五位塚町

ごいづかちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田。天保12年の瀬戸村の村絵図には、「ゴイ墳」の記載がみえる。また、品野町に伝わる古記録に「現在、五位塚のあたりを馬場と言い、こひ塚と呼ぶ塚がある」と記載される。また瀬戸町誌には「町の東端、品野に至る所を五位塚という。陶祖春慶の墓ありし所といい伝う。陶祖五位諸大夫なりしが故なり」という一文もあり、「五位塚」について諸説あるものの、これがそのまま地名化した。

駒前町

こままえちょう


昭和45年4月15日、大字名を廃止し町名を設定。もとは本地の一部で、大湫・小坂・坂上の一部で、瀬戸市大字本地字駒前・前田・南浦。昔、当地の西,(現在の西本地町)に本地城があり、ここの城主や武士が使用していた馬の寄場があったことから、この地名がつけられたと伝えられる。また、長久手の合戦の折り、行軍の途中、この地において馬を休ませ、軍議をしたところから生まれたという説もある。
→古墳・駒前第1号墳

北山町

きたやまちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。江戸期の瀬戸街道,(信州飯田街道)沿いの旧今村北脇島にあたり、北の中水野村境にある。町名設定に際し、隣接して南山、西山の町名があり、しかもその両町の北側に位置することから北山町と名付けられた。

北丘町

きたおかちょう


昭和40年5月1日大字名を廃止し、町名を設定。もとは下品野の一部。品野の北方の丘陵地ということで、この北丘の地名がつけられた。

紺屋田町

こんやだちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田の一部。かつて紺屋田池があり、流れ込む川を紺屋田川と称したことによる。

北脇町

きたわきちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。昔、瀬戸川を中心として、この地は四つの嶋に分かれた。川の北側は北脇嶋、川の西側は川西嶋、慶昌院付近は寺山嶋と呼ばれていた。その後町名設定により、北脇嶋は北脇町になった。昭和59年小田妻町1~2丁目の一部を編入。

品野町

しなのちょう


昭和40年5月1日、大字名を廃止し、町名を設定。もとは下品野の一部。1~8丁目がある。
→品野→品野祇園祭の神武天皇像および従者像・瀬戸市指定民俗文化財
→山崎城→阿弥陀ヶ峰城
→集落跡・品野西遺跡

效範町

こうはんちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。昭和41年からは1・2丁目がある。「效」は「効」の本字で、さずける・習うの意味を表わし、語源は曲がった矢を正す。また、「範」は、きまり・手本の意味を表わす。このことから「手本をならう」「きまりを授ける」という意味が込められて、明治6年5月「小学校效範学校」として開設された。町名設定の際、この小学校名をとって名付けられた。