瀬戸市下半田川町
かつての国道248号線は蛇ヶ洞川に沿って山峡を通っていたが、昭和49年に上半田川地区と下半田川を直線状に結ぶバイパス工事が計画された。事前調査でかみた(上田)の丘陵中腹(標高150m)の地点2ヶ所に窯跡が確認され発掘調査が実施された。
1号窯は窯体下部がすでに流失していたが、上部の7室が残存した。残存する窯室の長さは約10m、幅は下方で4.6m、最上室で5.4mと上方に拡大する。縦狭間構造を持ち、粘土の円柱やエンゴロを用いた狭間柱は広いところで14本が確認された。窯室への出入り口は右側にあった。
2号窯はその西約30mの南西斜面に構築されていたが、煙道部(残存長約3.5×幅5.8m)が残存、エンゴロ積みによる狭間柱は15本確認されたにすぎない。
出土遺物は、1号窯では丸碗・柳茶碗・鉄釉湯呑・灯明皿・徳利類などがあり、2号窯は1号窯に連続する陶器類が下層に、中・上層からは広東茶碗・丸碗・染付皿・染付鉢・湯呑などの染付製品が主体であった。このことから、操業期間は1号窯が18世紀後半代、2号窯は19世紀前・中葉と推定される。
カテゴリー: 文化・文化財
竹露庵
ちくろあん
瀬戸市藤四郎町
夕日窯跡の碑が立つ坂道を登ると、草葺きの瀟洒な茶室が建つ。陶祖公園茶室「竹露庵」である。
この茶室は元名古屋幅下の某家に在ったが、明治初年に道路拡幅のため取り壊されるところを新居の彦惣家に移築、さらに明治19年に瀬戸の加藤蘭法医・山陶屋加藤景登らが相談して瀬戸公園(当時の藤四郎山)に移築したという。この時有栖川宮を迎えた際に「竹露庵」と命名された。
爾来、会員の月掛金を持って維持されてきたが、当時の使用規則が残されている。
一、 会員たる者は一ヶ月金五銭づつを差し出すべし、さすれば毎日登庵するも妨げなし。
一、 会員たらざる者は登庵の際一名につき謝儀として金弐銭づつ差し出すべし。
一、 本庵に於ては歌舞弦鼓勝負の類を禁ず。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
朝日窯
あさひがま
『尾張名所図会』や『をはりの花』の中に瀬戸古窯の名称として記載されている。名所図会には、「古窯跡 同(瀬戸)村の山林馬ケ城をはじめ所々にあり、其の内藤四郎窯といひ傳ふるは、椿窯、峯出が根窯、守宮窯、朝日窯(以下略) 又源氏窯にて飛鳥川の茶入を焼き、朝日窯にて焼きし茶入を朝日春慶と称す」とある。
瀬戸は瀬戸川の谷に成立した町だが、左岸(南側)は谷奥から洞・郷・南新谷と順次シマが開けた。郷の中心に小高い山があり、古くは経塚山・城見山と呼ばれ、大正時代に八十八ヵ所霊場が開かれて弘法山とも愛称されるようになった。この山稜東斜面に北から経塚山東・朝日下・朝日古窯跡と3基が分布している。この内朝日・朝日下窯跡はいずれも窯跡は滅失するが15~16世紀代の施釉陶器が出土する。経塚山東窯はその西に位置する経塚山西古窯跡とともに、明和七年(1770)に川本治兵衛・同半助らによって再興された地方文書が残された窯跡である。
夕日窯
ゆうひがま
『をはりの花』の瀬戸古窯の名称の中に朝日窯、夕日窯など30あまりの窯名が記載されているが、その他の詳しい説明はない。
瀬戸の郷シマの経塚山に瀬戸川を挟んで相対する庚申山(幕末に春慶翁碑が建設されて藤四郎山、藤四郎公園と呼称されるようになった)があり、いつの頃からか、経塚山の朝日窯に対し夕日窯と呼ばれるようになった。ここには春慶が退隠して住んだ禅長庵が在ったということで、藤四郎窯跡ともいわれてきた。
瀬戸市の遺跡詳細分布調査によれば、この藤四郎公園(瀬戸公園)内には石段登り口左に、夕日窯2基その上段に日影窯、上段の東斜面に夕日3号・同4号窯が分布している。窯跡はいずれも滅失しているが、夕日窯は16世紀代、夕日3・4号窯はいずれも19世紀代の施釉陶の物原を残している。
瀬戸六作・十作
せとろくさく・じゅっさく
瀬戸六作とは、永禄六(1563)年に織田信長によって選ばれた瀬戸の名工6名のこと。瀬戸十作とは、天正十三(1585)年に古田織部によって選ばれた瀬戸の名工10名のこと。
『をはりの花』に世人の瀬戸六作と称するは永禄六年(1563)織田信長瀬戸に来りて六人の名工を撰ししものにして、各製品には左の印款を刻すとして記載する。
