民吉街道

たみきちかいどう


 故加藤庄三氏著、加藤正高氏編による書である。庄三・正高の両氏は瀬戸へ新製染付焼の技法をもたらし磁祖と呼ばれている加藤民吉の足跡を追って九州まで幾度も赴き、多くの年月と私財を投じて調査しておられる。そして庄三氏の集め、検証された原稿をご子息である正高氏が出版されたものである。この書には磁祖と呼ばれる民吉の人間像が詳細に記されている。この書には民吉のみでなく、その時代に生きた多くの人々、例えば加藤唐左衛門や津金文左衛門、天中和尚等が述べられている。又この書は両氏の企業である愛知珪曹工業の50周年の記念として出版されている。さらには1988年(昭和63年)この書をもとに瀬戸市内の社会科教師が実際に歩かれ、ビデオの教材を作成した。

御林方奉行所跡

おはやしがたぶぎょうしょあと


瀬戸市水北町
 旧上水野村北脇には尾張藩の御林方役所が置かれていた。天保年間の村絵図には上水野氏神八幡社の東山麓に「水野権平様御屋敷・御林方御役所」と記載されている。明治維新による役所廃止後は奉行所の南側にあった堀状の池は埋め立てられて畑地となり、土塀のあった石垣の一部をわずかに残すのみである。
 尾張初代藩主徳川義直は定光寺周辺の山野を好み、しばしば狩猟を行った。その際に案内役を勤めたのがこの地方の土着名族水野氏であった。義直は水野久之丞の屋敷を行殿として滞留したことが記録されている。
 尾張藩では寛文年間の頃に大規模な林政改革を行い、優秀山林を「留山」・「巣山」などの禁猟区を設けて「御林」とし、「平山」・「定納山」と区別した。この時設置された御林役所は勘定奉行の支配に属し、愛知・春日井両郡(享保期以前は知多郡も含まれた)の御林を管理した。水野氏が代々奉行職に就き、その下に手代・目付や案内同心が置かれた。瀬戸地域では砂留普請・植林・伐木・陶土採掘・絵薬掘などの許認可権をもって大きな役割を果たした。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)

瀬戸八景集

せとはっけいしゅう


 瀬戸八景集は稀にみる木版刷りの美冊である。しかし、心ある家の筺底ふかく秘蔵されて、世人の目に触れる事なく、語られる機会も少ない。又その内容が古文と、当時の能書家の筆のため解しがたい。瀬戸八景集は明治14年の刊行であったと思われる。栖雲居武貫の手によって編集され、それに加藤景登、花睡、健老の3人が校合として参与している。加藤景登は、山藤屋、加藤清助のあるじ。陶祖の碑を作り陶業につくすところが多かった人だが、傍ら風雅の道をたしなみ、自ら禅長庵を藤四郎山、陶祖の碑の傍らに営み、茶の友を語って、楽しみとしていた。武貫も瀬戸にきて禅長庵に遊ぶ1人であったが、陶祖の昔を思い、瀬戸の八景の諷詠をあつめて一集を出さんとして景登翁にはかり、花睡、健老の協力を仰いだものと思われる。内容は主として八景の発句を蒐めているが、和歌、漢詩も併せ、更に八景の絵を、地元の画家によって描かしめ、挿入されている。体載は美濃版、横綴、表紙とも25枚。瀬戸八景とは、「禅長庵暮雲」「祖母懐春雨」「深川新樹」「馬城郭公」「古瀬戸晴嵐」「宝泉寺晩鐘」「森橋納涼」「中嶋秋の月」である。

加藤景登翁碑

かとうかげとおうひ


瀬戸市藤四郎町
 瀬戸市の陶祖公園(瀬戸公園)には陶祖藤四郎の伝記を記した六角陶碑(市指定文化財)が建つ。碑の建設に尽力したのが山陶屋(屋号)の加藤清助景登であった。景登は幕末期の瀬戸村里正(庄屋)や陶業取締役を務め苗字帯刀を許された有力者で、明治17(1884)年2月に79歳で没している。
 景登の没後、瀬戸の恩人陶祖碑建設の主唱者加藤景登の顕彰碑建設が建議され、瀧藤萬治郎・川本留助ら28人の有志が資金を集め、製作を寺内信一(半月)に依頼した。半月が制作・図案・彫刻を担当し、焼成を加藤繁十窯の一間を使用した。高さ5尺、幅2尺、厚さ1尺の中空の陶碑は明治24(1891)年立派に完成した。ところが、同年10月28日の濃尾大震災で瀬戸70余窯が崩壊する災害が起こり、同碑もバラバラに壊れてしまった。セメントで接続し、陶祖碑の下に建設した(『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』)。
 「景登翁之碑」のさん額は勝間田稔、浅田申之撰とあり碑文の紀年は明治二十年己丑十月とあり、もしこの明治20(1887)年に竣工したとすると先の半月手記の明治24年完成とはタイムラグがある。

品野城址

しなのじょうあと


所在地 瀬戸市上品野町
品野は古く「科野」と表し、山間傾斜地の地形状の特徴から起こった地名のようである。3州国境三国峠に近い高地から、順次上・中・下と3科野村があった。上品野は信州街道沿いに在ったが、その面影は氏神稲荷神社前の旧道によく残されている。この稲荷神社裏山の秋葉山頂が品野(科野)城跡である。東西20間、南北8間余、土塁・曲輪・堀切跡を残す山城で「秋葉山城」の別称がある。麓近くに「中屋敷・廓屋敷・御殿・的場」などの地名が残る。
城の創始は建保・承久年間(13世紀初頭)の頃、水野地域から進出してきた豪族大金重高とされ、享禄品野合戦(1529)以降は松平内膳正家重が城主、永禄元年(1558)3月には織田軍勢との間で永禄品野合戦があったことが伝えられている。
品野城跡の北側で集落を挟んだ向かい側に桑下城跡があり、桑下城は平時住まいの館城、品野城は緊急時の詰め城であったのではないかという説もある。

