小出 釟三

こいで はつぞう


昭和4年(1929)10月1日 市長に就任
昭和8年(1933)7月14日 退任
瀬戸町では、昭和2年(1927)5月11日、東京に転出した平田富資町長に代わって、あらたに小出釟三町長が登場した。小出町長は、この年から市制施行後も引き続き市長として通算6年間、町政~市政を担うことになる。
小出市長は、明治18年(1885)生まれで、日露戦後の明治39年(1906)名古屋市の書記となり上水道敷設に手腕を振るった。その後、名古屋市長臨時代理者や愛知県農工銀行の経営に従事した後、瀬戸町長に就任したのである。
小出町長時代には、平田町長より引き継がれた「市制の実施」が最も重要なものであった。教育面では深川尋常高等小学校の校舎建築や陶原・效範尋常小学校両校の移転改築事業が進められた。岡多線の鉄道敷設法予定線への編入が行われ、関係市町村とともにその敷設促進のための運動が開始されたのも小出町長の時代である。
小出町政・市政は、上水道問題をもってはじまり、これによって幕を閉じたといっても過言ではなかった。瀬戸町長に就任すると、馬ヶ城の地にダムを建設するための諸手続きを行い敷設認可を受けた。市制施行後に再認可を受けたが工事の実施計画段階で水源として狭小であることが分かり、補助水源として白坂(赤津川)および山路(山路川)をあてるという計画が浮上した。しかし、灌漑用水として利用してきた流域住民が猛烈な反対運動をおこなった。そこで、実施計画を二つに分け、馬ヶ城を水源とする貯水池堰堤、濾過池、配水池、送水線路等の敷設工事を先に実施し、昭和8年(1933)年12月大体の竣工を見て通水を開始した。小出市長は、この途中に上水道慰労金問題を取り沙汰され、退任のやむなきにいたっている。

稲葉 俊太郎

いなば しゅんたろう


昭和8年(1933)9月22日 市長に就任
昭和9年(1934)3月7日 退任
上水道慰労金問題が紛糾し小出市長が辞任すると、瀬戸市政はしばらく市長不在のまま混乱を極めた。市会が二つに分かれてにらみ合いとなり、市長の選出についても1か月以上の空白が続いたが、こうしたなかで稲葉俊太郎が第二代市長に就任した。稲葉市長は明治15年(1882)佐賀県に生まれ、東大卒業後、広島県警などを振り出しに、青島守備軍民生部事務官や関東庁警務官などを経たあと、もっぱら各県の警察畑を歩いてきた人物で、愛知県内務部長をつとめた縁もあり、瀬戸市に迎えられた。
稲葉市政の業績としては、小出市長時代からの瀬戸少年院の誘致や瀬戸市少年保護協会の設立が挙げられる。瀬戸少年院は小出市長時代から誘致が始められ、開設は稲葉市長が退任した後となるが、開設に至るまでの準備はこの稲葉市長の時代におこなわれており、また瀬戸市少年保護協会の会長に就任している。
市会の改選の結果、改めて稲葉市長と対立する側が多数を占めると、市長が提出した翌年度の予算案の返上案が可決された。このため稲葉市長はその日に辞表を提出、就任半年足らずで職から降りることになった。

泉崎 三郎

いずみさき さぶろう


昭和9年(1934)5月2日 市長に就任
昭和12年(1937)4月30日 退任
小出市長退任以来稲葉市長時代まで続いた市政の混乱に、一応の終止符をうったのが第三代市長に就任したのが泉崎三郎である。泉崎市長は北海道小樽の出身で、香川県官吏や熊本県で郡長を歴任した後、大正12年(1923)以降は朝鮮総督府事務官として植民地行政に携わってきた。瀬戸市とはやや縁の遠い人物が市長に就いた背景には、県知事の市長選考への介入を無視することができない。
泉崎市長時代は、景気と財政の回復が軌道に乗る時期でもあり、瀬戸の経済は陶磁器の輸出が伸び、比較的早期に恐慌を脱することに成功し、これに伴い市の財政も好転し始めている。道路行政に力を注ぐほか、教育や社会事業が拡充された。その外にも小出市長より引き継がれた赤津補助水源分の工事を完成して上水道を軌道に乗せたこと、瀬戸都市計画道路の決定がみられる。
退任した後、次の古村貢三郎市長が就任するまで、9か月にわたって市長不在の期間ができる。その間、昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が発生し、日本は日中戦争に突入する。

