明治時代には、10~12歳の「ヤロ」といわれる少年が働いていた。家庭が貧しくて教育を受けることのできない少年が多く、なかには、岐阜・石川・京都の陶業地から働きにくる者もいた。彼らは、業者の家に住み込んで、衣服をもらい、不定期に少しばかりの給金をもらっていた。おもな仕事は、土うち・土ふみ・土おし、などであった。研究熱心な少年は、余暇を利用して、ろくろ・陶画の練習をし、やがては工人になる者もあった。工人になると、「一日いくら」の給金が与えられた。このように、ヤロといわれた少年が一人前の工人になるには、少なくとも8~9年の年月が必要であったといわれている。なかには一人前の工人になれず、雑役工として終わる者も多くいた。大正時代になると、特殊な技術を必要としなくなり、技術を習得する期間も短縮され、このような徒弟制度は、しだいになくなっていった。
カテゴリー: 文化・文化財
永仁の壺事件
えいにんのつぼじけん
1943年(昭和18年)頃、当時東春日井郡上志段味村(現名古屋市守山区)で発掘されたといわれる高さ27㎝、口径4㎝の酒器記で、正式には「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」という壺に関わる事件である。永仁二甲午年十一月、水埜政春作というこの壺が1959年(昭和34年)に重要文化財に指定された後、瀬戸市の古陶磁器研究家らによって「偽物」との意義申立てがあり、事件へと発展していった。文化財保護委員会と古陶磁研究家たちとの間で様々なやり取りがあったが、1960年(昭和35年)日本を去ってヨーロッパへ旅立った、事件の中心人物である、陶芸家加藤唐九郎の「私が作った」という声明により一段と混迷の度合いを深めた。しかし、これ以後、事件に関する納得のいくコメントは得られず、事件の徹底解明にはならなかった。加藤唐九郎を語るうえにおいては欠くことのできない事件であり、また当時の瀬戸では、このセンセーショナルな事件にあやかって、「永仁湯呑」「永仁最中」「永仁観光バス」「永仁定期預金」等のブームをひきおこした。まことに奇妙な事件である。
陶原小学校御大典記念陶碑
とうげんしようがっこうごたいてんきねんとうひ
瀬戸市原山町
瀬戸市立陶原小学校は瀬戸市内で最初に誕生した小学校である。明治6年(1873)宝泉寺内の寺子屋が陶原学校として創立、同25年(1892)に瀬戸町立瀬戸尋常小学校に校名改称(蔵所校舎)、さらに同36年(1902)に瀬戸第1尋常小学校と改称そして同41年(1907)から校舎の一部を大字森(現在の愛知県陶磁器工業協同組合敷地内)に移転した(陶原校舎時代)。
大正4年(1915)の御大典記念事業として行われたのが、当時の六鹿鹿三郎校長の立案で陶原校舎玄関前に「終始一誠意」記念碑(陶製)の建立であった。同年11月一日の除幕式で完成した碑は「まごころの塔」とか「御大典記念碑」と呼ばれた。
制作は窯業学校日野厚氏のデザイン、陶芸家加藤春二(陶寿)氏が当たった。菊花16弁の形状で黄瀬戸で施釉、正面の「終始一誠意」板(5寸×2尺1寸)の文字は浮彫3分高白釉、丸型校章48個が装飾に貼り付けられた。高さ135cmの塔碑と基盤、セメントの土台が大石を積み上げた上に建立された。
大正13年(1924)8月の豪雨で一部校舎の流失・破損もあって大字権現(熊野町)に移転(この頃は瀬戸陶原尋常高等小学校)、さらに昭和44年に現原山町に新築移転したが、この記念碑もまた移築されている。

本地城址
ほんじじょうあと
所在地 瀬戸市西本地町1丁目
旧本地村は現瀬戸市域の南西端に位置する。江戸時代の村絵図には氏神八幡社の南に古城跡が描かれ、「古城跡と申傳候場所屋敷畑等ニ相成、城主相分リ不申候」と記載される。『尾張志』には、城構えは東西三十五間、南北二十四間ばかりあり、東・北二方に堀の址いささか存れり、城主は松原平内なりとある。
松原平内については、今村城主松原広長の叔父であり、文明十四年(1482)の安戸坂の戦いで広長と共に討ち死にしたと地元では伝えられている。
現在は東側の堀部分が県道駒前線となり、堀や土塁などを地上から確認することはできないが、城跡西隣の崖下に「松原平内公本地城跡」の碑が建っている。
赤津城址
あかづじょうあと
所在地 瀬戸市小空町(字城前)
赤津は古くは「飽津」と表した。江戸時代は大郷で瀬戸村に接し、東は戸越峠で三河と境し、北は濃州柿野村へ通じていた。上赤津に雲興寺(曹洞宗)、下赤津には万徳寺(真宗高田派)の古刹がある。万徳寺は今村城主松原広長の尊崇厚く多くの寄進物を保存し、死後葬られた松原塚も在る。
