所在地 品野町8丁目
藩政時代の中品野村川北島にあたる。品野川(水野川)とその支流石場川(山崎川)に挟まれた小高い尾根上は通称「五輪山」と呼ばれ、山神が祀られているがここに古い宝篋印塔(高さ45~78センチ)も立っている。戦国時代に品野城攻略のために織田方が「付城(つけじろ)」として築いた山崎城跡であったと伝えられている。南麓の民家の裏手に切石をもって積み上げられた「おがたの井戸」と呼ぶ古井戸も残っている。
「桶狭間合戦記」によると、永禄元年(1558)の品野合戦の際は織田信長家臣の竹村孫七郎らが守備していたが、品野城の松平監物家次が豪雨の夜に奇襲をかけ、不意を突かれた織田方の将兵50余人が討ち死に敗走したとある。古石塔は敗将の供養塔と伝えられている。
カテゴリー: 文化・文化財
明暗縁の染付
ふたおもてえにしのそめつけ
「佐々の悪魔・瀬戸の窯神 明暗縁染付」は大森痴雪作の二幕三場の歌舞伎で、昭和二年(1927)10月に、大阪中座において上演された。佐々の皿山と瀬戸をそれぞれの幕としている。加藤民吉役を中村鴈次郎、水野権平役を實川延若、中里角右衛門役を片岡市蔵、お千鶴(福本仁左衛門の娘)役を中村福助が演じている。これが上演された折、瀬戸から多くの人々が中座へ押しかけたといわれている。その内容は加藤庄三著の『民吉街道』に掲載されている。この舞台により民吉が産業スパイで、現地妻がいるようなイメージが出来上がってしまった。
大平山城址
おおひらやまじょうあと
所在地 瀬戸市三沢町・川平町
旧中水野村には天明元年(1781)に字鳥林に水野代官所(陣屋)が置かれた。春日井・愛知両郡の111ヵ村・6万石を管理する行政の地方中心地で、代官には歴代水野氏が就いた。大平城跡は水野川を挟んだ対岸の大平山の麓に在る。
寛政四年の村絵図には東光寺(臨済宗・定光寺末)の北山(城山)に「水野佐衛門尉殿城跡ト申傳候」とある。「古城史談」には城跡は大平山中腹の「しんど池」のほとりと大平山の麓の2ヶ所を挙げ、下の城跡は「中水野村の内にも城屋敷とてあり、二町四面取り廻し、村の北郷大平山の下なり。城主は南北朝時代に水野平七致国が居城していた」としている。覚源禅師は建武三年(1336)に定光寺を開創した。尾張各地を布教した平心処斎の頃に致国の館に錫を止め、その縁で帰依を得て開山したとされる。定光寺蓮池より祠堂山を越え、中水野東光寺に出る石畳の残る山道は旧「殿様街道」と呼ばれた歴代尾張藩主の御成り街道であった。
上半田川村陶祖碑
かみはだがわむらとうそひ
瀬戸市上半田川町
旧上半田川村の氏神金峯神社の参道脇に昭和3(1928)年11月に建立された「陶祖之碑」がある。愛知県窯業学校黒田瓷峰(正策)校長撰書の碑文には「明治七(1874)年三月に上半田川村の長江吉衛門が県令の許可を得て築窯したことが今日の発展の礎である」とある。裏面に昭和3年当時の操業者26名の氏名が載る。
『東春日井郡誌』によれば、長江吉右衛門は上品野村の人で文政7(1824)年3月7日生まれ、上半田川が回りを山に囲まれて長石(原料)と薪炭(燃料)に恵まれた地であることに着目し、明治7年3月14日に愛知県に染付焼を出願した。失敗が続いたが、その子惣左衛門の協力を得て、ようやく焼造することに成功した。運輸不便の僻地を考え、盃を主製品としたことも、その後の特産化の礎となった。今日多くの陶業者が存する隆盛はひとえに吉右衛門のお陰である。明治38(1905)年1月没とある。
