妻の神

さいのかみ


伝承地 瀬戸市下半田川町
むかし、下半田川しもはだがわ村に小治呂こじろ稗多古ひたこという兄と妹が住んでいました。こんな山奥の村では、想像そうぞうもできないほどの、それはそれは美しい兄と妹でした。
二人はだんだん年ごろになり、結婚けっこんしたいと思うようになりました。しかし、近くに住む若者たちは、とても兄と妹の美しさにはかなわず、なかなかよい相手が見つかりませんでした。兄は、
「せめて、自分の妹ほどの、むすめがこの世にいたらなあ。」
と思っていました。妹は妹で、
「せめて、自分のお兄さんほどの、若者がこの世にいたらなあ。」
と、思っていました。
ある日、兄は妹に、
「いくら二人がこうしていても、このままでは思うような相手が見つかりそうもない。日本の国は広い。きっと、どこかにすばらしい人がいるだろうから、いっそ思い切ってこの村から旅立とう。二人が別れるのはつらいけど、おたがいに思う相手が見つかるまでは、別々に旅にでかけよう。」
と、言いました。
二人は、別れるのがつらくて涙を流しながら、それぞれの相手をさがすために、ある夜こっそり村人に気付かれないように、別々に旅立って行きました。
人のうわさも七十五日(世の中の評判は長く続かない。七十五日もすれば忘れられてしまうということ。)といわれるように、月日がたつにつれて、村人たちは小治呂と稗多古のことをすっかり忘れてしまいました。
ある日のこと、この村に夫婦ふうふかと思われるような二人づれの旅人がつかれた様子で歩いていました。そして、その夜、数年前美しい兄と妹が住んでいた家に久しぶりにあかりがともり、夜おそくなるまで、すすり泣く声が聞こえてきたということです。
あくる朝、不思議ふしぎに思った村人たちがこの家の中をのぞくと、どうでしょう。きのう見かけたあの旅人二人が、いきえではありませんか。男の方は、それでも苦しい息の下から、
「わたしたちは、この世で思うような相手を見つけることはできません。日本国中くまなく探し求めて、やっと見つけた美しい人は、実は何年か前に別れた自分の妹でした・・・。とうていこの世では、おたがいに相手になる人はいない。もう生きる望みもなくなった・・・。わたしたちは不幸に探せなかったが、神になって今後の若い人のために縁結えんむすびの役にたちたい・・・。」と、言って息がえました。
村人たちは、あまりの悲しいできごとに、涙を流しながら、二人を手厚くほうむりました。そして、一体の石に二人の姿を刻み、そこにやしろを建ててまつりました。
これが縁結びの神として知られる「妻の神」です

出典 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会『せと・あさひのむかしばなし1 おしょうさんにしかられた龍』(1999年)

お五輪さん

おごりんさん


伝承地 瀬戸市吉野町
 山口の屋戸(やと)というところに、観音(かんのん)山と念仏(ねんぶつ)山とがあります。この二つの山を、昔から「おごりんさん」と、言っていました。
 観音山には、五輪の塔(とう)が三体ならんでいます。その中で、一番高いのが、松原下総守(しもふさのかみ)の墓だと言われています。それとならんで、小さな塔が二体あります。
 この他に、一体が念仏山の南にあり、家来(けらい)の墓だと言われています。また、このあたりには、多くの家来の墓もあるだろうと言われています。
 念仏山のふもとの人々は、その当時、下総守やその家来たちが安らかに眠るのを願って、念仏をとなえ、供養してきました。それで、念仏山と言われるようになったのだろうと言うことです。
 時代が移り変わるにつれ、下総守や家来たちの供養がうすらぎ、いつとはなく地元の人たちへの供養と変わっていきました。
 立秋がすぎ、旧盆が近づいてくると、村の子どもたちは、
「初盆(はつぼん)の家は、どこだか知っているか。」
「山田さんの家だ。ようけ、お供えがあるのでいいぞ。」
「はよう、お盆がくるといいなぁ。」などと、お盆のくるのを指折り数えて、楽しみにしていました。
 旧盆の八月一三日
「きょうは、おしょろいさんがお客においでるでな。」と、どこの家でも仏壇や家の中をきれいにし、ご馳走をつくって迎えの準備で大忙しです。そして、夕方近くになると、あちらこちらの家の庭先で、迎え火のあかりが見え始めます。
 初盆の家では、
「ことしは、念仏山で村の人たちがお経をあげておくれるで、はよう迎えに行かないかんぞな。」と、花、線香、ろうそく、たい松など取り揃えて、家の人をはじめ、親戚一同がそれってお墓へお参りに行きます。そのあと、百八のたい松に火をつけて、お墓から家まで歩きます。
 念仏山では、村の人たちがたい松を燃やし、おしょろいさんおくるのを待っています。日がくれて、あたりが暗くなると、やがて初盆の家の人がお供えを持って、山へ上って行きます。そして、たい松のあかりを囲み、戒名(かいみょう)を言って、チンチンかねをたたきながら、
「ナムアミダブツ。ナミアミダブツ。」と、声高らかにお経をあげます。お経が終わると、家の人がお礼のあいさつを言って、お供えの菓子や酒をふるまい、しばらくいろいろな話をしながら、食べたり、飲んだりします。
 このようにして、初盆の供養をしています。これは、村の行事の一つです。
 この念仏山は、信仰(しんこう)の山として、供養の行事が引き継がれ、そのうえ、「お五輪さん」という愛称(あいしょう)をもらって、今日にいたっています。

