1960年(昭和35年)に㈱永仁堂本舗(平町1-50、TEL 82-2786)が当時重要文化財に指定されていた「永仁の壺」に似せて最中を発売した。おりしも「永仁の壺」が偽物であると発覚し各界を巻き込んだ大事件となったので当時は爆発的に売れ、現在も瀬戸名菓として親しまれている。
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瀬戸本業窯
せとほんぎょうがま
尾張国へ徳川家康の第九子義直が1607年(慶長12年)に封ぜられ、尾張国の江戸時代の幕あけとなった。初代徳川義直の時代は、豊臣の残党や外様の動静に心を配り、一旦緩急あらば、譜代と力を合わせて鎮圧しなければならない。それぞれが自藩の政策として、富国強兵策をおし進めた。富国には産業振興が必要で、「瀬戸山離散」によって、美濃で陶業に励んでいた名工を、本国へ召還している。まず美濃国郷の木に移住していた加藤利右衛門、加藤仁兵衛を赤津村へ、また美濃国水上村に移住していた加藤新右衛門、加藤三右衛門を品野村へ帰郷させて、石高10石、金10両を与え、諸税を免じ、御用窯として陶業につかせた。これが本業窯のはじまりであり、明治初頭までやきものの主流となる。その座を退き始めたのは有田に興った磁器が伊万里港から諸国へ、白くて薄く、しかも丈夫な染付磁器を売り捌き出したからである。不況にあえぐ瀬戸に光をもたらしたのは、1807年(文化4年)加藤民吉が肥前国(長崎・佐賀県)から磁器の製法を修練して帰り、瀬戸に「新製焼」をもたらした。こうして瀬戸は本業から新製へと転向していった。大正から昭和へと洞では盛んであった本業窯も現在では東洞の半次郎窯1本を残すのみとなってしまった。
窯屋の符牒
かまやのふちょう
符牒とは元来商売上の必要から商品の価格・等級などのために案出された1種の隠語であって、「掛値なし」が看板になる掛値の多かった時代には当然正価の秘密を守らなければならず、符牒のほとんどは値段に関するもので、基数および十・百などの数字を文字や記号で表わした。そのうち1店のみの専用でなく同業者間に適用するものを通り符牒といった。この窯屋符牒もいわゆる通り符牒であって一から九までの数字を分・厘・貫・斤・両・間・文・尺・寸と呼び、十を分丸といった。例えば十五円を分両というがごときであった。
今村城址
いまむらじょうあと
所在地 瀬戸市共栄通
旧今村は現在の瀬戸市域の西端にある。江戸時代の『張州雑志』には「此村、古へ横山ト云、後改之」とあり、古くは「横山」と呼称したようである。今村は4区に別れ、瀬戸川左岸に寺山嶋と市場嶋でここが本郷、北の右岸側が川西島・北脇島が在って名古屋から飯田に結ぶ信州飯田街道が通る。
今村城(松原城ともいう)は市場嶋に在り、氏神八王子社の西の池は当時の堀跡である。周囲には城屋敷・廓屋敷・出口・矢下などの地名を残している。文明年間の頃の城主は松原広長で、城は東西六十間、南北六十間、四方一重堀、南面のみ二重堀であったとされる。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。松原氏は広長の父吉之丞の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、飽津(赤津)へ移った。広長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、品野城の長江(永井)民部との戦いで敗れた。
本城ヶ根城址
ほんしろがねじょうあと
所在地 瀬戸市城ヶ根町
江戸時代の美濃野池村は現瀬戸市域の18カ村中面積も戸数も最小の村であった。寛政年間の村絵図には北の今村境に「城カネ山」が描かれ、「古城跡ト申傳之場所御座候得共誰之城跡とも相知不申候」と記載するがそれ以上は不明である。
入尾城址
いりおじょうあと
所在地 瀬戸市鹿乗町
