二の椀坂

にのわんさか


伝承地 瀬戸市南山口町
 時代背景 椀貸伝説。椀貸伝説(わんかしでんせつ)は、人寄せで多くの膳椀が入用の場合、その数を頼むと貸してくれるという沼や淵の話。全国的に分布がみられる。不注意から破損したり、心がけの悪い者が数をごまかして返したので、その後は貸さなくなったという
 山口の南山、国道一五五号線の東の古い山道に、二の椀坂と呼ばれるところがあります。
 むかし、山口のある家で、嫁とり(よめとり:嫁を迎えること。結婚式)をすることになったが、宴会に使う椀がないので、どうしたらよいだろうと考えていました。そのとき、親類の者が、
「八草(やくさ)にわんがし池=正しい名は富瀬池(とみせいけ)=という池があるげな。なんでも、この池に貸して欲しい椀の名と数を白い紙に墨で書いて、池に投げ入れておくと、次の朝、ちゃんとたのんだだけの椀が岸のところに置いてあるということだで、あの神様にたのんで、借りてきてはどうか。」と、教えてくれました。
 そこで、家に人はさっそく池に出かけ、教えられたようにして、足りない汁椀(しるわん:=汁椀のことを「二の椀」ともいう。二の椀を壊した坂というので「二の椀坂」というようになりました=)を借りました。家に帰る途中、急いでいたので下り坂で、つい足を滑らせて転んでしまいました。
「ああ、痛かった。あっ、お椀が一つ壊れちゃった。」
「どうしたらいいんだろう・・・。まあ、いいや。一つくらいなら何とかなるだろう。」と、一つ足りないまま、家に持ち帰って宴会を済ませました。
 そして、元の池へ一つ足りないまま椀を返しておきました。そのときは、何ごともなく済みましたが、その後はだれかが椀を借りようとすると、池の中からきみの悪い声で、
「足りぬぞう。」という声が聞こえるだけで、椀を借りることができなくなったということです。
 その後、いつの間にか、転んで椀を壊した坂を「二の椀坂」というようになったということです。

大槇

おおまき


伝承地 瀬戸市品野町1丁目
 時代背景 文明14年の大槇山、安土坂、若ヶ狭洞の合戦
 今から一二〇〇年も前※1のことです。人々は、伝染病や地震、日照りなどの天災(大水や地震など、自然による災害)が続いて、大変苦しんでおりました。
「去年は、大雨で品野川があふれ、米がよう取れなんだ。」
「今年は今年で、日照りが続き、田んぼの水がかれてひび割れてきた。このままでは、稲はみんな枯れてしまうぞ。」
「それに、このごろは訳の分からぬはやり病(伝染病のこと)が広まり、死人も出るほどじゃ。」
「困った。困ったものじゃ。」と、村人たちのなげくのが、あちらこちらで見かけられました。
 そんなところへ、仏の教えをときながら全国を旅しておられる都のえらいお坊さんが、数人のお弟子さんを連れて、通りがかられました。お坊さんは、人々の苦しみの様子を耳にされ、村の様子やまわりの土地の様子を調べて歩かれました。
 次の日から、お坊さんは、お経(おきょう)をとなえながら、お弟子さんたちと水の出そうな所に井戸を掘りはじめました。しばらく掘り進むと、そこから水がとめどなく湧きはじめました。この様子を見ていた村人たちは驚きました。それからは、お坊さんの指図に従って、たくさんの井戸を掘り、川の流れを変える工事まではじめました。その上、日照りに備えて、まわりの山すそにため池もつくりました。
 やがて、村人たちとともに汗を流したお坊さんたちの出発の日がおとずれ、村人たちは別れをおしみ、みんな村はずれまで見送って行きました。
「お上人(しょうにん)様、これからの私たちの励ましになるようなものを残していただけわけには、まいりませんでしょうか。」
「旅の途中で何もないが、これを残しておこう。」といって、持っていた槇(まき)の木でつくった杖(つえ)を地面につきさして行かれました。不思議なことに、その杖は逆さまのまま(杖はふつう持つところが根の方で、地面につくところが幹や先のほうでできている。)根がついて、ついには見上げるばかりの大きな木になったということです。
 これは、品野から陣屋へ通ずる旧街道の途中にある「大槇」というところのお話で、この槇の木は、逆さに立てたのに根付いたところから「さか槇」とも呼んでいます。
 このえらいお坊さんは、奈良の大仏をつくるために、全国をまわって人々の協力を求めて歩き続けた「行基(ぎょうぎ)上人」であったと伝えられています。
※1 「今から一三〇〇年も前」
 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。