てんぐの弾蔵さん

てんぐのぜんぞうさん


伝承地 瀬戸市若宮町
時代背景 常夜灯が奉納された寛政十一年(1799)
私は山口村に住んでおり、名前は弾蔵(だんぞう)と申し、父の名は猶(ます)七(じち)、母の名はおたけ、兄弟は九人あり、私は末っ子で別居しており、妻(つま)おすきとの間に五人の子があります。
さて、寛政十一年十二月七日、用事があって海上(かいしょ)へ行き、多度(たど)権現(ごんげん)の鳥居先(とりいさき)を通ろうと社(やしろ)の方を見ると、社の片すみに一人の老人がヒョッコリ現(あらわ)れました。不思議(ふしぎ)に思いながら行き過ぎようとすると、その老人が、
「お前さんはどこへ行かれるのか。その方に頼(たの)みたいことがある。」と言いました。
「私はこの海上の松(まつ)右衛門(えもん)さんに、用事があって参(まい)ります。」
と言ってその場を立ち去ろうとすると、
「では、しばらく待っていよう。私には、このごろ供(とも)の者がいない。三年の間、お前が供をしてくれないか。」
と申されるので、
「私には、妻や子もあります。それに、もう六十歳にもなりますから、どうぞお許(ゆる)し願います。ともかく、海上の用事をすませとうございます。」と言うと、
「では、その間ここで待とう。」
と申されたので、いそいで松右衛門さんの家へ行き、用事をすませたあとで、さきほどのことをこと細かく話しました。
松右衛門さんは
「そりゃ、化(ば)け物のしわざじゃないか。」とびっくりされました。
そこで私は、
「じゃあ、お前さんも一緒(いっしょ)に来てみてください。」
と言って、みんなで先ほどの森の鳥居のそばへ行ってみますと、例の老人は元のところに待っていました。
私は前へ進み、手をついてお断(ことわ)りしましたが、私以外の人には声は聞こえても老人の姿を見ることはできませんでした。
老人から、
「私は、高い山を巡(めぐ)り歩く天狗(てんぐ)だ。さきほどから申すとおりぜひ供をしてくれよ。」
と、強く頼まれましたので、何回もお断りしたのですが、とうとう私は供をすることにしました。
そこで、松右衛門さんに
「お供をすることにしたので、このことを妻や子に伝えてください。」と言って、社の前で手を洗(あら)い、口を清(きよ)めました。こうする間に、松右衛門さんたちには私の姿が見えなくなってしまったそうです。
さて、私はその時、大木に登るにも、大地を行くように身が軽くなりましたが、高いこずえの細いところでハッと目まいがして、何もかも分からなくなってしまいました。
気がついたとき、
「ここはどこでしょうか。」
と、お尋(たず)ねしてみたら、
「上州(群馬県)筑波山(つくばやま)だ。」
とのことでした。
男体(なんたい)権現(ごんげん)、女体(にょたい)権現をおがみ伊勢(いせ)の浅間山から讃岐(さぬき)の国の象(ぞう)頭(ず)山へ飛んで、金毘羅(こんぴら)大(だい)権現をおがみました。
それからどこの国の高山か分かりませんが、あちらこちらと飛び回りました。
そして、どこか大きな森のあるところに下りました。
「ここはどこのやまですか。」
と天狗(てんぐ)さまにお尋ねしたら、
「善光寺(ぜんこうじ)の山だ。」と申されました。
私は急に故郷のことを思い出して、
「帰りたい。」
とお願いしたら、すぐに聞いてくだされ、膏薬(こうやく)の作り方や、のどに物がささったのを取る方法や、馬や牛の病気をまじなう方法なども教わりました。
はじめて自由の体になって、山を下り身につけていたぼろぼろの着物を着替(きが)えて、その年の十二月七日、ちょうど三年前の同じ日に帰り着きました。
そうして、天狗さまから教わった膏薬を練り、試してみましたら、よく効くことてきめん、近くの村はもちろん遠いところからも、われもわれもと、たくさんの人が訪(たず)ねて来られ、小さな私の家はいっぱいで、行列(ぎょうれつ)ができたほどでした。とてもだめだと言われた病気もこの膏薬を塗ると不思議や不思議、たちまち治ってしまいました。
弾蔵さんは、その後お金をもうけて、本泉寺(ほんせんじ)の一隅(ひとすみ)を借り、「奉納(ほうのう)諸山(しょざん)」の碑と常夜燈(じょうやとう)を奉納(ほうのう)されました。