明治から大正時代にかけて、上半田川には25,6軒が窯業に従事、製品は丸型や菊型の盃が特徴で、多治見の問屋に卸した。昭和初期には5基の登窯は石炭窯に替わったが、第2次大戦中に全て廃絶した。
落合城址
おちあいじょうあと
所在地 瀬戸市落合町
旧下品野村の本郷北を品野川(水野川)が西に流れる右岸山崎の地に、氏神神明社が建つ。社伝によれば後亀山朝、信州の豪族村上理之介の後裔品野城主となった村上勘助の勧請と伝えている。山崎川を挟んだその西に龍洞山久雲寺が建つ。この寺は曹洞宗・雲興寺末で永禄四年(1561)林三郎兵衛正俊が創建、開山は雲興寺14世居雲和尚と伝えられている。さらにその西丘陵に天白山が在り、そこがかつての落合城跡(別称に「天白の城」)である。
「落合城、東西53間・南北45間、戸田殿居城と申伝へ候」(「寛文記」)とある。応永頃は戸田弾正宗繁、文明頃は長江修理が城主だったという。城畑と呼ばれる山麓部にはかつての空堀・土居・古井・礎石が残り、周辺に城坂・物見坂・乗鞍・御所ヶ根などの地名を残している(「古城史談」)。戸田は地域に多い姓である。
水野焼中興之祖頌徳碑
みずのやきちゅうこうのそしょうとくひ
瀬戸市穴田町
水野地区も窯業の盛んな地区である。寛文年間(1661~73)にこの地にあった窯屋が東濃地方を中心に移住させられて以来、明治維新になるまでその操業は一切許されなかった。明治5(1872)年旧上水野村の田中伊六・同七十郎・中根明敏が共同で本業窯を始めたが失敗した。また、上水野村余床でも加藤久蔵・同鎌之助・同文衛門・同金兵衛・同半助・同孫兵衛の6人が共同窯を興したがこれも失敗した。同7年にも上水野村北脇で磯村平四郎・同市兵衛・同要蔵・松下久之進・松原五平の5人で磁器生産の共同窯を築いたがやはり失敗している。
上水野の穴田山上に「水野焼中興之祖頌徳碑」が建っている。これは昭和28年4月に地元の製陶業者48名が建立したものである。碑文には、「明治三九年四月、東春日井郡神宮堂(じぐどう)に於いて、磯村桂太郎・加藤嘉蔵・同民助・同浦吉・同不二松・同鉄五郎・同鉄太郎・松本鎌太郎ら八名は協力して登窯を築き磁器製造を開始した」とある。
これ以降、水野地区では和物(丼・湯呑・小鉢類)生産が盛んになり、昭和10年(1935)には29軒の窯元を数えた。
片草城址
かたくさじょうあと
所在地 瀬戸市片草町
旧片草村は尾張の東端に在り、三国山(海抜701メートル)は文字通り、尾張・美濃・三河3州境となっている。名古屋城下から木曽山系の山間を縫って信州街道がここを通る。
片草の氏神八幡神社の西に独立した小丘陵(海抜350メートル)に片草城跡が在る。山腹を削って二段構えとし、掘割で鶴翼形をした平山城の遺構を残している。このあたりの地名を「坂井ヶ根」という。片草城は「享禄二年(1529)上品野秋葉山城で松平勢と戦って敗走した織田方の坂井氏の族人が隠れた」伝承がある。また定光寺祠堂帳に寄進の記録が残る「坂井十郎」の城であったようでもある。地域には坂井姓の人達も居る。江戸時代の村絵図では「城主名不詳の古城跡」として記載されている。
加藤新右衛門胸像
かとうしんうえもんきょうぞう
瀬戸市岩屋町