海丸の穴

かいまるのあな


伝承地 瀬戸市内田町1丁目
 時代背景 荏坪古墳のこと。荏坪古墳は、6世紀中葉の横穴式円墳。
 水野の八幡社というお宮の裏へ行きますと、岩や石で積み上げられた洞穴があります。穴の上には木が茂っています。穴の中をのぞいてみますと、中は薄暗くひんやりとしています。広さは、畳七、八枚くらいあり、天井は大人が手を伸ばしたくらいあります。
 この穴には、むかし海丸というお坊さんがひとり住んでいました。それで、人々はこの岩穴を、このお坊さんの名前から「海丸の穴」と呼んでいました。
 海丸については、どこの生まれか、どこから来た人なのか、だれも知りませんでした。しかし、このお坊さんは和歌をよむのが大変じょうずで、しかも広い知識を身につけた人でした。そして、村人との付き合いをさけ、気ままな暮らしをしていました。それでも、たまには村人のところへ行って、米や野菜をわけてもらい、その場で和歌をすらすらと短冊(たんざく)に書いて渡し、お礼のしるしとしていました。
 このお坊さんについては、その後、どうなったのかはよくわかりません。また、このお話とは別に、この穴はむかしの人の墓(古墳、こふん)の跡だとも言われていますし、むかしの人の住まいの跡だともいわれています。本当のことはよく分かっていませんが、大きな石でつくられた穴が、今でもあることだけは確かなことです。

蛇が洞

じゃがほら


むかし、むかし※1、品野の村に小牧五郎(平景伴:たいらのかげとも、とも言うが、親しみやすい名前を使った)という人が住んでいました。勇気があり、大変力の強い人でした。魚つりが大好きで、毎日のように近くの川(半田川:はだがわのこと)へ出かけ、たくさん魚をつって帰るのを自慢にしていました。となり近所の人たちは、
「五郎さんちゅう人は、本当に魚つりがじょうずだのう。」
「うちは、五郎さんのおかげで助かっとるがん。ばんげは、魚のごっつおうばっかりで・・・」
「五郎さんに世話になるばかりじゃ悪いで、米や野菜を持ってっておるがん。」
 ある日、五郎はいつものように、たくさんつって帰ってきました。かごのふたを取って中をのぞいてみると、驚いたことに魚は一匹も見当たりません。ただ、竹の葉が五、六枚かごの底にひっついているだけでした。五郎は一瞬「ハッ」としましたが、どうしてこうなったか、思い当たることはありませんでした。そのため、五郎はその夜はよく眠れませんでした。次の日も川へ出かけました。
 いつものように、大そうよくつれました。喜んで家に帰って、かごのふたを取ってみると、またびっくりしました。魚の影も形もありません。
「これは、きっと何かわけがあるぞ。」
「何者のしわざだろう。」
 五郎はこう思いながら、次の日用心深く、川で糸をたれていました。すると、突然川上の方から生臭い風が強く吹いてきました。見ると、大きな岩の上に、白い一羽のハトが羽を広げてバタバタ音をたてているではありませんか。五郎は、
「こいつが化け物の本当の姿だな。」と思いながら、ハトをにらみつけました。そのとき、
「ボオー」というすごい音がして、白い煙があたり一面をおおいました。よく見ると、白いハトの姿はもうそこにはなく、かわって大きなへびが岩に体を巻き付けて、飛び上がるようなかっこうで、こちらをにらみつけているではありませんか。五郎は、
「ようし、この大蛇め。今にみておれ。」とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大蛇のひたいにぐさりとつき刺さりました。ひたいから、ドッと血があふれて川へ落ちました。大蛇は苦しそうにもがきながら、五郎に襲いかかりました。五郎は、
「エイッ」とばかりに、大蛇めがけて切りつけました。大蛇は頭をまっぷたつに切られ、「ドオッ」という音とともに川の中に沈みました。大蛇から流れ出る血は、まっ赤に川をそめました。
 この様子を岩陰から見ていた村の人たちは、
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、五郎さん。強い人だ。」
「竹の葉を魚にかえた化け物は、こいつだったんだな。」
「よかったのう。もう心して、つりができるぞ。」と、口々に話していました。
 その日から三日三晩、川は花のように赤くそまり、大蛇の骨も長く川底に残っていたということです。
 村には平和が訪れ、だれいうとなくこの川の淵を蛇が洞というようになりました。また、花のような川、花川、半田(はだ)川と移りかわって、この辺りの土地の名前にもなってしまったと伝えられています。
※1 大永年中(1521-1528)のこと。戦国時代。

