伊藤九郎左衛門碑

いとうくろうざえもんひ


瀬戸市城屋敷町
今村慶昌院西の一角木立の中に「棒の手碑」と呼ばれる3基の石碑が建つ。
「伊藤九郎左衛門貞則碑」  明和三年(1766)丙戌孟春日
「横山幸右衛門重利碑」   文化三年(1806)丙寅季秋
「勝法先生之碑(横山幸吉)」 明治十三年(1880)庚辰年三月六嗚

旧今村地区は棒術(棒の手)が盛んで、特にその流派は検藤(けんとう)流・藤牧(ふじまき)流で、伊藤貞則の門人一千余人、その弟子と思われる横山幸右衛門重利の門弟八百余人、時代がやや下がるが勝法先生のあとを継ぐ者七百人余と碑文にあるから相当な隆盛が偲ばれる。
もともと愛知・春日井両郡は棒の手が盛んであったが、当石碑はその系譜を知る貴重な資料である。

上品野村創陶碑

かみしなのむらそうとうひ


瀬戸市上品野町
 旧上品野村の氏神稲荷社の境内の一角に石柵に囲まれ、石を積み上げた小塚に「磁器創業之碑」がある。高さ175cm・幅97cm。碑文の冒頭、上品野村創陶碑 正三位公爵徳川義禮築額とある。以下漢文で江戸時代には陶業者の無かった村に、明治時代に入ってまず長江松十・長江兵蔵・長江惣七・加藤文右衛門の4人が築窯を願い出た。明治5(1872)年4月、京風磁器生産を試みたが失敗した。改めて、深見作介・長江惣吉が改良を加えて成功したのは同9(1876)年5月のことであった。この碑が建立された当時には40戸の窯屋、千余人の商工者が栄える礎は4人にあると称えている。明治四十年(1907)三月 愛知県事務官従五位勲五等鈴木隆撰 愛知県属大島徳太郎書とある。裏面にはその40余戸の商工業者の名が刻まれている。
 同年5月26日に除幕式が行われたが、「来賓は鈴木本県事務官、大塚商工課長、乾東春日井郡長、県会議員、新聞記者等約百二十名にして、同村長柴田要助氏の式辞に次いで新官の祓式・祝祠・玉串奉上、祝辞、発起人水野佐兵衛氏の答辞を以て同三時過式を終りたるが、余興には投餅・煙火・棒の手・手踊り・大弓等種々の催しあり、瀬戸町初め近村より来集する者多く、頗る盛況なりし」(「新愛知」新聞)
現在も「陶祖まつり」の日にはその子孫が集まって供養祭が行われている。

陶貨

とうか


第2次世界大戦の戦時下の窯業は、軍需工業への重点的生産強化により転換を余儀なくされた。燃料や軍事物資、特に金属の不足が目立った。それにより、硬貨も金属品の代替品として陶製のものが考案された。それが陶貨である。しかし、実用の一銭硬貨製造に成功したのが終戦前夜であったため、完成した1,300万個(トラック2台分)の陶貨は世に出ることなく廃棄され、ついに「幻の一銭陶貨」となってしまった。

山口合宿

やまぐちがっしゅく


豊田市の猿投神社の例祭は、かつては旧暦9月9日の行われ、三河、尾張、美濃の180あまりのムラが飾り馬を奉納したことで知られている。それぞれのムラは地域ごとで奉納の単位を作っており、これを合宿と呼んでいる。山口村を中心とする山口合宿には11か村が加入していたという。合宿に参加するムラは、その時々で変遷している。幕末から明治初め頃の状況は菱野郷倉文書で知られているが、それによれば、山口、菱野、本地、今村、狩宿、井田、瀬戸川の7か村である。「猿投山旧記」には、そのうちの山口が「前馬」、今村が「抑え」と記されている。

