伝承地 瀬戸市城屋敷町
時代背景 文明14年に大槇山、安土坂、若ヶ狭洞で合戦したと伝えられる。
毎年七月になると、大相撲名古屋場所がはじまります。その時期になると、押尾川部屋が、今村八王子神社を宿舎として朝早くから激しい稽古をしています。この八王子神社は、今村城主の松原広長公により、五百年ほど前に建てられました。村人たちは豊作や村中の安全を祈願してお参りをしました。
今村城ができた頃の日本は、京都を中心に応仁の乱(一四六七年)にも土地の攻め合いが起こるようになりました。
今村城でも、戦いにそなえて、週に一回くらい、剣・弓・槍・鉾・乗馬などの訓練がありました。練武場(訓練する場所)へ集まる人たちはふだんは農業や土木工事をしていました。
西隣りの狩宿村に、太刀の名手といわれていた渡辺数馬という人がいました。数馬の娘淡路は、剣術が好きで、いつも父とともに練武場へ来ていました。
その後、広長公の父吉之丞(飽津城主)に見込まれて広長公の奥方となりました。
淡路は、太刀や乗馬の不得意な若者たちを集めて「投石隊」をつくりました。投石は殺傷力は弱いけれども、森や山坂の多いこの地方では、相手を攻めるのにとても有効な戦術でした。石は、場所や距離によって形や大きさを選び、素手で戦うことができました。
投石隊の訓練は、追分の勢子山の山林で行われました。はじめは思うように投げられず、命中率もせいぜい五割くらいでしたが、投石のコツをつかむと百発百中のものも現れました。とくに久六は、兎や鳥のように動き回る動物にも命中させる石投げ名人となり、淡路から投石隊の隊長に任命されました。はじめの頃は、「エイッ」「ヤーツ」とかけ声をかけていましたが、最後には無言で投げられるようになりました。
文明十四年(一四八二年)五月十五日、安土坂の戦いが始まりました。品野の永井勢と今村の松原勢との合戦でした。最初は大槇山付近で戦いましたが、松原勢は次第に押されて安土坂まで後退し、この地で両軍の決戦が行われました。松原勢も投石隊を使った作戦で必死の戦いをしましたが、ついに敗北し、広長公は若狭洞で切腹をしてしまいました。亡骸は、家来たちの手で赤津の万徳寺へ運ばれ、円林上人によって手厚く葬られました。
久六は、奥方淡路のあとを追って赤津の万徳寺に移り、墓守りとしてその生涯を広長公の供養に捧げたといわれています。
これ以来、赤津の人々は、御戸偈池の近くで「ピュー」「ピュー」という石を投げる音を耳にするようになったということです。
カテゴリー: 文化・文化財
山口城址
やまぐちじょうあと
所在地 瀬戸市矢形町(本泉寺境内)
山口城は「上菱野城」・「屋形の城」とも呼ばれた。地名の「矢形町」は中世の城(屋形・館)の名残であろう。本泉寺(真宗高田派)の境内全域がその城跡である。この城は鎌倉時代の菱野・上菱野(山口)の地頭職であった山田泰親が、その職を子の重元にゆずり、弘安年間現在の本泉寺境内に築いた城である。自らは弘安四年(1281)仏門に入り、下野国高田専修寺の顕智上人に帰依して浄顕と号した。そして居城の南方に本泉寺を建てて自ら開祖となった。現在の本泉寺は江戸時代初期の慶長十八年(1613)にかつての城跡に移したものである。本泉寺境内の南側には現在も土塁や堀の名残と考えられる土手や池が残っている。

瀬戸山離散
せとやまりさん
16世紀後葉以降、瀬戸市域で大窯によるやきもの生産を行った窯跡は現段階で確認されておらず、その代わりに生産の中心が美濃窯へと移っている。このことを「瀬戸山離散」として、相次ぐ戦乱などにより瀬戸から陶工が美濃へと流出した時代とされてきた。その一方で永禄六年(1563)の今村の市に立てられたとされる織田信長制札や、天正二年(1574)の陶工加藤市左衛門宛織田信長朱印状では、瀬戸における「せともの」そのほかの円滑な取引を保証し、新たな諸税をかけないこと、他所で窯を立てることを禁じ、窯屋を自らの保護と統制下に置いたことがうかがえる。こうしたことから近年では、瀬戸窯の工人が織田信長の美濃進出に伴い、国境を越えて窯業生産を展開した、まさに大発展の時代であった説も唱えられている。
山崎城址
やまざきじょうし
所在地 品野町8丁目
藩政時代の中品野村川北島にあたる。品野川(水野川)とその支流石場川(山崎川)に挟まれた小高い尾根上は通称「五輪山」と呼ばれ、山神が祀られているがここに古い宝篋印塔(高さ45~78センチ)も立っている。戦国時代に品野城攻略のために織田方が「付城(つけじろ)」として築いた山崎城跡であったと伝えられている。南麓の民家の裏手に切石をもって積み上げられた「おがたの井戸」と呼ぶ古井戸も残っている。
「桶狭間合戦記」によると、永禄元年(1558)の品野合戦の際は織田信長家臣の竹村孫七郎らが守備していたが、品野城の松平監物家次が豪雨の夜に奇襲をかけ、不意を突かれた織田方の将兵50余人が討ち死に敗走したとある。古石塔は敗将の供養塔と伝えられている。