古城跡については、江戸時代の絵図に「平家カハラ城址」が載る。周囲には城前・城畑・馬瀬などの地名も残る。城主は天正年間の「古城主覚記」に熊沢藤三郎居城ノ由と記し、また「織田信雄分限帳」に熊沢善左衛門の名を載せ赤津村を領したという(「日本城郭全集」)。その他の城主名や城の規模等は不詳である。
一色山城(水野城)址
いっしきやまじょう(みずのじょう)あと
所在地 瀬戸市川平町
水野川が形成した水野谷は豊穣な地で早くから開け、中世の頃この水野上・中・下各郷にはそれぞれ一色・大平・入尾の城があった。この地域に深いかかわりをもつ水野氏が築城・城主となっている。
一色山城は標高242メートルの山頂に在った典型的な山城で「水野城」「五万石の城」とも呼ばれた。寛政年間の村絵図には感応寺(臨済宗・定光寺末)から沓掛道を登る城ガ嶺に城跡を描く。また『張州府志』には「天文八己亥年、同邑一色山城主磯邑左近」の記載がある。治承・寿永の頃(12世紀末)入尾城を築いて城主となったのは水野景貞・景俊父子であった。景俊の孫である高康とその子有高、後に品野城に移ったとされる大金重高らが鎌倉時代には居城した。戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられている。
阿弥陀ヶ峰城址
あみだがみねじょうあと
所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺境内)
信州飯田街道が瀬戸村追分で三州小原道と分岐して安戸坂を登って下品野村八床に向かう。大松山全宝寺(曹洞宗・元阿弥陀堂と呼ばれ創建不詳)は信州飯田街道の入り口にあって、地蔵堂(江戸時代造の石地蔵祀る)や庚申堂(文化十年銘青面金銅像祀る)を持つ。
文明十四年(1482)5月、応仁の乱の余波として細川方品野に勢力をもつ桑下城主・永井(長江)民部と山名方今村城主・松原広長との間で合戦が開かれた。品野勢は品野の南端阿弥陀ヶ峰に城砦を築いて陣取った。今村勢は松原広長を総大将に赤津・山口・本地・今村城などの兵力を集めて安戸坂を攻め上ってきた。この地を陣屋河原という。大槙山(全宝寺西の丘陵地帯)の戦いで今村勢は追い落とされ、若狭ヶ洞での戦いで品野方が大勝した。「広長戦死の地を殿死洞といひ、兜の落ちたる所を兜洞とよぶ」(「寛文記」)。阿弥陀ヶ峰城は武士の居城ではなく、砦としての一時的軍事拠点であったと考えられ、小高い全宝寺境内地がその故地である。
南山城址
みなみやまじょうあと
所在地 瀬戸市南山口町
「日本城郭全集」には旧山口村字南山の山上に城跡があるとしている。「城坂の上にかまえ跡あり、山の上四方越堀、樫垣(かしがき)を付置、今跡あり、山田伊豆守この中に屋敷二十四間構えに居住なり。大川つきあて崩れ、南山薬師西、欠の上に殿を造る」とある。山田伊豆守とは承久の乱(1221)で戦死した山田重忠の子重継のことで、父と共に嵯峨野で戦死している。明確な城跡の痕跡は不明である。
今村城址
いまむらじょうあと
所在地 瀬戸市共栄通
旧今村は現在の瀬戸市域の西端にある。江戸時代の『張州雑志』には「此村、古へ横山ト云、後改之」とあり、古くは「横山」と呼称したようである。今村は4区に別れ、瀬戸川左岸に寺山嶋と市場嶋でここが本郷、北の右岸側が川西島・北脇島が在って名古屋から飯田に結ぶ信州飯田街道が通る。
今村城(松原城ともいう)は市場嶋に在り、氏神八王子社の西の池は当時の堀跡である。周囲には城屋敷・廓屋敷・出口・矢下などの地名を残している。文明年間の頃の城主は松原広長で、城は東西六十間、南北六十間、四方一重堀、南面のみ二重堀であったとされる。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。松原氏は広長の父吉之丞の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、飽津(赤津)へ移った。広長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、品野城の長江(永井)民部との戦いで敗れた。
本城ヶ根城址
ほんしろがねじょうあと
所在地 瀬戸市城ヶ根町
江戸時代の美濃野池村は現瀬戸市域の18カ村中面積も戸数も最小の村であった。寛政年間の村絵図には北の今村境に「城カネ山」が描かれ、「古城跡ト申傳之場所御座候得共誰之城跡とも相知不申候」と記載するがそれ以上は不明である。