品野の又サ

しなののまたさ


伝承地 瀬戸市西谷町
 西谷(にしたに)の墓地に「品野の又(また)治郎(じろう)」と、彫(ほ)ってある墓石(ぼせき)があります。
 この品野の又治郎という人は、たいそう変わった人でした。
「ああ、酔(よ)った。酔った。今日も朝からよう飲(の)んだなあ。つぎは、どこで酒を飲もうかなあ。」
と、もじゃもじゃの頭をかきながら、ぼろぼろの着物を着て、又治郎はぶらりぶらりと町の中を歩いています。
 子どもたちは、又治郎を見ると、
「品野の又サが来た。又サが来た。こわいよう。」
と、言って逃(に)げ出します。
 けれど、又治郎は決して悪い人ではありません。いつも酔っぱらってまっ赤になり、きたないかっこうをして近寄ってくるので、子どもたちはこわがって逃げるのです。
 そこで、子どもがわがままを言って泣きやまないときは、
「それ、品野の又サが来るぞ。」
と言うと、泣いていた子どももぴたりと泣きやんだそうです。
「今日は、あそこで嫁入(よめい)りがあるそうじゃ。酒が思いっきり飲めるぞ。昼からは、その向こうで葬式(そうしき)だ。そこでも存分に飲んでやろう。」
と、又治郎は不思議(ふしぎ)に、いつ、どこで嫁入りがあるのか、どこで葬式があるのか、よく知っています。又サが来ない嫁入りや葬式は、まずないといっていいくらいです。
 だから、
「坊さんが来ても、又サが来ないと葬式にならない。嫁さんが来ても又サが来ないと結婚式にならない。」
という人もいるほどでした。嫁入りの家は、又サにお酒をわたしました。
 嫁入りや葬式があっても、又サが来ない家では、
「又サは、どうして来ないのだろう。うちにだけ来てくれないんだろうか。」
と言って、不安に思う人もいました。
 又サは、いつも酔っぱらっていました。朝も昼も夜も、酔っぱらっていました。
 こういう有様だったので、又サは瀬戸の名物男になりましたが、又サがどこに住んでいるのか、人々は知りませんでした。
 こんなに名物男(めいぶつおとこ)の又サは、もう何十年か前のとても寒い晩(ばん)に、酔っぱらって窯(かま)の中で寝ているうちに、死んでしまいましたので、町のだれかがお墓を作ってとむらいました。今でも子どもの夜泣(よな)きが止まらないと、又サのお墓にお参りに行く人があり、たいそうご利益があるとのことです。
 又サのお墓には、今でも線香(せんこう)の煙(けむり)が絶(た)えることなく、ときにはお酒も供(そな)えられています。

神明の小女郎ぎつね

しんめいのこじょろうぎつね


伝承地 瀬戸市新明町
 むかしむかしのこと、新明(しんめい)というところに、小女郎ぎつねという女(おんな)きつねが住んでおったと。この小女郎ぎつねは、通りすがりの馬方(うまかた)(むかし、車のないころに、荷物などを運ぶ馬を引いていく人のこと)をたちに、いたずらをしては、おもしろがっていたそうじゃ。
 ある日のこと、ひとりの馬方が荷物を赤津の方から瀬戸へ運んで行ったその帰り道、だんだん日が暮(く)れかかって辺(あた)りが薄暗(うすぐら)くなったころ、山道にさしかかったと。すると、向こうの方から見たことのないきれいな女の人が、とぼとぼと歩いて来て、
「日が暮れて困っています。どうぞ助けてください。」
と、頼んだそうじゃ。
「こんなところを、女がひとりで歩いているのはおかしいぞ。これは小女郎ぎつねにちがいない。」
と、女の人の後ろを見ると、なんと太(ふと)いきつねのしっぽが、にょきっと生(は)えていたと。
「やっぱり、そうか。」
 そこで馬方は、小女郎ぎつねをこらしめてやろうと、だまされたふりをしていたそうな。そんなこととも知らず小女郎ぎつねは、馬方に、
「足が痛(いた)くてたまりません。どうか馬に乗せてください。」
と、頼んだそうな。
「それはお困りでしょう。さあ、どうぞお乗りなさい。」
と、言って馬方は、その女の人を馬に乗せてやったと。
そして、その女の人が馬から下りられないように、しっかりと鞍(くら)(馬や牛などの背(せ)につけて、人や荷物を乗せるもの)にしばりつけてしまいまったと。
女の人はびっくりして、
「わたしが悪うございました。わたしはきつねです。これからはいたずらをしたり、人をだましたりしません。どうかおゆるしください。」
と、泣(な)いて頼んだけれど、馬方は許さなんだと。小女郎ぎつねは、もう一度
「馬方さん、どんな願いでもかなえてあげますから、縄(なわ)をといてください。」
と、頼んだと。
どんな願いでも聞くと言われた馬方は、前から一度侍(さむらい)になって、いばってみたかったので、
「わしを、侍の姿にしてくれるなら、ゆるしてやる。」と、言ったと。
 そのとたん、みすぼらしい姿の馬方はそれはそれは立派(りっぱ)なお侍の姿にかわったと。
願いかなって侍姿になった馬方は、小女郎ぎつねを逃(に)がしてやると、馬にまたがり大いばりになって家に帰ったそうな。馬方は、姿が侍になって、きゅうに自分がえらくなったように思ったんじゃな。
 ところが、家についてみると、すっかり元の馬方の姿に戻っていたそうな。
馬方はだまされたことを知って、じだんだ踏(ふ)んで悔(くや)しがったということじゃ。