旧下水野村は中世の頃は「水野下郷」と呼称された。水野川が東門滝・目鼻石などの景勝地を流れ下り玉野川に合流する最下流部が、下水野村の枝村の「入尾(いりお)島」である。江戸時代の村絵図に八幡社東辺に「城山」が描かれている。これが入尾城跡である。『張州府史』には「下水野村にあって、水野備中守が之に居す」とあり、また『張州雑志』には玉野川の南岸に木立と石垣を描き「東西三十二間、南北三十一間、四方一重堀」などの付記がみられ、編集当時は堀跡などの遺構があったようである。
保元・平治の戦乱の世、尾張山田荘水野郷に移り住んだ平氏の一門があって、これが後水野姓を称したという。水野四郎と称した景俊の父景貞が始めて水野郷入尾に城を築いた。景俊の子高家も水野三郎を称し、治承・寿永の頃に八条院領志田見郷(守山区志段味)の郷司職に補されて志田見・水野周辺の地を管理したという。
(「日本城郭全集」)
物見山城址
ものみやまじょうあと
所在地 瀬戸市海上町
江戸時代の旧山口村絵図には枝郷海上(かいしょ)集落の南東山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。地誌『尾張徇行記』には甲斐武田信玄が築いた砦跡の言い伝えが記載されている。海抜327メートルの物見山の山頂は尾張・三河を望む位置であるが、それ以上の城跡の痕跡は無い。
(以上参考文献 『日本城郭全集』・『日本城郭大系』・『瀬戸古城史談』・『瀬戸市史・村絵図編』他)
馬ヶ城址
うまがじょうあと
所在地 瀬戸市馬ヶ城町
現在の瀬戸市街地を西に流れる瀬戸川(矢田川上流)に流入する支流の一つが赤津境を水源とする馬ヶ城川である。昭和初年にここに上水道を建設するための馬ヶ城貯水池が建設された。この水源地内には著名な古窯跡である馬城窯・椿窯・小屋峰窯・松留窯など11窯が『尾張徇行記』に記載されるが、最近の調査では約60基の古窯跡が分布する。
天保年間の村絵図には馬ヶ城川に沿って馬城道が描かれ、「銭カメ」(銭甕窯)のさらに上流の位置に「馬ヶ城」が記載される。古城跡研究者であった戸田修二氏は「瀬戸古城史談」で「城跡今は太郎左池」と記し、郷土史を引きながら「城構えは土塁の内側東西150メートル、南北100メートルほどの平坦地で、周りは巾着様に丘陵に囲まれ、西方わずかに開いた要衝の地である」としている。城主は加藤太郎左衛門で室町末期の頃まで居住し、長久手城主加藤太郎左(または右)衛門との関連性を指摘している。
大津城址
おおつじょうあと
所在地 瀬戸市今林町
大津城跡は、別名「今林城」とも呼ばれ、山口の本泉寺西約500メートルほどの今林島に在る。「山口村古記」に「城構えは東西一町(丁)、南北二町(丁)、二重堀をめぐらし、午の方に大手門あり、城主は後宇多天皇の末孫大津八郎左衛門」と載せている。別の考証では、近江の大津奉行職を代々務めた家系の末裔である大津氏が弘治元年(1555)にこの地に築城、元亀・天正年間の頃(16世紀末)に廃城となったと伝えられている。
現在、城跡の一角である今林町内児童遊園に末孫の大津氏によって伝えられた由緒などを記載した碑文が建てられている。部分的な発掘調査で廃城前の時期の陶磁器が出土伝承を裏付けた。
大平山城址
おおひらやまじょうあと
所在地 瀬戸市三沢町・川平町
旧中水野村には天明元年(1781)に字鳥林に水野代官所(陣屋)が置かれた。春日井・愛知両郡の111ヵ村・6万石を管理する行政の地方中心地で、代官には歴代水野氏が就いた。大平城跡は水野川を挟んだ対岸の大平山の麓に在る。
寛政四年の村絵図には東光寺(臨済宗・定光寺末)の北山(城山)に「水野佐衛門尉殿城跡ト申傳候」とある。「古城史談」には城跡は大平山中腹の「しんど池」のほとりと大平山の麓の2ヶ所を挙げ、下の城跡は「中水野村の内にも城屋敷とてあり、二町四面取り廻し、村の北郷大平山の下なり。城主は南北朝時代に水野平七致国が居城していた」としている。覚源禅師は建武三年(1336)に定光寺を開創した。尾張各地を布教した平心処斎の頃に致国の館に錫を止め、その縁で帰依を得て開山したとされる。定光寺蓮池より祠堂山を越え、中水野東光寺に出る石畳の残る山道は旧「殿様街道」と呼ばれた歴代尾張藩主の御成り街道であった。