古村 貢三郎

ふるむら かんざぶろう


昭和13年(1938)1月13日 市長に就任
昭和14年(1939)2月10日 退任
 昭和12年(1937)4月30日に泉崎市長が退任した後、9か月間にわたり市長が決まらず混迷の度を深めていたが、ようやくにして前静岡市助役の古村が第四代市長の職に就いた。市長不在の前年7月には盧溝橋事件が発生し日本は日中戦争に突入することとなるが、古橋市長の下で地元の犠牲者の市葬が挙行されている。戦争のはじまりは経済や社会のあり方にも大きく及ぼしていったのである。

橘 筬丸

たちばな とまる


昭和18年(1943)6月19日 市長に就任
昭和20年(1945)11月5日 退任

明治15年(1882)12月9日香川県高松市に生まれる。20歳のとき瀬戸へ来て河並内科医院にしばらくいたが、24歳になって東京へ出た。慈恵医大を卒業、さらに東京帝大医科選科生として研鑽に努めた後、明治41年(1908)9月瀬戸に帰り蛭子橋のたもとで開業した。識見非凡奇才で稀に見る人格者で、すぐれた雄弁の持ち主であった。性来政治家としての素質を持つ橘氏は、大正8年(1919)9月に推されて郡会議員の選挙に立候補し、当選している。
戦局が混迷するなかで、水野憲吾市長の後任として推されて第六代市長に就任する。昭和20年(1945)にはいると本土空襲が激しくなり、瀬戸市では3月に新開地から京町、5月には本地で空襲があった。そして同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終結した。戦時市政に日夜尽力を傾けたが、終戦とともに11月その職を辞任した。

井上 博通

いのうえ ひろみち


昭和62年(1987)5月1日 市長に就任
平成11年(1999)4月30日 退任
平成18年(2006)2月19日 没
 昭和2年(1926)中水野に生まれる。旧制東海中学校を卒業し、昭和22年(1947)から水野村役場に勤務。昭和26年(1951)に同村が瀬戸市に合併され、瀬戸市役所勤務となる。以後、衛生課長、職員課長、市長公室長を経て、昭和57年(1982)から4年間前加藤繁太郎市長の下で助役を務め、昭和62年(1987)に市長に初当選した。
市長就任の主な施策には、「瀬戸・いきいきビジョン21」の策定、「瀬戸市OA化計画」の策定、行政組織の大改編などがあげられ、時機を逸することのない積極的な姿勢を持った人物で3期を務めあげた。

加藤 章

かとう あきら


昭和38年(1963)10月1日 名誉市民に推挙
明治27年(1894)1月19日 生
昭和50年(1975)7月3日 没
 昭和8年(1933)市議会議員となり、昭和21年(1946)から市長として30有余年の長きにわたり、本市市政振興のため全力を傾注された。

 生家は磁祖の末孫といわれ、明治27年(1894)に生まれる。昭和8年(1933)の市議会議員の選挙に推されて当選して後、絶対多数の民政派議員をよく統率し、常に少数の政友会をリードして着実に市政の政策を実現していき3期を務めあげた。
加藤章市長は終戦直後の昭和21年(1946)1月、間接選挙最後の市長に選挙され地方自治法の改正による市長公選制度で自然退職となり、さらに公選初めての市長選挙に無投票で当選となり、第七代市長として就任した。翌年の新憲法発布記念事業として、総合運動場建設、公民館の建設、郷土史の編纂事業の三つの計画をたてている。政府による市町村の合理化方針により、昭和26年(1951)に水野村の合併、昭和30年(1955)には幡山村、そして昭和34年(1959)に品野町が合併編入され、今日の瀬戸市の市域が形作られることとなる。昭和38年(1963)まで4期16年間瀬戸市政を担当し、文字通り戦後の一連の民主改革と市民生活の復興期の市政に全力を尽くした市長であった。市長を辞任した同年10月の市制記念日に「名誉市民」が贈られている。昭和40年(1965)勲四等瑞宝章受章。昭和50年(1975)叙従五位。

加藤 勝野

かとう かつの


昭和39年(1964)10月1日 名誉市民に推挙
明治21年(1888)9月8日生
昭和40年(1965)11月27日 没
 昭和14年(1939)愛知縣方面委員を拝命以来、24年間にわたり、終始一貫地域社会の福祉、民生安定、児童福祉等の増進に尽くされた。