奉納諸山碑と弾蔵の常夜燈

おしょうさんにしかられた龍

おしょうさんにしかられたりゅう


伝承地 瀬戸市定光寺町
定光寺の本堂(ほんどう)裏(うら)の小高い丘に、尾張藩(おわりはん)の殿様であった徳川(とくがわ)義(よし)直(なお)公(こう)(徳川家康の第九子)のお墓があります。その入口に龍門(りゅうもん)と呼ばれる門があります。その門の天井に、狩(かり)野(の)元信(もとのぶ)が描いたと伝えられている龍の絵があります。この龍は、人が寝静(ねしず)まると、門から百メートルほど坂を下ったところにある池に、毎晩のように水を飲(の)みに行くということです。
 真夜中になると、嵐(あらし)のようなざわめきに続いて、玉を転(ころ)がすようなとてもきれいな声の歌が聞こえてきました。いつも不思議(ふしぎ)に思っていたお尚(しょう)さんは、ある晩、雨戸を少し開けてすき間からじっと息をころして、外の様子(ようす)をうかがっていました。すると、どうでしょう。龍門の天井におさまっているはずの龍が、
「ああ、今晩も退屈(たいくつ)じゃ。どれ、のども渇(かわ)いたことだし、ちょいと水でも飲んでこよう。」と言いながら、山を揺(ゆ)るがし、嵐(あらし)のように池のふちまで行き、ぐびぐびと水を飲みはじめました。池の水がそんなにおいしいのでしょうか。目をつり上げ牙(きば)をむき出したいつもの恐ろしい顔とはうって変わって、龍は目じりを下げ、いかにも穏(おだ)やかな表情で、
「ひと口飲んではコオロ。ふた口飲んではコオロ、コロ。み口飲んでは、コオロ、コロコロ・・・。」と、気持ち良さそうに歌っています。お尚さんは、すっかり驚いてしまいました。そこで、さっそく、この池を龍吟(りゅうぎん)水(すい)と名づけました。
 ところが、ちょうどそのあと、
「どうも、近(ちか)ごろ、うちの田畑(たはた)が荒(あ)らされて困(こま)っとるが、おまあさんとこは、どおやな。」
「うん…。ほう言われや、おれんとこも、きんのう、なすがぎょうさん、ちぎられとったが、悪うやつがおるもんやな。」
「ほうや。うちのおっかぁもこの前、「いもを洗って、いかけに干しとったら、ひと晩のうちに全部のうなっとった。」と、怒(おこ)っとったがや。」と言う村人の声がお尚さんの耳に入りました。そういえば、龍は水を飲んだ後、ときどき上機嫌(じょうきげん)で村里へ下りて行くことを知っていたお尚さんは、
「これはきっとあの龍のしわざにちがいない。ことが大きくならないうちに、なんとか手をうたねばならない」と考えました。
 そして、あくる日、お尚さんは心を決(き)めて、龍門の龍に、
「やい、おまえ、そもそも源(げん)敬(けい)公(こう)(義直公の別名)の御霊(みたま)を守る役目にありながら、よくも役目を怠(おこた)ったな。そればかりか、村里の田畑を荒らすとは、もってのほか。覚悟(かくご)せい。」と言うが早いか、ふところに隠(かく)し持っていたのみを龍の目にうちこんで、龍が天井から降りられないようにしました。すると龍は、
「わたしが悪うございました。これからは、一歩たりともここを離れず源敬公の御霊をお守りしますから、これまでのことはどうぞお許(ゆる)しください。」と、大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)を流しながら、すなおにお尚さんにあやまりました。
 それ以来、龍が龍門の天井を離れたという話は聞かれなくなりましたが、あの美しい龍の歌声も聞かれなくなりました。きっとこの龍は、お尚さんの言いつけ通り、今も龍門の天井から源敬公の御霊を守り続けていることでしょう。