曽野稲荷

そのいなり


水野村上水野村曽野(その)に曽野稲荷大明神というのがある。昔、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)が諸国(しょこく)遍歴(へんれき)の砌(みぎり)、薄暮曽野郷の一農家を訪れて、一夜の宿を乞われた。主人は快くおとめ申したが、深夜別室で人の叫喚(きょうかん)するのを聴いたので、上人は訝(いぶか)しんで主人にそのわけを問われると、「当郷には古来年を経た白狐が出没して里人を悩まし悶死(もんし)さすので、農民が次第に離散して隨(したが)って田園は荒蕪(こうぶ)に帰した。今宵は私の妻がそれに煩はされているのです。」と言って泣いて語った。そこで上人は可哀そうに思召され祈祷なされると忽ち快癒した。そこで農夫は上人に請うて、田中の社から曽野郷稲荷山に御分身を勧請することにした。その後この村には、白狐の出没が絶えたという。毎年旧二月初午の日には、お祭りがあって賽客が多い。<「愛知県伝説集」昭和12年より>

曽野稲荷大明神(参道)
曽野稲荷大明神

雨乞いの軸

あまごいのじく


伝承地 瀬戸市巡間町
瀬戸の南東の方角に、ちょうど平野部と山間部をしきるように、一本の川がゆるやかに流れています。赤津川です。赤津川にかけられた風月橋を渡ると、あたりの水田の一角のこんもりとした森の中に「大目(おおま)神社」があります。
むかしむかし、来る日も来る日も、お天とうさまはかんかん照り。やっとくもったかなと思うと、すぐ晴れ上がってお天等さまが顔を出す。田んぼの水は干上(ひあ)がり、やがて川の水もかれてきそうな。もう村中、いいや、ここだけじゃのうて、日本の東の方はみんな、それはそれはひどいもんじゃったそうな。水がなくなると、田んぼや畑の作物はみんな駄目になり、村には食べるものも、飲むものもなくなり、果(は)ては山の草木を食べ、次は家畜(かちく)を、その次は犬や猫を・・・という順に食いつくし、村人はばたばたと倒れ、ついには人っ子一人いなくなってしまうという所もあったそうな。
これが、「天明の大飢饉(だいききん)」と呼ばれ、今でもその頃のひどいありさまが、語り伝えられとるんじゃ。
 その頃、ここ赤津の村の衆(しゅう)も、もう血まなこになって、雨を降らせる手だてを試(ため)してみたんじゃが、みんなだめだった。
そこで、とうとう長谷山(はせやま)観音(かんのん)の善声院(ぜんせいいん)さんが、京都の泰寮院(たいりょういん)という所から「雨乞いの軸」ちゅうもんを買ってきなさったんじゃと。軸には、何やら龍神さまのことが書いてあり、雨を降らせるのに、たいそう効(き)き目(め)があるとのこと。さっそく村の衆がお宮さん(大目神社)こもって、いつものとおり、神様にお神酒(みき)をそなえ、お年寄りの代表が熱心に祝詞(のりと)(神様に祈ることば)をとなえ始めたと。そして、雨を降らせたい一心に、「雨乞いの軸」をするするするっと、一気に全部開けてしまったんだそうな。
すると、急に空が真っ暗になり、大地が張(は)り裂(さ)けんばかりの雷と、稲光(いなびかり)がとどろき、滝のような雨が降り出して、みるみる一面の水びたし。村の衆は、飛び上がって喜び合いながら、急いでそれぞれ自分たちの家へ帰ったと。そして、家の者と空を見上げては、うるおってきた田んぼや畑のことを考え、神さまにお礼をいったと。
 ところが、今度は二日たっても三日たっても何日たっても、雨は止まらんかったと。とうとう、田んぼも畑も川も水があふれて、ありがたがっていた人も心配になりだして、善声院さんを訪(たず)ねたそうな。善声院さんは、
