窯垣の小径資料館

かまがきのこみちしりょうかん


瀬戸市仲洞町
 古くから窯元が集積した「洞町」、洞町の西の玄関口である宝泉寺の脇から洞町のほぼ真ん中に位置する白龍さんの祠までの約四百メートルに「窯垣の小径」が続く。「窯垣」とは登窯や石炭窯の焼成の際に使用するエンゴロ・ツク・タナイタなどの窯道具を用いた壁・塀などの総称である。幅一間ほどの小径を歩くと、家毎の工夫されて組まれた窯垣の幾何学文様、年月を経た自然釉の景色、窯元ごとの屋号の刻印などが目を楽しませてくれる。
 この窯垣の小径のほぼ中央に「窯垣の小径資料館」がある。資料館の建物は元本業焼の窯元であった寺田邸をほぼそのまま生かす形で改修したものである。母屋と離れの2棟からなり、明治3年に建築された建物である。東側の母屋は平屋で入母屋造、元は四の間造であったと思われるが、西側の「奥の間(8畳)」と「仏間(8畳)」は残されたが、東の「ニワ」部分、中の「お勝手」・「台所」部分は展示室等に改修された。付け足して造られた「浴室」は元本業タイルの窯元を偲ばせる修景されたものである。離れは木造2階建、8畳二間と土間の1階部分が休憩室及び展示してとして活用されている。渡り土間を敷き瓦で葺き、便所は染付便器と本業タイルで修景するなど往時を偲ばせる資料館となっている。(「窯垣の小径資料館」パンフ)

北川民次画伯アトリエ

きたがわたみじがはくあとりえ(きゅう もろあと)


瀬戸市安戸町
 メキシコとやきものの町・瀬戸をこよなく愛した北川民次画伯のアトリエ跡が瀬戸市中心部に近いところにひっそりと佇んでいる。
 元二科会会長を務めた北川民次は明治27(1894)年静岡県金谷町に生まれ、若くしてアメリカ・キューバ・メキシコに渡る。当時のメキシコの芸術運動の影響を受け、昭和11年に帰国、同18年夫人の出身地瀬戸に疎開する。以後25年間、隣の尾張旭市に引っ越すまでこのアトリエで制作した。画伯の代表的作品が生まれた時期である。
 アトリエは坂の多い斜面を切り開いたわずかばかりの平地に建っている。東西に細長い敷地の西側に住まい、そして東側にかつての「モロ(室=ムロ)と呼ばれた陶器工場を改造したアトリエがある。間口8間・奥行き4間、周囲に壁を巡らし、窓が少なく室内には殆ど柱がない。比較的建ちの高い平屋づくりと「モロ」としての典型的な大きさの建物である。当初、土間はタタキであったがアトリエとして使うときに板張に改造されている。大正10(1921)年頃に建てられた旧 窯のものである。
 老朽化も進み、建物自体の痛みがひどく一時は取り壊しの運命に晒されたが、画伯と親交があった人たちで守る会が平成6年に結成され、年2回春秋に一般公開しながら保存に努めている。(『保存情報Ⅱ』)

丸窯

まるがま


 「丸窯」は有田窯で発展した磁器焼成窯の構造・様式であった。江戸後期の加藤民吉の九州修業を機に瀬戸に導入された。明治以降、大型磁器製品を焼成する窯炉として巨大な連房式登窯に発展した。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)の中で、黒田正作氏は「丸窯は瀬戸窯の構造ではなく、九州より導入した様式であって、なおその祖先は朝鮮半島である。この窯は概して大型で、大型物を焼成するように瀬戸で成長したものである。一室の大きさは、室幅2~2間半、長さ3~4間半、高さは9尺~1丈2尺に達している。丸窯の構造は堅固でであって、小窯のように度々修繕は不要である。以前は小窯のように、胴木間の次に捨間と呼ぶ一室があったが、長年の経験の結果、捨間は必要ないことを知り、これに代わる小窯の一室を付け製品を詰めて焼くようになった。丸窯の勾配は小窯に比して緩く、3寸勾配の窯が多かったという。」とある。
 さらに当時の稼動していた「池勝窯」と「山広窯」が紹介されている。「瀬戸池勝窯」は、二つの胴木間とその上の捨間、その上に一の間から五の間までの連房式丸窯である。全長は水平投影で26.8m、五の間の高さ3.74m・幅4.62m・長さ8.33mで中規模の丸窯である。もう一方の「山広窯」は大型で11連房もあり、十一の間は高さ4.45m・室の幅4.88m・室の長さ11.72mで池勝窯より一回り大きい。この丸窯の焼成は還元炎焼成で、池勝窯は年間3回焼成、一回の焼成時間は8日22時間を要した。また山広窯は年間5回焼成、一回の焼造時間は15日13時間を要した。
 明治41(1908)年には瀬戸には丸窯18基、昭和4年には16基が記録される。
昭和30年10月13日、最後の丸窯であった「加藤庄平窯」の火入れが行われた。日本大学映画部の記録映画が残されている。
(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)