加藤宗右衛門 春永と号す (鍵印) 加藤長十 (松葉印)
俊白 一に宗伯 (丸印) 新兵衛 (丁印)
加藤市左衛門 春厚と号す (角印) 加藤茂右衛門 徳庵と号す (十印)
さらに、世人の瀬戸十作と称すは天正十三年(1585)古田織部正重然(一に重勝)瀬戸に来りて十人の名工を撰ししものにして各製品に左の印款せり
元蔵 (一) 丈八 (イ) 友十(丸一) 六兵衛(セ) 佐助(蕨)
半七 (七) 金九郎(丸十) 治兵衛(サ) 八郎次(カ) 吉右衛門(山)
また、『尾張名所図会』中の六作十作の事に、「永禄六年信長公国中巡覧の節、瀬戸名家六作といえるを定めたまう。また天正十三年古田織部正重勝名家十作といえるを定められる。其名印ども左の如し。六作のうち市左衛門の子孫、今の加藤清助なり、吉左衛門・民吉・唐左衛門等みな清助の別家なり」とある。
鹿乗橋
かのりばし
瀬戸市鹿乗町~春日井市高蔵寺町2に架橋
旧下水野村入尾(鹿乗町)と対岸玉野村(春日井)の間には玉野川(庄内川)が流れ、現在の鹿乗橋のやや下流を「モトハシバ」といい簡単な板橋が架かっていた。昔は渓谷美あふれた景勝地で文人墨客が遊ぶ「白鹿館」や「三宅邸」などの瀟洒な料亭が在った。
明治43(1910)年に鉄のアーチ橋が架けられた。明治期に架設された13橋の鋼アーチ橋の一つで現存するものが殆ど無い貴重なものである。昭和23(1948)年に元橋を骨組にしてコンクリートを巻いた、要するに鉄骨鉄筋コンクリートの橋に造り替えた。その時斜材(ラチス)を撤去しており、現在は垂直材のみとなっている。その際の工事について銘板に「架設後四十年以上になり、鉄骨が腐食し、強度が半分の五十五%までに低下した。そのため、鉄筋コンクリートにて被覆し補強した」とあり、工事は愛知県直営で行われた。景勝地の橋であったために、橋面上に構造部材が突出していない上路式のアーチタイプにしたこともうなずける。(『保存情報Ⅰ』)

陶元座
とうげんざ
瀬戸市深川町
大正時代の瀬戸には、陶元座・栄座・大正館・歌舞伎座・末広館の五つもの芝居小屋・演芸場があり、陶都瀬戸の職人・庶民の娯楽の場として賑わった。
明治時代の深川神社参道には陶元座が在った。ここには古くから小さな芝居小屋が在ったが、明治20(1887)年頃に火災で焼失してしまった。その後、実業家の加藤杢左衛門が同27(1895)年に私財で新築落成したのが陶元座である。この芝居小屋も同34(1902)年の旧正月に火災で全焼したが、翌年には再建されてこけら落としに尾上梅幸が来瀬している。昭和2(1927)年にタタミを椅子席に替え、映画専門の「深川館」と改称して戦後まで続いた。
歌舞伎座
かぶきざ
瀬戸市滝之湯町
大正15(1926)年に瀬戸町の西郊の滝之湯に歌舞伎座が誕生した。こけら落としに中村吉衛門が来瀬した。2階はマス席、1階は椅子席であった。昭和に入って「瀬戸劇場」と改称したが、戦時中に終業した。
記念橋交番
きねんばしこうばん
瀬戸市南仲之切町
昭和14(1929)町3月に旧瀬戸市役所に併置されていた瀬戸警察署が東吉田町に新庁舎を建設移転した。そのため新たに陶磁器陳列館東に「蔵所派出所」として設置(同年4月)した。やき物の町にふさわしい神明造りの屋根瓦は織部焼で葺き(同時期に建設された名古屋市役所の屋根瓦に使用された同じ瀬戸瓦といわれる)、警察署の表札マークは黄瀬戸焼きで作成された。
雲興寺鐘楼
うんこうじしょうろう
国登録文化財
平成17年12月26日指定 所在地 瀬戸市東白坂町
所有者 雲興寺
文化財 木造入母屋造・瓦葺
時代 江戸時代後期
雲興寺は至徳元年(1384)開創の尾張曹洞宗を代表する寺院である。織田信長や信雄らの保護を受け、江戸時代には幕府より三河国加茂郡本徳村(現豊田市)に寺領を与えられた。
鐘楼は境内中心部の本堂南に在り、桁行2間、梁間2間で袴腰が付けられた2回建ての建物である。棟札の記載から文化七年(1810)に地元の大工藤井甚右衛門によって建てられている。屋根は瓦葺で、地元で焼かれた赤津瓦が使用されている。鐘は2階天井に吊り下げられていたが、現在は境内西側の新鐘楼に映されている。江戸時代後期の鐘楼として地域の基準となる作風を残していることから平成17年に国の登録文化財に指定された。

雲興寺本堂