かけられました。
 そんなところへ、仏の教えをときながら全国を旅しておられる都のえらいお坊さんが、数人のお弟子さんを連れて、通りがかられました。お坊さんは、人々の苦しみの様子を耳にされ、村の様子やまわりの土地の様子を調べて歩かれました。
 次の日から、お坊さんは、お経(おきょう)をとなえながら、お弟子さんたちと水の出そうな所に井戸を掘りはじめました。しばらく掘り進むと、そこから水がとめどなく湧きはじめました。この様子を見ていた村人たちは驚きました。それからは、お坊さんの指図に従って、たくさんの井戸を掘り、川の流れを変える工事まではじめました。その上、日照りに備えて、まわりの山すそにため池もつくりました。
 やがて、村人たちとともに汗を流したお坊さんたちの出発の日がおとずれ、村人たちは別れをおしみ、みんな村はずれまで見送って行きました。
「お上人(しょうにん)様、これからの私たちの励ましになるようなものを残していただけわけには、まいりませんでしょうか。」
「旅の途中で何もないが、これを残しておこう。」といって、持っていた槇(まき)の木でつくった杖(つえ)を地面につきさして行かれました。不思議なことに、その杖は逆さまのまま(杖はふつう持つところが根の方で、地面につくところが幹や先のほうでできている。)根がついて、ついには見上げるばかりの大きな木になったということです。
 これは、品野から陣屋へ通ずる旧街道の途中にある「大槇」というところのお話で、この槇の木は、逆さに立てたのに根付いたところから「さか槇」とも呼んでいます。
 このえらいお坊さんは、奈良の大仏をつくるために、全国をまわって人々の協力を求めて歩き続けた「行基(ぎょうぎ)上人」であったと伝えられています。
※1 「今から一三〇〇年も前」
 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。

永仁の壺事件

えいにんのつぼじけん


1943年(昭和18年)頃、当時東春日井郡上志段味村(現名古屋市守山区)で発掘されたといわれる高さ27㎝、口径4㎝の酒器記で、正式には「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」という壺に関わる事件である。永仁二甲午年十一月、水埜政春作というこの壺が1959年(昭和34年)に重要文化財に指定された後、瀬戸市の古陶磁器研究家らによって「偽物」との意義申立てがあり、事件へと発展していった。文化財保護委員会と古陶磁研究家たちとの間で様々なやり取りがあったが、1960年(昭和35年)日本を去ってヨーロッパへ旅立った、事件の中心人物である、陶芸家加藤唐九郎の「私が作った」という声明により一段と混迷の度合いを深めた。しかし、これ以後、事件に関する納得のいくコメントは得られず、事件の徹底解明にはならなかった。加藤唐九郎を語るうえにおいては欠くことのできない事件であり、また当時の瀬戸では、このセンセーショナルな事件にあやかって、「永仁湯呑」「永仁最中」「永仁観光バス」「永仁定期預金」等のブームをひきおこした。まことに奇妙な事件である。

永仁最中

えいにんもなか


1960年(昭和35年)に㈱永仁堂本舗(平町1-50、TEL 82-2786)が当時重要文化財に指定されていた「永仁の壺」に似せて最中を発売した。おりしも「永仁の壺」が偽物であると発覚し各界を巻き込んだ大事件となったので当時は爆発的に売れ、現在も瀬戸名菓として親しまれている。

瀬戸本業窯

せとほんぎょうがま


尾張国へ徳川家康の第九子義直が1607年(慶長12年)に封ぜられ、尾張国の江戸時代の幕あけとなった。初代徳川義直の時代は、豊臣の残党や外様の動静に心を配り、一旦緩急あらば、譜代と力を合わせて鎮圧しなければならない。それぞれが自藩の政策として、富国強兵策をおし進めた。富国には産業振興が必要で、「瀬戸山離散」によって、美濃で陶業に励んでいた名工を、本国へ召還している。まず美濃国郷の木に移住していた加藤利右衛門、加藤仁兵衛を赤津村へ、また美濃国水上村に移住していた加藤新右衛門、加藤三右衛門を品野村へ帰郷させて、石高10石、金10両を与え、諸税を免じ、御用窯として陶業につかせた。これが本業窯のはじまりであり、明治初頭までやきものの主流となる。その座を退き始めたのは有田に興った磁器が伊万里港から諸国へ、白くて薄く、しかも丈夫な染付磁器を売り捌き出したからである。不況にあえぐ瀬戸に光をもたらしたのは、1807年(文化4年)加藤民吉が肥前国(長崎・佐賀県)から磁器の製法を修練して帰り、瀬戸に「新製焼」をもたらした。こうして瀬戸は本業から新製へと転向していった。大正から昭和へと洞では盛んであった本業窯も現在では東洞の半次郎窯1本を残すのみとなってしまった。

