白坂町

しらさかちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。中世の名刹で、盗難除けで名高い雲興寺の門前、戸越峠を越える三州小原道の渓口にあって、早くから集落が成立し、弘化2年には31戸を数えた。室町期から見える地名。

共栄通

きょうえいどおり


昭和27年11月28日、大字名を廃止し町名を設定。1~7丁目がある。もとは今の一部。大正末期、今村に「共存共栄」をモットーとする産業組合が設立され、多くの住民によって育てられてきたことから「共栄」の言葉が使われ、町名になった。
→今村城

幸町

さいわいちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字東犬塚の一部。かつては、このあたりを大国町、後に御幸町といっていた。

水南町

すいなんちょう


昭和32年7月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野の一部。水野村は面積が広いため南北に分けて北側を「水北」、南側を「水南」と呼んでいた。水南町は、当時の水野で最も南部にあたるところから水南町と名付けた。

十軒町

じゅっけんちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは下水野の一部。十軒町の旧地名「十軒家」の称呼は、藩祖源敬公の遺徳に端を発する。源敬公は徳川家康の第九子,(義直)、藩主になって後、水野山の閑寂を愛し、その山峡にしばしば狩を催して領内の士気を鼓舞し、また駒を進めて定光寺の山色を探った。この所縁により歿するにあたって遺言し、定光寺境内を墳塋の地と定めた。藩祖の歿後、第二代藩主,(光友)瑞龍公も、その供養のために四季折々定光寺の墳塋に詣でた。十軒町付近はその行列の休息所に当てられ、また目鼻石には藩主の風光上覧に供すべく「御賞覧場」が設けられた。しかるに当時は十軒町の付近にはいまだ村落の発達を見ず、一行の休息には甚だ不便であった。よって、瑞龍公は下水野本郷の農家十軒に命じ、引越料及び屋敷,(御除地)を給し、東谷山の東南麓に移り住ませた。
→目鼻石・瀬戸市指定名勝
→古墳・東谷山古墳(尾張戸神社古墳)