節句の鯉のぼり

せっくのこいのぼり


伝承地 瀬戸市宮脇町
時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
五月には、男の子が強く、たくましく育つようにという願いをこめた端午(たんご)の節句があります。だから、昔から男の子がいる家では、のぼりを立てたり、武者人形を座敷(ざしき)にかざったり、お餅をついたりしてお祝いをします。しかし、深川神社のそばの宮脇町あたりでは、不思議(ふしぎ)に五月の節句になってものぼりを立てる家はありません。それには、こんなわけがあるからです。
四百年ほど前(千六百年ごろ)、豊臣(とよとみ)方(かた)と徳川方の軍勢(ぐんぜい)が長久手(ながくて)村でいくさをしました※1。このいくさでは、はげしくやりで腹を刺されたり、刀で背中を切られたりして、両方の侍(さむらい)がたくさん命を失(うしな)いました。負けた豊臣方の一人の侍が、傷(きず)つきながらも逃げてきました。その侍の体はやりや刀の傷で血だらけで、よろいは破れ、傷ついた足を引きずり、つるの切れた弓をつえにして、ようやく一軒(いっけん)の農家の前までたどり着(つ)きました。
そこは、ちょうど瀬戸の宮脇あたりでした。侍は、百姓の家の戸をドンドンドンドン、ドンドンドンドンとたたき、
「おたのみ申(もう)す。何か食べものをくだされ。腹がへって倒(たお)れそうじゃ。」。
戸を開けた百姓は、血だらけで、髪の毛をふり乱(みだ)し、ギラギラと光るするどい目つきの侍が立っていたので、思わず震えあがってしまいました。
百姓は、とっさに考えました。
「もし、この侍を助けたら、あとで私たちが敵の侍にどんな仕返しをされるかわからない」とおもい、
「食べるようなものは、何もありゃせん。」
と、どなり返しました。すると、侍は刀をぬいて家の中へ入ろうとしたので、
「出ていけっ。おーい、ぬすっとだあ。ぬすっとだあ。」
と、大声でまわりの家々にふれ回りました。
時は、ちょうど五月の節句の前、のぼりを立てるために用意してあった竹を持って、近くの人たちが走り出てきました。そうして、侍を追って行き、竹でたたいたり、突き刺したりして、とうとう殺してしまいました。
それからというものは、この宮前あたりでは、五月の節句にのぼりを立てると、立てた家の子どもが、次々に死んでしまうという不幸が続きました。
これは、きっとのぼり竿(ざお)で殺された侍のたたりだということになり、それからは節句にのぼりを立てる家がなくなったということです。
その後、村人たちは死んだ侍のためにお墓をつくり、花などをそなえてお参りをしているそうです。
※1 「四三〇年ほど前」 
天正12年(1584)の小牧長久手の戦い

