萩御殿

はぎごてん


伝承地 瀬戸市萩殿町
 時代背景 明治33年(1900)、愛知県による大規模なハゲ山復旧工事が、萩殿町一帯などにおいて実施され、多くの見学者がありました。この人たちの便宜を図るため、工事現場が一望できる位置に、萩を多く用いた建物を建てました。この建物を人々を「萩の茶屋」と呼んでいました。明治43年(1910)11月17日、この地に皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓され、「萩の茶屋」から緑に回復しつつある山々をご覧になり、記念にアカマツの苗を植栽されました。
愛知県の平成16年度治山事業「萩殿の森環境防災林整備事業」として南公園内の森林は整備され、森林の手入れや歩道、案内板などの整備をはじめ、当時の萩御殿を模した休憩施設が設置されています。

 今から六、七〇年ほど前、昭和の初めごろまで、今の萩(はぎ)殿(どの)町あたりに「萩(はぎ)御殿(ごてん)」というのがあったそうじゃ。
今日は、その萩御殿のお話をしようかのう。
そのころよりずっと前じゃが、そこいらから山口にかけての山はのう、大雨が降ると、土や砂がぎょうさん崩(くず)れて流れ出し、大変じゃったと。
村人たちはお役人に山崩れを防ぐ工事を願い出たんじゃ。
そこで、工事が始まったんじゃが、その工事が大がかりでのう。工事面積が、そこいたでは見られないぐらい、とてつものう広かったんで、おおぜいの学者や外国人までも見に来たと。
あんまりおおぜいの人々が見に来るので、工事の様子がよう見える丘に小屋を作ったそうな。
その小屋はのう、はじめは四本の柱を立てて屋根をつけただけの粗末なものじゃったそうな。だけど、それではさびしかったので、辺りにたくさん咲いている萩(はぎ)という木をとって、柱と柱の間に取り付けたんじゃと。
すると、なかなかよい小屋に見えるようになり、見学にきた人もこの小屋でゆっくり工事のお話を聞いたり、お茶をごちそうになったりしたそうな。そして、いつの間にか、だれ言うとなくこの萩で囲った小屋を「萩の茶屋」と言うようになったんじゃと。
そのとき、東宮(とうぐう)さま(のちの大正天皇)が、いくさの演習をご覧に愛知県に来られたのじゃ。そして、瀬戸の工事のことを聞いて、この萩の茶屋に登(のぼ)られ工事の様子をご覧になったそうな。そして、東宮さまが来てくださったことを記念して、この萩の茶屋を「萩御殿」というようになったんじゃと。
その後、萩御殿は古くなって壊(こわ)れてしまったけど、せめてゆかりの地として名前を残そうということになり、新しく町の名前を決めるときに「萩殿町」と決めたということです。いま、祖母壊小学校の校区にある萩殿町と御殿橋がこれじゃよ。

がくの洞の雨乞い

がくのほらのあまごい


伝承地 瀬戸市鳥原町
 瀬戸の北東には、町を見おろすように、三国山とそれに連なる山々があります。その山すそに、四季おりおりのすばらしい自然美を見せてくれる岩屋堂があります。夏にはここにあるプールで、子どもたちが泳ぎ回り、その歓声があたりのセミの鳴き声をかき消すほどです。
 このプールの上を山あいの渓谷にそって行くと、地なりを思わせる大きな音におどろかされます。鳥原川の清流を、岩がせきとめて作った滝があり、清流が滝から落ちる音です。
 このあたりには、いくつもの滝があって、「岩屋七滝」と呼ばれています。その岩屋七滝の一つが、「めおとたき」と呼ばれています。そして、この滝の滝つぼのことを「がくの洞(ほら)」と呼んでいます。
 この洞の主は、「龍神(りゅうじん)さま」で、雨を降らせる神様だということです。
 鳥原川から、田や畑の水をひいている品野の人たちは、日照りが続くと代表者を立て、その人と岩屋堂の入口にある浄源寺の住職とで、雨乞いをするそうです。
 雨乞いのしかたは、代表者と住職とが、水で身体を清めたうえ、幣束(へいそく)を持って、滝の近くの洞穴の龍神さまに祈ります。祈りがすむと、滝のところへ行き、願いごとをとなえながら、手にした幣束を、がくの洞へ投げ込みます。そのとく、滝つぼの水が渦を巻きながら幣束を巻き込んでしまえば、願いどおり必ず雨が降るといわれています。

