十軒町

じゅっけんちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは下水野の一部。十軒町の旧地名「十軒家」の称呼は、藩祖源敬公の遺徳に端を発する。源敬公は徳川家康の第九子,(義直)、藩主になって後、水野山の閑寂を愛し、その山峡にしばしば狩を催して領内の士気を鼓舞し、また駒を進めて定光寺の山色を探った。この所縁により歿するにあたって遺言し、定光寺境内を墳塋の地と定めた。藩祖の歿後、第二代藩主,(光友)瑞龍公も、その供養のために四季折々定光寺の墳塋に詣でた。十軒町付近はその行列の休息所に当てられ、また目鼻石には藩主の風光上覧に供すべく「御賞覧場」が設けられた。しかるに当時は十軒町の付近にはいまだ村落の発達を見ず、一行の休息には甚だ不便であった。よって、瑞龍公は下水野本郷の農家十軒に命じ、引越料及び屋敷,(御除地)を給し、東谷山の東南麓に移り住ませた。
→目鼻石・瀬戸市指定名勝
→古墳・東谷山古墳(尾張戸神社古墳)