せともの祭に雨が降る

せとものまつりにあめがふる


瀬戸地域に伝わる伝承。事実とは異なるものである。
伝承地 瀬戸市窯神町
時代背景 民吉が、磁器の製法技術を身につけるため九州へ旅立ち、平戸の佐々で福本仁左衛門の窯場で働き、技術を学んで文化4年(1807)に瀬戸に帰った。
「そなたたち、ここで、焼き物作ってみないか。」
 熱田奉行あつたぶぎょう、津金文左衛門つがねぶんざえもんの思いがけない言葉に民吉と父吉右衛門きちえもんは、うれしくなって涙がこぼれそうになった。
「わしが、南京焼という清国しんこく中国)の焼き物を書物で学んだ。それをそなたたちに教えようと思うがどうじゃ。」
「なんとありがたいお話でございましょう。どうか、ぜひお願いいたします。」
 父吉右衛門と民吉は、夢でも見ているような心地で、額を地面にすりつけた。
文左衛門は、翌日、民吉たちに「陶説」という本を見せた。
「これが南京焼じゃ。よく見るがいい。」
民吉たちは眼を見張った。清国の陶工たちの焼き物をつくる様子が挿し絵入りで詳しく描(えが)かれていたのだ。二人は、文左衛門の繰っていくページを隅から隅まで食い入るように見つめた。
「これが、あの有田焼と同じ磁器と呼ばれる焼き物なのだ。」
 民吉親子は、瀬戸村で、ずっと焼き物を作ってきた。ところが、瀬戸の焼き物は、九州有田の磁器と呼ばれる焼き物に押されて売れなくなり、ひどい不景気となった。吉左衛門は仕方なく、焼き物作りを長男に任せて、大勢の農民を募る熱田前新田(名古屋市港区)へ、二男の民吉と働きに来たのだった。新田を取り仕切る文左衛門は、二人のあまりに不慣れな百姓ぶりを見かねて、「ここで焼き物を」と声をかけたのだった。
「今日からまた焼き物作りができる。」
 民吉の心の中に、明るい光が広がっていった。
 文左衛門に教えられて、盃や小皿やはし立てなどを次々に焼きあげていった。しかし、あの固くてつやのあるみごとな細工の有田焼には、かなわなかった。
 その年の暮れ、文左衛門が病でなくなり、二人はその後、息子の津金庄七しょうしちの世話になって焼き物を作り続けた。
 (早く有田焼のような焼き物が作りたい。)
 二人は、借金をして磁器を焼くための丸窯(登り窯)を築いた。しかし、思うようにうまくいかなかった。
「やはり、有田へ行くしかない。」
 津金庄七や瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門とうざえもんらと相談して、とうとう民吉が有田へ行き、技法を学んで来ることになった。しかし、有田ではその頃、技法は秘密でよそ者に教えることを固く禁じていた。秘密を知った者は、生きて帰れないと言われていた。下品野村で、村人にこっそり秘法を伝えていた有田の陶工副島勇七そえじまゆうしちは、連れ戻されてうち首にあっていた。
 (命がけの旅だ。だが、瀬戸村の焼き物のために役立つなら・・・)
 文化元年(一八〇四)二月、民吉は、ついに九州へと旅立った。
 九州・天草島(熊本県)には、さいわい菱野村(瀬戸市菱野町)出身の天中てんちゅう和尚がいた。和尚の計らいで、高浜村の窯場に住み込み、毎日、慣れない蹴ろくろで茶碗を作った。茶碗を作りながら、密かに土や釉薬や窯のことを探った。
 半年後、民吉は平戸の三河内山みかわちやま(長崎県)の窯場に変わったが、働き始めて十日後「よそ者は留めおくことならぬ。」ときびしいお触れが届いて、すぐにそこを離れなければならなかった。
 十二月も暮れになって、やっと平戸ひらど佐々浦さざうら福本仁左衛門ふくもとにざえもんの窯場で働くことになった。
 (よかった。ようやく落ち着いて働ける。早くいろいろ覚えねば・・・)
 民吉は夢中で働いた。
 仁左衛門には、「さき」という娘がいた。さきは働き者で窯場をよく手伝った。
「民吉さんもお茶にしましょうよ。」
 さきは、いつもやさしく声をかけてくれた。さきの入れてくれたお茶を飲みながら、民吉はよく格子窓の向こうの空をながめた。さきも、そっと民吉の横に座って、空を見つめた。
「よう働いてくれる。それにお前さんなかなか腕がいい。ちょうど人手が足りなくて困っておったところだ。本当に助かる。」
 仁左衛門は、しだいに民吉を頼りにするようになった。
 夏になって、仁左衛門は息子の小助こすけとお伊勢参りに行くことになり、民吉に言った。
「留守中、窯場はお前さんに任せる。わからぬことはさきに聞いてくだされ。よろしく頼みますぞ。」
 民吉はうれしかった。さきならきっといろいろと教えてくれるにちがいない。
「さきさん、土に混ぜている白い粉は石の粉だね。」
「そうよ。固い磁器を作るために、天草の陶石を混ぜるのよ。」
「色やつやを出すために、どんな釉薬をかけているんだい。」
「いす灰という灰よ。鮮やかなきれいな色がでるわ。」
 民吉は、さきと一緒に調合した。それから二人で、たくさんの作品を窯詰めした。
 いよいよ窯焚きの日がきた。
 民吉は、さきや手伝いの人たちと薪を燃やし続けてついに、固くつやのある見事な磁器を焼きあげた。仁左衛門は大喜びだった。
「ようやった。今夜はみんなで祝おう。」
 庭にござを敷いて、賑やかに飲んで歌い、踊った。月明りのきれいな夜だった。
「民吉さん、早くいっしょに踊りましょうよ。」
さきに誘われ、見よう見まねで手を上げ足を上げ・・・・。
 星もきらきら輝いていた。
 夢のように二年が過ぎて、民吉は、もう瀬戸村に帰らねばならなかった。
 (さようなら。恩は一生忘れない。)
 民吉の去って行った方を、さきはいつまでも見つめていた。
 民吉は瀬戸村に帰り、学んできたことをみんなに伝えて、さらに工夫をと忙しい毎日を送っていた。いつしか十二年の歳月が流れた。
 ある秋の夕暮れ、民吉の家の前に、一人の女の人と子どもが立っていた。
「あのー、おたのみ申します。ここに民吉さんという人はおられますか。平戸の佐々浦から参りましたさきと申します。
「そ、そんな人ここにおらんでよう。はよ帰りゃあ。」
 家の人は決して民吉に会わせようとしなかった。それは、民吉が佐々浦へ連れ戻され、殺されるのではと恐れたからだった。
 さきは、仕方なく、子どもを抱き寄せると、すがるような目で、振り返り振り返りしては、冷たい風の吹く中を去って行った。
 瀬戸の「白と青との色鮮やかな染付焼」は、民吉たちによって完成され、日本中に評判が広まって、注文がたくさんくるようになった。瀬戸の人々は民吉を磁祖と敬い、毎年九月にせともの祭を催す。けれどきまって、祭りにはよく雨が降る。雨は佐々浦のさきの
「悲しみの涙が雨となって、せともの祭に降るそうだ。」
 いつの頃からか、瀬戸の人々は、そう言うようになった。

