十三塚

とみづか


伝承地 瀬戸市十三塚町

十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に、十三塚は村落への悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から得られたものと考えられている。現在は、現地に塚はみられないが、当地に伝わる十三塚落武者慰霊供養の位牌などがおさめられた地蔵堂がある。

十三塚地蔵堂の堂内
昭和34年に作られた供養の位牌

「十三塚」という地名の由来については諸説あるが、①16世紀中頃の稲生合戦の折の落武者、あるいは②16世紀後半の小牧長久手の戦いの折の落武者の言い伝えがある。

①織田信長と弟信行が戦った稲生合戦(弘治2(1556)年)にまつわるもの

弘治2年8月24日に信行方についた守山城主松平信貞は信長の勢力に破れて瀬戸へ落ちた。これらの落武者は、瀬戸の追分(現在の十三塚)で13名が自害したが、1名をこの戦を後世に伝えるためと、墓守として品野へ逃がした。しかし、東方の宮脇にて村人に刺され、瀬戸川左岸の前田にて討ち死にをした。後に、村人はこれを哀れみ、その後落武者が自害した辺りを十三塚と呼び、8月24日を供養するようになったと伝えられる。

②小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))にまつわるもの

地域に伝わるむかしばなしの一つ

今から400年ほど前(千六百年ごろ)、長久手というところで豊臣方の軍勢3万が、1万8千の徳川方の軍勢にうしろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ※1。
敗れた豊臣勢の侍は、てんでばらばらに逃げたそうな。いくさに勝った徳川方の侍は口々に、
「相手の侍は、一人も逃がすな。」
と、追手を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、きびしい囲みの中を逃げ出し、そのうちの十三人が何とか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。
「しっかりせよ。」
「なんとか落(お)ち延(の)びよう。」
と、お互い励まし合いながら逃げて、ようやく瀬戸にたどりついた時には、のどはからから、腹はぺこぺこ。そこで、近くの村人たちの家にかけ込んで、
「食べものを少しくだされ。」
「水をのませてくだされ。」
と、口々にたのんだそうじゃ。
しかし、村人たちば、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれてはたまらないと考え、侍たちに食べものや水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて、村人たちは、いつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたんじゃ。
数年後、村に亡霊が出たり、庄屋になった人が不思議な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜が取れないといった不思議なことがおこったそうじゃ。
「どうしたことだろ。」
「何のたたりだろう」
と、村の人たちは、話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落武者のことを思い出し、
「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ」
と、悔んだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなで拝(おが)んだそうじゃ。
それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、八月二四日を
「侍のたましいをなぐさめる日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。
尾張のところどころに、長久手の合戦(かっせん)の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。
※1 「四三〇年ほど前」とは 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い

雨降り地蔵

あめふりじぞう


伝承地 瀬戸市駒前町(地蔵堂:駒前町171番地 寶生寺境内)
時代背景  名古屋築城におけるの堀・石垣の普請は、慶長15年(1610)のこと。
今から400年ほど昔、名古屋城をつくっているころのお話です。
ある日のこと、本地の宝生寺のお寺の下あたりで、運んできた大きな石が車から落ちてしまいました。落ちた石を車にのせようとしましたが、
「重くて運べません。」
「もう、腹が減って動きません・」と、百姓たちは汗をふきながら言うばかりで、石はどうしても、動かすことはできません。
そこで、この石は運ぶのをあきらめて、そのままにしておきました。しかし、このままでは目立つし、邪魔になるので、何とかできないものかと、庄屋山中心に相談を始めました。すると、仲間の老人が、
「この石を石屋にたのんで、お地蔵さんの姿にしてもらったらどうだろう。」と、言いました。
「それは、よい考えだ。」と、みんなはあいづちをうちました。
宝生寺の境内にお祀りしてあるのが、そのお地蔵さんだということです。
毎年八月二三日の地蔵まつりの日に、必ずと言ってよいくらい雨が降るそうです。
そこで、人々はいつのころか、この地蔵さんのことを「雨降り地蔵」と呼ぶようになりました。
また、このお地蔵さんに雨乞いをすると、雨が降ると言われています。

