ちゃぼ

ちゃぼ


伝承地 瀬戸市三沢町
時代背景 戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が一色山城に居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられる。
 金鶏伝説(きんけいでんせつ)は、山や塚に埋められた金鶏が、多くは元旦に鳴くという伝説で、このような伝説は日本全国各地に数多く伝えられている。

 むかし、水野村の一色(いっしき)山に立派(りっぱ)な、美しいお城がありました。このお城の名前は、一色城と言い、またの名を城ヶ(しろが)嶺(ね)城とも、五万石(ごまんごく)城とも言って、村人たちの自慢(じまん)の城でした。この城は、左近(さこん)という殿様(とのさま)のお城でした。
殿様は、朝と夕方になると、お城の庭(にわ)に出て、東谷山(とうごくさん)や水野川の両わきに広がる田んぼをながめ、農家の人たちの働(はたら)く姿(すがた)を見るのをとても楽しみにしておりました。そして碁(ご)がとても好(す)きでした。今日も、近くの感応寺(かんのうてら)へ行って、お尚(しょう)さんとのんびり碁をうっておりました。
 春の日差しが部屋まで入り込み、とても気持ちのよい昼下がりで、むすめの倶姫(ともひめ)のことやいろいろ話をしながら碁を楽しんでいる最中に、家来(けらい)の者があわててかけ込み、
「お殿様、大変(たいへん)でございます。今、お城が攻(せ)められております。お急(いそ)ぎください。」と知らせました。でも、殿様はゆうゆうとして、
「何を言う。白は、こちらが先手(せんて)じゃ。」と、少しもあわてませんでした。碁に熱中のあまりお城のことなど、頭にありませんでした。碁が終わってから、城に帰ってみると大変でした。品野の落合城の侍(さむらい)たちが城を攻(せ)め落とした後でした。殿様は、
「ひきょう者め、わしが留守(るす)の間に城を攻め落とすとは、わしが追っかけて逆(ぎゃく)に滅ぼしてやる。」というなり、一人で追いかけました。余(よ)床(どこ)まで追って、敵に追いつきました。
「わしは、一色城主 左近だ。」と、名のり、勇(いさ)ましく戦(たたか)いましたが、相手は大変(だいへん)な数で、ついになすすべもなく敗(やぶ)れてしまいました。
 この悲しい知らせを聞いた一人娘の倶姫は、大変悲しみました。姫は、日ごろお父さんをしたっていたので、自分ももう生きてはおれないと小さな胸を痛(いた)めました。殿様が大切にして床の間にかざっていたちゃぼをしっかり抱(だ)いて火でくすぶっている城のうらに出ました。そして、姫はちゃぼを抱いたまま、井戸(いど)へ若い身を投げて死んでしまいました。その日は、一月一日の明け方でした。
 その後、一月一日になると不思議なことに一色山の頂上から、姫をなぐさめるかのように、「コケコッコー」というちゃぼの美しい声が周辺の山々に、そして村々に聞こえるようになったそうです。
⇒ 「一色山城(水野城)」の項参照

長命井

ちょうめいせい


伝承地 瀬戸市本地地区?
 時代背景 清州城と信長 弘治元年(1555)、信秀の後を継いでいた信長は、一族の織田信友を滅ぼして那古野城から清州城に移った。信長は桶狭間の戦い(永禄3年(1560))に出陣したのは清州城からである。
 むかし、本地の植田に尼寺(あまでら)があり、この寺の水は、尼さんがいつも水をくんで使い、代々長生きをしたそうです。その中で、隋円(ずいえん)という尼さんは、一三六歳まで生きたということです。そのようなわけで、だれ言うともなく、この井戸の水を飲む者は必ず長生きをするということで、長命井と名付けられたそうです。
 この井戸のことを、このあたりのお年寄りに聞いてみたら、次のような言い伝えを話してくれました。
 今からおよそ四〇〇年ほど前※1、この長命井のうわさを耳にした清州(きよす)のお殿様は、長く生きようとおもったのでしょうか、
「本地というところへ行けば、長命を保つという井戸があるそうだ。そのいわれのある水をくんでまいれ。」と、言いつけました。
 家来はさっそく、その水をくみに出かけて行きました。
 こんこんとわき出る水をひょうたんにくみ、腰にぶら下げて急いで帰りました。何のはずみか、早く届けようとして、そそうし、その水をこぼしてしまいました。
 皮肉なことに、この水はとうとう清州城へ届かず、信長の口には入らなかったということです。
 なお、この隋円の用いた茶釜や、その当時祀ってあったという薬師如来(やくしにょらい)は、本地の海雲山正覚寺(かいうんざんしょうかくじ)にあると、言い伝えられていたが、今ははっきりしていません。
 長命井の跡がなくて残念ですが、もし、昔のままであったなら、興味深いものです。しかし、つくりかえられた井戸が、今でも水をたたえています。
※1 「今からおよそ四五〇年前」

