白マスク強盗事件

しろますくごうとうじけん


1957年(昭和32年)5月20日午後9時50分ごろ、瀬戸市今池町のA旅館に若い男が白覆面で短刀を所持して侵入し、現金3,000円を奪って逃走したのを始め、1958年(昭和33年)10月2日までの約1年半の間に、8件の同一犯人の仕業と思われる強盗傷人事件が発生した。

青銅のキリスト

せいどうのきりすと


約60年前に製作された松竹の芸術参加作品。渋谷実監督、山田五十鈴、滝沢修、岡田英二、香川京子らの出演。物語はキリシタンの根絶にやっきになっていた江戸時代の長崎でのこと。キリシタンの恋人への愛をこめて作った青銅のキリスト像がキリシタンの踏絵に使われ、あまりの見事さに作った鋳物師の青年も、恋人と共に捕えられ、信徒と一緒に処刑されてしまうという文芸巨編。その処刑シーンが瀬戸の陶土採掘場(瀬戸グランドキャニオン)でエキストラに瀬戸市民1千人が参加して、行なわれたのである。瀬戸での大ロケーションとして当時話題になった映画。1989年(平成元年)6月4日に瀬戸中央劇場にて34年ぶりに木節の会有志による自主上映会があった。

馬ヶ城址

うまがじょうあと


所在地 瀬戸市馬ヶ城町
 現在の瀬戸市街地を西に流れる瀬戸川(矢田川上流)に流入する支流の一つが赤津境を水源とする馬ヶ城川である。昭和初年にここに上水道を建設するための馬ヶ城貯水池が建設された。この水源地内には著名な古窯跡である馬城窯・椿窯・小屋峰窯・松留窯など11窯が『尾張徇行記』に記載されるが、最近の調査では約60基の古窯跡が分布する。
 天保年間の村絵図には馬ヶ城川に沿って馬城道が描かれ、「銭カメ」(銭甕窯)のさらに上流の位置に「馬ヶ城」が記載される。古城跡研究者であった戸田修二氏は「瀬戸古城史談」で「城跡今は太郎左池」と記し、郷土史を引きながら「城構えは土塁の内側東西150メートル、南北100メートルほどの平坦地で、周りは巾着様に丘陵に囲まれ、西方わずかに開いた要衝の地である」としている。城主は加藤太郎左衛門で室町末期の頃まで居住し、長久手城主加藤太郎左(または右)衛門との関連性を指摘している。

大津城址

おおつじょうあと


所在地 瀬戸市今林町
 大津城跡は、別名「今林城」とも呼ばれ、山口の本泉寺西約500メートルほどの今林島に在る。「山口村古記」に「城構えは東西一町(丁)、南北二町(丁)、二重堀をめぐらし、午の方に大手門あり、城主は後宇多天皇の末孫大津八郎左衛門」と載せている。別の考証では、近江の大津奉行職を代々務めた家系の末裔である大津氏が弘治元年(1555)にこの地に築城、元亀・天正年間の頃(16世紀末)に廃城となったと伝えられている。
 現在、城跡の一角である今林町内児童遊園に末孫の大津氏によって伝えられた由緒などを記載した碑文が建てられている。部分的な発掘調査で廃城前の時期の陶磁器が出土伝承を裏付けた。

大平山城址

おおひらやまじょうあと


所在地 瀬戸市三沢町・川平町
 旧中水野村には天明元年(1781)に字鳥林に水野代官所(陣屋)が置かれた。春日井・愛知両郡の111ヵ村・6万石を管理する行政の地方中心地で、代官には歴代水野氏が就いた。大平城跡は水野川を挟んだ対岸の大平山の麓に在る。
 寛政四年の村絵図には東光寺(臨済宗・定光寺末)の北山(城山)に「水野佐衛門尉殿城跡ト申傳候」とある。「古城史談」には城跡は大平山中腹の「しんど池」のほとりと大平山の麓の2ヶ所を挙げ、下の城跡は「中水野村の内にも城屋敷とてあり、二町四面取り廻し、村の北郷大平山の下なり。城主は南北朝時代に水野平七致国が居城していた」としている。覚源禅師は建武三年(1336)に定光寺を開創した。尾張各地を布教した平心処斎の頃に致国の館に錫を止め、その縁で帰依を得て開山したとされる。定光寺蓮池より祠堂山を越え、中水野東光寺に出る石畳の残る山道は旧「殿様街道」と呼ばれた歴代尾張藩主の御成り街道であった。

上半田川村陶祖碑

かみはだがわむらとうそひ


瀬戸市上半田川町
 旧上半田川村の氏神金峯神社の参道脇に昭和3(1928)年11月に建立された「陶祖之碑」がある。愛知県窯業学校黒田瓷峰(正策)校長撰書の碑文には「明治七(1874)年三月に上半田川村の長江吉衛門が県令の許可を得て築窯したことが今日の発展の礎である」とある。裏面に昭和3年当時の操業者26名の氏名が載る。
 『東春日井郡誌』によれば、長江吉右衛門は上品野村の人で文政7(1824)年3月7日生まれ、上半田川が回りを山に囲まれて長石(原料)と薪炭(燃料)に恵まれた地であることに着目し、明治7年3月14日に愛知県に染付焼を出願した。失敗が続いたが、その子惣左衛門の協力を得て、ようやく焼造することに成功した。運輸不便の僻地を考え、盃を主製品としたことも、その後の特産化の礎となった。今日多くの陶業者が存する隆盛はひとえに吉右衛門のお陰である。明治38(1905)年1月没とある。
 明治から大正時代にかけて、上半田川には25,6軒が窯業に従事、製品は丸型や菊型の盃が特徴で、多治見の問屋に卸した。昭和初期には5基の登窯は石炭窯に替わったが、第2次大戦中に全て廃絶した。

