1943年(昭和18年)頃、当時東春日井郡上志段味村(現名古屋市守山区)で発掘されたといわれる高さ27㎝、口径4㎝の酒器記で、正式には「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」という壺に関わる事件である。永仁二甲午年十一月、水埜政春作というこの壺が1959年(昭和34年)に重要文化財に指定された後、瀬戸市の古陶磁器研究家らによって「偽物」との意義申立てがあり、事件へと発展していった。文化財保護委員会と古陶磁研究家たちとの間で様々なやり取りがあったが、1960年(昭和35年)日本を去ってヨーロッパへ旅立った、事件の中心人物である、陶芸家加藤唐九郎の「私が作った」という声明により一段と混迷の度合いを深めた。しかし、これ以後、事件に関する納得のいくコメントは得られず、事件の徹底解明にはならなかった。加藤唐九郎を語るうえにおいては欠くことのできない事件であり、また当時の瀬戸では、このセンセーショナルな事件にあやかって、「永仁湯呑」「永仁最中」「永仁観光バス」「永仁定期預金」等のブームをひきおこした。まことに奇妙な事件である。
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永仁最中
えいにんもなか
1960年(昭和35年)に㈱永仁堂本舗(平町1-50、TEL 82-2786)が当時重要文化財に指定されていた「永仁の壺」に似せて最中を発売した。おりしも「永仁の壺」が偽物であると発覚し各界を巻き込んだ大事件となったので当時は爆発的に売れ、現在も瀬戸名菓として親しまれている。
赤津城址
あかづじょうあと
所在地 瀬戸市小空町(字城前)
赤津は古くは「飽津」と表した。江戸時代は大郷で瀬戸村に接し、東は戸越峠で三河と境し、北は濃州柿野村へ通じていた。上赤津に雲興寺(曹洞宗)、下赤津には万徳寺(真宗高田派)の古刹がある。万徳寺は今村城主松原広長の尊崇厚く多くの寄進物を保存し、死後葬られた松原塚も在る。
古城跡については、江戸時代の絵図に「平家カハラ城址」が載る。周囲には城前・城畑・馬瀬などの地名も残る。城主は天正年間の「古城主覚記」に熊沢藤三郎居城ノ由と記し、また「織田信雄分限帳」に熊沢善左衛門の名を載せ赤津村を領したという(「日本城郭全集」)。その他の城主名や城の規模等は不詳である。
一色山城(水野城)址
いっしきやまじょう(みずのじょう)あと
所在地 瀬戸市川平町
水野川が形成した水野谷は豊穣な地で早くから開け、中世の頃この水野上・中・下各郷にはそれぞれ一色・大平・入尾の城があった。この地域に深いかかわりをもつ水野氏が築城・城主となっている。
一色山城は標高242メートルの山頂に在った典型的な山城で「水野城」「五万石の城」とも呼ばれた。寛政年間の村絵図には感応寺(臨済宗・定光寺末)から沓掛道を登る城ガ嶺に城跡を描く。また『張州府志』には「天文八己亥年、同邑一色山城主磯邑左近」の記載がある。治承・寿永の頃(12世紀末)入尾城を築いて城主となったのは水野景貞・景俊父子であった。景俊の孫である高康とその子有高、後に品野城に移ったとされる大金重高らが鎌倉時代には居城した。戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられている。
阿弥陀ヶ峰城址
あみだがみねじょうあと
所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺境内)
信州飯田街道が瀬戸村追分で三州小原道と分岐して安戸坂を登って下品野村八床に向かう。大松山全宝寺(曹洞宗・元阿弥陀堂と呼ばれ創建不詳)は信州飯田街道の入り口にあって、地蔵堂(江戸時代造の石地蔵祀る)や庚申堂(文化十年銘青面金銅像祀る)を持つ。
