瀬戸本業窯

せとほんぎょうがま


尾張国へ徳川家康の第九子義直が1607年(慶長12年)に封ぜられ、尾張国の江戸時代の幕あけとなった。初代徳川義直の時代は、豊臣の残党や外様の動静に心を配り、一旦緩急あらば、譜代と力を合わせて鎮圧しなければならない。それぞれが自藩の政策として、富国強兵策をおし進めた。富国には産業振興が必要で、「瀬戸山離散」によって、美濃で陶業に励んでいた名工を、本国へ召還している。まず美濃国郷の木に移住していた加藤利右衛門、加藤仁兵衛を赤津村へ、また美濃国水上村に移住していた加藤新右衛門、加藤三右衛門を品野村へ帰郷させて、石高10石、金10両を与え、諸税を免じ、御用窯として陶業につかせた。これが本業窯のはじまりであり、明治初頭までやきものの主流となる。その座を退き始めたのは有田に興った磁器が伊万里港から諸国へ、白くて薄く、しかも丈夫な染付磁器を売り捌き出したからである。不況にあえぐ瀬戸に光をもたらしたのは、1807年(文化4年)加藤民吉が肥前国(長崎・佐賀県)から磁器の製法を修練して帰り、瀬戸に「新製焼」をもたらした。こうして瀬戸は本業から新製へと転向していった。大正から昭和へと洞では盛んであった本業窯も現在では東洞の半次郎窯1本を残すのみとなってしまった。