「そりゃ、村の衆。雨乞いの軸の使い方を間違えておったんじゃよ。あれはな、決して全部開いてはいけないんじゃ。そんなことをすれば、軸に書かれた龍神さまのごりやくがいっぺんにあらわれ、今度のような、洪水(こうずい)になってしまうんじゃよ。軸は、真ん中あたりまでしか、開(あ)けてはならんのじゃよ。」
と、言われたそうな。
 それからというものは、日照りが続いて、どうしても雨を降らせたいとき、村人が集(あつ)まって、この「雨乞いの軸」を取り出して、願いがかなうまで繰(く)り返(かえ)し、大目神社で祈ったそうな。決(けっ)して全部開いてはならぬという教えを固く守りながらのう。
 今では、このあたりもすっかり様子が変わり、農業用の水路も引かれ、昔のような心配事は、のうなった。おかげで、この雨乞いの軸を広げて使うことものうなった。
 じゃが、この軸は、氏子(うじこ)総代(そうだい)の人が、代々大切に預って、しまっておいてくださっとるということじゃ。

石投げ名人「久六」


伝承地 瀬戸市城屋敷町
 時代背景 文明14年に大槇山、安土坂、若ヶ狭洞で合戦したと伝えられる。
 毎年七月になると、大相撲名古屋場所がはじまります。その時期になると、押尾川部屋が、今村八王子神社を宿舎として朝早くから激しい稽古をしています。この八王子神社は、今村城主の松原広長公により、五百年ほど前に建てられました。村人たちは豊作や村中の安全を祈願してお参りをしました。
 今村城ができた頃の日本は、京都を中心に応仁の乱(一四六七年)にも土地の攻め合いが起こるようになりました。
 今村城でも、戦いにそなえて、週に一回くらい、剣・弓・槍・鉾・乗馬などの訓練がありました。練武場(訓練する場所)へ集まる人たちはふだんは農業や土木工事をしていました。
 西隣りの狩宿村に、太刀の名手といわれていた渡辺数馬という人がいました。数馬の娘淡路は、剣術が好きで、いつも父とともに練武場へ来ていました。
 その後、広長公の父吉之丞(飽津城主)に見込まれて広長公の奥方となりました。
 淡路は、太刀や乗馬の不得意な若者たちを集めて「投石隊」をつくりました。投石は殺傷力は弱いけれども、森や山坂の多いこの地方では、相手を攻めるのにとても有効な戦術でした。石は、場所や距離によって形や大きさを選び、素手で戦うことができました。
 投石隊の訓練は、追分の勢子山の山林で行われました。はじめは思うように投げられず、命中率もせいぜい五割くらいでしたが、投石のコツをつかむと百発百中のものも現れました。とくに久六は、兎や鳥のように動き回る動物にも命中させる石投げ名人となり、淡路から投石隊の隊長に任命されました。はじめの頃は、「エイッ」「ヤーツ」とかけ声をかけていましたが、最後には無言で投げられるようになりました。
 文明十四年(一四八二年)五月十五日、安土坂の戦いが始まりました。品野の永井勢と今村の松原勢との合戦でした。最初は大槇山付近で戦いましたが、松原勢は次第に押されて安土坂まで後退し、この地で両軍の決戦が行われました。松原勢も投石隊を使った作戦で必死の戦いをしましたが、ついに敗北し、広長公は若狭洞で切腹をしてしまいました。亡骸は、家来たちの手で赤津の万徳寺へ運ばれ、円林上人によって手厚く葬られました。
 久六は、奥方淡路のあとを追って赤津の万徳寺に移り、墓守りとしてその生涯を広長公の供養に捧げたといわれています。
 これ以来、赤津の人々は、御戸偈池の近くで「ピュー」「ピュー」という石を投げる音を耳にするようになったということです。

