瀬戸市品野町
品野西遺跡は、現在の瀬戸市域の北寄りの水野川が形成した品野盆地の西端に位置する。この品野盆地の周辺には、縄文時代以降の数多くの原始・古代遺跡が確認されている。品野西遺跡は品野町4・6丁目に広がる東西450m、南北500mの複合遺跡である。平成4~7年度にかけて区画整理事業の事前調査として発掘調査された。現状水田・畑地となっているが、隣接する西側の丘陵は八床粘土鉱山で域内には著名な八床古窯跡群が所在する。
遺跡の北西部の水野川左岸の後背湿地(沖積地)とその南東部に形成された河岸段丘(洪積台地)面に集落跡が集中する。遺物包含層及び旧河道からは縄文草創期(木葉形・有舌形尖頭器10点出土グリット)・中期(深鉢)・後期・晩期の遺物採集。また隅丸方形または長形竪穴住居跡は沖積地から4棟検出、台地上からは竪穴住居跡11棟、掘立柱建物跡5棟の大規模な集落跡が検出された。住居は奈良時代から平安時代初期のものと比定された。
品野町4丁目の丘陵東斜面(品野西遺跡の南端)からは室町時代の火葬遺構が多数検出されている。平面プランが長方形または楕円形の「火葬施設」24基は深さ10~50cmで底に石を敷くものと無いものがあった。火葬した遺骨を集めて埋納した「土擴墓」は17基(骨壺埋納2・骨片のみ13・その他)、火葬墓9基(底に石敷く6・石無し3)と当時の葬法を表すものであった。また銅銭などの副葬品や古代の住居跡(飛鳥時代)も発見された。
カテゴリー: 文化・文化財
塚原古墳群
つかはらこふんぐん
瀬戸市若宮町2丁目
瀬戸市内には120基余の古墳が在るが、その半数近くが南部を流れる矢田川(山口川)流域に分布する。中でも山口谷奥の赤津川と海上川との合流地点の右岸(北側)丘陵、瀬戸市若宮町2丁目地内の標高150m前後の稜線を中心に多くの古墳が分布する。塚原古墳群(12基)・高塚山古墳群(3基)・山口堰堤古墳群(3基)が集中し、左岸丘陵地にも川原山古墳など6基が分布する。
昭和30年代初頭、地元の幡山東小学校の郷土史学習の一端として遺跡調査が行われ、塚原Ⅰ~7号古墳・高塚山1~3号古墳の所在が明らかにされた。さらに昭和41年には塚原1・4・6・7号墳、山口堰堤3号墳の主体部を中心とする発掘調査が行われている。
平成10年、都市計画道路瀬戸環状東部線(国道248号バイパス)が決定されたが、事業区域内に塚原古墳群が所在する事が明らかとなった。平成12年に瀬戸市埋蔵文化財センターによって試掘調査、同17年度範囲確認調査、同18年度に塚原1・4・11号墳の発掘調査が実施された。
最大級の横穴式石室をもつ第1号墳は全長7.3m、幅2.3m、高さ1.7mの規模で出土した須恵器から6世紀後半代と比定された。この古墳は歴史広場に移築保存された。
多くの須恵器や金属製品が出土しているが、古墳の規模・形式などからも、4号墳・7号墳は6世紀末から7世紀前葉、6号墳は7世紀中葉、11号墳は7世紀後葉に築造された円墳であった。
(参考文献 瀬戸市教職員考土サークル「考土」、「塚原古墳群」)

上品野遺跡
かみしなのいせき
瀬戸市上品野町
国道363号線の南側、上品野向橋南遺跡(須恵器・山茶碗・施釉陶器採集)のある沖積地と南側丘陵の間にある沖積地および丘陵末端部。昭和63年に鉄塔敷部分の事前調査が行われ、平成7年に自動車道工事に伴う試掘調査、翌年から発掘調査が行われた。
平成8年の愛知県埋蔵文化財センターによる発掘調査で紀元前2.8万年紀火山灰層中から、台葉石器・局部磨製石斧他数点の後期旧石器時代の出土があった。
昭和63年の調査では、もともと湿地帯であったため明確な遺構は存在しなかったが、湿地帯に堆積した土砂には主に丘陵上から流れ込んだ古墳時代初頭から江戸時代にかけての多量の土器、陶磁器類や木製品が含まれていた。中でも平安時代後半の灰釉陶器の碗・皿類が大量に出土した。さらに底部外部に「東」「吉」「財万」「万□」などと墨書されたものが含まれていた。また木製品では奈良時代末から平安時代初頭と思われる祓いに使用された「馬形代」や斎串が出土し、律令制下の役所で発見されることが多く、この地域に有力な豪族が存在したことが推測される。