菱野のおでくさん

ひしののおでくさん


伝承地 瀬戸市菱野地区
 時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
 天(てん)正(しょう)十二年、今から約四百年ほど前のお話です。
 徳川(とくがわ)方と豊臣(とよとみ)方が長久手(ながくて)で戦った時のことです。
 徳川方に敗れ、負けいくさになった豊臣方の総大将池田勝(しょう)入(にゅう)信(のぶ)輝(てる)の家臣梶(かじ)田(た)甚五郎(じんごろう)直(なお)政(まさ)は、ひどい傷(きず)を負い、ようやく菱(ひし)野(の)までたどり着きましたが、もう動くこともできなくなっていました。
 そこで村人に、
「わたしは猿投(さなげ)山に行きたいが、とうていこの体ではむりだ。」
と、苦しい息の下から、
「わたしの命もこれまで。だれか早く介錯(かいしゃく)して葬(ほうむ)ってはくれまいか。」
と、たのみました。
 しかし、後のたたりを恐れてだれ一人手を出す人はいませんでした。
 そうしている間に甚五郎は、その場で息をひきとってしまいました。
 村人はあわれに思って、千寿寺(せんじゅじ)の覚(かく)心(しん)和尚(おしょう)にこのことを話し、手厚く葬ってもらいました。しかし、そのときに馬の鞍(くら)の下にあった小判三十枚を、みんなで分けて持ち帰ってしまいました。
 それ以来、菱野に悪い病気がはやって若者がつぎつぎに亡くなったり、米や野菜などの農作物がとれなくなってしまいました。
 困り果てた村人が、占(うらな)い師に相談すると、
「以前この土地で若武者が一人亡くなっている。そのとき、若武者が持っていた小判を持ち去って後、法要も何もしていないので、そのたたりじゃ。」
というお告げがあったそうです。
 驚いた村人たちは、さっそく法要をして、いろいろ相談した結果、猿投山に行きたいと言っていた甚五郎の姿を馬印(うまじるし)に猿投神社の祭礼(さいれい)に奉納(ほうのう)しようということに話が決まりました。
 それ以来、猿投祭りには甚五郎の姿の人形を乗せた馬が奉納されました。すると、不思議に今まではやっていた病気もうそのように治まり、米もとれるようになったということです。
 その後、菱野近くの赤(あか)重(しげ)に梶田甚五郎のお宮を建てて、梶田神社としてお祀りしました。
今でも菱野熊野社の祭礼には、梶田甚五郎直政の姿の木偶(でく)(人形)を乗せた馬が奉納され、盛大に祭りが行われています。

首無し地蔵

くびなしじぞう


伝承地 瀬戸市石田町
 時代背景 天和年間(1681~1684)の村八合の大水
 それはそれは、むかしのことです。
 ひとりの立派な身なりをしたお侍(さむらい)さまが殺されて、首を持って行かれてしまいました。
 あわれに思った村人たちが、首のない小さなお地蔵さんを作っておまつりしていましたが、いつの間にか、お地蔵さんの姿も見えなくなり、すっかり忘れられていました。
 それから、何十年たったでしょうか。
 天和(てんな)(一六八一年~一六八四年)のむかし、村八合といわれる大水がありました。降りつづく雨に川の堤防が切れて、村の家や橋などは、見る見るうちに流されてしまいました。川の北側の田んぼは石と砂で埋まって川原のようになってしまい、その上たくさんの死者が出たということです。
 やがて、雨がやんで水が引くと村の人たちは、土砂に埋まった田んぼを見回りに出かけました。
 すると、がれきの中に石のお地蔵さんが埋(う)まっているではありませんか。さっそく堀出してみると、そのお地蔵さんには首がありませんでした。
「そうだ、むかし首のないお地蔵さんがあったということだが、そのお地蔵さんにちがいない。あのおそろしい大水に流されずに、よう無事だった。かわいそうなお地蔵さん。さっそく供養(くよう)しなければ・・・。」
と、みんなで相談して田んぼのすみにお祀(まつ)りしました。
 その頃、このあたりは、あまり米がとれなくて、赤ん坊が生まれても母親の乳が出ず、よく死んでしまったそうです。そんなときに、ある母親がこのお地蔵さんに、
「どうか乳がよく出ますように。赤ん坊が助かりますように。」
とお願いすると、不思議に乳が出るようになり、赤ん坊がすくすく育ったそうです。
 それからというものは、
「このお地蔵さんにお願い事をすると、何でも聞いてくださる。」
というので、そのうわさがあちこちに広まって、遠いところからもお参りに来る人がだんだん多くなり、今でも線香の煙がたえません。
 そして、だれ言うことなく、
「白い布で作った乳房をお地蔵さんの肩にかけて、お供えした白米の半分を家に持ち帰り、七日間おかゆを作って食べると母乳がよく出る。」
というようになりました。そして、
「願い事を何でも聞いてくださるお地蔵さんに首がないのは、かわいそうだ。」
と、村の人たちが川原で丸い石を探して首を作ってあげたそうです。