明治21年(1888)岐阜県の商家に生れる。名古屋の英和中学(現在の名中)に学び、瀬戸第一尋常小学校に7年勤める。その後大正2年(1912)より窯業原料売買を主業務とした勝野窯業原料株式会社を営む。昭和14年(1939)愛知縣方面委員になったのが奉仕事業への第一歩であり、以後没するまでの長期に渡り社会福祉事業に尽力した。民生児童委員、愛知県共同募金会瀬戸支会長、瀬戸市社会福祉協議会長を歴任した。その間、昭和35年(1960)に紺綬褒章、同年藍綬褒章を受章、さらに昭和39年(1964)社会の福祉と民生安定に尽力した功績をたたえられ瀬戸市名誉市民に選ばれた。

加藤 繁太郎

かとう しげたろう


昭和63年(1988)5月26日 名誉市民に推挙
大正6年(1917)6月18日 生
平成18年(2006)2月19日 没
 昭和38年(1963)に市長に初当選以来24年間にわたり、市政の発展と市民の福祉向上に献身的な努力をささげられた。

昭和13年(1938)に当時の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学)を卒業後、直ちに家業の山繁合名会社を継ぎ、事業の発展にたゆまない努力を傾ける一方、青年実業家としての優れた才能とその円満な人柄は産業界においても大きな信頼を集めている。昭和22年(1947)には弱冠29歳で瀬戸陶磁器商業協同組合の理事長に就任し、更に同年瀬戸商工会議所の設立と同時に副会頭の要職に就いた。昭和32年(1957)には瀬戸輸出陶磁器完成工業組合の初代理事長に就任した。こうした実績のもと、昭和38年(1963)に瀬戸市長に初当選依頼、連続6期24年間にわたって市政を担当した。その間、本市発展の積年の夢ともいえる市域を分断する東京大学演習林の払い下げに伴う開発事業に取り組み、水野住宅団地の開発、総合運動公園としての市民公園の開発整備、水野準工団地の開発事業をはじめとして、教育施設、上下水道の整備充実、市場の統合整備、墓苑の造成、じん芥焼却場の建設、福祉施設の整備、文化センターの建設、公立陶生病院の改築、東公園、南公園の開発整備など厳しい財政事情の中、山積する大事業を積極的に推進し、行政水準の確保と市政全般にわたる均衡ある発展のため、献身的な努力をした。また、国の施設である中小企業大学校の建設誘致及び県の手による労働者研修セツター、穴田企業団地・暁工業団地、菱野団地、陶磁資料館、窯業訓練校、窯業技術センターの建設誘致など積極的な誘致推進に努め、地域の発展に多大な貢献をした。
また、愛知県市長会長、東海市長会長、そして全国市長会副会長をはじめとする各種団体の役員として地方行政の発展充実にも寄与した。
昭和58年(1983)藍綬褒章受章、昭和63年(1988)紺綬褒章受章、同年多年にわたり瀬戸市政の発展に尽くした功績により勲三等旭日中綬章を受章、瀬戸市より名誉市民に推挙された。

二宮恵一

にのみや けいいち


昭和51年(1976)8月3日 名誉市民に推挙
明治35年(1902)5月25日 生
昭和51年(1976)8月4日 没
 公立陶生病院の院長及び名誉院長として40年の長きにわたり、終始一貫地域医療の充実と振興に献身的な努力をささげられた。

昭和4年(1929)現在の名古屋大学医学部の前身である愛知医科大学を卒業する。「経腸チフスの経口免疫に関する実験的研究」で学位を授与される。昭和11年(1936)陶生病院初代院長に就任し、病院の基盤整備の為に心血を注いだ。市内にあった避病院と称する伝染病院を陶生病院に併設し、また優秀な看護婦を養成するため看護婦養成所に続いて附属准看護学院、高等看護学院を創設し、陶生病院が当地方医療の中心的存在に発展することに多大な貢献をした。昭和45年(1970)陶生病院名誉院長の職についた。また、医療関係のみではなく社会福祉にもその識見と誠意を注ぎ込み、瀬戸日赤募金委員長、愛知県共同募金会瀬戸支会長等として活躍した。昭和47年(1972)勲三等瑞宝章受章、昭和51年(1976)叙従四位。昭和51年(1976)瀬戸市名誉市民に推挙された。