妻の神

さいのかみ


伝承地 瀬戸市下半田川町
むかし、下半田川しもはだがわ村に小治呂こじろ稗多古ひたこという兄と妹が住んでいました。こんな山奥の村では、想像そうぞうもできないほどの、それはそれは美しい兄と妹でした。
二人はだんだん年ごろになり、結婚けっこんしたいと思うようになりました。しかし、近くに住む若者たちは、とても兄と妹の美しさにはかなわず、なかなかよい相手が見つかりませんでした。兄は、
「せめて、自分の妹ほどの、むすめがこの世にいたらなあ。」
と思っていました。妹は妹で、
「せめて、自分のお兄さんほどの、若者がこの世にいたらなあ。」
と、思っていました。
ある日、兄は妹に、
「いくら二人がこうしていても、このままでは思うような相手が見つかりそうもない。日本の国は広い。きっと、どこかにすばらしい人がいるだろうから、いっそ思い切ってこの村から旅立とう。二人が別れるのはつらいけど、おたがいに思う相手が見つかるまでは、別々に旅にでかけよう。」
と、言いました。
二人は、別れるのがつらくて涙を流しながら、それぞれの相手をさがすために、ある夜こっそり村人に気付かれないように、別々に旅立って行きました。
人のうわさも七十五日(世の中の評判は長く続かない。七十五日もすれば忘れられてしまうということ。)といわれるように、月日がたつにつれて、村人たちは小治呂と稗多古のことをすっかり忘れてしまいました。
ある日のこと、この村に夫婦ふうふかと思われるような二人づれの旅人がつかれた様子で歩いていました。そして、その夜、数年前美しい兄と妹が住んでいた家に久しぶりにあかりがともり、夜おそくなるまで、すすり泣く声が聞こえてきたということです。
あくる朝、不思議ふしぎに思った村人たちがこの家の中をのぞくと、どうでしょう。きのう見かけたあの旅人二人が、いきえではありませんか。男の方は、それでも苦しい息の下から、
「わたしたちは、この世で思うような相手を見つけることはできません。日本国中くまなく探し求めて、やっと見つけた美しい人は、実は何年か前に別れた自分の妹でした・・・。とうていこの世では、おたがいに相手になる人はいない。もう生きる望みもなくなった・・・。わたしたちは不幸に探せなかったが、神になって今後の若い人のために縁結えんむすびの役にたちたい・・・。」と、言って息がえました。
村人たちは、あまりの悲しいできごとに、涙を流しながら、二人を手厚くほうむりました。そして、一体の石に二人の姿を刻み、そこにやしろを建ててまつりました。
これが縁結びの神として知られる「妻の神」です

出典 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会『せと・あさひのむかしばなし1 おしょうさんにしかられた龍』(1999年)