猿のミイラ

さるのみいら


伝承地 瀬戸市駒前町
 時代背景 天保年間(1830年~1844年)
 むかし、天保(てんぽう)のころ(江戸時代末期(まっき)、一八三〇年~一八四四年)、瀬戸本地(ほんじ)村に、菱野から名古屋に通じる松並木(まつなみき)の街道(かいどう)がありました。ときどき松並木の上や、街道筋で猿が遊んでいるのを見かけたそうです。その付近に壷井(つぼい)左内(さない)というお医者(いしゃ)さまがいました。
 酒好きで知られる左内は、毎日のように居酒屋(いざかや)や家で酒を飲み赤い顔をして、よろよろとして街道を歩いておりました。
「左内先生、猿から酒をもらったそうな。」
と、村人たちがうわさをしていましたが、どうして猿から酒をもらったかはわかりません。
 そんなある夜ふけ、左内の表(おもて)戸(ど)を軽(かる)くたたくものがありました。出てみると、猿が立っていて、いろいろ身(み)振(ぶ)り手振(てぶ)りをします。どうも腹痛(ふくつう)のようなので、薬草(やくそう)を飲ませて帰しました。
 数日後の夜ふけ、すっかり元気になった猿の夫婦が、お礼に一升(いっしょう)どっくりに自分で作った「さる酒」をつめて持って来たのでした。
 その後も、たびたび左内を訪ねては治療(ちりょう)してもらい、酒をお礼に持ってきましたが、この夫婦の猿もしばらくして姿が見えなくなり、人々の記憶(きおく)から消えていました。
 しかし、それからずっと後になって(昭和三〇年ごろ)、本地村のお百姓さんたちは、田植えを終わり、田の雑草を抜くまでの合間(あいま)を利用して、宝生寺(ほうしょうじ)本堂(ほんどう)の屋根のふき替えを行いまし。
住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)の話し合いで、かやぶきの屋根を瓦にかえることになりました。
 檀家総出で、草屋根をめくっていくと、屋根裏と天井(てんじょう)の間に、ほこりやワラにまじって、何かがひそんでいるようでした。近寄ってみると、二匹の猿が抱(だ)き合うように座(すわ)っており、ミイラ化していました。この寺の本尊(ほんぞん)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)でしたが、別に庚申(こうしん)像(ぞう)も祀ってありました。猿のミイラは、この庚申像の天井あたりで発見されたので、村人の驚(おどろ)きは一層(いっそう)大きかったのです。
 猿は庚申のお使いものといわれ、宝生寺の庚申像のひざ元には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三びきの猿の像が置かれていたのです。
 檀家のお年寄りの間には、天保年間の左内医者と猿の話を思い出す者がいて、
「あのときの猿に違いない。あのときの猿は庚申さまの使いだったのだ。」
と、驚き、思わず手を合わせる村人もいました。
 発見の様子(ようす)から、庚申像を祀った本堂の屋根裏で死に、残った一ぴきは、その死体をだいたまま、何も食べずに命をたったものと思われます。一ぴきはミイラ化した姿で、もう一ぴきはやや腐敗(ふはい)した形で見つかったからです。
 人々は、二つのミイラから、猿の愛情がこまやかで、かえって賢(かしこ)いはずの人間の方が見習わなくてはと話し合って、おおいに反省したとのことです。

