双頭のへび 

そうとうのへび


伝承地 瀬戸市城屋敷町
 今からおよそ八五年前のある日、今村の小三郎という少年が、八王子神社のうらの木のしげみへ入って行きました。
「あっ。へびがけんかしとる。」と、小三郎は思わずびっくりしたように大声をはりあげました。一緒に遊んでいた二人と、そっと近づいてよく見てみると、何とそれは頭が二つあるへびでした。へびは、おどろいて、しげみに逃げ込むところでした。
「おい。つかまえよう。」
「ぼうを持ってこい。」などと、大さわぎしながら少年たちは、とうとうへびをつかまえてしまいました。
 少年は、へびを家に持ち帰り、箱に入れてかっていました。
「頭が二つあるへびがいたげな。」と、口々に伝わり、大評判になりました。
「売ってくれ。」
「たのむに、わけてくれ。」と、たくさんの人がやって来ました。だから、へびの値段はだんだん高くなっていきました。
 ある日、一人の男から
「見世物にするから、ぜひ売ってくれ。」と、たくさんのお金を出して強くたのまれましたので、少年はとうとう五円で、その人に売りました。
 少年は、へびをつかまえたとき、いっしょにいた子に一円あげ、後のお金はすぐ使うあてがなかったので、貯金しておきました。
 ある日、ふと思いついたことがあります。
「あそこは、松原の殿様(松平下総守広長のこと。今村城主だったひと)の城あとだ。へびはきっと殿様の使いにちがいない。殿様のためにお金を使おう」
 少年は、そう考えました。その後、そのお金をもとに志のある人たちと力を合わせて、城あとをりっぱに整備しました。

たぬきの米つき

たぬきのこめつき


伝承地 瀬戸市本地地区
 むかし、本地の川北の土手に大きな松の木がありました。二人の人が、両手を広げてつないだくらい太くて、その枝は七本に分かれていました。それで、村の人々からは、七本松と呼ばれていました。
 ある夜、村のおじいさんが七本松の近くを歩いていると、何か太鼓をたたくような、トントン、トコトン、トコトンという音が聞こえてきました。
「ありゃあ、いったい何の音だ。」少し聞こえにくいおじいさんの耳にも、はっきりと聞こえてきます。あたりを見回しましたが、だれもいません。ただ、月の光が明るくかがやいているだけでした。
「おかしいなあ。」と、様子をうかがっていると、七本松のあたりから音が聞こえてくるようです。草をかき分けて、そっと七本松の方に近づいてきました。
 すると、どうでしょう。松の木の下で、若いむすめたちが、米をついているではありませんか。
「どこのむすめたちだろう。」と、音をたてないようにして、そっと見続けていました。五、六人いたむすめたちは、みんな白いさらしの手ぬぐいを顔にかぶり、肩から赤いたすきをかけていました。トン トン むすめたちは、米をついています。月の光がむすめたちを明るく照らしています。米がつけたので、手を休め話をしはじめました。話し声はだんだんと大きくなり、ときどき笑い声もしてきました。
 おじいさんは、何を話しているのかと、耳をかたむけましたがよくわかりません。とても楽しそうな笑い声だけは、はっきりと分かりました。おじいさんは、もっと近づこうとして、そっと立って行きました。そのとき急に風が吹いて、ザワザワと草がゆれたと思ったら、むすめたちの姿は、まるで風に吹かれたかのように消えてしまいました。
「あれっ。どうしたこじゃ。」
「まるで、夢でも見ているようじゃ。」と、ボーッと立ちすくんでしまいました。
 しばらくして、風がやみ、おじいさんはいつもの自分にもどり、
「おーい、おーい。」と、大きな声で呼んでみましたが、返事はなく、ただ七本松だけがヒュー、ヒューと、不気味な音を立てているだけでした。おじいさんは、この不思議なできごとを村に帰って、多くに人に話しました。しかし、そんなことがあるはずがないと、全然信じてもらえませんでした。ただ、一人の若者だけが、本当かもしれないと思い、次の夜、七本松のところへ出かけて行きました。
 その夜も、月のきれいな夜でした。若者は草むらにひそんでいました。ずいぶん時間が過ぎました。やっぱりおじいさんの話は、ウソだったのかと思いはじめたとき、どこからか、トントン、トコトン、トコトントンという音が聞こえてきました。若者は、ハッと息をころして、耳をすませました。
「やっぱり、本当だ。」
「おじいさんの話は本当だ。」と、ドキドキしてきました。体をのり出して、七本松の方を見ると、むすめたちが米をついています。きのうのおじいさんの話とまったく同じです。若者は、知らずに体がだんだん前へ出てしまいました。そのとき、同じように急に風が吹いて来て、むすめたちの姿はフッと消えてしまいました。
 次の朝、若者は村の人たちに話しました。しかし、村の人たちは、そんなことがあるだろうかというような顔つきをしていました。話を聞いていた村一番の年寄りのじいさんが
「そりゃのう、きっとあの近くに住むたぬきじゃよ。」
「たぬきが、むすめたちに化けて出たんじゃよ。」と、言いました。また、他のじいさんは、「楽しそうに、米をついていたのじゃで、この村のみんなの幸せをあらわしておるのかもしれんの。」
「たぬきが化けとるなら、きっとええことがないぞ。」
「ばかされたら、どうなるのじゃ。」
「いっそ、あの七本松を切ってしまったらどうじゃろう。」
 村の人たちが相談し、松の木を切ってしまいました。それから後、あのおじいさんも、若者も、そして村のだれもたぬきの化けたむすめたちの米つきを見たという人はありませんでした。