雨降り地蔵尊

地蔵堂について

現在の地蔵堂は平成30年7月に完成し、10月に落慶法要が行われた。その時晋山退薫式もあり、住職が17世俊峰弘人となった。

寶生寺境内の地蔵堂(左手前)
参考文献

瀬戸市教育委員会1982『瀬戸の石造物』

大野栄人・横山住雄1982『尾張 雲興寺史』

幡山村誌編纂委員会1992『幡山村誌』

瀬戸尾張旭郷土史研究同好会2005『せと・おわりあさひのむかしばなし 雨降り地蔵』

金井神社

かないじんじゃ


伝承地 瀬戸市川西町
 どこの学区にも、たいていお寺やお宮があり、そこが子どもたちの遊び場になっていることがよくあります。しかし、狭くて、薄暗かったので、お宮を他へ移してしまったというお話をしましょう。
 旧效範小学校の校区には、今お宮がありません。七五年ほど前まで※1は、今の川西町のどこかにお宮があったと聞きました。
 そこで、お年寄りの方にいろいろ教えていただくと、尾州府志(一七五年※2に出された愛知県の地理の本)という古い本にもついている金井神社ということが分かりました。
 この神社は、ヒロクニオシタケカナヒノミコト(二七代の安閑天皇の御名は広国押武金日命という)という神様をおまつりしていました。その神様の名のカナヒがカナイにかわり、お宮の名前になったのだろうということです。
 その神社は、川西町一丁目あたりで、七アールばかりの細長い土地で、木や竹がたくさん生えて、日の光があまり当らない薄暗いところだったということです。
 朝夕ほとんど太陽の光が当たらないところだったので、七五年ほど前に、八王子神社の境内に移されたということです。
 その跡地は、開墾して畑にしたということですが、おそろしく古い時代に天皇をまつったお宮が川西町にあったというのは確かなことのようです。
※1 不明
※2 「張州府志」(宝暦二年(一七五二)完成)

龍天池

りゅうてんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 時代背景 室町幕府官領家の細川勝元派と有力守護大名の山名特豊派とが、応仁元年(1467)から約10年にわたり続いた戦乱で、京都に始まり全国規模に発展した 京都で応仁の乱(おうにんのらん:今から五一〇年ほど前※1)が始まったころの話です。
 雲興寺の三代目のお尚は、朝夕お経を読み、村人に仏の道を教えていました。
 一四六六年の一一月三〇日の朝のことです。お尚は、けさもいつものようにお経を読んでいました。すると急にあたり一面が暗くなり、大粒の雨が降り出し、風も強まってきました。お尚は急いで本堂の雨戸を閉めようとしたとき、目の前の小さな池の中がざわめいたかと思うと、渦を巻いて竜巻のように登り始めました。その中から小さな龍がおどり出て、岩の上にとまりました。お尚はびっくりして、じっと龍を見つめていました。龍も同じように、お尚をじっと見つめていました。
 さきほどの強い雨はおさまり、あたりは明るさを取り戻していました。お尚は落ち着いたことばで、龍に話しかけました。
「お前はいったい何ものなのか。また、どうしてこんな所へ出てきたのだ。」
 龍も待っていたかのように、訴えるようなことばで話を始めました。
「お尚さん、わたしは、わたしの住む所を探し求めて、あちらこちらさまよい歩きました。この池は、大変住み心地がよく、ここへ来てから三年にもなります。お尚さんの毎朝、毎夕のお経を池の中で聞き、また村の人々にいろいろ話をしておられる様子を見て、直接お尚さんから教えのことばをいただき、できればお尚さんのお仕事を手伝わせてもらいたい。こう考えてまいりました。」
お尚は、龍の話を聞いていたが、
「京都の方では大きな戦いが始まっている。その戦いがこちらの方へ広がってきている。村の人々の不安は日増しにこくなっている。わたしは村を守り、人々が安心して住める村にしたいものだと、思っている。」
「わたしと一緒に寺や村を守ってくれるか。仏さまにお仕えするものが、池の中に住むわけにもいくまい。厨子(ずし)をつくってやるから、その中で暮らすようにしなさい。」
 りっぱな厨子ができあがり、龍は厨子の中にはいることになりました。
「お尚さん。約束はきっと守ります。他の人からながめられると、わたしは余力(よりょく)がなくなってしまいます。どうかこの扉を開けないでください。」
 こう言って、扉の中へはいりました。
 それから何年かたちました。村々に日照りが続き、田畑に水がなくなると、人々はこの池を掃除し、雨が降るように厨子に向かってお祈りをしました。するとどうでしょう。雨が降るではありませんか。
 この話が名古屋城主にも伝わり、お使いをさしむけて、雨乞いをしたという話も伝えられています。
 この池をだれ言うとなく、龍天池と呼ぶようになりました。本堂の本尊右側にその厨子が祀ってあり、裏庭の龍天池は、小さいが枯れることなくきれいな水をたたえています。
※1 今から五四〇年ほど前