大槇

おおまき


伝承地 瀬戸市品野町1丁目
 時代背景 文明14年の大槇山、安土坂、若ヶ狭洞の合戦
 今から一二〇〇年も前※1のことです。人々は、伝染病や地震、日照りなどの天災(大水や地震など、自然による災害)が続いて、大変苦しんでおりました。
「去年は、大雨で品野川があふれ、米がよう取れなんだ。」
「今年は今年で、日照りが続き、田んぼの水がかれてひび割れてきた。このままでは、稲はみんな枯れてしまうぞ。」
「それに、このごろは訳の分からぬはやり病(伝染病のこと)が広まり、死人も出るほどじゃ。」
「困った。困ったものじゃ。」と、村人たちのなげくのが、あちらこちらで見かけられました。
 そんなところへ、仏の教えをときながら全国を旅しておられる都のえらいお坊さんが、数人のお弟子さんを連れて、通りがかられました。お坊さんは、人々の苦しみの様子を耳にされ、村の様子やまわりの土地の様子を調べて歩かれました。
 次の日から、お坊さんは、お経(おきょう)をとなえながら、お弟子さんたちと水の出そうな所に井戸を掘りはじめました。しばらく掘り進むと、そこから水がとめどなく湧きはじめました。この様子を見ていた村人たちは驚きました。それからは、お坊さんの指図に従って、たくさんの井戸を掘り、川の流れを変える工事まではじめました。その上、日照りに備えて、まわりの山すそにため池もつくりました。
 やがて、村人たちとともに汗を流したお坊さんたちの出発の日がおとずれ、村人たちは別れをおしみ、みんな村はずれまで見送って行きました。
「お上人(しょうにん)様、これからの私たちの励ましになるようなものを残していただけわけには、まいりませんでしょうか。」
「旅の途中で何もないが、これを残しておこう。」といって、持っていた槇(まき)の木でつくった杖(つえ)を地面につきさして行かれました。不思議なことに、その杖は逆さまのまま(杖はふつう持つところが根の方で、地面につくところが幹や先のほうでできている。)根がついて、ついには見上げるばかりの大きな木になったということです。
 これは、品野から陣屋へ通ずる旧街道の途中にある「大槇」というところのお話で、この槇の木は、逆さに立てたのに根付いたところから「さか槇」とも呼んでいます。
 このえらいお坊さんは、奈良の大仏をつくるために、全国をまわって人々の協力を求めて歩き続けた「行基(ぎょうぎ)上人」であったと伝えられています。
※1 「今から一三〇〇年も前」
 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。

海丸の穴

かいまるのあな


伝承地 瀬戸市内田町1丁目
 時代背景 荏坪古墳のこと。荏坪古墳は、6世紀中葉の横穴式円墳。
 水野の八幡社というお宮の裏へ行きますと、岩や石で積み上げられた洞穴があります。穴の上には木が茂っています。穴の中をのぞいてみますと、中は薄暗くひんやりとしています。広さは、畳七、八枚くらいあり、天井は大人が手を伸ばしたくらいあります。
 この穴には、むかし海丸というお坊さんがひとり住んでいました。それで、人々はこの岩穴を、このお坊さんの名前から「海丸の穴」と呼んでいました。
 海丸については、どこの生まれか、どこから来た人なのか、だれも知りませんでした。しかし、このお坊さんは和歌をよむのが大変じょうずで、しかも広い知識を身につけた人でした。そして、村人との付き合いをさけ、気ままな暮らしをしていました。それでも、たまには村人のところへ行って、米や野菜をわけてもらい、その場で和歌をすらすらと短冊(たんざく)に書いて渡し、お礼のしるしとしていました。
 このお坊さんについては、その後、どうなったのかはよくわかりません。また、このお話とは別に、この穴はむかしの人の墓(古墳、こふん)の跡だとも言われていますし、むかしの人の住まいの跡だともいわれています。本当のことはよく分かっていませんが、大きな石でつくられた穴が、今でもあることだけは確かなことです。