加藤民吉翁碑

かとうたみきちおうひ


瀬戸市窯神町 窯神神社
 窯神神社は、九州肥前で磁器製法を習い瀬戸に伝えて「磁祖」と崇められる加藤民吉を祀る。民吉が瀬戸に帰村したのは文化4(1807)年6月18日とされている。
 境内には「磁祖加藤民吉翁碑」を始め、「津金胤臣父子頌徳碑」、「加藤唐左衛門高景翁頌徳碑」など瀬戸新製焼(染付磁器)開発に尽力した人々の遺徳を偲ぶ碑類が建立されている。
 民吉像(青銅製)の前に立つ石碑(85cm角、高さ115cm、花崗岩製)には、四面に亘り1,117文字の民吉の事柄について印している。碑文の撰者は漢学者として名高い浅野哲夫(醒堂)、書は名古屋の書家大島徳太郎(君川)で、大正11(1922)年秋9月の紀年銘がある。
 なお、この石碑に並列してその左(西)側に全く同形・同規模の石碑も立つ、この石碑は後年民吉翁像建立の際に立てられたもので、永塚楽治撰、浅野金康書と1昭和12年秋9月の紀年銘がある。碑文の内容は「今日の殷賑大盛は民吉翁の導きに因る。像の鋳造を以て千載に伝える哉(大意)」(179文字)とあり、碑の背面に瀬戸市と瀬戸市の産業三団体が建之と記されている。

瀬戸城址(鯨見城)

せとじょうあと(くじらみじょう)


所在地 瀬戸市古瀬戸町~馬ケ城町あたり
瀬戸城は「鯨見の城」ともいい、古瀬戸小学校正門登り口の北東一帯の丘陵地にその跡があり、城主は加藤光泰で城構えは東西六十五間・南北八十間、三方掻揚げ堀、東大手門は字垣内という田畑になり、西桑原、東窯下という。北は高塚という。(「日本城郭全集」)
江戸時代の村絵図にはその古城跡の記載は無く、今日工場・民家が密集して古城跡を確認することはできない。

加藤民吉翁像

かとうたみきちおうひおうぞう


瀬瀬戸市窯神町 窯神神社
 窯神神社のシンボルとなっている加藤民吉像(青銅製)は、昭和12年に後日本芸術院会員となった加藤顕清の制作である。この年大規模な神社の改修事業が行われ、鳥居や石碑が建立された。民吉の九州修業を援助した「津金胤臣父子頌徳碑」は翌年建設された。
 加藤顕清は明治27(1894)年北海道で生まれた(幼名鬼頭太)。その後経済事情もあって父(岐阜県下石出身)の遠縁にあたる瀬戸の加藤丈一郎(瀬戸町会議員)を頼って来瀬する。小学校卒業後、その援助で東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻本科塑造部を卒業した。昭和3(1928)年の第9回帝展から3年連続特選となり、同7年からは母校の講師を嘱託されている。昭和12年の民吉像は加藤丈一郎らの依頼により制作、銅像竣工式は同年9月16日瀬戸物祭当日盛大に行われた。顕清の名はこの地方では一躍脚光をあびる存在となった。戦後古瀬戸町に「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」が発足すると再び来瀬、ノグチ・イサム、北川民次、沼田一雅らと芸術運動を展開している。瀬戸との関わりの深い彫刻家であった。
(『郷土に足跡を残した人々』)

塔山城址

とうやまじょうあと


所在地 瀬戸市広久手町
塔山(とうやま)城は堂山城・相坂城ともいう。山口谷奥の通称「おごりんさん」と地元の人から呼ばれる室町期の五輪塔の並ぶ小高い山がある。「山口村古記」には城主は森河下総守が居城し、後大和国多武峰に移るとある。山口川右岸から取水する「森河用水」は今も活用されている。
「おごりんさん」から南に下った地点に東西約20メートル、南北約48メートルの本丸跡があり、三方に附属の曲輪が見られる。江戸時代の村絵図には「古城跡、武田信玄番持」の記述があるが、武田氏との関係は明らかではない。

今井校長之碑

いまいこうちょうのひ


瀬戸市岩屋町
瀬戸市域は教育熱心な風土性があり、多くの寺子屋と篤学者を生んでいる。
今井鎌三郎(かまさぶろう)は、明治元年(1868)6月8日西加茂郡寺部村(豊田市)に生まれたが、明治24年(1891)、愛知師範学校卒業と同時に下品野小学校訓導兼校長を拝命した。明治40年(1907)4月6日40歳で没するまで生涯を同校に奉職、『愛知縣偉人傳』には「世、鎌三郎を呼んで今ペス(ペスタロッチ)といふは其の崇高な人格、其の愛と至高の横溢した教育的生涯を賛美してかく呼ぶのである」とある。
「今井校長之碑」は岩屋堂公園の木陰に建ち(高さ196、幅88cm)、顕額は時の文部大臣小松原英太郎が、撰文は佐藤雲韶、書者大島徳太郎(君川)があたり、碑文は漢文体で記され、劣悪な教育状況を当局に掛け合って改善したこと、熱心に村民に就学を訴えて廻ったこと、自らは清貧に甘んじ節を曲げずに教育方法を改善したことなどが縷々述べられている。明治43年(1910)12月に教えを受けた下品野小学校校友会の手で建てられた。
現在もなお、遺徳を偲ぶ教育関係者の慰霊祭が行われている。