またこの遺跡の北、水野川対岸一帯の沖積地は水田や畑地が広がっている。北から水野川に流入する蟹川との合流地点を中心に「上品野蟹川遺跡」が広がる。縄文時代から中世にかけての遺物が散布するが、平成7年に品野台小学校の移設造成工事の事前調査として発掘が行われた。遺物包含層としては第Ⅰ期(縄文時代・後期~晩期)、第Ⅱ期(8・9世紀の須恵器、9~11世紀の灰釉陶器)、第Ⅲ期(12世紀後半~16世紀末の施釉陶器など)であった。調査区が限定されていて遺構は発見されなかったが、丘陵端の桑下城や大窯跡に隣接しそれに関連した出土品(銅銭・生活用具・大窯製品など)も出土している。
(参考文献 「瀬戸市 上品野遺跡―中電鉄塔」「上品野蟹川遺跡」)
山口八幡社古墳群
やまぐちはちまんしゃこふんぐん
惣作・鐘場遺跡
そうさく・かねばいせき
瀬戸市惣作町・鐘場町
猿投山を水源として赤津地区を流れる赤津川(矢田川)の左岸(南側)の沖積低地・河岸段丘面は古代から近世に亘る遺物散布地となっている。この遺跡の上流部は大目神社古墳や大目神社遺跡に接し、下流部には旧石器が発見された太子遺跡や太子縄文遺跡を包含する。
平成14・15年度、瀬戸市道新明・鐘場線建設工事に先立つ事前発掘調査が瀬戸市埋蔵文化財センターによって行われた。その結果、縄文時代から江戸時代までの土器・土師器・須恵器・山茶碗・古瀬戸製品・大窯製品など多種多様な出土遺物を採集した。また弥生時代・古墳時代・奈良時代の各竪穴式住居跡も検出し、とくに戦国時代の大溝や土坑の遺構はこの時代の集落形態を考える際の貴重な資料である。
平成15・16年度に大目神社南の「惣作・鐘場遺跡Ⅱ」の発掘調査も継続され、その際には後期旧石器時代のナイフ形石器や縄文時代草創期の石器製作跡を検出、また古墳時代から古代・中世の各集落遺構・遺物を多数検出した。
(参考文献 瀬戸市埋蔵文化財センター「惣作・鐘場遺跡Ⅰ・Ⅱ」)
宮地古墳群
みやちこふんぐん
吉田・吉田奥古墳群
よしだ・よしだおくこふんぐん
瀬戸市上之山町2・吉野町・宮地町
瀬戸市の南東部、国道155号線と県道力石名古屋線(猿投グリンロード)が交わる丘陵地に大型住宅地開発が計画された。愛知県住宅供給公社による「サンヒル上之山」である。約31.5haの造成地には吉田古墳群・吉田奥古墳群と広久手古窯跡群の一部(7基)を包蔵しており、昭和61年から事前の発掘調査が実施された。
造成地南東部の丘陵稜線上の標高165m前後の位置に吉田奥2・3・5号墳が並ぶ。2号墳は径12mの墳丘を持つ円墳で、主体部は北西に開口した長さ4.8m、最大幅1.1m、残存高1.1mの「竪穴系横口式石室」で、玄室から須恵器の提瓶・蓋坏、鉄製刀、ガラス玉などが出土した。3号墳は砂防工事で墳丘前半分が滅失、同5号墳も石積みの一部を残すのみであった。6世紀中葉ころの築造とされた。
なお、古墳が想定されていた4号遺跡は中世の「小規模砦跡」であった。また古墳時代前・中期の住居跡4棟、土坑1基などを検出した「吉田奥遺跡」は鍛冶遺構が発見された。
吉田古墳群(4基)は、吉田奥古墳群が所在する丘陵の北側に位置し、標高140~150mの丘陵に立地している。粘土採掘によってすでに滅失したものが多く、尾根上に構築された2号墳が調査された。径11mの円墳で、主体部は西南西に開口した長さ5.2m、最大幅1.45mの片袖構造を有した「竪穴系横口式石室」で、天井および側壁の石積みは滅失していた。玄室は長さ3.7m、床一面に径5~15cmの円礫が敷き詰められていた。玄室からは須恵器のはそう・短頸壺、土師器の甕、刀子、菅玉、ガラス玉などが出土、これらから7世紀初頭の築造と比定された。本古墳は供給公社との協議で古墳公園に移築復元されることになった。
(参考文献 「上之山」)
広久手古窯跡群
ひろくてこようせきぐん
瀬戸市広久手町・海上町・宮地町・吉野町・上之山町2
瀬戸市域の南部幡山地区(旧幡山村)の中央を矢田川(山口川)が西に向かって流れ、北部に菱野丘陵、南部に幡山丘陵が展開している。この丘陵部には多くの古墳・古窯跡など古代から中世にかけての遺跡が濃密に分布する。瀬戸市域の内で最も古い段階の窯跡が発生したのもこの地域で、矢田川左岸の広久手古窯跡群中に在る。広久手古窯跡群は東の海上町から西の上之山町にかけての丘陵部に立地し、総数38基の窯跡が確認されている。