龍眼池

りゅうがんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 応永(おうえい)二五年(一四一八)ごろ、赤津の村人たちや、雲興寺(うんこうじ)のお坊さんが、わけのわからない病(やまい)に悩んでいました。
 ある日、この寺のお尚(おしょう)の祖命禅師(そめいぜんじ)が朝のおつとめをしようとしていたときに、猿投大明神(さなげだいみょうじん)が現れました。そして
「この寺の土地は、龍の形をしているが、大切な眼がない。だから、病気が直らないのだ。」とつげて、さっと消えました。
 そこで、さっそくお尚は、そのことを村人たちに話し、龍の眼ににせて、参道(さんどう)の両側に池をほり、「龍眼池」と名付けました。
 不思議なことに、その後、人々の病はぴたりと直ったそうです。
 また、この池の名について、「両眼池」と呼ばれていたものが、後になって「龍眼池」と呼ばれるようになったのだとも言われています。

弥蔵観音の物語

やぞうかんのんのものがたり


伝承地 瀬戸市古瀬戸町・西拝戸町
 時代背景 天保2年(1831)3月27日亡の梅心妙量信女という人が、できもので苦しみ、「私が死んだら祀っておくれ。きっとなおしてやる。」という地元に残された伝説。
 末広町から瀬戸公園下の近くの宝泉寺(ほうせんじ)の前を通り、赤津へぬける昔からの道があります。赤津の手前に洞(ほら)というところがあって、そこに伝わるお話です。
 むかし、むかし、洞に一人ぐらしの女の人が住んでいました。なんとその女の人は、頭のてっぺんからつま先まで、できものだらけでした。畑仕事をするにも家の中の仕事をするにもかゆみといたさで、仕事もきちんとできませんでした。その女の人は、どうしても直したくて、近くのお宮へ何度も何度もお参りしたり、できものがよくなるといううわさがある遠くのお宮へも行ってみたり、薬草をせんじて飲んでみたりしましたが、いっこうに良くなる様子がありません。自分の体じゅうにできたできものを見ては、悲しくなっていました。
 いろいろやってみてもどうしても直らないので、とうとう直すことをあきらめてしまいました。
「できもので悩むのはわたし一人でたくさんだ。わたしが死んだら、できもので困っている人の身代りになり、直してあげよう。」 そして村の人たちに会うたびに、
「わたしが死んだら村はずれの山の上に埋め、祀(まつ)ってくれ。できもので悩む人を救ってやるぞ。」と、口ぐせのように言っていました。
 女の人は、一人暮らしのまま、とうとう死んでしまいました。死ぬまぎわにも、
「わしを祀ってくれ。たのみます。」と、言い残して死んでいったそうです。ところが、村の人たちは女の人に身よりもなく、また貧乏だったので村のお墓に埋めておいただけでした。
 さて、女の人が死んで二・三日たつと、できものが村の人たちにできはじめました。そして、一人、二人とふえ続け、十日もたたぬまに村の人々全部にできものができてしまいました。お宮に参っても、薬をぬっても全くなおりません。とうとう、
「あの女のたたりじゃ。山の上に埋めて、祀ってやらなかったばちじゃ。」と、みんなが言い出しました。
 そこで、村中で、村はずれの山の上にほこらを作って祀ることにしました。すると、どうでしょう。祀ったその夜から一人づつできものが直っていくではありませんか。
 それからというもの、村では、できものができると、山のほこらへ行っておまいりするとすぐ直るため、手厚くいつまでもまつり続けました。おまけに、できものばかりか、腹いたにきくといううわさが広がり、できもの、腹いたで悩む人たちから、大変喜ばれました。
 このほこらに祀ってあるのが、弥蔵観音です。