文明十四年(1482)5月、応仁の乱の余波として細川方品野に勢力をもつ桑下城主・永井(長江)民部と山名方今村城主・松原広長との間で合戦が開かれた。品野勢は品野の南端阿弥陀ヶ峰に城砦を築いて陣取った。今村勢は松原広長を総大将に赤津・山口・本地・今村城などの兵力を集めて安戸坂を攻め上ってきた。この地を陣屋河原という。大槙山(全宝寺西の丘陵地帯)の戦いで今村勢は追い落とされ、若狭ヶ洞での戦いで品野方が大勝した。「広長戦死の地を殿死洞といひ、兜の落ちたる所を兜洞とよぶ」(「寛文記」)。阿弥陀ヶ峰城は武士の居城ではなく、砦としての一時的軍事拠点であったと考えられ、小高い全宝寺境内地がその故地である。
南山城址
みなみやまじょうあと
所在地 瀬戸市南山口町
「日本城郭全集」には旧山口村字南山の山上に城跡があるとしている。「城坂の上にかまえ跡あり、山の上四方越堀、樫垣(かしがき)を付置、今跡あり、山田伊豆守この中に屋敷二十四間構えに居住なり。大川つきあて崩れ、南山薬師西、欠の上に殿を造る」とある。山田伊豆守とは承久の乱(1221)で戦死した山田重忠の子重継のことで、父と共に嵯峨野で戦死している。明確な城跡の痕跡は不明である。
今村城址
いまむらじょうあと
所在地 瀬戸市共栄通
旧今村は現在の瀬戸市域の西端にある。江戸時代の『張州雑志』には「此村、古へ横山ト云、後改之」とあり、古くは「横山」と呼称したようである。今村は4区に別れ、瀬戸川左岸に寺山嶋と市場嶋でここが本郷、北の右岸側が川西島・北脇島が在って名古屋から飯田に結ぶ信州飯田街道が通る。
今村城(松原城ともいう)は市場嶋に在り、氏神八王子社の西の池は当時の堀跡である。周囲には城屋敷・廓屋敷・出口・矢下などの地名を残している。文明年間の頃の城主は松原広長で、城は東西六十間、南北六十間、四方一重堀、南面のみ二重堀であったとされる。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。松原氏は広長の父吉之丞の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、飽津(赤津)へ移った。広長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、品野城の長江(永井)民部との戦いで敗れた。
本城ヶ根城址
ほんしろがねじょうあと
所在地 瀬戸市城ヶ根町
江戸時代の美濃野池村は現瀬戸市域の18カ村中面積も戸数も最小の村であった。寛政年間の村絵図には北の今村境に「城カネ山」が描かれ、「古城跡ト申傳之場所御座候得共誰之城跡とも相知不申候」と記載するがそれ以上は不明である。
入尾城址
いりおじょうあと
所在地 瀬戸市鹿乗町
旧下水野村は中世の頃は「水野下郷」と呼称された。水野川が東門滝・目鼻石などの景勝地を流れ下り玉野川に合流する最下流部が、下水野村の枝村の「入尾(いりお)島」である。江戸時代の村絵図に八幡社東辺に「城山」が描かれている。これが入尾城跡である。『張州府史』には「下水野村にあって、水野備中守が之に居す」とあり、また『張州雑志』には玉野川の南岸に木立と石垣を描き「東西三十二間、南北三十一間、四方一重堀」などの付記がみられ、編集当時は堀跡などの遺構があったようである。
保元・平治の戦乱の世、尾張山田荘水野郷に移り住んだ平氏の一門があって、これが後水野姓を称したという。水野四郎と称した景俊の父景貞が始めて水野郷入尾に城を築いた。景俊の子高家も水野三郎を称し、治承・寿永の頃に八条院領志田見郷(守山区志段味)の郷司職に補されて志田見・水野周辺の地を管理したという。
(「日本城郭全集」)
物見山城址
ものみやまじょうあと
所在地 瀬戸市海上町
江戸時代の旧山口村絵図には枝郷海上(かいしょ)集落の南東山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。地誌『尾張徇行記』には甲斐武田信玄が築いた砦跡の言い伝えが記載されている。海抜327メートルの物見山の山頂は尾張・三河を望む位置であるが、それ以上の城跡の痕跡は無い。
(以上参考文献 『日本城郭全集』・『日本城郭大系』・『瀬戸古城史談』・『瀬戸市史・村絵図編』他)