流れてきた観音さま

ながれてきたかんのんさま


伝承地 瀬戸市?
 菱野村を流れる山口川の南側には、昔から、川上に一つと川下に一つ、合わせて二つの水の取り入れ口があり、そこから川の水を引いて、田んぼに水を入れていました。
 ある年、雨が降り続いて、川の水がいっぱいになり、堤防が危なくなったので、その様子を見回っていた村人が、川下の水の取り入れ口に、流れて引っかかっていた一体の観音(かんのん)さまを見つけました。
「大水で、観音さまが流れてござったけど、どうしよう。」
「そうさなあ。おらたちで、お祀りするか。」
「そうだ。みんなで、お祀りしよう。」ということになり、水の取り入れ口の近くに、小さなお堂を建てて、流れてきた観音さまをお祀りしました。
 はじめのうちは、珍しさもあって、村人たちも観音さまの世話をよくしましたが、だんだんと世話をする人もなくなり、お堂もササや雑草におおわれてしまうほど、荒れはててしまいました。
「このままでは、観音さまがお気の毒だ。」
「前のように、もう少しお世話しようじゃないか。」
「話はわかるが、おらたちも忙しいので、観音さままで手がまわらんがな。」
「そうだ、ここでは遠いので、お寺へでもお移ししたらどうだ。」
「それは、いい考えだ。」というので、村人たちは、観音さまをお寺へ移し、お世話をすることにしました。
 ところが次の年、どうしたことか、村の米が取れなくなったり、村人が重い病気にかかったりしました。
「どうして、こんなふうになるんだろう。」
「困った。困った。」と、話し合っていると、ふとひとりの老人が、
「この間まで、水の取り入れ口に観音さまがござった。その観音さまを、勝手に動かしたたたりじゃぞ。」と、言いましたので、他の村人たちも、
「そうかも、しれんなあ。」
「これはきっと、観音さまのたたりにちがいない。」
「観音さまは、あそこがよかったのじゃ。」
「観音さまを、元のところへもどそう。」
 村人たちは、さっそく観音さまを、また元のところへ戻しました。すると、どうでしょう・・・。観音さまのお顔もどことなくにこやかに感じになられ、米もよく取れるようになり、病気もおさまったと、いうことです。
 その後、この観音さまを、だれ言うともなく、川下の取り入れ口にある観音さまということで、「下杁観音」と、呼ぶようになり、病気を直してくださる観音さまとして、お参り人も多くなりました。
 昭和四三年に、お堂も建てかえ、奉賛会(ほうさんかい)の手で、今でもお世話していると、いうことです。