ホフマン砂防構

ほふまんさぼうこう


瀬戸市東印所町
 瀬戸市東印所町地内の愛知県有林に欧州式治山工事遺構(「ホフマン工事」)が保存されている。
 明治時代の近代陶磁器産業の発展は、瀬戸周辺の陶土採掘や燃料となる樹木の伐採が盛んになっていった。そのため、瀬戸地方(矢田川流域)の山林荒廃が進み、土砂崩れなど自然災害が増大していった。そこで、明治38(1905)年に東京帝国大学(東京大学)のお雇い外国人教師アメリゴ・ホフマンの指導により、瀬戸市東印所において近代的砂防工事が6年間にわたって実施された。ホフマン工事の概要を説明する冊子(愛知県発行)には、「崩壊した山腹の斜面には手を加えず自然のままに放置し、降雨時に山腹面より流出する土砂礫は、土堰堤や柳柵で抑止して堆積させ、山腹の自然勾配と渓流部の安定を図ることによって、植物の自然的導入を促すことを目的としたものである。」と記されている。こうしたホフマン工法は後年では様々な批判もされているが、今日の砂防技術の基礎を築き、その発展に寄与した。
(参考 東京大学愛知演習林長柴野博文「ホフマン工事とアメリゴ・ホフマン」)

丸一国府商店

まるいちこくぶしょうてん


瀬戸市栄町
 明治維新の廃藩置県により解散した犬山藩の藩主成瀬正肥は、家臣救済のため下賜金八千円を用意した。家臣はこの下賜金を元に明治5(1872)年印刷業や陶器販売業を手がける丸一商店を設立した。屋号は成瀬家の家紋に因んだもので、店は名古屋市大曽根に設置された。陶器販売拡大のため、明治20(1887)年に瀬戸市朝日町に仕入れ部を設立した。経営は順調で、明治38(1905)年に瀬戸電気鉄道(後名鉄瀬戸線)の瀬戸―矢田間が開通(同44年には堀川まで延長)したのを機に、尾張瀬戸駅に近い栄町に陶器部の移転と建設を企図した。現存する木造2階建一部4階建ての建物は明治44(1914)年に完成したという。以後、世界恐慌や第2次大戦で経営困難となり、昭和22年に当時の番頭だった国府家が店を譲り受けて丸一国府商店となり今日に至った。
 建物は2階建ての町屋建築に望楼を載せた形態で犬山城天守を模したものと伝える。1階は東側1間半を土間とした町屋の形式に則り、土間境に大黒柱を立て、土間奥は吹き抜けとする。ただし同店に残る創業当時の写真によれば、和風の外観とは対照的に見本を並べた1階店舗は洋室であった。2階は中廊下をはさんで北側に洋室、南側には8畳間2間続きの座敷と6畳間(女中部屋)がある。階段は西端に2ヶ所、東端に箱階段と3ヶ所が設けられた。内法高さほどの中3階を経て、望楼状の4階には8畳間を設ける。数奇屋風の意匠で、床脇には丸窓を開け、東・南2面に縁を廻し、鉄製の手摺は建造当初のものである。平成15年からの道路拡張で東に8メートル、北に14メートルほど曳家して改修がなされた。往時の様子を伝える建物として貴重であり、景観の核となっている。
(『愛知県の近代化遺産』)

無風庵

むふうあん


瀬戸市窯神町
 第2次大戦後間もなく、藤井達吉が愛知県西加茂郡小原村鳥屋平(現豊田市)に13棟の宿泊小屋や共同工房を建設し、七宝・和紙工芸・陶芸などの工芸運動を進めながら「小原農村美術館」の建設を目指した。戦前から藤井に師事した瀬戸の亀井清市・水野双鶴・鈴木八郎らもそれに参加した。昭和25年12月まで共同生活が続けられた。
 昭和27年、百姓屋を移築して共同工房として使用された建物を陶芸家亀井清市・栗木伎茶夫・水野双鶴・鈴木八郎氏らの尽力で達吉と親交のあった当時の加藤章市長に寄贈されたものである。市街地を見下ろす御亭山(おちんやま)に移築された。草葺入母屋造りの旧建物は、「陶の路散策路整備事業」の核施設として全面的に改修され現在は茶室として活用されている。「夢風庵」の名称は、藤井達吉の雅号『夢風』に由来するもので芸術家村の当時から使用されていたものである。

