加藤唐四郎春慶翁伝来記

かとうとうしろうしゆんけいおうでんらいき


 藤四郎の伝記については幾多の書物に記されているが、いずれも伝説の域を脱けないもので、歴史的(学問的)裏付けはできていない。今座右にある伝記関係のものだけを挙げても大変な数にのぼる。尾張瀬戸藤四郎一子相伝、茶器弁玉集、森田久右エ門江戸旅日記尾陽雑記、塩尻、万宝全書、瀬戸窯業の由来書、張州府誌、尾張国人物志略、張州雑志、古今名物類聚、瀬戸陶器濫觴、尾張志、陶器考、本朝陶器放証など明治以前のものでものれだけだが、明治以降になると数え切れない。瀬戸市陶原町の加藤繁氏所蔵の「加藤唐四郎春慶翁伝来記」は毛筆書きの原本で、瀬戸地方に現存する藤四郎伝記類のうち最古のものと思われる。内容は道元が野田の密蔵院に折々来たので、藤四郎が訪ねて禅門に入り、それが縁となって道元の入宋に従ったことになっている。道元の入宋は貞応二年(1223年)、密蔵院の創建は嘉暦3年(1328年)であるから入宋前の二人は会見したことになる。おしいことにこれらの記述のため瀬戸最古の文献も、史的価値は、大きく割引されねばならない。しかしこうした事は藤四郎伝記書のすべてが荷負うところの宿命である。

一子相続制

いっしそうぞくせい


一子相続制、1607年(慶長12年)家康の第九子、徳川義直が尾張藩主となると、“瀬戸もの”の復活に力を入れた。藩主が様々な保護奨励といった政策を打ち出した。しかし皮肉な事にも瀬戸は過剰生産に悩まされる事になってしまった。ついには現地瀬戸から生産の規制を尾張藩庁に願い出る事になり、その結果、発令されたものが「一子相続の制度である。これにより瀬戸地方では「筋目の者出なくては窯焼きはできない。もし筋目でない者にうら間(登り窯の一部)などを使用させた場合は、予告せずに窯を打ち壊す。血筋の者にでも窯株を売る等のことは禁ずる。男子のない者は一人に限り養子を認める」といった厳重な申し合わせをした。これにより厳しい生産を規制した。

加藤民吉翁像

かとうたみきちおうひおうぞう


瀬瀬戸市窯神町 窯神神社
 窯神神社のシンボルとなっている加藤民吉像(青銅製)は、昭和12年に後日本芸術院会員となった加藤顕清の制作である。この年大規模な神社の改修事業が行われ、鳥居や石碑が建立された。民吉の九州修業を援助した「津金胤臣父子頌徳碑」は翌年建設された。
 加藤顕清は明治27(1894)年北海道で生まれた(幼名鬼頭太)。その後経済事情もあって父(岐阜県下石出身)の遠縁にあたる瀬戸の加藤丈一郎(瀬戸町会議員)を頼って来瀬する。小学校卒業後、その援助で東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻本科塑造部を卒業した。昭和3(1928)年の第9回帝展から3年連続特選となり、同7年からは母校の講師を嘱託されている。昭和12年の民吉像は加藤丈一郎らの依頼により制作、銅像竣工式は同年9月16日瀬戸物祭当日盛大に行われた。顕清の名はこの地方では一躍脚光をあびる存在となった。戦後古瀬戸町に「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」が発足すると再び来瀬、ノグチ・イサム、北川民次、沼田一雅らと芸術運動を展開している。瀬戸との関わりの深い彫刻家であった。
(『郷土に足跡を残した人々』)

塔山城址

とうやまじょうあと


所在地 瀬戸市広久手町
塔山(とうやま)城は堂山城・相坂城ともいう。山口谷奥の通称「おごりんさん」と地元の人から呼ばれる室町期の五輪塔の並ぶ小高い山がある。「山口村古記」には城主は森河下総守が居城し、後大和国多武峰に移るとある。山口川右岸から取水する「森河用水」は今も活用されている。
「おごりんさん」から南に下った地点に東西約20メートル、南北約48メートルの本丸跡があり、三方に附属の曲輪が見られる。江戸時代の村絵図には「古城跡、武田信玄番持」の記述があるが、武田氏との関係は明らかではない。

今井校長之碑

いまいこうちょうのひ


瀬戸市岩屋町
瀬戸市域は教育熱心な風土性があり、多くの寺子屋と篤学者を生んでいる。
今井鎌三郎(かまさぶろう)は、明治元年(1868)6月8日西加茂郡寺部村(豊田市)に生まれたが、明治24年(1891)、愛知師範学校卒業と同時に下品野小学校訓導兼校長を拝命した。明治40年(1907)4月6日40歳で没するまで生涯を同校に奉職、『愛知縣偉人傳』には「世、鎌三郎を呼んで今ペス(ペスタロッチ)といふは其の崇高な人格、其の愛と至高の横溢した教育的生涯を賛美してかく呼ぶのである」とある。
「今井校長之碑」は岩屋堂公園の木陰に建ち(高さ196、幅88cm)、顕額は時の文部大臣小松原英太郎が、撰文は佐藤雲韶、書者大島徳太郎(君川)があたり、碑文は漢文体で記され、劣悪な教育状況を当局に掛け合って改善したこと、熱心に村民に就学を訴えて廻ったこと、自らは清貧に甘んじ節を曲げずに教育方法を改善したことなどが縷々述べられている。明治43年(1910)12月に教えを受けた下品野小学校校友会の手で建てられた。
現在もなお、遺徳を偲ぶ教育関係者の慰霊祭が行われている。