しょうじがね池 

しょうじがねいけ


伝承地 瀬戸市西山町
 西山町に茶碗や皿の割れたものなど工場から出るごみを捨てるところがありますが、知っていますか。あのあたりに伝わるお話をしましょう。
 このごみ捨て場あたりは、しょうじがね池という名前の池でした。そして、この池のほかにも、まだ二つ・三つの池がありました。
 ここに池がたくさんあったのは、およそ五〇〇年前、このあたりをおさめていた松原下総守(しもふさのかみ)広長※1が池をつくったからです。自然のままのこのあたりは、水の便が悪くて田畑にもあまりなりません。また、雨が降れば、山から一度に水が流れて百姓たちを苦しめていました。
 そこで、広長は山から水が一度にあふれ出ないようにし、作物も取れるようにしようと考えました。広長は、工事の先頭に立って、モッコ(縄を網のようにあんで、土や石を運ぶようにしたもの)をかつぎ、段々にいくつかのため池(田畑に使う水をためておく池)をつくり、水路で池をつなぎ、水が一度にあふれ出ないようにしました。そのため、作物はできるようになり、山もくずれることがなくなりました。百姓たちはますます広長を慕っていきました。
しょうじがね池は、今はすっかり埋め立てられてしまい、池のまわりの山は切り開かれて、家がたくさん建ちました。とても考えられないくらい、発展しました。しかし、ちょっと大雨が降ると、水はすごい勢いで電車の線路を越え、川北町・川西町あたりの道路を川にしてしまいます※2。こんなとき、しょうじがね池のことが思い出されます。
※1 「およそ五四〇年前」
 松原広長は、室町時代に今村城の城主であり、今村を拠点とした在地領主と考えられています。文明14年(1482)には、科野郷(現在の品野地区)の桑下城を居城とする在地領主の永井(長江)民部と、安土坂(現在の安戸町あたり)他で対戦の末、敗れ戦死したと伝えられています。
また、江戸時代に編纂された『張州府志』に、「文明5年(1473)9月、松原広長が今村八王子社を造進」と記載されます。

