瀬戸市藤四郎町
夕日窯跡の碑が立つ坂道を登ると、草葺きの瀟洒な茶室が建つ。陶祖公園茶室「竹露庵」である。
この茶室は元名古屋幅下の某家に在ったが、明治初年に道路拡幅のため取り壊されるところを新居の彦惣家に移築、さらに明治19年に瀬戸の加藤蘭法医・山陶屋加藤景登らが相談して瀬戸公園(当時の藤四郎山)に移築したという。この時有栖川宮を迎えた際に「竹露庵」と命名された。
爾来、会員の月掛金を持って維持されてきたが、当時の使用規則が残されている。
一、 会員たる者は一ヶ月金五銭づつを差し出すべし、さすれば毎日登庵するも妨げなし。
一、 会員たらざる者は登庵の際一名につき謝儀として金弐銭づつ差し出すべし。
一、 本庵に於ては歌舞弦鼓勝負の類を禁ず。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
カテゴリー: 文化・文化財
朝日窯
あさひがま
『尾張名所図会』や『をはりの花』の中に瀬戸古窯の名称として記載されている。名所図会には、「古窯跡 同(瀬戸)村の山林馬ケ城をはじめ所々にあり、其の内藤四郎窯といひ傳ふるは、椿窯、峯出が根窯、守宮窯、朝日窯(以下略) 又源氏窯にて飛鳥川の茶入を焼き、朝日窯にて焼きし茶入を朝日春慶と称す」とある。
瀬戸は瀬戸川の谷に成立した町だが、左岸(南側)は谷奥から洞・郷・南新谷と順次シマが開けた。郷の中心に小高い山があり、古くは経塚山・城見山と呼ばれ、大正時代に八十八ヵ所霊場が開かれて弘法山とも愛称されるようになった。この山稜東斜面に北から経塚山東・朝日下・朝日古窯跡と3基が分布している。この内朝日・朝日下窯跡はいずれも窯跡は滅失するが15~16世紀代の施釉陶器が出土する。経塚山東窯はその西に位置する経塚山西古窯跡とともに、明和七年(1770)に川本治兵衛・同半助らによって再興された地方文書が残された窯跡である。
夕日窯
ゆうひがま
『をはりの花』の瀬戸古窯の名称の中に朝日窯、夕日窯など30あまりの窯名が記載されているが、その他の詳しい説明はない。
瀬戸の郷シマの経塚山に瀬戸川を挟んで相対する庚申山(幕末に春慶翁碑が建設されて藤四郎山、藤四郎公園と呼称されるようになった)があり、いつの頃からか、経塚山の朝日窯に対し夕日窯と呼ばれるようになった。ここには春慶が退隠して住んだ禅長庵が在ったということで、藤四郎窯跡ともいわれてきた。
瀬戸市の遺跡詳細分布調査によれば、この藤四郎公園(瀬戸公園)内には石段登り口左に、夕日窯2基その上段に日影窯、上段の東斜面に夕日3号・同4号窯が分布している。窯跡はいずれも滅失しているが、夕日窯は16世紀代、夕日3・4号窯はいずれも19世紀代の施釉陶の物原を残している。
瀬戸六作・十作
せとろくさく・じゅっさく
瀬戸六作とは、永禄六(1563)年に織田信長によって選ばれた瀬戸の名工6名のこと。瀬戸十作とは、天正十三(1585)年に古田織部によって選ばれた瀬戸の名工10名のこと。
『をはりの花』に世人の瀬戸六作と称するは永禄六年(1563)織田信長瀬戸に来りて六人の名工を撰ししものにして、各製品には左の印款を刻すとして記載する。
加藤宗右衛門 春永と号す (鍵印) 加藤長十 (松葉印)
俊白 一に宗伯 (丸印) 新兵衛 (丁印)
加藤市左衛門 春厚と号す (角印) 加藤茂右衛門 徳庵と号す (十印)
さらに、世人の瀬戸十作と称すは天正十三年(1585)古田織部正重然(一に重勝)瀬戸に来りて十人の名工を撰ししものにして各製品に左の印款せり
元蔵 (一) 丈八 (イ) 友十(丸一) 六兵衛(セ) 佐助(蕨)
半七 (七) 金九郎(丸十) 治兵衛(サ) 八郎次(カ) 吉右衛門(山)
また、『尾張名所図会』中の六作十作の事に、「永禄六年信長公国中巡覧の節、瀬戸名家六作といえるを定めたまう。また天正十三年古田織部正重勝名家十作といえるを定められる。其名印ども左の如し。六作のうち市左衛門の子孫、今の加藤清助なり、吉左衛門・民吉・唐左衛門等みな清助の別家なり」とある。
鹿乗橋
かのりばし
瀬戸市鹿乗町~春日井市高蔵寺町2に架橋
旧下水野村入尾(鹿乗町)と対岸玉野村(春日井)の間には玉野川(庄内川)が流れ、現在の鹿乗橋のやや下流を「モトハシバ」といい簡単な板橋が架かっていた。昔は渓谷美あふれた景勝地で文人墨客が遊ぶ「白鹿館」や「三宅邸」などの瀟洒な料亭が在った。