山口堰堤

やまぐちえんてい


瀬戸市海上町・若宮町2
 市制準備を整えていた瀬戸町が、馬ヶ城水源地に貯水ダムと浄水場建設を発表したのは昭和2(1927)年のことであった。集水域が狭く、不足する水は尾根を越えた赤津川から導水管でまかなう計画であった。これを知った山口川流域(赤津川の下流)の農民(当時愛知郡幡山村)は、この河川を潅漑用水の取水源としていたので大騒ぎとなった。絶えず渇水に悩まされていたから、最上流部の旧山口村では「一滴たりとも他に引用することは一大事」と部落協議が続いた。『幡山村誌』には「4月30日夜、山口本泉寺で村民大会が開かれ、血気盛んな若衆から“むしろ旗を押し立てて県庁へ(用水確保の)農民一揆”が提案、決行が決議された。村内の要所要所にある半鐘を打ち鳴らした。これを合図に一戸一戸蓑傘姿、わらじ、股引、手弁当で集まり、むしろ旗を先頭に勢ぞろいした。村人達は堂々と西を指して出発した」とある。この騒動は結局失敗したが、これをきっかけにその後は再三瀬戸町役場と交渉、2区選出の樋口善右衛門代議士も仲介、渇水対策のための山口堰堤の建設が決まった。費用は全て県費を充て、瀬戸町も毎年1万円を堰堤管理費として旧山口村に支払うことが決まった。それからはむしろ積極的に建設に協力、幡山村から輪番で延べ数万人の人夫を出してついに昭和9(1924)年3月に完成した。総工費6万490円余、貯水量178立方キロメートル、広さ58平方キロメートル、高さ17.1メートル、利用水田568町歩の堰堤であった。
(資料「山口今昔」他)

窯垣の小径資料館

かまがきのこみちしりょうかん


瀬戸市仲洞町
 古くから窯元が集積した「洞町」、洞町の西の玄関口である宝泉寺の脇から洞町のほぼ真ん中に位置する白龍さんの祠までの約四百メートルに「窯垣の小径」が続く。「窯垣」とは登窯や石炭窯の焼成の際に使用するエンゴロ・ツク・タナイタなどの窯道具を用いた壁・塀などの総称である。幅一間ほどの小径を歩くと、家毎の工夫されて組まれた窯垣の幾何学文様、年月を経た自然釉の景色、窯元ごとの屋号の刻印などが目を楽しませてくれる。
 この窯垣の小径のほぼ中央に「窯垣の小径資料館」がある。資料館の建物は元本業焼の窯元であった寺田邸をほぼそのまま生かす形で改修したものである。母屋と離れの2棟からなり、明治3年に建築された建物である。東側の母屋は平屋で入母屋造、元は四の間造であったと思われるが、西側の「奥の間(8畳)」と「仏間(8畳)」は残されたが、東の「ニワ」部分、中の「お勝手」・「台所」部分は展示室等に改修された。付け足して造られた「浴室」は元本業タイルの窯元を偲ばせる修景されたものである。離れは木造2階建、8畳二間と土間の1階部分が休憩室及び展示してとして活用されている。渡り土間を敷き瓦で葺き、便所は染付便器と本業タイルで修景するなど往時を偲ばせる資料館となっている。(「窯垣の小径資料館」パンフ)

北川民次画伯アトリエ

きたがわたみじがはくあとりえ(きゅう もろあと)


瀬戸市安戸町
 メキシコとやきものの町・瀬戸をこよなく愛した北川民次画伯のアトリエ跡が瀬戸市中心部に近いところにひっそりと佇んでいる。
 元二科会会長を務めた北川民次は明治27(1894)年静岡県金谷町に生まれ、若くしてアメリカ・キューバ・メキシコに渡る。当時のメキシコの芸術運動の影響を受け、昭和11年に帰国、同18年夫人の出身地瀬戸に疎開する。以後25年間、隣の尾張旭市に引っ越すまでこのアトリエで制作した。画伯の代表的作品が生まれた時期である。
 アトリエは坂の多い斜面を切り開いたわずかばかりの平地に建っている。東西に細長い敷地の西側に住まい、そして東側にかつての「モロ(室=ムロ)と呼ばれた陶器工場を改造したアトリエがある。間口8間・奥行き4間、周囲に壁を巡らし、窓が少なく室内には殆ど柱がない。比較的建ちの高い平屋づくりと「モロ」としての典型的な大きさの建物である。当初、土間はタタキであったがアトリエとして使うときに板張に改造されている。大正10(1921)年頃に建てられた旧 窯のものである。
 老朽化も進み、建物自体の痛みがひどく一時は取り壊しの運命に晒されたが、画伯と親交があった人たちで守る会が平成6年に結成され、年2回春秋に一般公開しながら保存に努めている。(『保存情報Ⅱ』)