忠魂碑

ちゅうこんひ


瀬戸市仲切町
「町の中央中島にあり、砲弾形青銅碑にして高さ地上台石とも三十尺、明治二十七八戦役以来国家の為陣没せる忠魂義魄を合祀し毎月三月十日を以て祭事を行ふ。明治四十三年四月十九日陶祖祭の日を以て除幕式を挙行せり。」(『瀬戸町誌』)
最初は瀬戸川と一里塚川との合流点中島に西面して建てられ、裾を岩組みした高い土盛りの上に立っていたが、その後記念橋駅の地点へ移り東面した。それが更に現在のオチン山へ移転したのである。他は概ね石の記念碑が多い中で瀬戸は名古屋の記念碑に似た形式で立派と思う。日露戦争に従軍した水野甚蔵氏が戦友との約束に基き建設をされたものと聞いている(加藤庄三氏調査『金石林』)。正面に星印と「忠魂碑」と刻され、熱田兵器製造所製とある。八角型の石台(高さ151cm)と基壇(高さ97cm)が組まれ石工は大野木千次郎とある。
現在は御亭山に西面して石柵に囲まれ、狛犬一対(「日露三十年記念 昭和十年五月建之」と左右に献灯(「日露三十年記念 昭和十年七月建之」と6人の名前が刻される)が配置されている。その西側には昭和38年9月に建設された「殉国慰霊塔」が建っている。

忠魂碑
殉国慰霊塔

菱野城址

ひしのじょうあと


所在地 瀬戸市羽根町
 山口川(矢田川)の高座橋のやや下流左岸(南側)には、羽根屋敷と呼ばれる小高い台地状の土地がある。ここには戦国時代に林次郎左衛門が居城したとされる菱野城跡である。林次郎左衛門は永正十四年(1517)の菱野熊野社の棟札にもその名が残り、田幡(名古屋市北区)から狩宿・井田(尾張旭市)周辺まで勢力を伸ばして織田家の重臣も輩出したとされる。
 また別の考証では、鎌倉時代初頭に山田荘の地頭職をに補された山田重忠がこの地域を支配し、その後その係累の山田泰親・親氏兄弟が居城、城構えは東西三十九間・南北五十三間、土居・堀跡などの一部を残す現在地がそれという。山田泰親はその後上菱野に山口城を築造している。
 江戸時代の村絵図の西島城徳の地に「城主石碑」が描かれている。この石碑は現在北山墓苑に移築され、自然石に「古今常徳居士」と刻まれ、林次郎左衛門のこととされている。

陶原小学校御大典記念陶碑

とうげんしようがっこうごたいてんきねんとうひ


瀬戸市原山町
瀬戸市立陶原小学校は瀬戸市内で最初に誕生した小学校である。明治6年(1873)宝泉寺内の寺子屋が陶原学校として創立、同25年(1892)に瀬戸町立瀬戸尋常小学校に校名改称(蔵所校舎)、さらに同36年(1902)に瀬戸第1尋常小学校と改称そして同41年(1907)から校舎の一部を大字森(現在の愛知県陶磁器工業協同組合敷地内)に移転した(陶原校舎時代)。
大正4年(1915)の御大典記念事業として行われたのが、当時の六鹿鹿三郎校長の立案で陶原校舎玄関前に「終始一誠意」記念碑(陶製)の建立であった。同年11月一日の除幕式で完成した碑は「まごころの塔」とか「御大典記念碑」と呼ばれた。
制作は窯業学校日野厚氏のデザイン、陶芸家加藤春二(陶寿)氏が当たった。菊花16弁の形状で黄瀬戸で施釉、正面の「終始一誠意」板(5寸×2尺1寸)の文字は浮彫3分高白釉、丸型校章48個が装飾に貼り付けられた。高さ135cmの塔碑と基盤、セメントの土台が大石を積み上げた上に建立された。
大正13年(1924)8月の豪雨で一部校舎の流失・破損もあって大字権現(熊野町)に移転(この頃は瀬戸陶原尋常高等小学校)、さらに昭和44年に現原山町に新築移転したが、この記念碑もまた移築されている。

陶原小学校御大典記念陶碑

 

本地城址

ほんじじょうあと


所在地 瀬戸市西本地町1丁目
 旧本地村は現瀬戸市域の南西端に位置する。江戸時代の村絵図には氏神八幡社の南に古城跡が描かれ、「古城跡と申傳候場所屋敷畑等ニ相成、城主相分リ不申候」と記載される。『尾張志』には、城構えは東西三十五間、南北二十四間ばかりあり、東・北二方に堀の址いささか存れり、城主は松原平内なりとある。
 松原平内については、今村城主松原広長の叔父であり、文明十四年(1482)の安戸坂の戦いで広長と共に討ち死にしたと地元では伝えられている。
 現在は東側の堀部分が県道駒前線となり、堀や土塁などを地上から確認することはできないが、城跡西隣の崖下に「松原平内公本地城跡」の碑が建っている。