しょうじがね池 

しょうじがねいけ


伝承地 瀬戸市西山町
 西山町に茶碗や皿の割れたものなど工場から出るごみを捨てるところがありますが、知っていますか。あのあたりに伝わるお話をしましょう。
 このごみ捨て場あたりは、しょうじがね池という名前の池でした。そして、この池のほかにも、まだ二つ・三つの池がありました。
 ここに池がたくさんあったのは、およそ五〇〇年前、このあたりをおさめていた松原下総守(しもふさのかみ)広長※1が池をつくったからです。自然のままのこのあたりは、水の便が悪くて田畑にもあまりなりません。また、雨が降れば、山から一度に水が流れて百姓たちを苦しめていました。
 そこで、広長は山から水が一度にあふれ出ないようにし、作物も取れるようにしようと考えました。広長は、工事の先頭に立って、モッコ(縄を網のようにあんで、土や石を運ぶようにしたもの)をかつぎ、段々にいくつかのため池(田畑に使う水をためておく池)をつくり、水路で池をつなぎ、水が一度にあふれ出ないようにしました。そのため、作物はできるようになり、山もくずれることがなくなりました。百姓たちはますます広長を慕っていきました。
しょうじがね池は、今はすっかり埋め立てられてしまい、池のまわりの山は切り開かれて、家がたくさん建ちました。とても考えられないくらい、発展しました。しかし、ちょっと大雨が降ると、水はすごい勢いで電車の線路を越え、川北町・川西町あたりの道路を川にしてしまいます※2。こんなとき、しょうじがね池のことが思い出されます。
※1 「およそ五四〇年前」
 松原広長は、室町時代に今村城の城主であり、今村を拠点とした在地領主と考えられています。文明14年(1482)には、科野郷(現在の品野地区)の桑下城を居城とする在地領主の永井(長江)民部と、安土坂(現在の安戸町あたり)他で対戦の末、敗れ戦死したと伝えられています。
また、江戸時代に編纂された『張州府志』に、「文明5年(1473)9月、松原広長が今村八王子社を造進」と記載されます。

空騒ぎの地

からさわぎのち


伝承地 瀬戸市小田妻町
 時代背景 正徳6年(1716)4月七代将軍家継は八歳で病死。将軍家の血筋が絶えたことによる、将軍職就任にまつわる伝説
 今から二六〇年ほど前※1のお話です。
 そのころは、江戸時代といい、将軍は七代目の徳川家継(いえつぐ)という人でした。家継は、四歳で将軍の位につき、四年ほど経っていました。ところが、家継は病弱で間もなく死んでしまいました。もちろん、後継ぎがありません。そこで八代目の将軍にだれになるか、いろいろ噂されていました。
 尾張藩(今の愛知県のこと)の五代目徳川宗春(むねはる)という殿様は将軍にいちばん近い位にある人でしたので、八代将軍になるのではないかと思われていました。しかし、どういうわけか紀州(今の和歌山県のこと)の殿様の徳川吉宗(よしむね)が八代将軍に選ばれてしまいました。これを聞いた尾張藩の侍たちは、
「うちの殿様をさしおいて、紀州の殿様が将軍になるなんて・・・」
「順番からいけば、この尾張の殿様が将軍なのに・・・」と、大変怒りました。そこで、このことに不満を持っていた侍たちが、水野村に集まって、
「八代将軍を吉宗にするのは反対だ。」
「尾張の殿様を将軍にしよう。」
「八代将軍は、徳川宗春さまだ。」
「尾張から将軍を。」などと、口々に大きな声を出して、勢いのよいところを示しました。
 尾張の侍たちのこうした「八代将軍吉宗反対」の行動も効き目がありませんでした。この行動は、大騒ぎだけで終わってしまいました。
 その後、この騒ぎのあったところを空騒ぎのあった場所ということから、唐沢(からさわ)と呼ぶようになったということです。
 今も、中水野の交差点の東あたりに、唐沢という地名が残っています。
※1 「今から三〇〇年ほど前」
 徳川吉宗の将軍職補任は、享保元年(1716)8月13日。

空騒ぎの地

からさわぎのち


水野村大字下水野に唐沢という地がある。これは八代将軍が、紀伊から入って将軍職を継ぐにあたって、尾州では、御三家の隋一でありながら、他家に将軍職を奪われるのを遺憾に思って、藩士等がここに集まって示威(じい)運動をしたが、なんらの功もなせなかった。全く空騒ぎに終わったので、その地を唐沢と称するようになったと伝えている。
<「愛知県伝説集」昭和12年より>