明暗縁の染付
ふたおもてえにしのそめつけ
「佐々の悪魔・瀬戸の窯神 明暗縁染付」は大森痴雪作の二幕三場の歌舞伎で、昭和二年(1927)10月に、大阪中座において上演された。佐々の皿山と瀬戸をそれぞれの幕としている。加藤民吉役を中村鴈次郎、水野権平役を實川延若、中里角右衛門役を片岡市蔵、お千鶴(福本仁左衛門の娘)役を中村福助が演じている。これが上演された折、瀬戸から多くの人々が中座へ押しかけたといわれている。その内容は加藤庄三著の『民吉街道』に掲載されている。この舞台により民吉が産業スパイで、現地妻がいるようなイメージが出来上がってしまった。
横山城址
よこやまじょうあと
所在地 瀬戸市效範町2丁目
「瀬戸古城史談」には名鉄瀬戸線の旧根の鼻駅の東南、県道の南一帯の畑地を「横山殿様の居城」と呼んだとある。城跡は方80間ほどあって、東側は林と竹薮で中に庵寺が在ったと記載するがそれ以上は不明である。
(参考文献:愛知県史跡整備市町村協議会 2021『「あいちのお城」調査最前線!資料集』)
をはりの花
おわりのはな
瀬戸焼に関する書で花の巻(陶工系譜)鳥の巻(雑録)風の巻(陶工銘款)月の巻(陶器図書)四巻でできている。刑部陶痴の稿本『瀬戸の花』を土台とし、加藤弓影・板野陶林がこれに新資料を加え、柴山準行の校閲を経て1902年(明治35年)脱稿し『瀬戸物』と題した。1920年(大正9年)その一部を改訂し名を『をわりの花』と改めて瀬戸陶磁器工商同業組合から発行され、1932年(昭和7年)に陶器全集刊行会がこれを複製刊行した。
御蔵会所跡
おくらかいしょあと
瀬戸市蔵所町
尾張藩陶磁器専売制度(蔵元制度)は享和年間(19世紀初頭)に始まった。享和二年(1802)に御蔵会所取建てが瀬戸村庄屋加藤唐左衛門に命じられ、翌年から染付焼物(新製焼)が御蔵物となり名古屋の広井御蔵納めが始まっている。産地の陶磁器製品を納入・検品・積み出しを行う御蔵会所は当初瀬戸・赤津・下品野3カ村に設置されたが、文政九年(1826)に瀬戸の御蔵会所に統合され大規模な建替えが行われている。文政年間の瀬戸村絵図には南島の入り口に 荷小屋とその後順次増築された下物小屋・絵薬土蔵・灰釉小屋など10棟以上の建物が描かれている。
平成14年、それまで活動していた市民会館が取り壊されて新たに「瀬戸蔵」の建設が行われた。それに先立って瀬戸市埋蔵文化財センターが発掘調査を行い、当時の陶磁器製品や御蔵会所の柵跡と思われる一部の遺構を検出した。
しかし、この蔵所町1番地には明治維新後の役場や勝川警察署瀬戸分署(明治10年)、瀬戸陶器館(同16年)、陶原学校新校舎(同17年)などが建設され行政・文化の中心地になっていった。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)
民吉街道
たみきちかいどう
故加藤庄三氏著、加藤正高氏編による書である。庄三・正高の両氏は瀬戸へ新製染付焼の技法をもたらし磁祖と呼ばれている加藤民吉の足跡を追って九州まで幾度も赴き、多くの年月と私財を投じて調査しておられる。そして庄三氏の集め、検証された原稿をご子息である正高氏が出版されたものである。この書には磁祖と呼ばれる民吉の人間像が詳細に記されている。この書には民吉のみでなく、その時代に生きた多くの人々、例えば加藤唐左衛門や津金文左衛門、天中和尚等が述べられている。又この書は両氏の企業である愛知珪曹工業の50周年の記念として出版されている。さらには1988年(昭和63年)この書をもとに瀬戸市内の社会科教師が実際に歩かれ、ビデオの教材を作成した。
御林方奉行所跡
おはやしがたぶぎょうしょあと
瀬戸市水北町
旧上水野村北脇には尾張藩の御林方役所が置かれていた。天保年間の村絵図には上水野氏神八幡社の東山麓に「水野権平様御屋敷・御林方御役所」と記載されている。明治維新による役所廃止後は奉行所の南側にあった堀状の池は埋め立てられて畑地となり、土塀のあった石垣の一部をわずかに残すのみである。
尾張初代藩主徳川義直は定光寺周辺の山野を好み、しばしば狩猟を行った。その際に案内役を勤めたのがこの地方の土着名族水野氏であった。義直は水野久之丞の屋敷を行殿として滞留したことが記録されている。
尾張藩では寛文年間の頃に大規模な林政改革を行い、優秀山林を「留山」・「巣山」などの禁猟区を設けて「御林」とし、「平山」・「定納山」と区別した。この時設置された御林役所は勘定奉行の支配に属し、愛知・春日井両郡(享保期以前は知多郡も含まれた)の御林を管理した。水野氏が代々奉行職に就き、その下に手代・目付や案内同心が置かれた。瀬戸地域では砂留普請・植林・伐木・陶土採掘・絵薬掘などの許認可権をもって大きな役割を果たした。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)