本業窯

ほんぎょうがま


水瓶・火鉢・擂鉢など陶器製品(土ものと呼ぶ)を焼成する窯を瀬戸では「本業窯」と称した。この名称は江戸後期の瀬戸染付け(新製焼)の登場によって磁器(石もの)と区別するものとして生まれた。明治以降になると窯炉は巨大化し、丘陵の斜面に10連房以上の登窯が幾筋も稼働していた。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)に掲載される湯之根窯(瀬戸本業窯)は全長36.05m(水平投影)、最大幅11.97m(十二の間)、十二の間の奥行き2.57mで天井までの高さは3.33mと記録されている。
この本業窯は年間4回焼成し、窯詰めは棚積方法で製品は白地本業便器各種・トラップ・タイル・釜敷・水鉢・水瓶・火鉢など比較的大型陶器製品であった。本業窯は最下段の胴木間(瀬戸ではカメと呼ぶ)から捨間(火度を上げるための部屋で製品は詰めない)、そして順次一の間から最上段の煙室(コクドという)まで大型の連房式窯を築いてゆく。その傾斜角度は平均4寸勾配で丸窯と古(小)窯の中間である。また次室への火を引く構造が縦狭間(たてさま)であることが特徴で、焼成は酸化焼成であった。明治41(1908)年には24基、昭和4年には34基の本業窯が登録されている。(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)
現在市内に残されている本業窯は2基で、洞本業窯と一里塚本業窯はいずれも瀬戸市の有形文化財に指定されている。
(市指定文化財の項参照)

古(小)窯

こがま


瀬戸地方の「古(こ)窯」は急勾配の縦狭間構造であることからは、江戸時代初頭に発生した連房式登窯の延長にあるものであったが、近代に入って「丸窯」が普及すると小型で磁器製品(碗・皿など比較的小型の製品)を焼成する登窯として増大するようになった。その意味では「小(こ)窯」でもあった。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)には、「古窯ハ丸窯ニ比シソノ規模小ナル為、薪材ノ投入量少ナキモ操作ニ於イテハ大差ナキモノナリ、タダ時間的ニ多少ノ相違ヲモツ」ととある。焼成については還元炎焼成であること、(イ)焙リの時間は一の間で5~6時間、二の間以降は3~4時間を要す (ロ)攻めは7~9時間 (ハ)スカシは通常1~2時間であるが時に4時間を要すことと記している。当時の河本善四郎窯の構造・規模・焼成時間などを詳細に述べている。明治41(1908)年には158基、昭和4年には34基の「古(小)窯」の存在が記録されている。(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)
現在市内に残っている「古(小)窯」は瀬戸染付工芸館(旧伊藤伊兵衛窯)内の1基のみで瀬戸市の有形文化財に指定されている。(市指定文化財の項参照)

石炭窯

せきたんがま


 明治初年にドイツから来朝したワグネル博士がわが国窯業の近代化を指導し、ワグネル窯(東京)を残した。同博士の石炭試験窯は、角窯の一方口で反対側に火焔を送る構造で、火度の平均を欠き実地に応用されなかった。
 それを改良したのが名古屋の松村八次郎で、明治32(1899)年に小さな石炭窯を築いて研究に着手した。幾度となく失敗し、産を傾けたこともあった。同33年3月に欧米視察に出発、同35年1月に帰国した。この年に欧米で得た知識を盛り込み両口の石炭窯築造に成功した。窯は両方の焚口から燃焼して火焔を窯の天井に送り、更にそれを窯の床に引く(倒煙式)方法であった。そのため熱度が平均し、しかも築造法も在来と同一工法であったから非常に簡単で低廉であった。松村はこの結果を大日本窯業協会誌に連載して一般業界に公表してその普及に尽くした。松村式石炭窯は全国的に普及したが、この八次郎翁こそわが国の硬質陶器発明の功労者で、名古屋松村硬質陶器の始祖、石炭窯の元祖として不朽の功績を残した人物である。
 明治34(1901)年に瀬戸陶器学校が八百円の県費補助を得て石炭窯を築き、翌年2月に初窯の火入れを行っている。校長は瀬戸地方の石炭窯の先覚者黒田正憲氏であったが、いわゆる試験時代なので失敗の連続であった。(『ところどころ今昔物語』)
 石炭窯は明治末期から急速に普及し、大正5(1916)年には144基、昭和4(1929)年には431基の石炭窯から黒煙を吐く陶都となっていった。

