丸窯

まるがま


 「丸窯」は有田窯で発展した磁器焼成窯の構造・様式であった。江戸後期の加藤民吉の九州修業を機に瀬戸に導入された。明治以降、大型磁器製品を焼成する窯炉として巨大な連房式登窯に発展した。『登窯ニ関スル調査報告書』(昭和11年発行)の中で、黒田正作氏は「丸窯は瀬戸窯の構造ではなく、九州より導入した様式であって、なおその祖先は朝鮮半島である。この窯は概して大型で、大型物を焼成するように瀬戸で成長したものである。一室の大きさは、室幅2~2間半、長さ3~4間半、高さは9尺~1丈2尺に達している。丸窯の構造は堅固でであって、小窯のように度々修繕は不要である。以前は小窯のように、胴木間の次に捨間と呼ぶ一室があったが、長年の経験の結果、捨間は必要ないことを知り、これに代わる小窯の一室を付け製品を詰めて焼くようになった。丸窯の勾配は小窯に比して緩く、3寸勾配の窯が多かったという。」とある。
 さらに当時の稼動していた「池勝窯」と「山広窯」が紹介されている。「瀬戸池勝窯」は、二つの胴木間とその上の捨間、その上に一の間から五の間までの連房式丸窯である。全長は水平投影で26.8m、五の間の高さ3.74m・幅4.62m・長さ8.33mで中規模の丸窯である。もう一方の「山広窯」は大型で11連房もあり、十一の間は高さ4.45m・室の幅4.88m・室の長さ11.72mで池勝窯より一回り大きい。この丸窯の焼成は還元炎焼成で、池勝窯は年間3回焼成、一回の焼成時間は8日22時間を要した。また山広窯は年間5回焼成、一回の焼造時間は15日13時間を要した。
 明治41(1908)年には瀬戸には丸窯18基、昭和4年には16基が記録される。
昭和30年10月13日、最後の丸窯であった「加藤庄平窯」の火入れが行われた。日本大学映画部の記録映画が残されている。
(『瀬戸市史・陶磁史篇二』)