新田町

しんでんちょう


昭和54年12月1日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。江戸期の村絵図は、松入洞の弁天池用水からの引水で「卯新田」が開かれた開かれたことを物語り、「諸砂」と記載されている地域。

陣屋町

じんやちょう


昭和32年7月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。文明14年、今村の松原下総守広長と品野の長江民部少輔が争い、松原軍は安土川に陣を張り、長江軍は品野村大松戸阿弥陀が峰,(品野陶磁器センター東、全宝寺)に,陣を張った。戦は松原軍が破れ敗走、城主松原氏は赤津万徳寺に逃げ自刃。後に敗者を偲び安土川,(砂取川),を陣屋河原と呼ぶ様になったと伝えられる。
上陣屋町
下陣屋町

小坂町

こさかちょう


昭和45年4月15日、大字名を廃止し町名を設定。もとは本地の一部で、瀬戸市大字本地字大湫・小坂・坂上の一部。寛政5年の本地村村絵図には隣接する岩作村、稲葉村との境で、「大坂・小坂」の地名・集落が描かれ、自然地形に由来する町名と思われる。
→坂上町の項

五位塚町

ごいづかちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田。天保12年の瀬戸村の村絵図には、「ゴイ墳」の記載がみえる。また、品野町に伝わる古記録に「現在、五位塚のあたりを馬場と言い、こひ塚と呼ぶ塚がある」と記載される。また瀬戸町誌には「町の東端、品野に至る所を五位塚という。陶祖春慶の墓ありし所といい伝う。陶祖五位諸大夫なりしが故なり」という一文もあり、「五位塚」について諸説あるものの、これがそのまま地名化した。

駒前町

こままえちょう


昭和45年4月15日、大字名を廃止し町名を設定。もとは本地の一部で、大湫・小坂・坂上の一部で、瀬戸市大字本地字駒前・前田・南浦。昔、当地の西,(現在の西本地町)に本地城があり、ここの城主や武士が使用していた馬の寄場があったことから、この地名がつけられたと伝えられる。また、長久手の合戦の折り、行軍の途中、この地において馬を休ませ、軍議をしたところから生まれたという説もある。
→古墳・駒前第1号墳

北山町

きたやまちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。江戸期の瀬戸街道,(信州飯田街道)沿いの旧今村北脇島にあたり、北の中水野村境にある。町名設定に際し、隣接して南山、西山の町名があり、しかもその両町の北側に位置することから北山町と名付けられた。

北丘町

きたおかちょう


昭和40年5月1日大字名を廃止し、町名を設定。もとは下品野の一部。品野の北方の丘陵地ということで、この北丘の地名がつけられた。

紺屋田町

こんやだちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田の一部。かつて紺屋田池があり、流れ込む川を紺屋田川と称したことによる。