石粉水車

いしこすいしゃ


 有田のような磁鉱石を産しなかった江戸後期の瀬戸染付焼(磁器)の開発は、猿投山周辺の風化花崗岩と蛙目粘土を調合することによって可能となった。風化花崗岩は「白イシ粉」と「ギヤマ石」と区分して使用されたと古文書は述べている。享和3(1803)年、瀬戸村庄屋から近隣の河川に40ヶ所の「石粉ハタキ水車」の建設を藩庁に願い出た史料も残されている。『瀬戸焼近世文書集』には「水車にてギヤマ石 白土製造之図」という当時の立派な水車の構造図を載せている。
 慶応3(1867)年に赤津蛙目が発見されて、赤津川水系の石粉水車が急速に増加、明治19(1885)年には赤津石粉・硝子粉共同組合(27名)が設立した。この頃より磁器原料の石粉よりガラス原料の硝子粉の需要が増大し、日露戦争後には赤津川および山路川奥地まで40余戸の水車小屋が稼働したという。朝10時頃までに一昼夜水車臼で搗いた硝子粉と新しい砂を入れ替えた後は農作業や砂婆(風化花崗岩)掘りができた。多くは主婦の仕事であった(『東明小学校百年史』)。トロンメル(トロミル)が導入されたのは大正10(1921)年のことであった。

大正館

たいしょうかん


瀬戸市末広町
大正2(1913)年8月に瀬戸町字薬師(宮川町)に大正館が演芸場として落成した。5年後に火災で焼失したが、同12(1923)年に「中央館」として再建され戦後も映画専門館として活動した。また大正12年には、キネマ株式会社が2万円を投じて字大廻戸に活動写真専門館「末広館」を建設した。「蒲田映画」を上映するようになった。トーキー時代の幕開けであった。

地下軍需工場跡

ちかぐんじゅこうじょうあと


瀬戸市小田妻町2・上本町
太平洋戦争末期になると太平洋防空網が破綻し、本土の空襲が次第に激しくなっていった。内地では空襲や本土決戦にそなえて軍事関連施設の疎開による分散化が進んだ。愛知航空機の瀬戸地下工場もその一つだった。愛知航空機は名古屋市船方で航空機の製造を行っていた民間の軍需工場であった。当時は九九式艦上爆撃機の彗星・瑞雲・電光などの機種を生産していた。
愛知航空機は昭和20(1945)年2月以降、本土決戦を控えた疎開方針により、大垣・美濃・養老そして特に地下工場の建設を企図して設置したのが瀬戸工場で水野村内に置かれた。アメリカ国立公文書館には「米国戦略爆撃調査団報告書」が残されていて、地下工場の概要が記録されている。すでに完成した部分と計画中であった部分を併せて10万平方フィートの用地が隣り合う五つの丘陵の地下に5区画が掘られていた。地下工場では彗星の最終組み立てを除いた全部品を製造するため、800台分の製造用機械が運びこまれた。昭和20年8月15日の終戦当時にはほんのわずかの翼桁が作られたにすぎないものであった。(『瀬戸市史・通史編下』
地下工場は出入り口の一部を除いて崩落しているが、今日瀬戸市域に残る貴重な戦争遺跡であり、市民団体によって保存活動が続けられている。

竹露庵

ちくろあん


瀬戸市藤四郎町
夕日窯跡の碑が立つ坂道を登ると、草葺きの瀟洒な茶室が建つ。陶祖公園茶室「竹露庵」である。
この茶室は元名古屋幅下の某家に在ったが、明治初年に道路拡幅のため取り壊されるところを新居の彦惣家に移築、さらに明治19年に瀬戸の加藤蘭法医・山陶屋加藤景登らが相談して瀬戸公園(当時の藤四郎山)に移築したという。この時有栖川宮を迎えた際に「竹露庵」と命名された。
爾来、会員の月掛金を持って維持されてきたが、当時の使用規則が残されている。
一、 会員たる者は一ヶ月金五銭づつを差し出すべし、さすれば毎日登庵するも妨げなし。
一、 会員たらざる者は登庵の際一名につき謝儀として金弐銭づつ差し出すべし。
一、 本庵に於ては歌舞弦鼓勝負の類を禁ず。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)