蛇が洞

じゃがほら


むかし、むかし※1、品野の村に小牧五郎(平景伴:たいらのかげとも、とも言うが、親しみやすい名前を使った)という人が住んでいました。勇気があり、大変力の強い人でした。魚つりが大好きで、毎日のように近くの川(半田川:はだがわのこと)へ出かけ、たくさん魚をつって帰るのを自慢にしていました。となり近所の人たちは、
「五郎さんちゅう人は、本当に魚つりがじょうずだのう。」
「うちは、五郎さんのおかげで助かっとるがん。ばんげは、魚のごっつおうばっかりで・・・」
「五郎さんに世話になるばかりじゃ悪いで、米や野菜を持ってっておるがん。」
 ある日、五郎はいつものように、たくさんつって帰ってきました。かごのふたを取って中をのぞいてみると、驚いたことに魚は一匹も見当たりません。ただ、竹の葉が五、六枚かごの底にひっついているだけでした。五郎は一瞬「ハッ」としましたが、どうしてこうなったか、思い当たることはありませんでした。そのため、五郎はその夜はよく眠れませんでした。次の日も川へ出かけました。
 いつものように、大そうよくつれました。喜んで家に帰って、かごのふたを取ってみると、またびっくりしました。魚の影も形もありません。
「これは、きっと何かわけがあるぞ。」
「何者のしわざだろう。」
 五郎はこう思いながら、次の日用心深く、川で糸をたれていました。すると、突然川上の方から生臭い風が強く吹いてきました。見ると、大きな岩の上に、白い一羽のハトが羽を広げてバタバタ音をたてているではありませんか。五郎は、
「こいつが化け物の本当の姿だな。」と思いながら、ハトをにらみつけました。そのとき、
「ボオー」というすごい音がして、白い煙があたり一面をおおいました。よく見ると、白いハトの姿はもうそこにはなく、かわって大きなへびが岩に体を巻き付けて、飛び上がるようなかっこうで、こちらをにらみつけているではありませんか。五郎は、
「ようし、この大蛇め。今にみておれ。」とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大蛇のひたいにぐさりとつき刺さりました。ひたいから、ドッと血があふれて川へ落ちました。大蛇は苦しそうにもがきながら、五郎に襲いかかりました。五郎は、
「エイッ」とばかりに、大蛇めがけて切りつけました。大蛇は頭をまっぷたつに切られ、「ドオッ」という音とともに川の中に沈みました。大蛇から流れ出る血は、まっ赤に川をそめました。
 この様子を岩陰から見ていた村の人たちは、
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、五郎さん。強い人だ。」
「竹の葉を魚にかえた化け物は、こいつだったんだな。」
「よかったのう。もう心して、つりができるぞ。」と、口々に話していました。
 その日から三日三晩、川は花のように赤くそまり、大蛇の骨も長く川底に残っていたということです。
 村には平和が訪れ、だれいうとなくこの川の淵を蛇が洞というようになりました。また、花のような川、花川、半田(はだ)川と移りかわって、この辺りの土地の名前にもなってしまったと伝えられています。
※1 大永年中(1521-1528)のこと。戦国時代。

曽野稲荷

そのいなり


水野村上水野村曽野(その)に曽野稲荷大明神というのがある。昔、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)が諸国(しょこく)遍歴(へんれき)の砌(みぎり)、薄暮曽野郷の一農家を訪れて、一夜の宿を乞われた。主人は快くおとめ申したが、深夜別室で人の叫喚(きょうかん)するのを聴いたので、上人は訝(いぶか)しんで主人にそのわけを問われると、「当郷には古来年を経た白狐が出没して里人を悩まし悶死(もんし)さすので、農民が次第に離散して隨(したが)って田園は荒蕪(こうぶ)に帰した。今宵は私の妻がそれに煩はされているのです。」と言って泣いて語った。そこで上人は可哀そうに思召され祈祷なされると忽ち快癒した。そこで農夫は上人に請うて、田中の社から曽野郷稲荷山に御分身を勧請することにした。その後この村には、白狐の出没が絶えたという。毎年旧二月初午の日には、お祭りがあって賽客が多い。<「愛知県伝説集」昭和12年より>