赤津城址

あかづじょうあと


所在地 瀬戸市小空町(字城前)
 赤津は古くは「飽津」と表した。江戸時代は大郷で瀬戸村に接し、東は戸越峠で三河と境し、北は濃州柿野村へ通じていた。上赤津に雲興寺(曹洞宗)、下赤津には万徳寺(真宗高田派)の古刹がある。万徳寺は今村城主松原広長の尊崇厚く多くの寄進物を保存し、死後葬られた松原塚も在る。
 古城跡については、江戸時代の絵図に「平家カハラ城址」が載る。周囲には城前・城畑・馬瀬などの地名も残る。城主は天正年間の「古城主覚記」に熊沢藤三郎居城ノ由と記し、また「織田信雄分限帳」に熊沢善左衛門の名を載せ赤津村を領したという(「日本城郭全集」)。その他の城主名や城の規模等は不詳である。

一色山城(水野城)址

いっしきやまじょう(みずのじょう)あと


所在地 瀬戸市川平町
 水野川が形成した水野谷は豊穣な地で早くから開け、中世の頃この水野上・中・下各郷にはそれぞれ一色・大平・入尾の城があった。この地域に深いかかわりをもつ水野氏が築城・城主となっている。
 一色山城は標高242メートルの山頂に在った典型的な山城で「水野城」「五万石の城」とも呼ばれた。寛政年間の村絵図には感応寺(臨済宗・定光寺末)から沓掛道を登る城ガ嶺に城跡を描く。また『張州府志』には「天文八己亥年、同邑一色山城主磯邑左近」の記載がある。治承・寿永の頃(12世紀末)入尾城を築いて城主となったのは水野景貞・景俊父子であった。景俊の孫である高康とその子有高、後に品野城に移ったとされる大金重高らが鎌倉時代には居城した。戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられている。

阿弥陀ヶ峰城址

あみだがみねじょうあと


所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺境内)
 信州飯田街道が瀬戸村追分で三州小原道と分岐して安戸坂を登って下品野村八床に向かう。大松山全宝寺(曹洞宗・元阿弥陀堂と呼ばれ創建不詳)は信州飯田街道の入り口にあって、地蔵堂(江戸時代造の石地蔵祀る)や庚申堂(文化十年銘青面金銅像祀る)を持つ。
 文明十四年(1482)5月、応仁の乱の余波として細川方品野に勢力をもつ桑下城主・永井(長江)民部と山名方今村城主・松原広長との間で合戦が開かれた。品野勢は品野の南端阿弥陀ヶ峰に城砦を築いて陣取った。今村勢は松原広長を総大将に赤津・山口・本地・今村城などの兵力を集めて安戸坂を攻め上ってきた。この地を陣屋河原という。大槙山(全宝寺西の丘陵地帯)の戦いで今村勢は追い落とされ、若狭ヶ洞での戦いで品野方が大勝した。「広長戦死の地を殿死洞といひ、兜の落ちたる所を兜洞とよぶ」(「寛文記」)。阿弥陀ヶ峰城は武士の居城ではなく、砦としての一時的軍事拠点であったと考えられ、小高い全宝寺境内地がその故地である。

南山城址

みなみやまじょうあと


所在地 瀬戸市南山口町
 「日本城郭全集」には旧山口村字南山の山上に城跡があるとしている。「城坂の上にかまえ跡あり、山の上四方越堀、樫垣(かしがき)を付置、今跡あり、山田伊豆守この中に屋敷二十四間構えに居住なり。大川つきあて崩れ、南山薬師西、欠の上に殿を造る」とある。山田伊豆守とは承久の乱(1221)で戦死した山田重忠の子重継のことで、父と共に嵯峨野で戦死している。明確な城跡の痕跡は不明である。

今村城址

いまむらじょうあと


所在地 瀬戸市共栄通
 旧今村は現在の瀬戸市域の西端にある。江戸時代の『張州雑志』には「此村、古へ横山ト云、後改之」とあり、古くは「横山」と呼称したようである。今村は4区に別れ、瀬戸川左岸に寺山嶋と市場嶋でここが本郷、北の右岸側が川西島・北脇島が在って名古屋から飯田に結ぶ信州飯田街道が通る。
 今村城(松原城ともいう)は市場嶋に在り、氏神八王子社の西の池は当時の堀跡である。周囲には城屋敷・廓屋敷・出口・矢下などの地名を残している。文明年間の頃の城主は松原広長で、城は東西六十間、南北六十間、四方一重堀、南面のみ二重堀であったとされる。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。松原氏は広長の父吉之丞の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、飽津(赤津)へ移った。広長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、品野城の長江(永井)民部との戦いで敗れた。

本城ヶ根城址

ほんしろがねじょうあと


所在地 瀬戸市城ヶ根町
 江戸時代の美濃野池村は現瀬戸市域の18カ村中面積も戸数も最小の村であった。寛政年間の村絵図には北の今村境に「城カネ山」が描かれ、「古城跡ト申傳之場所御座候得共誰之城跡とも相知不申候」と記載するがそれ以上は不明である。