空騒ぎの地

からさわぎのち


伝承地 瀬戸市小田妻町
 時代背景 正徳6年(1716)4月七代将軍家継は八歳で病死。将軍家の血筋が絶えたことによる、将軍職就任にまつわる伝説
 今から二六〇年ほど前※1のお話です。
 そのころは、江戸時代といい、将軍は七代目の徳川家継(いえつぐ)という人でした。家継は、四歳で将軍の位につき、四年ほど経っていました。ところが、家継は病弱で間もなく死んでしまいました。もちろん、後継ぎがありません。そこで八代目の将軍にだれになるか、いろいろ噂されていました。
 尾張藩(今の愛知県のこと)の五代目徳川宗春(むねはる)という殿様は将軍にいちばん近い位にある人でしたので、八代将軍になるのではないかと思われていました。しかし、どういうわけか紀州(今の和歌山県のこと)の殿様の徳川吉宗(よしむね)が八代将軍に選ばれてしまいました。これを聞いた尾張藩の侍たちは、
「うちの殿様をさしおいて、紀州の殿様が将軍になるなんて・・・」
「順番からいけば、この尾張の殿様が将軍なのに・・・」と、大変怒りました。そこで、このことに不満を持っていた侍たちが、水野村に集まって、
「八代将軍を吉宗にするのは反対だ。」
「尾張の殿様を将軍にしよう。」
「八代将軍は、徳川宗春さまだ。」
「尾張から将軍を。」などと、口々に大きな声を出して、勢いのよいところを示しました。
 尾張の侍たちのこうした「八代将軍吉宗反対」の行動も効き目がありませんでした。この行動は、大騒ぎだけで終わってしまいました。
 その後、この騒ぎのあったところを空騒ぎのあった場所ということから、唐沢(からさわ)と呼ぶようになったということです。
 今も、中水野の交差点の東あたりに、唐沢という地名が残っています。
※1 「今から三〇〇年ほど前」
 徳川吉宗の将軍職補任は、享保元年(1716)8月13日。

空騒ぎの地

からさわぎのち


水野村大字下水野に唐沢という地がある。これは八代将軍が、紀伊から入って将軍職を継ぐにあたって、尾州では、御三家の隋一でありながら、他家に将軍職を奪われるのを遺憾に思って、藩士等がここに集まって示威(じい)運動をしたが、なんらの功もなせなかった。全く空騒ぎに終わったので、その地を唐沢と称するようになったと伝えている。
<「愛知県伝説集」昭和12年より>

二の椀坂

にのわんさか


伝承地 瀬戸市南山口町
 時代背景 椀貸伝説。椀貸伝説(わんかしでんせつ)は、人寄せで多くの膳椀が入用の場合、その数を頼むと貸してくれるという沼や淵の話。全国的に分布がみられる。不注意から破損したり、心がけの悪い者が数をごまかして返したので、その後は貸さなくなったという
 山口の南山、国道一五五号線の東の古い山道に、二の椀坂と呼ばれるところがあります。
 むかし、山口のある家で、嫁とり(よめとり:嫁を迎えること。結婚式)をすることになったが、宴会に使う椀がないので、どうしたらよいだろうと考えていました。そのとき、親類の者が、
「八草(やくさ)にわんがし池=正しい名は富瀬池(とみせいけ)=という池があるげな。なんでも、この池に貸して欲しい椀の名と数を白い紙に墨で書いて、池に投げ入れておくと、次の朝、ちゃんとたのんだだけの椀が岸のところに置いてあるということだで、あの神様にたのんで、借りてきてはどうか。」と、教えてくれました。
 そこで、家に人はさっそく池に出かけ、教えられたようにして、足りない汁椀(しるわん:=汁椀のことを「二の椀」ともいう。二の椀を壊した坂というので「二の椀坂」というようになりました=)を借りました。家に帰る途中、急いでいたので下り坂で、つい足を滑らせて転んでしまいました。
「ああ、痛かった。あっ、お椀が一つ壊れちゃった。」
「どうしたらいいんだろう・・・。まあ、いいや。一つくらいなら何とかなるだろう。」と、一つ足りないまま、家に持ち帰って宴会を済ませました。
 そして、元の池へ一つ足りないまま椀を返しておきました。そのときは、何ごともなく済みましたが、その後はだれかが椀を借りようとすると、池の中からきみの悪い声で、
「足りぬぞう。」という声が聞こえるだけで、椀を借りることができなくなったということです。
 その後、いつの間にか、転んで椀を壊した坂を「二の椀坂」というようになったということです。

