上品野遺跡

かみしなのいせき


瀬戸市上品野町
 国道363号線の南側、上品野向橋南遺跡(須恵器・山茶碗・施釉陶器採集)のある沖積地と南側丘陵の間にある沖積地および丘陵末端部。昭和63年に鉄塔敷部分の事前調査が行われ、平成7年に自動車道工事に伴う試掘調査、翌年から発掘調査が行われた。
 平成8年の愛知県埋蔵文化財センターによる発掘調査で紀元前2.8万年紀火山灰層中から、台葉石器・局部磨製石斧他数点の後期旧石器時代の出土があった。
 昭和63年の調査では、もともと湿地帯であったため明確な遺構は存在しなかったが、湿地帯に堆積した土砂には主に丘陵上から流れ込んだ古墳時代初頭から江戸時代にかけての多量の土器、陶磁器類や木製品が含まれていた。中でも平安時代後半の灰釉陶器の碗・皿類が大量に出土した。さらに底部外部に「東」「吉」「財万」「万□」などと墨書されたものが含まれていた。また木製品では奈良時代末から平安時代初頭と思われる祓いに使用された「馬形代」や斎串が出土し、律令制下の役所で発見されることが多く、この地域に有力な豪族が存在したことが推測される。
 またこの遺跡の北、水野川対岸一帯の沖積地は水田や畑地が広がっている。北から水野川に流入する蟹川との合流地点を中心に「上品野蟹川遺跡」が広がる。縄文時代から中世にかけての遺物が散布するが、平成7年に品野台小学校の移設造成工事の事前調査として発掘が行われた。遺物包含層としては第Ⅰ期(縄文時代・後期~晩期)、第Ⅱ期(8・9世紀の須恵器、9~11世紀の灰釉陶器)、第Ⅲ期(12世紀後半~16世紀末の施釉陶器など)であった。調査区が限定されていて遺構は発見されなかったが、丘陵端の桑下城や大窯跡に隣接しそれに関連した出土品(銅銭・生活用具・大窯製品など)も出土している。
(参考文献 「瀬戸市 上品野遺跡―中電鉄塔」「上品野蟹川遺跡」)

山口八幡社古墳群

やまぐちはちまんしゃこふんぐん


瀬戸市八幡町・矢形町
旧山口村の氏神は現在山口八幡社で戦前は郷社の格をもっていた。社伝では承久の変(1221)後敗れた山田次郎重忠が山口村に落ち延び、ここに八幡宮を勧請したという。末社稲荷社は横穴式石室の中に社殿がある。この円墳が山口八幡1号墳で須恵器・金環・鉄製品が採集されている。境内には通称「杉塚」と呼ばれる古墳群がある。八幡神社の裏山の尾根上の先端部分に径15~20mの墳丘が(2号墳)、さらにその上段の尾根上に径約10mの墳丘(3号墳)が確認できる。西に隣接する本泉寺境内に本泉寺古墳(円墳)、さらにその西側に矢形古墳(滅失)が分布する。

山口八幡1号墳 石室
山口八幡3号墳

惣作・鐘場遺跡

そうさく・かねばいせき


瀬戸市惣作町・鐘場町
 猿投山を水源として赤津地区を流れる赤津川(矢田川)の左岸(南側)の沖積低地・河岸段丘面は古代から近世に亘る遺物散布地となっている。この遺跡の上流部は大目神社古墳や大目神社遺跡に接し、下流部には旧石器が発見された太子遺跡や太子縄文遺跡を包含する。
 平成14・15年度、瀬戸市道新明・鐘場線建設工事に先立つ事前発掘調査が瀬戸市埋蔵文化財センターによって行われた。その結果、縄文時代から江戸時代までの土器・土師器・須恵器・山茶碗・古瀬戸製品・大窯製品など多種多様な出土遺物を採集した。また弥生時代・古墳時代・奈良時代の各竪穴式住居跡も検出し、とくに戦国時代の大溝や土坑の遺構はこの時代の集落形態を考える際の貴重な資料である。
 平成15・16年度に大目神社南の「惣作・鐘場遺跡Ⅱ」の発掘調査も継続され、その際には後期旧石器時代のナイフ形石器や縄文時代草創期の石器製作跡を検出、また古墳時代から古代・中世の各集落遺構・遺物を多数検出した。
(参考文献 瀬戸市埋蔵文化財センター「惣作・鐘場遺跡Ⅰ・Ⅱ」)