お五輪さん

おごりんさん


伝承地 瀬戸市吉野町
 山口の屋戸(やと)というところに、観音(かんのん)山と念仏(ねんぶつ)山とがあります。この二つの山を、昔から「おごりんさん」と、言っていました。
 観音山には、五輪の塔(とう)が三体ならんでいます。その中で、一番高いのが、松原下総守(しもふさのかみ)の墓だと言われています。それとならんで、小さな塔が二体あります。
 この他に、一体が念仏山の南にあり、家来(けらい)の墓だと言われています。また、このあたりには、多くの家来の墓もあるだろうと言われています。
 念仏山のふもとの人々は、その当時、下総守やその家来たちが安らかに眠るのを願って、念仏をとなえ、供養してきました。それで、念仏山と言われるようになったのだろうと言うことです。
 時代が移り変わるにつれ、下総守や家来たちの供養がうすらぎ、いつとはなく地元の人たちへの供養と変わっていきました。
 立秋がすぎ、旧盆が近づいてくると、村の子どもたちは、
「初盆(はつぼん)の家は、どこだか知っているか。」
「山田さんの家だ。ようけ、お供えがあるのでいいぞ。」
「はよう、お盆がくるといいなぁ。」などと、お盆のくるのを指折り数えて、楽しみにしていました。
 旧盆の八月一三日
「きょうは、おしょろいさんがお客においでるでな。」と、どこの家でも仏壇や家の中をきれいにし、ご馳走をつくって迎えの準備で大忙しです。そして、夕方近くになると、あちらこちらの家の庭先で、迎え火のあかりが見え始めます。
 初盆の家では、
「ことしは、念仏山で村の人たちがお経をあげておくれるで、はよう迎えに行かないかんぞな。」と、花、線香、ろうそく、たい松など取り揃えて、家の人をはじめ、親戚一同がそれってお墓へお参りに行きます。そのあと、百八のたい松に火をつけて、お墓から家まで歩きます。
 念仏山では、村の人たちがたい松を燃やし、おしょろいさんおくるのを待っています。日がくれて、あたりが暗くなると、やがて初盆の家の人がお供えを持って、山へ上って行きます。そして、たい松のあかりを囲み、戒名(かいみょう)を言って、チンチンかねをたたきながら、
「ナムアミダブツ。ナミアミダブツ。」と、声高らかにお経をあげます。お経が終わると、家の人がお礼のあいさつを言って、お供えの菓子や酒をふるまい、しばらくいろいろな話をしながら、食べたり、飲んだりします。
 このようにして、初盆の供養をしています。これは、村の行事の一つです。
 この念仏山は、信仰(しんこう)の山として、供養の行事が引き継がれ、そのうえ、「お五輪さん」という愛称(あいしょう)をもらって、今日にいたっています。

てんぐの弾蔵さん

てんぐのぜんぞうさん


伝承地 瀬戸市若宮町
時代背景 常夜灯が奉納された寛政十一年(1799)
私は山口村に住んでおり、名前は弾蔵(だんぞう)と申し、父の名は猶(ます)七(じち)、母の名はおたけ、兄弟は九人あり、私は末っ子で別居しており、妻(つま)おすきとの間に五人の子があります。
さて、寛政十一年十二月七日、用事があって海上(かいしょ)へ行き、多度(たど)権現(ごんげん)の鳥居先(とりいさき)を通ろうと社(やしろ)の方を見ると、社の片すみに一人の老人がヒョッコリ現(あらわ)れました。不思議(ふしぎ)に思いながら行き過ぎようとすると、その老人が、
「お前さんはどこへ行かれるのか。その方に頼(たの)みたいことがある。」と言いました。
「私はこの海上の松(まつ)右衛門(えもん)さんに、用事があって参(まい)ります。」
と言ってその場を立ち去ろうとすると、
「では、しばらく待っていよう。私には、このごろ供(とも)の者がいない。三年の間、お前が供をしてくれないか。」
と申されるので、
「私には、妻や子もあります。それに、もう六十歳にもなりますから、どうぞお許(ゆる)し願います。ともかく、海上の用事をすませとうございます。」と言うと、
「では、その間ここで待とう。」
と申されたので、いそいで松右衛門さんの家へ行き、用事をすませたあとで、さきほどのことをこと細かく話しました。
松右衛門さんは
「そりゃ、化(ば)け物のしわざじゃないか。」とびっくりされました。
そこで私は、
「じゃあ、お前さんも一緒(いっしょ)に来てみてください。」
と言って、みんなで先ほどの森の鳥居のそばへ行ってみますと、例の老人は元のところに待っていました。
私は前へ進み、手をついてお断(ことわ)りしましたが、私以外の人には声は聞こえても老人の姿を見ることはできませんでした。
老人から、
「私は、高い山を巡(めぐ)り歩く天狗(てんぐ)だ。さきほどから申すとおりぜひ供をしてくれよ。」
と、強く頼まれましたので、何回もお断りしたのですが、とうとう私は供をすることにしました。
そこで、松右衛門さんに
「お供をすることにしたので、このことを妻や子に伝えてください。」と言って、社の前で手を洗(あら)い、口を清(きよ)めました。こうする間に、松右衛門さんたちには私の姿が見えなくなってしまったそうです。
さて、私はその時、大木に登るにも、大地を行くように身が軽くなりましたが、高いこずえの細いところでハッと目まいがして、何もかも分からなくなってしまいました。
気がついたとき、
「ここはどこでしょうか。」
と、お尋(たず)ねしてみたら、
「上州(群馬県)筑波山(つくばやま)だ。」
とのことでした。
男体(なんたい)権現(ごんげん)、女体(にょたい)権現をおがみ伊勢(いせ)の浅間山から讃岐(さぬき)の国の象(ぞう)頭(ず)山へ飛んで、金毘羅(こんぴら)大(だい)権現をおがみました。
それからどこの国の高山か分かりませんが、あちらこちらと飛び回りました。
そして、どこか大きな森のあるところに下りました。
「ここはどこのやまですか。」
と天狗(てんぐ)さまにお尋ねしたら、
「善光寺(ぜんこうじ)の山だ。」と申されました。
私は急に故郷のことを思い出して、
「帰りたい。」
とお願いしたら、すぐに聞いてくだされ、膏薬(こうやく)の作り方や、のどに物がささったのを取る方法や、馬や牛の病気をまじなう方法なども教わりました。
はじめて自由の体になって、山を下り身につけていたぼろぼろの着物を着替(きが)えて、その年の十二月七日、ちょうど三年前の同じ日に帰り着きました。
そうして、天狗さまから教わった膏薬を練り、試してみましたら、よく効くことてきめん、近くの村はもちろん遠いところからも、われもわれもと、たくさんの人が訪(たず)ねて来られ、小さな私の家はいっぱいで、行列(ぎょうれつ)ができたほどでした。とてもだめだと言われた病気もこの膏薬を塗ると不思議や不思議、たちまち治ってしまいました。
弾蔵さんは、その後お金をもうけて、本泉寺(ほんせんじ)の一隅(ひとすみ)を借り、「奉納(ほうのう)諸山(しょざん)」の碑と常夜燈(じょうやとう)を奉納(ほうのう)されました。