大槇

おおまき


伝承地 瀬戸市品野町1丁目
 時代背景 文明14年の大槇山、安土坂、若ヶ狭洞の合戦
 今から一二〇〇年も前※1のことです。人々は、伝染病や地震、日照りなどの天災(大水や地震など、自然による災害)が続いて、大変苦しんでおりました。
「去年は、大雨で品野川があふれ、米がよう取れなんだ。」
「今年は今年で、日照りが続き、田んぼの水がかれてひび割れてきた。このままでは、稲はみんな枯れてしまうぞ。」
「それに、このごろは訳の分からぬはやり病(伝染病のこと)が広まり、死人も出るほどじゃ。」
「困った。困ったものじゃ。」と、村人たちのなげくのが、あちらこちらで見かけられました。
 そんなところへ、仏の教えをときながら全国を旅しておられる都のえらいお坊さんが、数人のお弟子さんを連れて、通りがかられました。お坊さんは、人々の苦しみの様子を耳にされ、村の様子やまわりの土地の様子を調べて歩かれました。
 次の日から、お坊さんは、お経(おきょう)をとなえながら、お弟子さんたちと水の出そうな所に井戸を掘りはじめました。しばらく掘り進むと、そこから水がとめどなく湧きはじめました。この様子を見ていた村人たちは驚きました。それからは、お坊さんの指図に従って、たくさんの井戸を掘り、川の流れを変える工事まではじめました。その上、日照りに備えて、まわりの山すそにため池もつくりました。
 やがて、村人たちとともに汗を流したお坊さんたちの出発の日がおとずれ、村人たちは別れをおしみ、みんな村はずれまで見送って行きました。
「お上人(しょうにん)様、これからの私たちの励ましになるようなものを残していただけわけには、まいりませんでしょうか。」
「旅の途中で何もないが、これを残しておこう。」といって、持っていた槇(まき)の木でつくった杖(つえ)を地面につきさして行かれました。不思議なことに、その杖は逆さまのまま(杖はふつう持つところが根の方で、地面につくところが幹や先のほうでできている。)根がついて、ついには見上げるばかりの大きな木になったということです。
 これは、品野から陣屋へ通ずる旧街道の途中にある「大槇」というところのお話で、この槇の木は、逆さに立てたのに根付いたところから「さか槇」とも呼んでいます。
 このえらいお坊さんは、奈良の大仏をつくるために、全国をまわって人々の協力を求めて歩き続けた「行基(ぎょうぎ)上人」であったと伝えられています。
※1 「今から一三〇〇年も前」
 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。

海丸の穴

かいまるのあな


伝承地 瀬戸市内田町1丁目
 時代背景 荏坪古墳のこと。荏坪古墳は、6世紀中葉の横穴式円墳。
 水野の八幡社というお宮の裏へ行きますと、岩や石で積み上げられた洞穴があります。穴の上には木が茂っています。穴の中をのぞいてみますと、中は薄暗くひんやりとしています。広さは、畳七、八枚くらいあり、天井は大人が手を伸ばしたくらいあります。
 この穴には、むかし海丸というお坊さんがひとり住んでいました。それで、人々はこの岩穴を、このお坊さんの名前から「海丸の穴」と呼んでいました。
 海丸については、どこの生まれか、どこから来た人なのか、だれも知りませんでした。しかし、このお坊さんは和歌をよむのが大変じょうずで、しかも広い知識を身につけた人でした。そして、村人との付き合いをさけ、気ままな暮らしをしていました。それでも、たまには村人のところへ行って、米や野菜をわけてもらい、その場で和歌をすらすらと短冊(たんざく)に書いて渡し、お礼のしるしとしていました。
 このお坊さんについては、その後、どうなったのかはよくわかりません。また、このお話とは別に、この穴はむかしの人の墓(古墳、こふん)の跡だとも言われていますし、むかしの人の住まいの跡だともいわれています。本当のことはよく分かっていませんが、大きな石でつくられた穴が、今でもあることだけは確かなことです。