曽野のお稲荷さん

そののおいなりさん


伝承地 瀬戸市曽野町
 時代背景 文化14年(1817)、盛淳上人が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。
 お稲荷さんといえば、初午。初午といえば曽野のお稲荷さんと、昔からお参りする人が絶えません。
江戸時代の終わりごろ(一八一七年ごろ)のある春の夕暮れのことです※1。
 上水野村の曽野の山道を、一人のお坊さんがつかれた足取りで歩いていました。この坊さんは、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)(稲荷総本山宮、愛染寺別当盛淳上人)といい、山城の国の愛染寺(あいぜんじ)というお寺の身分の高いお坊さんで、修行のため全国を旅している途中でした。春になったとはいっても、日が沈むと寒さがまだ身にしみます。あたりには、人の住む家らしい家もなく、今夜の宿をどこにしようかと困っていると、荒れはてた田んぼの中に、ふと一軒(いっけん)の粗末(そまつ)な小屋らしいものが目にとまりました。そこからは、かすかに明りらしいものがもれています。
 さっそく、むしろ戸(わらで編(あ)んだむしろが入口の戸のかわりに付けてあることをいう。貧しい家の様子を表す。)をたたき、泊(と)めてくれるようにたのむと、その家の主人はこころよく引き受けてくれました。そして、主人といろいろ世の中の話をしていると、となりの部屋から女の人のすすり泣く声が聞こえてきました。上人は不思議に思って、
「あの泣き声は?」と、たずねると、主人は、
「よく聞いてくださいました。実(じつ)は、ずい分前からこの里に年とった白いきつねがあらわれ、村人を苦しめて困っております。そのため、くるい死にする人がでたり、きつねのたたりを恐れて、村を離れる人が多く、里がさびれてしまいました。家のかみさんもそのきつねにつかれて苦しんでいるのでございます。わたしも、どうしたらよいのか分からず、困っているところです。何とか助けていただけないものでしょうか。」
と、涙を流してたのみました。それを聞いて、
「そうでしたか。それならば、わたしが日ごろ尊敬している神様のお力によって、助けてあげましょう。」
と、言って西の方を向き、両手の指をむすんでじゅ文をとなえました。
 すると、不思議なことに、それまで苦しんでいたおかみさんは、悪い夢からさめたようにおだやかな顔になり、安心して眠りにつきました。
それを見て、主人は大変喜び、
「ああ、ありがたいことです。ぜひ、あなた様の守り神をわたしどもの里へも、おまつりさせてください。」
と、たのんで、上人がおつかえしていた山城の国の田中の社から、神様を分けてもらい、曽野の山の上にまつりました。
 それからというもの、白いきつねも、ぱったりと出なくなり、里の人たちも安心して暮らせるようになりました。
 このお宮さんが「曽野のお稲荷さん」で、毎年旧暦の二月の初午の日には、このあたりの人々をはじめ、遠くからも大ぜいの人がお参りに集まり、盛大なおまつりが行われています。
※1 文化14年(1817)、盛淳が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。梶田義賢著「曽野稲荷大明神縁起記」