窯屋の符牒

かまやのふちょう


符牒とは元来商売上の必要から商品の価格・等級などのために案出された1種の隠語であって、「掛値なし」が看板になる掛値の多かった時代には当然正価の秘密を守らなければならず、符牒のほとんどは値段に関するもので、基数および十・百などの数字を文字や記号で表わした。そのうち1店のみの専用でなく同業者間に適用するものを通り符牒といった。この窯屋符牒もいわゆる通り符牒であって一から九までの数字を分・厘・貫・斤・両・間・文・尺・寸と呼び、十を分丸といった。例えば十五円を分両というがごときであった。

白マスク強盗事件

しろますくごうとうじけん


1957年(昭和32年)5月20日午後9時50分ごろ、瀬戸市今池町のA旅館に若い男が白覆面で短刀を所持して侵入し、現金3,000円を奪って逃走したのを始め、1958年(昭和33年)10月2日までの約1年半の間に、8件の同一犯人の仕業と思われる強盗傷人事件が発生した。

青銅のキリスト

せいどうのきりすと


約60年前に製作された松竹の芸術参加作品。渋谷実監督、山田五十鈴、滝沢修、岡田英二、香川京子らの出演。物語はキリシタンの根絶にやっきになっていた江戸時代の長崎でのこと。キリシタンの恋人への愛をこめて作った青銅のキリスト像がキリシタンの踏絵に使われ、あまりの見事さに作った鋳物師の青年も、恋人と共に捕えられ、信徒と一緒に処刑されてしまうという文芸巨編。その処刑シーンが瀬戸の陶土採掘場(瀬戸グランドキャニオン)でエキストラに瀬戸市民1千人が参加して、行なわれたのである。瀬戸での大ロケーションとして当時話題になった映画。1989年(平成元年)6月4日に瀬戸中央劇場にて34年ぶりに木節の会有志による自主上映会があった。

山口城址

やまぐちじょうあと


所在地 瀬戸市矢形町(本泉寺境内)
山口城は「上菱野城」・「屋形の城」とも呼ばれた。地名の「矢形町」は中世の城(屋形・館)の名残であろう。本泉寺(真宗高田派)の境内全域がその城跡である。この城は鎌倉時代の菱野・上菱野(山口)の地頭職であった山田泰親が、その職を子の重元にゆずり、弘安年間現在の本泉寺境内に築いた城である。自らは弘安四年(1281)仏門に入り、下野国高田専修寺の顕智上人に帰依して浄顕と号した。そして居城の南方に本泉寺を建てて自ら開祖となった。現在の本泉寺は江戸時代初期の慶長十八年(1613)にかつての城跡に移したものである。本泉寺境内の南側には現在も土塁や堀の名残と考えられる土手や池が残っている。

山口城  現在の本泉寺(右手奥)に残る土塁跡(左手の林)・堀跡(右手前の池)

瀬戸山離散

せとやまりさん


16世紀後葉以降、瀬戸市域で大窯によるやきもの生産を行った窯跡は現段階で確認されておらず、その代わりに生産の中心が美濃窯へと移っている。このことを「瀬戸山離散」として、相次ぐ戦乱などにより瀬戸から陶工が美濃へと流出した時代とされてきた。その一方で永禄六年(1563)の今村の市に立てられたとされる織田信長制札や、天正二年(1574)の陶工加藤市左衛門宛織田信長朱印状では、瀬戸における「せともの」そのほかの円滑な取引を保証し、新たな諸税をかけないこと、他所で窯を立てることを禁じ、窯屋を自らの保護と統制下に置いたことがうかがえる。こうしたことから近年では、瀬戸窯の工人が織田信長の美濃進出に伴い、国境を越えて窯業生産を展開した、まさに大発展の時代であった説も唱えられている。

山崎城址

やまざきじょうし


所在地 品野町8丁目
 藩政時代の中品野村川北島にあたる。品野川(水野川)とその支流石場川(山崎川)に挟まれた小高い尾根上は通称「五輪山」と呼ばれ、山神が祀られているがここに古い宝篋印塔(高さ45~78センチ)も立っている。戦国時代に品野城攻略のために織田方が「付城(つけじろ)」として築いた山崎城跡であったと伝えられている。南麓の民家の裏手に切石をもって積み上げられた「おがたの井戸」と呼ぶ古井戸も残っている。
 「桶狭間合戦記」によると、永禄元年(1558)の品野合戦の際は織田信長家臣の竹村孫七郎らが守備していたが、品野城の松平監物家次が豪雨の夜に奇襲をかけ、不意を突かれた織田方の将兵50余人が討ち死に敗走したとある。古石塔は敗将の供養塔と伝えられている。