おろちの花川

おろちのはなかわ


伝承地 瀬戸市下半田川町
 国道二四八号線を、蛇(じゃ)ケ(が)洞(ほら)浄水場(じょうすいじょう)から旧道へ折れ、峠から通称七曲(ななま)がりの坂を下りきって、胴坂(どうざか)とぶつかる所は、かつては、南からの本流と東からの支流がいっしょになって、岩にくだける水音がごうごうと鳴り響く谷川の景観でした。特別天然記念物「オオサンショウウオ」の県内唯一の繁殖地としても知られていますが、最近は環境汚染などで生息が危ぶまれています。
 さて、この谷川にまつわる昔話
 それは、大永(だいえい)年間というから、世の中は乱れて豪族(ごうぞく)が争い、戦乱に明け暮れた戦国時代のころのこと。
 春は桜、秋はもみじの国定公園「岩屋堂(いわやどう)」の渓流から流れ出る鳥原川の流域、鳥原の里は古くから人が住んで遺跡もあることから昔のままの山里の名残りを今も留めています。
 この鳥原の「岩松」という家に身を寄せていた平景(たいらのかげ)伴(とも)という武士がいました。魚釣りが大好きで、毎日のように近くの川へ出かけてたくさんの魚を釣って帰るのを自慢にしておりました。
 今日も、えものを探して釣り竿とビク(釣った魚を入れるふたのあるかご)を持ち、そのころ三国川といったこの谷川にやってきました。岩陰の深みに糸をたれていると、釣れるは釣れるは、大きな白ハエが次から次へとかかってくるではありませんか。
 われを忘れて釣っているうちにビクにいっぱいになりました。
 景伴は、思わぬ大漁にうきうきとして胴坂を上り、夕日にそまった山道を家路に向かいました。日が暮れかかったころ、岩松の家について、どっかとビクを下した景伴は、出迎えの人々に大いばりで
「みなの方々、まず拙者(せっしゃ)の腕前(うでまえ)をご覧くだされ。このとおり・・」
ぞうりもぬがずに大声でわめく声に、みんなはビクのまわりを取り囲みました。意気揚々(いきようよう)の景伴は、得意(とくい)顔(がお)でビクのふたを取りました。
「あっ、こりゃどうじゃ。」
肩にずっしりと重かったはずの獲物が、開けてびっくり。白ハエの銀色が笹の葉の緑に変わってビクにぎっしり。
「こりゃ、なんとしたことじゃ。」
大いばりで大声をあげた手前、かっこう悪くなった景伴は、すっかりしょげて、
「この村には悪い狐がおりまするでなあ。それにしても、景伴さまともあろう方をたぶらかすとは太いやつじゃて・・・」
恐ろしくむずかしい顔をして考え込んでしまいました。
 気まずい夕食を終えた景伴は、あくる日も同じように同じ場所へ出かけて釣りをしました。そして、同じようにたくさん釣れました。
 景伴は、ビクの中を見直し、ぴちぴち跳(は)ねるハエがふたの近くまで盛り上がって動いているのを見て、
「たしかに白ハエだな。よし。」
用心深くビクのふたをして立ち上がりました。途中、何度となく立ち止まっては中をのぞいて帰って来ました。
「今日はたしかに魚だぞ。ほーれ。」
と、開けたビクの中は、何とまた笹(ささ)の葉ばかり・・・。
「やっ! またやりおったか。うーむ。にくい奴め。うーむ。」
 出迎えた岩松はなぐさめることばもありませんでした。
 その夜、まんじりともしなかった景伴は、次の日いつもより早く出かけて、同じ場所あたりに気を配りながら釣り糸をたれていました。
 すると、すっと川上から生臭い風が吹いてきました。見ると、岩に体を巻き付けて頭を持ちあげ、大きな口を開けて今にも跳びかかりそうにじっとこちらをにらんでいる大蛇(だいじゃ)がいました。景伴は、
「おのれ! こやつの仕業じゃな思い知れ。」
とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大きく開いた大蛇の口深くにつき刺さりました。と思う間に、一てん、にわかにかき曇って雷鳴(らいめい)がとどろき、たたきつけるようなどしゃぶりの雨が一時間余りも降り続きました。
雷鳴も次第に収まり、ようやく明るくなり始めた岩の上に、びしょぬれのまま二の矢をつがえてつっ立った石像のような景伴の姿がありました。
気がつくと、さすがの大蛇も急所(きゅうしょ)を射たれて力なく、首を濁流(だくりゅう)の中に突っ込み動こうともしません。大蛇の血は川の水を染めてまっ赤。川の流れは、流れても流れてもまっ赤に染まり、七日七夜の間、緋(ひ)桃(もも)の花を流したようだったと言います。
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、景伴さんは強いお人だのう。」
と、村人たちは、うわさしあいました。
 そして、この深みの主(大蛇)のたたりを恐れてささやかな祠を建ててお祀りしました。
 そうして、この深みのことを「蛇(じゃ)が(が)洞(ほら)」と言うようになりました。
三国川の名は、七日七夜流れた血潮の花くれないにちなんで「花川」と呼ぶようになり、その「花川」が移り変わって「はだ川」(半田川)と呼ばれるようになりました。そして、このあたりの地名にもなったということです。