石投げ名人「久六」


伝承地 瀬戸市城屋敷町
 時代背景 文明14年に大槇山、安土坂、若ヶ狭洞で合戦したと伝えられる。
 毎年七月になると、大相撲名古屋場所がはじまります。その時期になると、押尾川部屋が、今村八王子神社を宿舎として朝早くから激しい稽古をしています。この八王子神社は、今村城主の松原広長公により、五百年ほど前に建てられました。村人たちは豊作や村中の安全を祈願してお参りをしました。
 今村城ができた頃の日本は、京都を中心に応仁の乱(一四六七年)にも土地の攻め合いが起こるようになりました。
 今村城でも、戦いにそなえて、週に一回くらい、剣・弓・槍・鉾・乗馬などの訓練がありました。練武場(訓練する場所)へ集まる人たちはふだんは農業や土木工事をしていました。
 西隣りの狩宿村に、太刀の名手といわれていた渡辺数馬という人がいました。数馬の娘淡路は、剣術が好きで、いつも父とともに練武場へ来ていました。
 その後、広長公の父吉之丞(飽津城主)に見込まれて広長公の奥方となりました。
 淡路は、太刀や乗馬の不得意な若者たちを集めて「投石隊」をつくりました。投石は殺傷力は弱いけれども、森や山坂の多いこの地方では、相手を攻めるのにとても有効な戦術でした。石は、場所や距離によって形や大きさを選び、素手で戦うことができました。
 投石隊の訓練は、追分の勢子山の山林で行われました。はじめは思うように投げられず、命中率もせいぜい五割くらいでしたが、投石のコツをつかむと百発百中のものも現れました。とくに久六は、兎や鳥のように動き回る動物にも命中させる石投げ名人となり、淡路から投石隊の隊長に任命されました。はじめの頃は、「エイッ」「ヤーツ」とかけ声をかけていましたが、最後には無言で投げられるようになりました。
 文明十四年(一四八二年)五月十五日、安土坂の戦いが始まりました。品野の永井勢と今村の松原勢との合戦でした。最初は大槇山付近で戦いましたが、松原勢は次第に押されて安土坂まで後退し、この地で両軍の決戦が行われました。松原勢も投石隊を使った作戦で必死の戦いをしましたが、ついに敗北し、広長公は若狭洞で切腹をしてしまいました。亡骸は、家来たちの手で赤津の万徳寺へ運ばれ、円林上人によって手厚く葬られました。
 久六は、奥方淡路のあとを追って赤津の万徳寺に移り、墓守りとしてその生涯を広長公の供養に捧げたといわれています。
 これ以来、赤津の人々は、御戸偈池の近くで「ピュー」「ピュー」という石を投げる音を耳にするようになったということです。