曽野稲荷大明神(参道)
曽野稲荷大明神

雨乞いの軸

あまごいのじく


伝承地 瀬戸市巡間町
瀬戸の南東の方角に、ちょうど平野部と山間部をしきるように、一本の川がゆるやかに流れています。赤津川です。赤津川にかけられた風月橋を渡ると、あたりの水田の一角のこんもりとした森の中に「大目(おおま)神社」があります。
むかしむかし、来る日も来る日も、お天とうさまはかんかん照り。やっとくもったかなと思うと、すぐ晴れ上がってお天等さまが顔を出す。田んぼの水は干上(ひあ)がり、やがて川の水もかれてきそうな。もう村中、いいや、ここだけじゃのうて、日本の東の方はみんな、それはそれはひどいもんじゃったそうな。水がなくなると、田んぼや畑の作物はみんな駄目になり、村には食べるものも、飲むものもなくなり、果(は)ては山の草木を食べ、次は家畜(かちく)を、その次は犬や猫を・・・という順に食いつくし、村人はばたばたと倒れ、ついには人っ子一人いなくなってしまうという所もあったそうな。
これが、「天明の大飢饉(だいききん)」と呼ばれ、今でもその頃のひどいありさまが、語り伝えられとるんじゃ。
 その頃、ここ赤津の村の衆(しゅう)も、もう血まなこになって、雨を降らせる手だてを試(ため)してみたんじゃが、みんなだめだった。
そこで、とうとう長谷山(はせやま)観音(かんのん)の善声院(ぜんせいいん)さんが、京都の泰寮院(たいりょういん)という所から「雨乞いの軸」ちゅうもんを買ってきなさったんじゃと。軸には、何やら龍神さまのことが書いてあり、雨を降らせるのに、たいそう効(き)き目(め)があるとのこと。さっそく村の衆がお宮さん(大目神社)こもって、いつものとおり、神様にお神酒(みき)をそなえ、お年寄りの代表が熱心に祝詞(のりと)(神様に祈ることば)をとなえ始めたと。そして、雨を降らせたい一心に、「雨乞いの軸」をするするするっと、一気に全部開けてしまったんだそうな。
すると、急に空が真っ暗になり、大地が張(は)り裂(さ)けんばかりの雷と、稲光(いなびかり)がとどろき、滝のような雨が降り出して、みるみる一面の水びたし。村の衆は、飛び上がって喜び合いながら、急いでそれぞれ自分たちの家へ帰ったと。そして、家の者と空を見上げては、うるおってきた田んぼや畑のことを考え、神さまにお礼をいったと。
 ところが、今度は二日たっても三日たっても何日たっても、雨は止まらんかったと。とうとう、田んぼも畑も川も水があふれて、ありがたがっていた人も心配になりだして、善声院さんを訪(たず)ねたそうな。善声院さんは、
「そりゃ、村の衆。雨乞いの軸の使い方を間違えておったんじゃよ。あれはな、決して全部開いてはいけないんじゃ。そんなことをすれば、軸に書かれた龍神さまのごりやくがいっぺんにあらわれ、今度のような、洪水(こうずい)になってしまうんじゃよ。軸は、真ん中あたりまでしか、開(あ)けてはならんのじゃよ。」
と、言われたそうな。
 それからというものは、日照りが続いて、どうしても雨を降らせたいとき、村人が集(あつ)まって、この「雨乞いの軸」を取り出して、願いがかなうまで繰(く)り返(かえ)し、大目神社で祈ったそうな。決(けっ)して全部開いてはならぬという教えを固く守りながらのう。
 今では、このあたりもすっかり様子が変わり、農業用の水路も引かれ、昔のような心配事は、のうなった。おかげで、この雨乞いの軸を広げて使うことものうなった。
 じゃが、この軸は、氏子(うじこ)総代(そうだい)の人が、代々大切に預って、しまっておいてくださっとるということじゃ。