吉田・吉田奥古墳群

よしだ・よしだおくこふんぐん


瀬戸市上之山町2・吉野町・宮地町
 瀬戸市の南東部、国道155号線と県道力石名古屋線(猿投グリンロード)が交わる丘陵地に大型住宅地開発が計画された。愛知県住宅供給公社による「サンヒル上之山」である。約31.5haの造成地には吉田古墳群・吉田奥古墳群と広久手古窯跡群の一部(7基)を包蔵しており、昭和61年から事前の発掘調査が実施された。
 造成地南東部の丘陵稜線上の標高165m前後の位置に吉田奥2・3・5号墳が並ぶ。2号墳は径12mの墳丘を持つ円墳で、主体部は北西に開口した長さ4.8m、最大幅1.1m、残存高1.1mの「竪穴系横口式石室」で、玄室から須恵器の提瓶・蓋坏、鉄製刀、ガラス玉などが出土した。3号墳は砂防工事で墳丘前半分が滅失、同5号墳も石積みの一部を残すのみであった。6世紀中葉ころの築造とされた。
 なお、古墳が想定されていた4号遺跡は中世の「小規模砦跡」であった。また古墳時代前・中期の住居跡4棟、土坑1基などを検出した「吉田奥遺跡」は鍛冶遺構が発見された。
 吉田古墳群(4基)は、吉田奥古墳群が所在する丘陵の北側に位置し、標高140~150mの丘陵に立地している。粘土採掘によってすでに滅失したものが多く、尾根上に構築された2号墳が調査された。径11mの円墳で、主体部は西南西に開口した長さ5.2m、最大幅1.45mの片袖構造を有した「竪穴系横口式石室」で、天井および側壁の石積みは滅失していた。玄室は長さ3.7m、床一面に径5~15cmの円礫が敷き詰められていた。玄室からは須恵器のはそう・短頸壺、土師器の甕、刀子、菅玉、ガラス玉などが出土、これらから7世紀初頭の築造と比定された。本古墳は供給公社との協議で古墳公園に移築復元されることになった。
(参考文献 「上之山」)

広久手古窯跡群

ひろくてこようせきぐん


瀬戸市広久手町・海上町・宮地町・吉野町・上之山町2
 瀬戸市域の南部幡山地区(旧幡山村)の中央を矢田川(山口川)が西に向かって流れ、北部に菱野丘陵、南部に幡山丘陵が展開している。この丘陵部には多くの古墳・古窯跡など古代から中世にかけての遺跡が濃密に分布する。瀬戸市域の内で最も古い段階の窯跡が発生したのもこの地域で、矢田川左岸の広久手古窯跡群中に在る。広久手古窯跡群は東の海上町から西の上之山町にかけての丘陵部に立地し、総数38基の窯跡が確認されている。
 昭和30年代に幡山村史と瀬戸市史編纂の発掘調査が行われ、広久手C1・C3古窯、広久手E・F・百代寺古窯など11世紀代の灰釉陶器窯の窯体と焼成品が明らかにされた。
(「考土」・「瀬戸市埋蔵文化財センター研究紀要」)

 昭和60年代に入り、国道155号沿線東の上之山町2から吉野町にかけての丘陵地帯開発計画が確定した。県住宅供給公社による「サンヒル上之山」建設計画で、遺跡確認調査の結果19ヵ所の埋蔵文化財の存在が確認された。瀬戸市教育委員会との調整の結果、7基の古墳及び住居址と8基の古窯及びその関連施設遺構の発掘調査が実施された。
 広久手20号窯は標高151mの丘陵に長さ3.3m、幅1.4mの窯体が検出、灰釉陶器・緑釉陶素地を焼成した10世紀後半代の窯跡であることが同定された。これは従来最古とされてきた広久手C3号窯に先行するものであった。
 広久手6号・7号・13号・16号窯跡はいずれも標高130~150mの丘陵地に築窯、13号窯は全長9.75m、最大幅2mが計測された。同7号窯は全長7.4m・幅1.5mの窯体部が残存、その東約10mの地点で新窯が発見された。これらの窯はいずれも山茶碗窯であるが、11世紀中から13世紀後半代に創業したと比定された。中には空白期を経て2次焼成されたものも確認された。
(瀬戸市埋蔵文化財センター「上之山」)