市場町の火事

いちばちょうのかじ


伝承地 瀬戸市品野町三丁目
 時代背景 
 今から、およそ二百年くらい前(江戸時代後期、一八〇〇年ごろ)※1のお話です。
 中馬(ちゅうま)街道(かいどう)(名古屋から瀬戸をとおり、品野を経て長野県の飯田へ抜ける道)筋(すじ)にある下品野村は、山の高地にあるので、よそよりは寒さがきびしく、その年の大晦日(おおみそか)は村の人たちをふるえあがらせていました。
 街道から少し西に入った中山家では、一人暮らしのお玉がこれから夕食のしたくにかかろうと、古い汚(よご)れた行灯(あんどん)(木の枠に紙をはり、中に油受けをおいて、火をともす照明(しょうめい)器具)に火をつけました。この貧(まず)しそうに見える台所に一つだけ目立つものがありました。それは、よく磨(みが)かれて黒光りのする由緒(ゆいしょ)のありそうな茶釜(ちゃがま)です。茶釜は火がかけられ、ことことと湯をたぎらせていました。
 中馬街道の中山家といえば、人に知られた家でしたが十年前に主人に死なれてからは、急に貧しくなって、その日の暮らしにも困るほどになっていました。
「こんばんわ。」
と、市場屋(いちばや)の手代(てだい)(店で働く人の位。番頭-手代-小僧)の喜蔵(きぞう)が入ってきました。
「へっ、ごっさま。すまんこっちゃがけさの話ああ、今夜どうしても、何とかしてもらえんかのう。・・・」
 お玉のむすこが、店の見習いの旅に出かけるときに親類の市場屋から五両(今の二十五万円くらい。)のお金を借りて行ったので、そのお金を取りに来たのです。
「主人が、やかましく言うもんで・・・。今日中に返してもらわんと、わたしが困るで、たのみますわ。」
「喜蔵さ、ぶっといてすまんけど、わたしゃ、その日のことにも困っとるで、どうにもならんがな。まあ少し待ってもらうよう、だんなにたのんでくれんかん。」
「気の毒じゃが、今日は暮れじゃでなあ・・・。わたしも、だんなに言いわけが立たんでなあ・・・。お前さんがどうにもならんというなら、何か代りになるものをもらっていこうか。」
「こんな貧乏(びんぼう)な家に、金目のものなどありゃせんがな」
あたりを見回した喜蔵は、たぎっている茶釜を見つけて、
「・・・そうじゃ、この茶釜、五両には足(た)らんが、こいつをもらっていくか。」
「・・・まあ、喜蔵さ。これはお前さ、ご先祖(せんぞ)様の大切なものじゃで・・・、ばちがあたるわな。」
「ご先祖様も何もありゃせん。今のお前さんにはいらんもんじゃ。これをよこさっせ。」
「喜蔵さ、あんまりじゃぞな、いくらなんでも・・・。この大事な茶釜を持って行ってみなされ、ええ、わしゃあ、はなしゃせんぞな。しmでも・・・。」
 泣きわめきながら、ぐらぐら煮えたぎった茶釜にしがみつくお玉に、おじけづいた喜蔵は、手にした茶釜のふただけを持って走りだしました。
「喜蔵さ、ふた返せ。ふたよこせ・・・。」
半狂乱(はんきょうらん)になって泣きわめくお玉のそばに、ふたを取られた茶釜が、ふつふつとたぎって、白い湯気(ゆげ)をもうもうと立ち昇らせていました。
喜蔵から、詳しい話を聞いた市場屋の主人四郎(しろ)兵衛(べえ)は、
「喜蔵、こりゃ、ちょっとやり過ぎたなあ」
と、言いましたが、店の売りあげ勘定(かんじょう)に忙しく、そのまま過ぎてしまいました。
勘定もやっと終わって、店の者たちは年越(としこ)しのご馳走(ちそう)をいただくと、それぞれ自分たちの部屋へ、引きさがりました。
広い屋敷(やしき)から蔵(くら)の中まですっかり掃除(そうじ)を終わって、お正月の飾り付けもすませた市場屋も、九ツ(夜の十二時)を過ぎると、朝からの風音以外はしんと静まりかえっていました。昼間の仕事の疲れで、店の者はすぐに
街道の馬(うま)市(いち)を取り仕しきり、酒造りと油(あぶら)問屋(とんや)とを兼ねた品野の市場屋といえば、中馬街道でも有名な大店(おおだな)です。蔵が三戸分ぐるりと広い屋敷を取り巻き、今の国道沿いの戸田国助さん宅からココストアを経てプラット愛電館みずの(電気屋さん)あたりまで、西はずっと稲田になっている所までの人構えだったというから大したものです。
 八ツ(午前二時)と思われるころ、西の蔵のあたりから、こげくさい臭いとともに、パチパチ音がしたと思う間(ま)に急に火が吹き出し、蔵は火の海となりました。南の蔵には、油が入っているから大変です。あれよあれよという間に火は燃え広がり、さすが広い市場屋も、母(おもや)屋(家の人たちが住んでいる建物)からいくつかの蔵まで、全部灰(はい)になってしまいました。そればかりか、家の中に寝ていた主人の四郎兵衛も、奥さんも、一人娘も、召し使いたちも、みんな焼け死んで、だれ一人と助かりませんでした。
 街道でも有名な億万長者(おくまんちょうじゃ)の市場屋も、あっという間に燃え広がった火事のために、滅びてしまいました。火事のあった夜ふけに気が抜けたようになって、市場屋の蔵のあたりをうろつくお玉を見たという者やはげしく燃える火の中に、、
「ふた返せ。ふたよこせ。」
と、さけぶお玉の声を聞いたという者もいたので、
「つけ火だ。つけ火だ。恨(うら)みのつけ火だ。」
と、だれ言うことなく、村の人々はうわさし合って、怖(こわ)がりました。
 広い焼け跡には、灰となったいくつかの白骨のなかに、例の茶釜のふたをしっかりとにぎっている骨もあったとか。・・・・
手代の喜蔵は、自分のしたことからこんな大事になり、半病人のような毎日でした。後悔(こうかい)してあやまりましたが、市場屋は元には戻りません。
  品野こげても、市場屋はこげぬ
 (品野の峠を越えることができても、市場屋より金持ちになることはできない)
  こげぬ市場屋も 火にゃこげる
 (そんな大金持ちの市場屋も、火には燃えてしまう)
  億万長者の市場屋さえも
  燃やしゃ 一夜で灰となる
 信州通(しんしゅうかよ)いの馬子(まご)(馬を引いて人や荷物を運ぶことを仕事にしている人)たちは、街道(かいどう)名物(めいぶつ)、市場屋が滅(ほろ)びたことを悲(かな)しんで、このように歌ったということです。
 その後、旅から戻って悲しんで死んだお玉のむすこと、お玉へのとむらいとして、喜蔵は小さな碑(ひ)をたてました。
 市場屋屋敷から国道をへだてた小高い丘の中腹に、昔は杉の木立などありましたが、そこにささやかな碑が今でも残っていて、だれ言うとなく、「イボ」ができたらこの碑におまいりすると、不思議に取れるという言い伝えが生まれました。「いぼ神様」といって、品野坂上から窯町にぬける「やきもの小道」の途中にあり、みんながお参りして、お線香のけむりが絶えません。

