第2次世界大戦の戦時下の窯業は、軍需工業への重点的生産強化により転換を余儀なくされた。燃料や軍事物資、特に金属の不足が目立った。それにより、硬貨も金属品の代替品として陶製のものが考案された。それが陶貨である。しかし、実用の一銭硬貨製造に成功したのが終戦前夜であったため、完成した1,300万個(トラック2台分)の陶貨は世に出ることなく廃棄され、ついに「幻の一銭陶貨」となってしまった。
カテゴリー: 文化・文化財
山口合宿
やまぐちがっしゅく
豊田市の猿投神社の例祭は、かつては旧暦9月9日の行われ、三河、尾張、美濃の180あまりのムラが飾り馬を奉納したことで知られている。それぞれのムラは地域ごとで奉納の単位を作っており、これを合宿と呼んでいる。山口村を中心とする山口合宿には11か村が加入していたという。合宿に参加するムラは、その時々で変遷している。幕末から明治初め頃の状況は菱野郷倉文書で知られているが、それによれば、山口、菱野、本地、今村、狩宿、井田、瀬戸川の7か村である。「猿投山旧記」には、そのうちの山口が「前馬」、今村が「抑え」と記されている。
伊藤九郎左衛門碑
いとうくろうざえもんひ
瀬戸市城屋敷町
今村慶昌院西の一角木立の中に「棒の手碑」と呼ばれる3基の石碑が建つ。
「伊藤九郎左衛門貞則碑」 明和三年(1766)丙戌孟春日
「横山幸右衛門重利碑」 文化三年(1806)丙寅季秋
「勝法先生之碑(横山幸吉)」 明治十三年(1880)庚辰年三月六嗚
旧今村地区は棒術(棒の手)が盛んで、特にその流派は検藤(けんとう)流・藤牧(ふじまき)流で、伊藤貞則の門人一千余人、その弟子と思われる横山幸右衛門重利の門弟八百余人、時代がやや下がるが勝法先生のあとを継ぐ者七百人余と碑文にあるから相当な隆盛が偲ばれる。
もともと愛知・春日井両郡は棒の手が盛んであったが、当石碑はその系譜を知る貴重な資料である。
上品野村創陶碑
かみしなのむらそうとうひ
瀬戸市上品野町
旧上品野村の氏神稲荷社の境内の一角に石柵に囲まれ、石を積み上げた小塚に「磁器創業之碑」がある。高さ175cm・幅97cm。碑文の冒頭、上品野村創陶碑 正三位公爵徳川義禮築額とある。以下漢文で江戸時代には陶業者の無かった村に、明治時代に入ってまず長江松十・長江兵蔵・長江惣七・加藤文右衛門の4人が築窯を願い出た。明治5(1872)年4月、京風磁器生産を試みたが失敗した。改めて、深見作介・長江惣吉が改良を加えて成功したのは同9(1876)年5月のことであった。この碑が建立された当時には40戸の窯屋、千余人の商工者が栄える礎は4人にあると称えている。明治四十年(1907)三月 愛知県事務官従五位勲五等鈴木隆撰 愛知県属大島徳太郎書とある。裏面にはその40余戸の商工業者の名が刻まれている。
同年5月26日に除幕式が行われたが、「来賓は鈴木本県事務官、大塚商工課長、乾東春日井郡長、県会議員、新聞記者等約百二十名にして、同村長柴田要助氏の式辞に次いで新官の祓式・祝祠・玉串奉上、祝辞、発起人水野佐兵衛氏の答辞を以て同三時過式を終りたるが、余興には投餅・煙火・棒の手・手踊り・大弓等種々の催しあり、瀬戸町初め近村より来集する者多く、頗る盛況なりし」(「新愛知」新聞)
現在も「陶祖まつり」の日にはその子孫が集まって供養祭が行われている。
山口郷土資料館
やまぐちきょうどしりょうかん
先祖が心血注いで築き上げた文化・文化財を後世に残し、未来に向けて皆で学び楽しむ場所として、平成8年に山口自治連区の独自な活動により設立された。猿投山麓のこの地は、古墳が散在し出土品も数多く、それらを「やまぐちのあゆみ」「瀬戸窯業発祥の地やまぐち」等のコーナーで陳列し、山口の歴史を紹介している。さらに やまぐちの史跡・名所・歳時記・昭和初期の農家の暮らし・当時の農機具・自然豊かな山口の四季折々の草花昆虫鳥などを紹介しており、二階正面には「秋の大秋 警固祭り」の等身大の模型を展示、映像コーナーでもお祭りの様子など伝統行事の継承、保存の役割を果たしている。
王子窯
おうじがま
瀬戸市王子沢町
洞の王子窯は11連房(戦前は14連房)の登り窯(全長70m・幅10m)であった。一の間が畳14畳大、最上段の十一の間は24畳大の広さがあった。時代の波には勝てず、昭和43年5月3日午前8時最後の火入れとなった。30人の職工が9ヶ月かかって製造した擂鉢・甕など15万個が窯詰めされた。焼き手は加納広之・敏之さん親子ら5人があたった。1週間焼き続けた松割木は1万束(燃料代は180万円)であった。こうした本業窯は1戸の経営ではなく、窯株を持った何人かの窯組合で経営してきた。時には1房を半々で所有したり、王子窯の最上段は2軒で二分・八分に仕切り、「八分窯」と称したこともあった。こうしたことも時代に合わなくなったのである。窯出しは同月18日から行われた。この最後の工程を記録した瀬戸の映像作家加藤雅巳氏が制作した「王子窯」(21分)がその年のカンヌ映画祭入賞、カナダ国際コンテストでグランプリを獲得一躍有名になった窯である。
陶磁器陳列館
とうじきちんれつかん
瀬戸市蔵所町