忠魂碑

ちゅうこんひ


瀬戸市仲切町
「町の中央中島にあり、砲弾形青銅碑にして高さ地上台石とも三十尺、明治二十七八戦役以来国家の為陣没せる忠魂義魄を合祀し毎月三月十日を以て祭事を行ふ。明治四十三年四月十九日陶祖祭の日を以て除幕式を挙行せり。」(『瀬戸町誌』)
最初は瀬戸川と一里塚川との合流点中島に西面して建てられ、裾を岩組みした高い土盛りの上に立っていたが、その後記念橋駅の地点へ移り東面した。それが更に現在のオチン山へ移転したのである。他は概ね石の記念碑が多い中で瀬戸は名古屋の記念碑に似た形式で立派と思う。日露戦争に従軍した水野甚蔵氏が戦友との約束に基き建設をされたものと聞いている(加藤庄三氏調査『金石林』)。正面に星印と「忠魂碑」と刻され、熱田兵器製造所製とある。八角型の石台(高さ151cm)と基壇(高さ97cm)が組まれ石工は大野木千次郎とある。
現在は御亭山に西面して石柵に囲まれ、狛犬一対(「日露三十年記念 昭和十年五月建之」と左右に献灯(「日露三十年記念 昭和十年七月建之」と6人の名前が刻される)が配置されている。その西側には昭和38年9月に建設された「殉国慰霊塔」が建っている。

忠魂碑
殉国慰霊塔

菱野城址

ひしのじょうあと


所在地 瀬戸市羽根町
 山口川(矢田川)の高座橋のやや下流左岸(南側)には、羽根屋敷と呼ばれる小高い台地状の土地がある。ここには戦国時代に林次郎左衛門が居城したとされる菱野城跡である。林次郎左衛門は永正十四年(1517)の菱野熊野社の棟札にもその名が残り、田幡(名古屋市北区)から狩宿・井田(尾張旭市)周辺まで勢力を伸ばして織田家の重臣も輩出したとされる。
 また別の考証では、鎌倉時代初頭に山田荘の地頭職をに補された山田重忠がこの地域を支配し、その後その係累の山田泰親・親氏兄弟が居城、城構えは東西三十九間・南北五十三間、土居・堀跡などの一部を残す現在地がそれという。山田泰親はその後上菱野に山口城を築造している。
 江戸時代の村絵図の西島城徳の地に「城主石碑」が描かれている。この石碑は現在北山墓苑に移築され、自然石に「古今常徳居士」と刻まれ、林次郎左衛門のこととされている。

陶原小学校御大典記念陶碑

とうげんしようがっこうごたいてんきねんとうひ


瀬戸市原山町
瀬戸市立陶原小学校は瀬戸市内で最初に誕生した小学校である。明治6年(1873)宝泉寺内の寺子屋が陶原学校として創立、同25年(1892)に瀬戸町立瀬戸尋常小学校に校名改称(蔵所校舎)、さらに同36年(1902)に瀬戸第1尋常小学校と改称そして同41年(1907)から校舎の一部を大字森(現在の愛知県陶磁器工業協同組合敷地内)に移転した(陶原校舎時代)。
大正4年(1915)の御大典記念事業として行われたのが、当時の六鹿鹿三郎校長の立案で陶原校舎玄関前に「終始一誠意」記念碑(陶製)の建立であった。同年11月一日の除幕式で完成した碑は「まごころの塔」とか「御大典記念碑」と呼ばれた。
制作は窯業学校日野厚氏のデザイン、陶芸家加藤春二(陶寿)氏が当たった。菊花16弁の形状で黄瀬戸で施釉、正面の「終始一誠意」板(5寸×2尺1寸)の文字は浮彫3分高白釉、丸型校章48個が装飾に貼り付けられた。高さ135cmの塔碑と基盤、セメントの土台が大石を積み上げた上に建立された。
大正13年(1924)8月の豪雨で一部校舎の流失・破損もあって大字権現(熊野町)に移転(この頃は瀬戸陶原尋常高等小学校)、さらに昭和44年に現原山町に新築移転したが、この記念碑もまた移築されている。

陶原小学校御大典記念陶碑

 

本地城址

ほんじじょうあと


所在地 瀬戸市西本地町1丁目
 旧本地村は現瀬戸市域の南西端に位置する。江戸時代の村絵図には氏神八幡社の南に古城跡が描かれ、「古城跡と申傳候場所屋敷畑等ニ相成、城主相分リ不申候」と記載される。『尾張志』には、城構えは東西三十五間、南北二十四間ばかりあり、東・北二方に堀の址いささか存れり、城主は松原平内なりとある。
 松原平内については、今村城主松原広長の叔父であり、文明十四年(1482)の安戸坂の戦いで広長と共に討ち死にしたと地元では伝えられている。
 現在は東側の堀部分が県道駒前線となり、堀や土塁などを地上から確認することはできないが、城跡西隣の崖下に「松原平内公本地城跡」の碑が建っている。

赤津城址

あかづじょうあと


所在地 瀬戸市小空町(字城前)
 赤津は古くは「飽津」と表した。江戸時代は大郷で瀬戸村に接し、東は戸越峠で三河と境し、北は濃州柿野村へ通じていた。上赤津に雲興寺(曹洞宗)、下赤津には万徳寺(真宗高田派)の古刹がある。万徳寺は今村城主松原広長の尊崇厚く多くの寄進物を保存し、死後葬られた松原塚も在る。
 古城跡については、江戸時代の絵図に「平家カハラ城址」が載る。周囲には城前・城畑・馬瀬などの地名も残る。城主は天正年間の「古城主覚記」に熊沢藤三郎居城ノ由と記し、また「織田信雄分限帳」に熊沢善左衛門の名を載せ赤津村を領したという(「日本城郭全集」)。その他の城主名や城の規模等は不詳である。