奉納諸山碑と弾蔵の常夜燈

たぬきの米つき

たぬきのこめつき


伝承地 瀬戸市本地地区
 むかし、本地の川北の土手に大きな松の木がありました。二人の人が、両手を広げてつないだくらい太くて、その枝は七本に分かれていました。それで、村の人々からは、七本松と呼ばれていました。
 ある夜、村のおじいさんが七本松の近くを歩いていると、何か太鼓をたたくような、トントン、トコトン、トコトンという音が聞こえてきました。
「ありゃあ、いったい何の音だ。」少し聞こえにくいおじいさんの耳にも、はっきりと聞こえてきます。あたりを見回しましたが、だれもいません。ただ、月の光が明るくかがやいているだけでした。
「おかしいなあ。」と、様子をうかがっていると、七本松のあたりから音が聞こえてくるようです。草をかき分けて、そっと七本松の方に近づいてきました。
 すると、どうでしょう。松の木の下で、若いむすめたちが、米をついているではありませんか。
「どこのむすめたちだろう。」と、音をたてないようにして、そっと見続けていました。五、六人いたむすめたちは、みんな白いさらしの手ぬぐいを顔にかぶり、肩から赤いたすきをかけていました。トン トン むすめたちは、米をついています。月の光がむすめたちを明るく照らしています。米がつけたので、手を休め話をしはじめました。話し声はだんだんと大きくなり、ときどき笑い声もしてきました。
 おじいさんは、何を話しているのかと、耳をかたむけましたがよくわかりません。とても楽しそうな笑い声だけは、はっきりと分かりました。おじいさんは、もっと近づこうとして、そっと立って行きました。そのとき急に風が吹いて、ザワザワと草がゆれたと思ったら、むすめたちの姿は、まるで風に吹かれたかのように消えてしまいました。
「あれっ。どうしたこじゃ。」
「まるで、夢でも見ているようじゃ。」と、ボーッと立ちすくんでしまいました。
 しばらくして、風がやみ、おじいさんはいつもの自分にもどり、
「おーい、おーい。」と、大きな声で呼んでみましたが、返事はなく、ただ七本松だけがヒュー、ヒューと、不気味な音を立てているだけでした。おじいさんは、この不思議なできごとを村に帰って、多くに人に話しました。しかし、そんなことがあるはずがないと、全然信じてもらえませんでした。ただ、一人の若者だけが、本当かもしれないと思い、次の夜、七本松のところへ出かけて行きました。
 その夜も、月のきれいな夜でした。若者は草むらにひそんでいました。ずいぶん時間が過ぎました。やっぱりおじいさんの話は、ウソだったのかと思いはじめたとき、どこからか、トントン、トコトン、トコトントンという音が聞こえてきました。若者は、ハッと息をころして、耳をすませました。
「やっぱり、本当だ。」
「おじいさんの話は本当だ。」と、ドキドキしてきました。体をのり出して、七本松の方を見ると、むすめたちが米をついています。きのうのおじいさんの話とまったく同じです。若者は、知らずに体がだんだん前へ出てしまいました。そのとき、同じように急に風が吹いて来て、むすめたちの姿はフッと消えてしまいました。
 次の朝、若者は村の人たちに話しました。しかし、村の人たちは、そんなことがあるだろうかというような顔つきをしていました。話を聞いていた村一番の年寄りのじいさんが
「そりゃのう、きっとあの近くに住むたぬきじゃよ。」
「たぬきが、むすめたちに化けて出たんじゃよ。」と、言いました。また、他のじいさんは、「楽しそうに、米をついていたのじゃで、この村のみんなの幸せをあらわしておるのかもしれんの。」
「たぬきが化けとるなら、きっとええことがないぞ。」
「ばかされたら、どうなるのじゃ。」
「いっそ、あの七本松を切ってしまったらどうじゃろう。」
 村の人たちが相談し、松の木を切ってしまいました。それから後、あのおじいさんも、若者も、そして村のだれもたぬきの化けたむすめたちの米つきを見たという人はありませんでした。