蛇が洞

じゃがほら


むかし、むかし※1、品野の村に小牧五郎(平景伴:たいらのかげとも、とも言うが、親しみやすい名前を使った)という人が住んでいました。勇気があり、大変力の強い人でした。魚つりが大好きで、毎日のように近くの川(半田川:はだがわのこと)へ出かけ、たくさん魚をつって帰るのを自慢にしていました。となり近所の人たちは、
「五郎さんちゅう人は、本当に魚つりがじょうずだのう。」
「うちは、五郎さんのおかげで助かっとるがん。ばんげは、魚のごっつおうばっかりで・・・」
「五郎さんに世話になるばかりじゃ悪いで、米や野菜を持ってっておるがん。」
 ある日、五郎はいつものように、たくさんつって帰ってきました。かごのふたを取って中をのぞいてみると、驚いたことに魚は一匹も見当たりません。ただ、竹の葉が五、六枚かごの底にひっついているだけでした。五郎は一瞬「ハッ」としましたが、どうしてこうなったか、思い当たることはありませんでした。そのため、五郎はその夜はよく眠れませんでした。次の日も川へ出かけました。
 いつものように、大そうよくつれました。喜んで家に帰って、かごのふたを取ってみると、またびっくりしました。魚の影も形もありません。
「これは、きっと何かわけがあるぞ。」
「何者のしわざだろう。」
 五郎はこう思いながら、次の日用心深く、川で糸をたれていました。すると、突然川上の方から生臭い風が強く吹いてきました。見ると、大きな岩の上に、白い一羽のハトが羽を広げてバタバタ音をたてているではありませんか。五郎は、
「こいつが化け物の本当の姿だな。」と思いながら、ハトをにらみつけました。そのとき、
「ボオー」というすごい音がして、白い煙があたり一面をおおいました。よく見ると、白いハトの姿はもうそこにはなく、かわって大きなへびが岩に体を巻き付けて、飛び上がるようなかっこうで、こちらをにらみつけているではありませんか。五郎は、
「ようし、この大蛇め。今にみておれ。」とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大蛇のひたいにぐさりとつき刺さりました。ひたいから、ドッと血があふれて川へ落ちました。大蛇は苦しそうにもがきながら、五郎に襲いかかりました。五郎は、
「エイッ」とばかりに、大蛇めがけて切りつけました。大蛇は頭をまっぷたつに切られ、「ドオッ」という音とともに川の中に沈みました。大蛇から流れ出る血は、まっ赤に川をそめました。
 この様子を岩陰から見ていた村の人たちは、
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、五郎さん。強い人だ。」
「竹の葉を魚にかえた化け物は、こいつだったんだな。」
「よかったのう。もう心して、つりができるぞ。」と、口々に話していました。
 その日から三日三晩、川は花のように赤くそまり、大蛇の骨も長く川底に残っていたということです。
 村には平和が訪れ、だれいうとなくこの川の淵を蛇が洞というようになりました。また、花のような川、花川、半田(はだ)川と移りかわって、この辺りの土地の名前にもなってしまったと伝えられています。
※1 大永年中(1521-1528)のこと。戦国時代。

曽野稲荷

そのいなり


水野村上水野村曽野(その)に曽野稲荷大明神というのがある。昔、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)が諸国(しょこく)遍歴(へんれき)の砌(みぎり)、薄暮曽野郷の一農家を訪れて、一夜の宿を乞われた。主人は快くおとめ申したが、深夜別室で人の叫喚(きょうかん)するのを聴いたので、上人は訝(いぶか)しんで主人にそのわけを問われると、「当郷には古来年を経た白狐が出没して里人を悩まし悶死(もんし)さすので、農民が次第に離散して隨(したが)って田園は荒蕪(こうぶ)に帰した。今宵は私の妻がそれに煩はされているのです。」と言って泣いて語った。そこで上人は可哀そうに思召され祈祷なされると忽ち快癒した。そこで農夫は上人に請うて、田中の社から曽野郷稲荷山に御分身を勧請することにした。その後この村には、白狐の出没が絶えたという。毎年旧二月初午の日には、お祭りがあって賽客が多い。<「愛知県伝説集」昭和12年より>

曽野稲荷大明神(参道)
曽野稲荷大明神