加藤新右衛門家は慶長年間(江戸時代初期)に尾張藩公から美濃国から召し戻された。弟三右衛門とともに下品野村に窯場・山林を給され、品野窯中興の祖となった家柄である。江戸時代を通して西窯組の窯元として活動した。
瀬戸市の岩屋堂公園の一角に「加藤新右衛門翁立像」が立つ。胸像は胴製、高さは2尺5寸、陶製の台(高さ2尺)の上に建つ。後ろに高さ2.1m、幅2.6mの陶製板が建てられ、その中に明治期に活躍した新右衛門翁の功績を示した銅板がはめ込まれている。「翁は弘化四年下品野竃加藤新右衛門家の嫡男に生まれ、十八歳にして父の業を嗣いで本業焼を営んだ。 明治初年地方に先がけて新製染付焼に転じ四室の丸窯を築き青燕脂などの新顔料を用ひ盛絵手法の新製品を出したり次々創意工夫を怠らなかった。 明治三十六年頃より石炭焼成の有利なのを知り独力を以て研究に着手同三十八年末自家に石炭窯を築いて焼成を試み失敗を重ね焼成法を会得瀬戸美濃地方の業者に呼びかけて築窯から焼成まで手をとって指導して回りその普及に努めた(以下略)」とある。建造は昭和31年7月1日、加藤唐九郎校・戸田紋平記とあるが、品野窯近代化に尽くした人物であった。
桑下城址
くわしたじょうあと
所在地 瀬戸市上品野町
桑下城は旧中馬街道「城前」バス停の水野川を挟んだ対岸「桑下島」の丘陵地「城根」にある平山城で、「尾張志」には「城構えは東西30間・南北42間、永井民部少輔の居城なりし由」と伝え、石垣や井戸跡を残している。「永井民部は松平家重・その子家次に仕え、後に織田家に属してその位牌は祥雲寺に残る」と載せている。
桑下城跡は平成16年度(1次)、同19年度(2次)に国道363号線改良工事に伴う事前調査が行われた。愛知県埋蔵文化センターなどによる瀬戸市域における最初の発掘調査であった。道路予定地の限られた調査区ではあったが、本丸部分の掘立柱建物や基礎、土塁や井戸、本丸を囲む東西の薬研堀と北の箱堀構造、そして出土遺物として和鏡などの金属製品や什器などの木製品、多くの陶磁器製品が検出した。当時の土木技術が判明したのみならず、現在の城跡は在地領主である長江(永井)氏時代のものでなく、今川氏が関与した改築された時代のものという知見が示された。
加藤景登翁碑
かとうかげとおうひ
瀬戸市藤四郎町
瀬戸市の陶祖公園(瀬戸公園)には陶祖藤四郎の伝記を記した六角陶碑(市指定文化財)が建つ。碑の建設に尽力したのが山陶屋(屋号)の加藤清助景登であった。景登は幕末期の瀬戸村里正(庄屋)や陶業取締役を務め苗字帯刀を許された有力者で、明治17(1884)年2月に79歳で没している。
景登の没後、瀬戸の恩人陶祖碑建設の主唱者加藤景登の顕彰碑建設が建議され、瀧藤萬治郎・川本留助ら28人の有志が資金を集め、製作を寺内信一(半月)に依頼した。半月が制作・図案・彫刻を担当し、焼成を加藤繁十窯の一間を使用した。高さ5尺、幅2尺、厚さ1尺の中空の陶碑は明治24(1891)年立派に完成した。ところが、同年10月28日の濃尾大震災で瀬戸70余窯が崩壊する災害が起こり、同碑もバラバラに壊れてしまった。セメントで接続し、陶祖碑の下に建設した(『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』)。
「景登翁之碑」のさん額は勝間田稔、浅田申之撰とあり碑文の紀年は明治二十年己丑十月とあり、もしこの明治20(1887)年に竣工したとすると先の半月手記の明治24年完成とはタイムラグがある。