萩御殿

はぎごてん


伝承地 瀬戸市萩殿町
 時代背景 明治33年(1900)、愛知県による大規模なハゲ山復旧工事が、萩殿町一帯などにおいて実施され、多くの見学者がありました。この人たちの便宜を図るため、工事現場が一望できる位置に、萩を多く用いた建物を建てました。この建物を人々を「萩の茶屋」と呼んでいました。明治43年(1910)11月17日、この地に皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓され、「萩の茶屋」から緑に回復しつつある山々をご覧になり、記念にアカマツの苗を植栽されました。
愛知県の平成16年度治山事業「萩殿の森環境防災林整備事業」として南公園内の森林は整備され、森林の手入れや歩道、案内板などの整備をはじめ、当時の萩御殿を模した休憩施設が設置されています。

 今から六、七〇年ほど前、昭和の初めごろまで、今の萩(はぎ)殿(どの)町あたりに「萩(はぎ)御殿(ごてん)」というのがあったそうじゃ。
今日は、その萩御殿のお話をしようかのう。
そのころよりずっと前じゃが、そこいらから山口にかけての山はのう、大雨が降ると、土や砂がぎょうさん崩(くず)れて流れ出し、大変じゃったと。
村人たちはお役人に山崩れを防ぐ工事を願い出たんじゃ。
そこで、工事が始まったんじゃが、その工事が大がかりでのう。工事面積が、そこいたでは見られないぐらい、とてつものう広かったんで、おおぜいの学者や外国人までも見に来たと。
あんまりおおぜいの人々が見に来るので、工事の様子がよう見える丘に小屋を作ったそうな。
その小屋はのう、はじめは四本の柱を立てて屋根をつけただけの粗末なものじゃったそうな。だけど、それではさびしかったので、辺りにたくさん咲いている萩(はぎ)という木をとって、柱と柱の間に取り付けたんじゃと。
すると、なかなかよい小屋に見えるようになり、見学にきた人もこの小屋でゆっくり工事のお話を聞いたり、お茶をごちそうになったりしたそうな。そして、いつの間にか、だれ言うとなくこの萩で囲った小屋を「萩の茶屋」と言うようになったんじゃと。
そのとき、東宮(とうぐう)さま(のちの大正天皇)が、いくさの演習をご覧に愛知県に来られたのじゃ。そして、瀬戸の工事のことを聞いて、この萩の茶屋に登(のぼ)られ工事の様子をご覧になったそうな。そして、東宮さまが来てくださったことを記念して、この萩の茶屋を「萩御殿」というようになったんじゃと。