しょうじがね池 

しょうじがねいけ


伝承地 瀬戸市西山町
 西山町に茶碗や皿の割れたものなど工場から出るごみを捨てるところがありますが、知っていますか。あのあたりに伝わるお話をしましょう。
 このごみ捨て場あたりは、しょうじがね池という名前の池でした。そして、この池のほかにも、まだ二つ・三つの池がありました。
 ここに池がたくさんあったのは、およそ五〇〇年前、このあたりをおさめていた松原下総守(しもふさのかみ)広長※1が池をつくったからです。自然のままのこのあたりは、水の便が悪くて田畑にもあまりなりません。また、雨が降れば、山から一度に水が流れて百姓たちを苦しめていました。
 そこで、広長は山から水が一度にあふれ出ないようにし、作物も取れるようにしようと考えました。広長は、工事の先頭に立って、モッコ(縄を網のようにあんで、土や石を運ぶようにしたもの)をかつぎ、段々にいくつかのため池(田畑に使う水をためておく池)をつくり、水路で池をつなぎ、水が一度にあふれ出ないようにしました。そのため、作物はできるようになり、山もくずれることがなくなりました。百姓たちはますます広長を慕っていきました。
しょうじがね池は、今はすっかり埋め立てられてしまい、池のまわりの山は切り開かれて、家がたくさん建ちました。とても考えられないくらい、発展しました。しかし、ちょっと大雨が降ると、水はすごい勢いで電車の線路を越え、川北町・川西町あたりの道路を川にしてしまいます※2。こんなとき、しょうじがね池のことが思い出されます。
※1 「およそ五四〇年前」
 松原広長は、室町時代に今村城の城主であり、今村を拠点とした在地領主と考えられています。文明14年(1482)には、科野郷(現在の品野地区)の桑下城を居城とする在地領主の永井(長江)民部と、安土坂(現在の安戸町あたり)他で対戦の末、敗れ戦死したと伝えられています。
また、江戸時代に編纂された『張州府志』に、「文明5年(1473)9月、松原広長が今村八王子社を造進」と記載されます。

