水野 憲吾

みずの けんご


昭和32年(1957)11月1日 名誉市民に推挙
明治6年(1873)9月27日 生
昭和33年(1958)12月5日 没
 明治40年(1907)瀬戸町議会議員に当選以来、市議会議員、市長として30有余年の長きにわたり本市市政振興のため全力を傾注された。

瀬戸陶磁工商同業組合商業部長、同副組長を長年務め、組合の充実向上に努めた。また、町会議員として20有余年を以て市制施行に際し町政功労者として表彰、昭和4年(1929)11月15日初代議長に就任、昭和8年(1933)11月17日には再度第三代の議長に就任している。
瀬戸市では、これまで県官吏出身者や他の市町村の吏員経験者など、市の外部から市長が選ばれるのが続いていたが、昭和14年(1939)6月11日になって、市内出身で長く市会議員や県会議員を務めてきた水野憲吾が五代市長に就任した。水野市長は、特に燃料問題、労働力問題の解決は喫緊の急務であり、その他教育施設の充実、保健衛生施設の完備、交通施設の整備拡張、下水道の築造等の諸課題の実現を掲げたが、水野市政の開始直後、市を取り巻く状況は大きく変動した。昭和14年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、昭和16年(1941)12月1日、それまでの日米交渉が決裂すると、日本は御前会議で対英米戦争を決定、同8日にはハワイ真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。これを受け、全国で一斉に国民の戦意高揚のための事業が展開される。こうしたなか、水野市長は任期満了をもって辞任した。