明治43(1910)年に鉄のアーチ橋が架けられた。明治期に架設された13橋の鋼アーチ橋の一つで現存するものが殆ど無い貴重なものである。昭和23(1948)年に元橋を骨組にしてコンクリートを巻いた、要するに鉄骨鉄筋コンクリートの橋に造り替えた。その時斜材(ラチス)を撤去しており、現在は垂直材のみとなっている。その際の工事について銘板に「架設後四十年以上になり、鉄骨が腐食し、強度が半分の五十五%までに低下した。そのため、鉄筋コンクリートにて被覆し補強した」とあり、工事は愛知県直営で行われた。景勝地の橋であったために、橋面上に構造部材が突出していない上路式のアーチタイプにしたこともうなずける。(『保存情報Ⅰ』)
陶元座
とうげんざ
瀬戸市深川町
大正時代の瀬戸には、陶元座・栄座・大正館・歌舞伎座・末広館の五つもの芝居小屋・演芸場があり、陶都瀬戸の職人・庶民の娯楽の場として賑わった。
明治時代の深川神社参道には陶元座が在った。ここには古くから小さな芝居小屋が在ったが、明治20(1887)年頃に火災で焼失してしまった。その後、実業家の加藤杢左衛門が同27(1895)年に私財で新築落成したのが陶元座である。この芝居小屋も同34(1902)年の旧正月に火災で全焼したが、翌年には再建されてこけら落としに尾上梅幸が来瀬している。昭和2(1927)年にタタミを椅子席に替え、映画専門の「深川館」と改称して戦後まで続いた。
歌舞伎座
かぶきざ
瀬戸市滝之湯町
大正15(1926)年に瀬戸町の西郊の滝之湯に歌舞伎座が誕生した。こけら落としに中村吉衛門が来瀬した。2階はマス席、1階は椅子席であった。昭和に入って「瀬戸劇場」と改称したが、戦時中に終業した。
記念橋交番
きねんばしこうばん
瀬戸市南仲之切町
昭和14(1929)町3月に旧瀬戸市役所に併置されていた瀬戸警察署が東吉田町に新庁舎を建設移転した。そのため新たに陶磁器陳列館東に「蔵所派出所」として設置(同年4月)した。やき物の町にふさわしい神明造りの屋根瓦は織部焼で葺き(同時期に建設された名古屋市役所の屋根瓦に使用された同じ瀬戸瓦といわれる)、警察署の表札マークは黄瀬戸焼きで作成された。
久米邸
くめてい
瀬戸市朝日町
近代瀬戸窯業を代表する川本枡吉家旧別邸で、建造年代は固定資産台帳には居宅・倉庫が明治41(1908)年とあり、建築的にみて現存する主家と土蔵が相応するものであろう。年代的に2代川本枡吉に当たり、初代の養子に入り明治19(1886)年に2代を襲名した。初代に続き磁器改良に取り組み、瀬戸で有数の窯元に成長させるとともに、瀬戸町長、瀬戸陶磁工商工業組合長などを勤め大正8(1919)年に没した。
陶生病院勤務の眼科医久米逸郎氏は、戦後この別邸を購入して昭和23年に眼科医を開業する。昭和55年に閉院、平成13年に居住者が逝去したが、町おこしの観点から建物を残すべく平成16年に土蔵を雑貨店、主屋を飲食店として再利用することになり旧久米邸と称して現在に至る。
敷地は南に下る急傾斜地にあって、東側に門を構え、敷地中央に南面して主屋が建つ。主屋は木造2階建、寄棟造、桟瓦葺の建物で1階6間、2階2間であるが診療所時代の改築がなされている。旧久米邸は、平坦な土地の少ない瀬戸における近代の居宅の屋敷構えをよく残す。主屋は間取りや東半のツシ2階の構成に近世の、座敷部分の本2階の構成に近代の特徴を示す。瀬戸の近代和風建住宅の年代的な指標となる遺構である。
(『愛知県の近代和風建築』)
瀬戸永泉教会
せとえいせんきょうかい
国登録文化財
平成22年4月28日指定 所在地 瀬戸市杉塚町
所有者 瀬戸永泉教会
文化財 木造平屋建・切妻造・瓦葺
時代 明治33年建造、昭和5年改修
文化財に登録された礼拝堂は、瀬戸永泉教会(プロテスタント長老派)において礼拝を行う中心的な建造物である。明治33年(1900)の創建で、昭和5年(1930)に正面六角形のステンドグラスや正面・側面の上部半円形飾り窓を取り付ける等の改修工事を行っている。木造平屋建で桁行6間・梁間4間の比較的小規模な瓦葺建物である。屋内天井部分には洋風建築に見られるトラス構造と、土蔵等に多く見られる和小屋状の貫の構造が組み合った和洋折衷の特徴が見られる。
移築せず現存する明治期の教会建築は県内には少なく、創建から今日まで基本構造が変わらず教会堂として活動する本礼拝堂は大変貴重な文化財である。