曽野の礎石

そののそせき


瀬戸市曽野町
 瀬戸市曽野町の水田の中に「作石(つくりいし)」と呼ばれてきた花崗岩の巨石がある。この四角形の巨石は、縦180センチ、横190センチ、厚さ47センチで、上面の中央部には径57センチ、深さ6センチの浅い円形の孔が穿ってある。三味線胴形の張り出しもあり、瀬戸市史編纂監修者からは白鳳期の古代寺院の塔の心柱の礎石であるという見解が出されている。近くに「穴の宮」の地名はあるが寺院を示す遺構・遺物は全く見られず、そうした伝承もない。
 しかし、周辺には花崗岩の切り出し場もあり、この場所の近くで作られた礎石が残されたという見解もある。近くの住民の中に「作石(さくいし)」姓が残る。いずれにせよ、寺院の礎石であるとすれば、千余年前の寺院建築の一端を示すものとなり、瀬戸の古代を考える上で貴重な資料である。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)

南山古窯跡群

みなみやまこようせきぐんぐん


瀬戸市上之山町1~3・南山口町
 矢田川(山口川)左岸の南部丘陵に分布する南山古窯跡群(44基)は東の広久手古窯跡群と西側の大草古窯跡群の真ん中に在る。この地域は東の国道155号線と西の県道愛知青少年公園・瀬戸線に間の丘陵地帯にあって、昭和40年代以降の公共施設の建設によって多くの古窯跡が発掘調査されて滅失した。古窯群として確認されているのは、南山1~44号古窯で11世紀代に稼働した灰釉陶器窯(南山8・12・18号窯)や13世紀代の山茶碗・施釉陶器併焼窯(南山2・5・11・17・33・43・44号窯)で他は13世紀代の山茶碗専焼窯である。
 南山1号窯は昭和49年に県陶磁資料館建設工事前の発掘調査された13世紀代の山茶碗窯である。
 南山2号窯は、昭和55年に第4次水道拡張事業の事前発掘調査として実施された。窯体は標高134mの小丘陵中腹の北東向き斜面に立地、12~13世紀に稼働した山茶碗と施釉陶器(古瀬戸)を並焼したものであった。
 南山8・9(A~D)号窯跡は、平成3年の県陶磁資料館敷地内の駐車場造成の事前発掘で明らかにされた。その後窯体の保存処理、保護上屋が建設され「古窯館」として公開されている。5基の窯跡は平安時代後期の灰釉陶器窯(9-D号)から鎌倉時代末期の山茶碗窯(9-C号)までの各時代の窯跡であった。
 南山10号窯は、昭和49年の愛知青少年公園の駐車場造成工事の事前発掘調査が実施され、13世紀代に稼働した山茶碗窯の構造が明らかにされた。
 南山15・34号窯は、昭和59年の赤十字センター建設工事の事前発掘調査として明らかにされた。南山15号窯は13世紀代の山茶碗・片口鉢専焼窯、同34号窯は13世紀代の山茶碗・施釉陶器(古瀬戸)併焼窯であった。
 南山33号窯は、昭和57年に流通センター建設の事前発掘調査が実施され、13世紀代に稼働した山茶碗・施釉陶器(古瀬戸)併焼窯であることが明らかにされた。