空騒ぎの地

からさわぎのち


伝承地 瀬戸市小田妻町
 時代背景 正徳6年(1716)4月七代将軍家継は八歳で病死。将軍家の血筋が絶えたことによる、将軍職就任にまつわる伝説
 今から二六〇年ほど前※1のお話です。
 そのころは、江戸時代といい、将軍は七代目の徳川家継(いえつぐ)という人でした。家継は、四歳で将軍の位につき、四年ほど経っていました。ところが、家継は病弱で間もなく死んでしまいました。もちろん、後継ぎがありません。そこで八代目の将軍にだれになるか、いろいろ噂されていました。
 尾張藩(今の愛知県のこと)の五代目徳川宗春(むねはる)という殿様は将軍にいちばん近い位にある人でしたので、八代将軍になるのではないかと思われていました。しかし、どういうわけか紀州(今の和歌山県のこと)の殿様の徳川吉宗(よしむね)が八代将軍に選ばれてしまいました。これを聞いた尾張藩の侍たちは、
「うちの殿様をさしおいて、紀州の殿様が将軍になるなんて・・・」
「順番からいけば、この尾張の殿様が将軍なのに・・・」と、大変怒りました。そこで、このことに不満を持っていた侍たちが、水野村に集まって、
「八代将軍を吉宗にするのは反対だ。」
「尾張の殿様を将軍にしよう。」
「八代将軍は、徳川宗春さまだ。」
「尾張から将軍を。」などと、口々に大きな声を出して、勢いのよいところを示しました。
 尾張の侍たちのこうした「八代将軍吉宗反対」の行動も効き目がありませんでした。この行動は、大騒ぎだけで終わってしまいました。
 その後、この騒ぎのあったところを空騒ぎのあった場所ということから、唐沢(からさわ)と呼ぶようになったということです。
 今も、中水野の交差点の東あたりに、唐沢という地名が残っています。
※1 「今から三〇〇年ほど前」
 徳川吉宗の将軍職補任は、享保元年(1716)8月13日。

空騒ぎの地

からさわぎのち


水野村大字下水野に唐沢という地がある。これは八代将軍が、紀伊から入って将軍職を継ぐにあたって、尾州では、御三家の隋一でありながら、他家に将軍職を奪われるのを遺憾に思って、藩士等がここに集まって示威(じい)運動をしたが、なんらの功もなせなかった。全く空騒ぎに終わったので、その地を唐沢と称するようになったと伝えている。
<「愛知県伝説集」昭和12年より>

二の椀坂

にのわんさか


伝承地 瀬戸市南山口町
 時代背景 椀貸伝説。椀貸伝説(わんかしでんせつ)は、人寄せで多くの膳椀が入用の場合、その数を頼むと貸してくれるという沼や淵の話。全国的に分布がみられる。不注意から破損したり、心がけの悪い者が数をごまかして返したので、その後は貸さなくなったという
 山口の南山、国道一五五号線の東の古い山道に、二の椀坂と呼ばれるところがあります。
 むかし、山口のある家で、嫁とり(よめとり:嫁を迎えること。結婚式)をすることになったが、宴会に使う椀がないので、どうしたらよいだろうと考えていました。そのとき、親類の者が、
「八草(やくさ)にわんがし池=正しい名は富瀬池(とみせいけ)=という池があるげな。なんでも、この池に貸して欲しい椀の名と数を白い紙に墨で書いて、池に投げ入れておくと、次の朝、ちゃんとたのんだだけの椀が岸のところに置いてあるということだで、あの神様にたのんで、借りてきてはどうか。」と、教えてくれました。
 そこで、家に人はさっそく池に出かけ、教えられたようにして、足りない汁椀(しるわん:=汁椀のことを「二の椀」ともいう。二の椀を壊した坂というので「二の椀坂」というようになりました=)を借りました。家に帰る途中、急いでいたので下り坂で、つい足を滑らせて転んでしまいました。
「ああ、痛かった。あっ、お椀が一つ壊れちゃった。」
「どうしたらいいんだろう・・・。まあ、いいや。一つくらいなら何とかなるだろう。」と、一つ足りないまま、家に持ち帰って宴会を済ませました。
 そして、元の池へ一つ足りないまま椀を返しておきました。そのときは、何ごともなく済みましたが、その後はだれかが椀を借りようとすると、池の中からきみの悪い声で、
「足りぬぞう。」という声が聞こえるだけで、椀を借りることができなくなったということです。
 その後、いつの間にか、転んで椀を壊した坂を「二の椀坂」というようになったということです。