明治16(1883)年に設立された「瀬戸陶器館(舜陶館)」であったが、時勢の進運につれてこの建物も狭隘となった。そこで、東隣りの瀬戸警察署が陶本町に新築移転した跡の空き地に大正3(1928)年1月に起工、同年6月30日に新館が竣工した。これが戦後まで活動した「陶磁器陳列館」である。木造2階建(各階50坪)、総工費1万500円での洋館であった。新館では各種陶磁器の陳列と即売に当てられ、階下に参考品を陳列し、階上に貴賓室や会議室に使用した。そのため「参考館」と呼ばれるようになった。そして階下の一室に瀬戸陶磁工商同業組合事務所を置き、これらの建造物を管理した。同業組合の前身は「瀬戸陶磁工組」(明治18年9月設立)であるが略して「磁工組(じこうぐみ)」と呼ばれていた。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
昭和32年、ここにあった市役所が新庁舎に移転した際、陳列館の建物は池田丸ヨ製陶株式会社に一括払い下げられ、解体され南仲切町に移築復元された。規模は縮小されたが、当時のモダンな洋風工法を残している。現在では瀬戸市新世紀工芸館の展示棟にその面影を見ることができる。
萩御殿
はぎごてん
瀬戸市萩殿町
明治後期の愛知県の2大公共工事は名古屋港築港工事と庄内川(矢田川)流域の砂防工事であったといわれる。瀬戸町と山口村の境にあった小高い丘陵上は砂防工事が見渡せる場所にあったので、多くの工事関係者・視察者が利用した。粗末な小屋が建てられたが、萩をもって小屋周りを囲ったのでいつしか「萩の茶屋」と呼ばれるようになった。
明治43(1908)年11月に東宮殿下(後大正天皇)が師団演習視察に来名、その折瀬戸へ行幸された。そして萩の茶屋において親しく砂防工事をご覧になり、若松のお手植があった。その光栄を記念するため、萩の茶屋を「萩御殿」と呼ぶようになったという。周辺には明治末期から大正時代の記念植樹の標柱が残されていたが、萩御殿の小亭とともに朽ち果ててしまった。せめてゆかりの地として後の町名設定に「萩殿町」の名が付けられた。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
ホフマン砂防構
ほふまんさぼうこう
瀬戸市東印所町
瀬戸市東印所町地内の愛知県有林に欧州式治山工事遺構(「ホフマン工事」)が保存されている。
明治時代の近代陶磁器産業の発展は、瀬戸周辺の陶土採掘や燃料となる樹木の伐採が盛んになっていった。そのため、瀬戸地方(矢田川流域)の山林荒廃が進み、土砂崩れなど自然災害が増大していった。そこで、明治38(1905)年に東京帝国大学(東京大学)のお雇い外国人教師アメリゴ・ホフマンの指導により、瀬戸市東印所において近代的砂防工事が6年間にわたって実施された。ホフマン工事の概要を説明する冊子(愛知県発行)には、「崩壊した山腹の斜面には手を加えず自然のままに放置し、降雨時に山腹面より流出する土砂礫は、土堰堤や柳柵で抑止して堆積させ、山腹の自然勾配と渓流部の安定を図ることによって、植物の自然的導入を促すことを目的としたものである。」と記されている。こうしたホフマン工法は後年では様々な批判もされているが、今日の砂防技術の基礎を築き、その発展に寄与した。
(参考 東京大学愛知演習林長柴野博文「ホフマン工事とアメリゴ・ホフマン」)
丸一国府商店
まるいちこくぶしょうてん
瀬戸市栄町
明治維新の廃藩置県により解散した犬山藩の藩主成瀬正肥は、家臣救済のため下賜金八千円を用意した。家臣はこの下賜金を元に明治5(1872)年印刷業や陶器販売業を手がける丸一商店を設立した。屋号は成瀬家の家紋に因んだもので、店は名古屋市大曽根に設置された。陶器販売拡大のため、明治20(1887)年に瀬戸市朝日町に仕入れ部を設立した。経営は順調で、明治38(1905)年に瀬戸電気鉄道(後名鉄瀬戸線)の瀬戸―矢田間が開通(同44年には堀川まで延長)したのを機に、尾張瀬戸駅に近い栄町に陶器部の移転と建設を企図した。現存する木造2階建一部4階建ての建物は明治44(1914)年に完成したという。以後、世界恐慌や第2次大戦で経営困難となり、昭和22年に当時の番頭だった国府家が店を譲り受けて丸一国府商店となり今日に至った。
建物は2階建ての町屋建築に望楼を載せた形態で犬山城天守を模したものと伝える。1階は東側1間半を土間とした町屋の形式に則り、土間境に大黒柱を立て、土間奥は吹き抜けとする。ただし同店に残る創業当時の写真によれば、和風の外観とは対照的に見本を並べた1階店舗は洋室であった。2階は中廊下をはさんで北側に洋室、南側には8畳間2間続きの座敷と6畳間(女中部屋)がある。階段は西端に2ヶ所、東端に箱階段と3ヶ所が設けられた。内法高さほどの中3階を経て、望楼状の4階には8畳間を設ける。数奇屋風の意匠で、床脇には丸窓を開け、東・南2面に縁を廻し、鉄製の手摺は建造当初のものである。平成15年からの道路拡張で東に8メートル、北に14メートルほど曳家して改修がなされた。往時の様子を伝える建物として貴重であり、景観の核となっている。
(『愛知県の近代化遺産』)