市場町の火事

いちばちょうのかじ


伝承地 瀬戸市品野町三丁目
 時代背景 
 今から、およそ二百年くらい前(江戸時代後期、一八〇〇年ごろ)※1のお話です。
 中馬(ちゅうま)街道(かいどう)(名古屋から瀬戸をとおり、品野を経て長野県の飯田へ抜ける道)筋(すじ)にある下品野村は、山の高地にあるので、よそよりは寒さがきびしく、その年の大晦日(おおみそか)は村の人たちをふるえあがらせていました。
 街道から少し西に入った中山家では、一人暮らしのお玉がこれから夕食のしたくにかかろうと、古い汚(よご)れた行灯(あんどん)(木の枠に紙をはり、中に油受けをおいて、火をともす照明(しょうめい)器具)に火をつけました。この貧(まず)しそうに見える台所に一つだけ目立つものがありました。それは、よく磨(みが)かれて黒光りのする由緒(ゆいしょ)のありそうな茶釜(ちゃがま)です。茶釜は火がかけられ、ことことと湯をたぎらせていました。
 中馬街道の中山家といえば、人に知られた家でしたが十年前に主人に死なれてからは、急に貧しくなって、その日の暮らしにも困るほどになっていました。
「こんばんわ。」
と、市場屋(いちばや)の手代(てだい)(店で働く人の位。番頭-手代-小僧)の喜蔵(きぞう)が入ってきました。
「へっ、ごっさま。すまんこっちゃがけさの話ああ、今夜どうしても、何とかしてもらえんかのう。・・・」
 お玉のむすこが、店の見習いの旅に出かけるときに親類の市場屋から五両(今の二十五万円くらい。)のお金を借りて行ったので、そのお金を取りに来たのです。
「主人が、やかましく言うもんで・・・。今日中に返してもらわんと、わたしが困るで、たのみますわ。」
「喜蔵さ、ぶっといてすまんけど、わたしゃ、その日のことにも困っとるで、どうにもならんがな。まあ少し待ってもらうよう、だんなにたのんでくれんかん。」
「気の毒じゃが、今日は暮れじゃでなあ・・・。わたしも、だんなに言いわけが立たんでなあ・・・。お前さんがどうにもならんというなら、何か代りになるものをもらっていこうか。」
「こんな貧乏(びんぼう)な家に、金目のものなどありゃせんがな」
あたりを見回した喜蔵は、たぎっている茶釜を見つけて、
「・・・そうじゃ、この茶釜、五両には足(た)らんが、こいつをもらっていくか。」
「・・・まあ、喜蔵さ。これはお前さ、ご先祖(せんぞ)様の大切なものじゃで・・・、ばちがあたるわな。」
「ご先祖様も何もありゃせん。今のお前さんにはいらんもんじゃ。これをよこさっせ。」
「喜蔵さ、あんまりじゃぞな、いくらなんでも・・・。この大事な茶釜を持って行ってみなされ、ええ、わしゃあ、はなしゃせんぞな。しmでも・・・。」
 泣きわめきながら、ぐらぐら煮えたぎった茶釜にしがみつくお玉に、おじけづいた喜蔵は、手にした茶釜のふただけを持って走りだしました。
「喜蔵さ、ふた返せ。ふたよこせ・・・。」
半狂乱(はんきょうらん)になって泣きわめくお玉のそばに、ふたを取られた茶釜が、ふつふつとたぎって、白い湯気(ゆげ)をもうもうと立ち昇らせていました。
喜蔵から、詳しい話を聞いた市場屋の主人四郎(しろ)兵衛(べえ)は、
「喜蔵、こりゃ、ちょっとやり過ぎたなあ」
と、言いましたが、店の売りあげ勘定(かんじょう)に忙しく、そのまま過ぎてしまいました。
