しょうじがね池 

しょうじがねいけ


伝承地 瀬戸市西山町
 西山町に茶碗や皿の割れたものなど工場から出るごみを捨てるところがありますが、知っていますか。あのあたりに伝わるお話をしましょう。
 このごみ捨て場あたりは、しょうじがね池という名前の池でした。そして、この池のほかにも、まだ二つ・三つの池がありました。
 ここに池がたくさんあったのは、およそ五〇〇年前、このあたりをおさめていた松原下総守(しもふさのかみ)広長※1が池をつくったからです。自然のままのこのあたりは、水の便が悪くて田畑にもあまりなりません。また、雨が降れば、山から一度に水が流れて百姓たちを苦しめていました。
 そこで、広長は山から水が一度にあふれ出ないようにし、作物も取れるようにしようと考えました。広長は、工事の先頭に立って、モッコ(縄を網のようにあんで、土や石を運ぶようにしたもの)をかつぎ、段々にいくつかのため池(田畑に使う水をためておく池)をつくり、水路で池をつなぎ、水が一度にあふれ出ないようにしました。そのため、作物はできるようになり、山もくずれることがなくなりました。百姓たちはますます広長を慕っていきました。
しょうじがね池は、今はすっかり埋め立てられてしまい、池のまわりの山は切り開かれて、家がたくさん建ちました。とても考えられないくらい、発展しました。しかし、ちょっと大雨が降ると、水はすごい勢いで電車の線路を越え、川北町・川西町あたりの道路を川にしてしまいます※2。こんなとき、しょうじがね池のことが思い出されます。
※1 「およそ五四〇年前」
 松原広長は、室町時代に今村城の城主であり、今村を拠点とした在地領主と考えられています。文明14年(1482)には、科野郷(現在の品野地区)の桑下城を居城とする在地領主の永井(長江)民部と、安土坂(現在の安戸町あたり)他で対戦の末、敗れ戦死したと伝えられています。
また、江戸時代に編纂された『張州府志』に、「文明5年(1473)9月、松原広長が今村八王子社を造進」と記載されます。