昔田窯跡

むかしだかまあと


瀬戸市穴田町
 室町時代後半になると、瀬戸窯はそれまでの地下式の「窖窯」から半地上式の「大窯」へと窯構造が変化する。この大窯は窖窯と同じく焼成室が単室であるが、地上式になることのよって天井壁が高くなり、窖窯に比べて容積が大きくなる。現在、瀬戸市内に確認された大窯は24基にのぼる。
 昔田窯跡は上水野地区穴田町の水野川右岸(北側)丘陵地裾野に所在し、昭和43年に大窯としては最初の学術調査発掘された窯跡である。調査によって、窯体は全長8m、焚口と焼成室の間には分炎柱の奥に段を作り、その手前に小分炎柱を並べまさに「格子間」を設けている。さらに焼成室の高い天井を支える窯支柱が3本建てられ、床や焼成室下段には平らな石を使用している。これらは従来の窖窯には見られない大窯独特の構造であり、容量の増加に対応するためにより効率良く燃焼するなどの工夫や窯炉の改善であると考えられる。出土品は古瀬戸後期様式の器形に加え、丸碗・印花小皿・徳利・花入れなどが新たに焼かれ、さらに天目茶碗・擂鉢などは新しいタイプのものが出土している。本窯は、瀬戸・美濃を通じて最古の大窯といわれており、16世紀前葉に編年されている。出土品は天目茶碗・小皿類・擂鉢を中心に徳利や花入れなどがみられ、16世紀前葉に編年されている。
 この他、平成15年に行われた試掘調査では、新たに典型的な窖窯構造の窯体と、窖窯と大窯の過渡的な形態をもつ窯体が検出され、同一斜面で窖窯末期から大窯への変遷が確認できる貴重な事例となった。

月山古窯跡

つきやまこようせき


瀬戸市定光寺町
 旧沓掛村の古刹定光寺の山門正面に標高167mの小丘陵「檜山」(江戸時代の村絵図には「筑山」とある)の南斜面に窯は在る。昭和58年に市史編纂のための発掘調査が行われた。昭和34年の伊勢湾台風により窯体の大部分が流出してしまい、58年の発掘調査では、焼成室床面の一部が残存するのみであった。残存する焼成室の床面の幅は下端で最大の3.3m、上端で最小の1.65mであった。床面の傾斜は35度前後とかなり急傾斜である。天井支柱の痕跡も2本認められた。
 灰原は極めて残りが良く、最大で2m厚の堆積が確認された。出土遺物には各種碗類、皿類、徳利、擂鉢、建水、水指などがあり、月山窯は16世紀後半に創業された大窯成熟期の窯であることが判明した。この時期の大窯製品の特色としては、天目茶碗・茶入・建水など茶陶類が卓越することで、月山窯でもこうした器種が大量に出土している。
(参考文献 「瀬戸市史・陶磁史篇四」)