岩屋堂

いわやどう


伝承地 瀬戸市岩屋町
 時代背景 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。
 瀬戸に住んでいる皆さんは、品野の岩屋堂というところを知っていますね。ここには、こんなお話があるのです。
 今から一二〇〇年ぐらい前に、行基(ぎょうぎ)というお坊さんがいました。行基は、勉強のために、日本中いろいろなところを歩きました。※1
 あるとき、品野へやって来ました。岩屋堂の大きな石のほら穴と近くの滝を見て、
「これは良いところへ来た。ひとつここで、もっと立派な坊さんになれるよう勉強をしよう。」と、言って、一生けんめい勉強をはじめました。
 ちょうどそのころ、都(みやこ)では聖武天皇(しょうむてんのう)が、おもい病気で苦しんでいました。それを聞いた行基は、天皇が早く直るようにお祈りをしました。オオカヤの木を切り、仏さまを三つ作りました。一つはお薬師さまで、ほかの二つは観音さまです。これを作るとき、ひと削りしては、
「天皇の病気が早く直りますように。」と、三回お祈りをするという心のこもった作りかたでした。その熱心な姿を見て、まわりのいろいろな鳥が、木の実などを運んで来てお供えするのでした。
 行基の作った三つの仏さまは、今でも岩屋堂のほら穴に祀ってあり、多くの人がお参りにきています。
※1 「今から一三〇〇年ぐらい前」