昭和30年代に幡山村史と瀬戸市史編纂の発掘調査が行われ、広久手C1・C3古窯、広久手E・F・百代寺古窯など11世紀代の灰釉陶器窯の窯体と焼成品が明らかにされた。
(「考土」・「瀬戸市埋蔵文化財センター研究紀要」)
昭和60年代に入り、国道155号沿線東の上之山町2から吉野町にかけての丘陵地帯開発計画が確定した。県住宅供給公社による「サンヒル上之山」建設計画で、遺跡確認調査の結果19ヵ所の埋蔵文化財の存在が確認された。瀬戸市教育委員会との調整の結果、7基の古墳及び住居址と8基の古窯及びその関連施設遺構の発掘調査が実施された。
広久手20号窯は標高151mの丘陵に長さ3.3m、幅1.4mの窯体が検出、灰釉陶器・緑釉陶素地を焼成した10世紀後半代の窯跡であることが同定された。これは従来最古とされてきた広久手C3号窯に先行するものであった。
広久手6号・7号・13号・16号窯跡はいずれも標高130~150mの丘陵地に築窯、13号窯は全長9.75m、最大幅2mが計測された。同7号窯は全長7.4m・幅1.5mの窯体部が残存、その東約10mの地点で新窯が発見された。これらの窯はいずれも山茶碗窯であるが、11世紀中から13世紀後半代に創業したと比定された。中には空白期を経て2次焼成されたものも確認された。
(瀬戸市埋蔵文化財センター「上之山」)
曽野の礎石
そののそせき
瀬戸市曽野町
瀬戸市曽野町の水田の中に「作石(つくりいし)」と呼ばれてきた花崗岩の巨石がある。この四角形の巨石は、縦180センチ、横190センチ、厚さ47センチで、上面の中央部には径57センチ、深さ6センチの浅い円形の孔が穿ってある。三味線胴形の張り出しもあり、瀬戸市史編纂監修者からは白鳳期の古代寺院の塔の心柱の礎石であるという見解が出されている。近くに「穴の宮」の地名はあるが寺院を示す遺構・遺物は全く見られず、そうした伝承もない。
しかし、周辺には花崗岩の切り出し場もあり、この場所の近くで作られた礎石が残されたという見解もある。近くの住民の中に「作石(さくいし)」姓が残る。いずれにせよ、寺院の礎石であるとすれば、千余年前の寺院建築の一端を示すものとなり、瀬戸の古代を考える上で貴重な資料である。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)
南山古窯跡群
みなみやまこようせきぐんぐん
瀬戸市上之山町1~3・南山口町
矢田川(山口川)左岸の南部丘陵に分布する南山古窯跡群(44基)は東の広久手古窯跡群と西側の大草古窯跡群の真ん中に在る。この地域は東の国道155号線と西の県道愛知青少年公園・瀬戸線に間の丘陵地帯にあって、昭和40年代以降の公共施設の建設によって多くの古窯跡が発掘調査されて滅失した。古窯群として確認されているのは、南山1~44号古窯で11世紀代に稼働した灰釉陶器窯(南山8・12・18号窯)や13世紀代の山茶碗・施釉陶器併焼窯(南山2・5・11・17・33・43・44号窯)で他は13世紀代の山茶碗専焼窯である。
南山1号窯は昭和49年に県陶磁資料館建設工事前の発掘調査された13世紀代の山茶碗窯である。
南山2号窯は、昭和55年に第4次水道拡張事業の事前発掘調査として実施された。窯体は標高134mの小丘陵中腹の北東向き斜面に立地、12~13世紀に稼働した山茶碗と施釉陶器(古瀬戸)を並焼したものであった。
南山8・9(A~D)号窯跡は、平成3年の県陶磁資料館敷地内の駐車場造成の事前発掘で明らかにされた。その後窯体の保存処理、保護上屋が建設され「古窯館」として公開されている。5基の窯跡は平安時代後期の灰釉陶器窯(9-D号)から鎌倉時代末期の山茶碗窯(9-C号)までの各時代の窯跡であった。
南山10号窯は、昭和49年の愛知青少年公園の駐車場造成工事の事前発掘調査が実施され、13世紀代に稼働した山茶碗窯の構造が明らかにされた。
南山15・34号窯は、昭和59年の赤十字センター建設工事の事前発掘調査として明らかにされた。南山15号窯は13世紀代の山茶碗・片口鉢専焼窯、同34号窯は13世紀代の山茶碗・施釉陶器(古瀬戸)併焼窯であった。
南山33号窯は、昭和57年に流通センター建設の事前発掘調査が実施され、13世紀代に稼働した山茶碗・施釉陶器(古瀬戸)併焼窯であることが明らかにされた。