二の椀坂

にのわんさか


伝承地 瀬戸市南山口町
 時代背景 椀貸伝説。椀貸伝説(わんかしでんせつ)は、人寄せで多くの膳椀が入用の場合、その数を頼むと貸してくれるという沼や淵の話。全国的に分布がみられる。不注意から破損したり、心がけの悪い者が数をごまかして返したので、その後は貸さなくなったという
 山口の南山、国道一五五号線の東の古い山道に、二の椀坂と呼ばれるところがあります。
 むかし、山口のある家で、嫁とり(よめとり:嫁を迎えること。結婚式)をすることになったが、宴会に使う椀がないので、どうしたらよいだろうと考えていました。そのとき、親類の者が、
「八草(やくさ)にわんがし池=正しい名は富瀬池(とみせいけ)=という池があるげな。なんでも、この池に貸して欲しい椀の名と数を白い紙に墨で書いて、池に投げ入れておくと、次の朝、ちゃんとたのんだだけの椀が岸のところに置いてあるということだで、あの神様にたのんで、借りてきてはどうか。」と、教えてくれました。
 そこで、家に人はさっそく池に出かけ、教えられたようにして、足りない汁椀(しるわん:=汁椀のことを「二の椀」ともいう。二の椀を壊した坂というので「二の椀坂」というようになりました=)を借りました。家に帰る途中、急いでいたので下り坂で、つい足を滑らせて転んでしまいました。
「ああ、痛かった。あっ、お椀が一つ壊れちゃった。」
「どうしたらいいんだろう・・・。まあ、いいや。一つくらいなら何とかなるだろう。」と、一つ足りないまま、家に持ち帰って宴会を済ませました。
 そして、元の池へ一つ足りないまま椀を返しておきました。そのときは、何ごともなく済みましたが、その後はだれかが椀を借りようとすると、池の中からきみの悪い声で、
「足りぬぞう。」という声が聞こえるだけで、椀を借りることができなくなったということです。
 その後、いつの間にか、転んで椀を壊した坂を「二の椀坂」というようになったということです。

大槇

おおまき


伝承地 瀬戸市品野町1丁目
 時代背景 文明14年の大槇山、安土坂、若ヶ狭洞の合戦
 今から一二〇〇年も前※1のことです。人々は、伝染病や地震、日照りなどの天災(大水や地震など、自然による災害)が続いて、大変苦しんでおりました。
「去年は、大雨で品野川があふれ、米がよう取れなんだ。」
「今年は今年で、日照りが続き、田んぼの水がかれてひび割れてきた。このままでは、稲はみんな枯れてしまうぞ。」
「それに、このごろは訳の分からぬはやり病(伝染病のこと)が広まり、死人も出るほどじゃ。」
「困った。困ったものじゃ。」と、村人たちのなげくのが、あちらこちらで見かけられました。
 そんなところへ、仏の教えをときながら全国を旅しておられる都のえらいお坊さんが、数人のお弟子さんを連れて、通りがかられました。お坊さんは、人々の苦しみの様子を耳にされ、村の様子やまわりの土地の様子を調べて歩かれました。
 次の日から、お坊さんは、お経(おきょう)をとなえながら、お弟子さんたちと水の出そうな所に井戸を掘りはじめました。しばらく掘り進むと、そこから水がとめどなく湧きはじめました。この様子を見ていた村人たちは驚きました。それからは、お坊さんの指図に従って、たくさんの井戸を掘り、川の流れを変える工事まではじめました。その上、日照りに備えて、まわりの山すそにため池もつくりました。
 やがて、村人たちとともに汗を流したお坊さんたちの出発の日がおとずれ、村人たちは別れをおしみ、みんな村はずれまで見送って行きました。
「お上人(しょうにん)様、これからの私たちの励ましになるようなものを残していただけわけには、まいりませんでしょうか。」
「旅の途中で何もないが、これを残しておこう。」といって、持っていた槇(まき)の木でつくった杖(つえ)を地面につきさして行かれました。不思議なことに、その杖は逆さまのまま(杖はふつう持つところが根の方で、地面につくところが幹や先のほうでできている。)根がついて、ついには見上げるばかりの大きな木になったということです。
 これは、品野から陣屋へ通ずる旧街道の途中にある「大槇」というところのお話で、この槇の木は、逆さに立てたのに根付いたところから「さか槇」とも呼んでいます。
 このえらいお坊さんは、奈良の大仏をつくるために、全国をまわって人々の協力を求めて歩き続けた「行基(ぎょうぎ)上人」であったと伝えられています。
※1 「今から一三〇〇年も前」
 行基菩薩は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれる。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済、治水、架橋などに活躍した。