勘定もやっと終わって、店の者たちは年越(としこ)しのご馳走(ちそう)をいただくと、それぞれ自分たちの部屋へ、引きさがりました。
広い屋敷(やしき)から蔵(くら)の中まですっかり掃除(そうじ)を終わって、お正月の飾り付けもすませた市場屋も、九ツ(夜の十二時)を過ぎると、朝からの風音以外はしんと静まりかえっていました。昼間の仕事の疲れで、店の者はすぐに
街道の馬(うま)市(いち)を取り仕しきり、酒造りと油(あぶら)問屋(とんや)とを兼ねた品野の市場屋といえば、中馬街道でも有名な大店(おおだな)です。蔵が三戸分ぐるりと広い屋敷を取り巻き、今の国道沿いの戸田国助さん宅からココストアを経てプラット愛電館みずの(電気屋さん)あたりまで、西はずっと稲田になっている所までの人構えだったというから大したものです。
 八ツ(午前二時)と思われるころ、西の蔵のあたりから、こげくさい臭いとともに、パチパチ音がしたと思う間(ま)に急に火が吹き出し、蔵は火の海となりました。南の蔵には、油が入っているから大変です。あれよあれよという間に火は燃え広がり、さすが広い市場屋も、母(おもや)屋(家の人たちが住んでいる建物)からいくつかの蔵まで、全部灰(はい)になってしまいました。そればかりか、家の中に寝ていた主人の四郎兵衛も、奥さんも、一人娘も、召し使いたちも、みんな焼け死んで、だれ一人と助かりませんでした。
 街道でも有名な億万長者(おくまんちょうじゃ)の市場屋も、あっという間に燃え広がった火事のために、滅びてしまいました。火事のあった夜ふけに気が抜けたようになって、市場屋の蔵のあたりをうろつくお玉を見たという者やはげしく燃える火の中に、、
「ふた返せ。ふたよこせ。」
と、さけぶお玉の声を聞いたという者もいたので、
「つけ火だ。つけ火だ。恨(うら)みのつけ火だ。」
と、だれ言うことなく、村の人々はうわさし合って、怖(こわ)がりました。
 広い焼け跡には、灰となったいくつかの白骨のなかに、例の茶釜のふたをしっかりとにぎっている骨もあったとか。・・・・
手代の喜蔵は、自分のしたことからこんな大事になり、半病人のような毎日でした。後悔(こうかい)してあやまりましたが、市場屋は元には戻りません。
  品野こげても、市場屋はこげぬ
 (品野の峠を越えることができても、市場屋より金持ちになることはできない)
  こげぬ市場屋も 火にゃこげる
 (そんな大金持ちの市場屋も、火には燃えてしまう)
  億万長者の市場屋さえも
  燃やしゃ 一夜で灰となる
 信州通(しんしゅうかよ)いの馬子(まご)(馬を引いて人や荷物を運ぶことを仕事にしている人)たちは、街道(かいどう)名物(めいぶつ)、市場屋が滅(ほろ)びたことを悲(かな)しんで、このように歌ったということです。
 その後、旅から戻って悲しんで死んだお玉のむすこと、お玉へのとむらいとして、喜蔵は小さな碑(ひ)をたてました。
 市場屋屋敷から国道をへだてた小高い丘の中腹に、昔は杉の木立などありましたが、そこにささやかな碑が今でも残っていて、だれ言うとなく、「イボ」ができたらこの碑におまいりすると、不思議に取れるという言い伝えが生まれました。「いぼ神様」といって、品野坂上から窯町にぬける「やきもの小道」の途中にあり、みんながお参りして、お線香のけむりが絶えません。