堀出し地蔵

ほりだしじぞう


伝承地 瀬戸市湯之根町あたり?
 北新谷(きたしんがい:今の池田通りを北にのぼりつめたあたりのこと)というところに、堀出し地蔵というお地蔵さんがあります。
このお地蔵さんには、こんなお話があります。
 むかし、加藤治右衛門(かとうじえもん)さんという人がいました。治右衛門さんが、ある夜、眠っていると夢の中にお地蔵さんがあらわれて、
「わたしは、むかし観音(かんのん)山にいた地蔵だ。しかし、何年も何年もたつうちに、とうとうお前の家の東の方にある池の中に、沈んでしまって、だれもわたしが池の中にいることを知らない。わたしは、とても悲しい。池の中からほり出して、まつってくれ。」と、言いました。
 そこであくる朝、治右衛門さんは家族みんなで、池の底をさらえてみました。するとどうでしょう。池の底にお地蔵さんが泥まみれになって、沈んでいたではありませんか。夢の中のお地蔵さんとまったく同じです。
「おお、やっぱりお地蔵さんが、こんなところにどろんこでござったか。お気のどくに。わしらで、まつってあげよう。」
 治右衛門さんは、お地蔵さんをきれいに洗い、宝泉寺(ほうせんじ:瀬戸市寺本町にある寺。瀬戸公園の南側に塔の見える寺)からお坊さんをまねき、お経をあげてもらいお地蔵さんをおまつりしました。
 それから後、多くの人々が、このお地蔵さんをおまいりに来ました。
「これが治右衛門さんの夢の中で出てきたお地蔵さんか。ありがたや、ありがたや。」と言って、みんながおがんでいったそうです。

馬ヶ城

うまがじょう


伝承地 瀬戸市馬ケ城町
 時代背景 桑下城は応仁の乱の際、東軍:に属して敗れた美濃国安八郡今須城主長江氏の一族、長江利景(近世地誌類では永井民部少輔)が尾張国春日井郡科(品)野の地に逃れて落合城(瀬戸市落合町)に入り、のちに築いた城とされている。長江利景は文明14年(1482)、今村城主の松原広長と大槇山・安土坂・若狭洞で戦って勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にした。その後、16世紀に入ると、尾張・三河・美濃の国境に接するこの地は松平氏と織田氏で激しい勢力争いの場となり、享禄2年(1529)には松平清康(徳川家康の祖父)によって支配されるにいたる。そして、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いの前哨戦として、前述の落合城や、水野川をはさんで桑下城の南側にある品野城とともに 織田信長の攻撃を受けて焼失し、廃城となったとされている。
 戦国時代(一四六七年~一五六八年)のころ、品野の井山に男ぎつね、赤津の白根山(赤津の雲(うん)興寺(こうじ)の近くの山)に女ぎつねが住んでいました。
 この二匹のきつねは、いつも化(ば)かしあっていて、あまり仲がよくありませんでした。
 ちょうどこのころ、北の国から流れてきた永井という侍(さむらい)が、上品野の桑下(くわした)に砦(とりで)をつくり、頑張っていました※1。
 ところが、この地方のほとんどを治(おさ)めていた織田(おだ)という侍は、この永井のことが気にかかっていました。
このことを知った男ぎつねは、永井という名前を使って女ぎつねや村の人たちをびっくりさせようと思いつきました。
 そこで、ある日、男ぎつねは、永井の使いの者に化けて織田の侍たちのいるところへ向かいました。その途中で、織田方の使いの者とばったり出会いました。この織田の使いの者は、男ぎつねに負けたくないといつも考えている女ぎつねの化けた姿でした。二人は、手紙を交換し合ってみると、どちらにも
「いくさを仕掛けるぞ。」
ということが書いてありました。
いよいよ両者がいくさになりました。永井の侍たちは、やりや刀などの道具のそなえもしっかりして、いくさをしようという場所の瀬戸村の砦へ向かいました。
 砦に着いて、あたりを見ましたが織田の侍たち一人もいません。永井の侍たちは、
「これはうまくいった」と思い、さらに勢(いきお)いよく進みました。
すると、とつぜん馬のいななきとひづめの音が聞こえてきました。それも何百何千頭もいる様子です。その数に驚いた永井の侍たちは、先を争(あらそ)って逃げてしまいました。しばらく逃げてから、ふと後ろを振(ふ)り向(む)くと、あれほどいた馬の影も形もなくなって、ただあざけり笑う声だけが、砦にこだましていました。これを見ていた一人の老人は
「さすがの男ぎつねも、とうとう女ぎつねにしてやられたな。女ぎつねの方が役者が一枚上だ。」
と、村人に話すのでありました。
 いくさをした場所が、「馬が城」という所で、何百年たった今でも地名となって残っています。
⇒ 「馬ヶ城」の項参照