大草古窯跡群

おおくさこようせきぐん


瀬戸市台六町・幡中町・南菱野町・東本地町2
 矢田川(山口川)左岸(南側)の丘陵部に成立した広久手・南山・大草古窯跡群中、最も西側(下流部)に立地するのが大草古窯跡群(17基)である。大半が12~13世紀代に稼働した無釉の碗・小皿を焼成した山茶碗窯で構成されている。わずかに、11~12世紀の灰釉陶器片と山茶碗片が混在する大草10号窯(台六町・窯跡滅失)と13世紀代の施釉陶器片が採集できる大草4号窯(幡中町・窯跡滅失)が認められるのみである。大半が戦後の土砂採集で滅失したが、群中唯一発掘調査されたのは大草第6号窯(南菱野町)のみである。
 大草6号窯は長久手との市境、山ノ田信号交差点より東約350mの第三紀丘陵上(海抜110m前後)に在り、昭和56年に隣接する瓦粘土採掘の緊急発掘調査が実施された。地山をくり貫いた窖窯で、窯軸はほぼ北―南の南向斜面に築窯されていたが、残念ながら窯体の分炎柱とその前後わずかを残して他は自然流失していた。床面上の出土品は山茶碗・皿が中心で、他に四耳壺片・陶丸で物原の出土品の8割を占める片口鉢は最終窯には無かった。前庭部に径2.6mのピットがあり、数個体の山茶碗の完器が出土、製品の選別作業場であったようである。山茶碗は南部系荒肌手で13世紀代に稼働したものと比定される。
(「大草第6号窯発掘調査報告」)

菱野団地古窯跡群

ひしのだんちこようせきぐん


瀬戸市原山台・八幡台・萩山台・幡野町
旧瀬戸市街地と旧幡山村の間には標高120m前後の菱野丘陵が広がる。当地方特有の悪地地形で樹木の生長も思わしくない第3紀丘陵地である。この地域内県有林174haを開発して人口3万人規模の県営菱野団地を建設する計画が昭和40年代に生まれた。計画地域内には19地点で古窯跡が確認されており、瀬戸市教職員考土サークルによる事前発掘調査が昭和42年4月に始まった。発掘調査は2年間にまたがって実施され、新たに発見された窯跡も含め、井林1~8号窯、長根1の1・1の2・2~9号窯、今林1~3号窯、八幡4・6号窯、水無瀬東古窯が調査された。

菱野団地古窯跡群一覧表
古 窯 名 瀬戸系 行基焼  時 代  窯 体       出 土 品
井林 1  ○       12世紀 ほぼ残存(長さ11m) 碗・皿・四耳壺・水瓶
井林 2      ○   13世紀 分炎柱前後8m残存 碗・皿・仏飯器
井林 3      ○   13世紀 滅失        碗・皿
井林 4  ○       12世紀 分炎柱前後3m残存 碗・皿・四耳壺
井林 5  ○       13世紀 滅失        碗・皿・四耳壺・水注
井林 6  ○       13世紀 滅失        碗・皿・四耳壺
井林 7      ○   13~14C 燃焼室残、木筋痕  碗・皿・こね鉢・入子
井林 8      ○   13~14C 滅失        碗・皿・こね鉢・陶弾
長根1-1  ○   ○   12世紀 焼成室上半分流失  碗・皿・瓶子・合子
長根1-2     ○ 13世紀 工事で滅失     碗・皿
長根 2      ○   13世紀 天井除いて完存   碗・皿・こね鉢・陶弾
長根 3      ○   13世紀 自然侵食で流失   碗・皿・こね鉢
長根 4  ○       13世紀 ほぼ完存/長さ9.5m 碗・皿多し
長根 5  ○       12世紀 炊口より7.2m残存  碗・皿・四耳壺
長根 6  ○       12世紀 5号と同規模・併存 上手碗・皿・四耳壺
長根 7      ○   13世紀 分炎柱前後5m床残 碗・皿・陶弾
長根 8      ○   13世紀 滅失        碗・皿
長根 9      ○   13世紀 滅失、物原のみ   碗・皿・こね鉢
今林 1  ○       12世紀 炊口より5m残・溝 大アラコ様式碗・皿他
今林 2  ○       12世紀 (団地外)窯残   広久手様式碗・皿
今林 3      ○   13世紀 滅失        碗・皿
八幡 4      ○   13世紀 滅失        碗・皿・陶弾
八幡 6      ○   13世紀 焚口より長7m残  碗・皿・陶弾
水無瀬東  ○       12~13C 長さ9m残、カマド 碗・皿・片口碗・盤
註;「菱野団地古窯阯群」より作成、時代は「瀬戸市内遺跡詳細分布調査報告書」使用
「瀬戸系」は上質胎土、仕上げが丁寧薄作り、「行基焼」は粗胎土、粗略作り製品