落合城址

おちあいじょうあと


所在地 瀬戸市落合町
 旧下品野村の本郷北を品野川(水野川)が西に流れる右岸山崎の地に、氏神神明社が建つ。社伝によれば後亀山朝、信州の豪族村上理之介の後裔品野城主となった村上勘助の勧請と伝えている。山崎川を挟んだその西に龍洞山久雲寺が建つ。この寺は曹洞宗・雲興寺末で永禄四年(1561)林三郎兵衛正俊が創建、開山は雲興寺14世居雲和尚と伝えられている。さらにその西丘陵に天白山が在り、そこがかつての落合城跡(別称に「天白の城」)である。
 「落合城、東西53間・南北45間、戸田殿居城と申伝へ候」(「寛文記」)とある。応永頃は戸田弾正宗繁、文明頃は長江修理が城主だったという。城畑と呼ばれる山麓部にはかつての空堀・土居・古井・礎石が残り、周辺に城坂・物見坂・乗鞍・御所ヶ根などの地名を残している(「古城史談」)。戸田は地域に多い姓である。

水野焼中興之祖頌徳碑

みずのやきちゅうこうのそしょうとくひ


瀬戸市穴田町
 水野地区も窯業の盛んな地区である。寛文年間(1661~73)にこの地にあった窯屋が東濃地方を中心に移住させられて以来、明治維新になるまでその操業は一切許されなかった。明治5(1872)年旧上水野村の田中伊六・同七十郎・中根明敏が共同で本業窯を始めたが失敗した。また、上水野村余床でも加藤久蔵・同鎌之助・同文衛門・同金兵衛・同半助・同孫兵衛の6人が共同窯を興したがこれも失敗した。同7年にも上水野村北脇で磯村平四郎・同市兵衛・同要蔵・松下久之進・松原五平の5人で磁器生産の共同窯を築いたがやはり失敗している。
 上水野の穴田山上に「水野焼中興之祖頌徳碑」が建っている。これは昭和28年4月に地元の製陶業者48名が建立したものである。碑文には、「明治三九年四月、東春日井郡神宮堂(じぐどう)に於いて、磯村桂太郎・加藤嘉蔵・同民助・同浦吉・同不二松・同鉄五郎・同鉄太郎・松本鎌太郎ら八名は協力して登窯を築き磁器製造を開始した」とある。
 これ以降、水野地区では和物(丼・湯呑・小鉢類)生産が盛んになり、昭和10年(1935)には29軒の窯元を数えた。

片草城址

かたくさじょうあと


所在地 瀬戸市片草町
 旧片草村は尾張の東端に在り、三国山(海抜701メートル)は文字通り、尾張・美濃・三河3州境となっている。名古屋城下から木曽山系の山間を縫って信州街道がここを通る。
 片草の氏神八幡神社の西に独立した小丘陵(海抜350メートル)に片草城跡が在る。山腹を削って二段構えとし、掘割で鶴翼形をした平山城の遺構を残している。このあたりの地名を「坂井ヶ根」という。片草城は「享禄二年(1529)上品野秋葉山城で松平勢と戦って敗走した織田方の坂井氏の族人が隠れた」伝承がある。また定光寺祠堂帳に寄進の記録が残る「坂井十郎」の城であったようでもある。地域には坂井姓の人達も居る。江戸時代の村絵図では「城主名不詳の古城跡」として記載されている。

加藤新右衛門胸像

かとうしんうえもんきょうぞう


瀬戸市岩屋町
加藤新右衛門家は慶長年間(江戸時代初期)に尾張藩公から美濃国から召し戻された。弟三右衛門とともに下品野村に窯場・山林を給され、品野窯中興の祖となった家柄である。江戸時代を通して西窯組の窯元として活動した。
瀬戸市の岩屋堂公園の一角に「加藤新右衛門翁立像」が立つ。胸像は胴製、高さは2尺5寸、陶製の台(高さ2尺)の上に建つ。後ろに高さ2.1m、幅2.6mの陶製板が建てられ、その中に明治期に活躍した新右衛門翁の功績を示した銅板がはめ込まれている。「翁は弘化四年下品野竃加藤新右衛門家の嫡男に生まれ、十八歳にして父の業を嗣いで本業焼を営んだ。 明治初年地方に先がけて新製染付焼に転じ四室の丸窯を築き青燕脂などの新顔料を用ひ盛絵手法の新製品を出したり次々創意工夫を怠らなかった。 明治三十六年頃より石炭焼成の有利なのを知り独力を以て研究に着手同三十八年末自家に石炭窯を築いて焼成を試み失敗を重ね焼成法を会得瀬戸美濃地方の業者に呼びかけて築窯から焼成まで手をとって指導して回りその普及に努めた(以下略)」とある。建造は昭和31年7月1日、加藤唐九郎校・戸田紋平記とあるが、品野窯近代化に尽くした人物であった。

加藤新右衛門像
加藤新右衛門像
解説文