岩屋堂

いわやどう


伝承地 瀬戸市岩屋町
 時代背景 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。
 瀬戸に住んでいる皆さんは、品野の岩屋堂というところを知っていますね。ここには、こんなお話があるのです。
 今から一二〇〇年ぐらい前に、行基(ぎょうぎ)というお坊さんがいました。行基は、勉強のために、日本中いろいろなところを歩きました。※1
 あるとき、品野へやって来ました。岩屋堂の大きな石のほら穴と近くの滝を見て、
「これは良いところへ来た。ひとつここで、もっと立派な坊さんになれるよう勉強をしよう。」と、言って、一生けんめい勉強をはじめました。
 ちょうどそのころ、都(みやこ)では聖武天皇(しょうむてんのう)が、おもい病気で苦しんでいました。それを聞いた行基は、天皇が早く直るようにお祈りをしました。オオカヤの木を切り、仏さまを三つ作りました。一つはお薬師さまで、ほかの二つは観音さまです。これを作るとき、ひと削りしては、
「天皇の病気が早く直りますように。」と、三回お祈りをするという心のこもった作りかたでした。その熱心な姿を見て、まわりのいろいろな鳥が、木の実などを運んで来てお供えするのでした。
 行基の作った三つの仏さまは、今でも岩屋堂のほら穴に祀ってあり、多くの人がお参りにきています。
※1 「今から一三〇〇年ぐらい前」

堀出し地蔵

ほりだしじぞう


伝承地 瀬戸市湯之根町あたり?
 北新谷(きたしんがい:今の池田通りを北にのぼりつめたあたりのこと)というところに、堀出し地蔵というお地蔵さんがあります。
このお地蔵さんには、こんなお話があります。
 むかし、加藤治右衛門(かとうじえもん)さんという人がいました。治右衛門さんが、ある夜、眠っていると夢の中にお地蔵さんがあらわれて、
「わたしは、むかし観音(かんのん)山にいた地蔵だ。しかし、何年も何年もたつうちに、とうとうお前の家の東の方にある池の中に、沈んでしまって、だれもわたしが池の中にいることを知らない。わたしは、とても悲しい。池の中からほり出して、まつってくれ。」と、言いました。
 そこであくる朝、治右衛門さんは家族みんなで、池の底をさらえてみました。するとどうでしょう。池の底にお地蔵さんが泥まみれになって、沈んでいたではありませんか。夢の中のお地蔵さんとまったく同じです。
「おお、やっぱりお地蔵さんが、こんなところにどろんこでござったか。お気のどくに。わしらで、まつってあげよう。」
 治右衛門さんは、お地蔵さんをきれいに洗い、宝泉寺(ほうせんじ:瀬戸市寺本町にある寺。瀬戸公園の南側に塔の見える寺)からお坊さんをまねき、お経をあげてもらいお地蔵さんをおまつりしました。
 それから後、多くの人々が、このお地蔵さんをおまいりに来ました。
「これが治右衛門さんの夢の中で出てきたお地蔵さんか。ありがたや、ありがたや。」と言って、みんながおがんでいったそうです。