その後、萩御殿は古くなって壊(こわ)れてしまったけど、せめてゆかりの地として名前を残そうということになり、新しく町の名前を決めるときに「萩殿町」と決めたということです。いま、祖母壊小学校の校区にある萩殿町と御殿橋がこれじゃよ。

がくの洞の雨乞い

がくのほらのあまごい


伝承地 瀬戸市鳥原町
 瀬戸の北東には、町を見おろすように、三国山とそれに連なる山々があります。その山すそに、四季おりおりのすばらしい自然美を見せてくれる岩屋堂があります。夏にはここにあるプールで、子どもたちが泳ぎ回り、その歓声があたりのセミの鳴き声をかき消すほどです。
 このプールの上を山あいの渓谷にそって行くと、地なりを思わせる大きな音におどろかされます。鳥原川の清流を、岩がせきとめて作った滝があり、清流が滝から落ちる音です。
 このあたりには、いくつもの滝があって、「岩屋七滝」と呼ばれています。その岩屋七滝の一つが、「めおとたき」と呼ばれています。そして、この滝の滝つぼのことを「がくの洞(ほら)」と呼んでいます。
 この洞の主は、「龍神(りゅうじん)さま」で、雨を降らせる神様だということです。
 鳥原川から、田や畑の水をひいている品野の人たちは、日照りが続くと代表者を立て、その人と岩屋堂の入口にある浄源寺の住職とで、雨乞いをするそうです。
 雨乞いのしかたは、代表者と住職とが、水で身体を清めたうえ、幣束(へいそく)を持って、滝の近くの洞穴の龍神さまに祈ります。祈りがすむと、滝のところへ行き、願いごとをとなえながら、手にした幣束を、がくの洞へ投げ込みます。そのとく、滝つぼの水が渦を巻きながら幣束を巻き込んでしまえば、願いどおり必ず雨が降るといわれています。

菱野のおでくさん

ひしののおでくさん


伝承地 瀬戸市菱野地区
 時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
 天(てん)正(しょう)十二年、今から約四百年ほど前のお話です。
 徳川(とくがわ)方と豊臣(とよとみ)方が長久手(ながくて)で戦った時のことです。
 徳川方に敗れ、負けいくさになった豊臣方の総大将池田勝(しょう)入(にゅう)信(のぶ)輝(てる)の家臣梶(かじ)田(た)甚五郎(じんごろう)直(なお)政(まさ)は、ひどい傷(きず)を負い、ようやく菱(ひし)野(の)までたどり着きましたが、もう動くこともできなくなっていました。
 そこで村人に、
「わたしは猿投(さなげ)山に行きたいが、とうていこの体ではむりだ。」
と、苦しい息の下から、
「わたしの命もこれまで。だれか早く介錯(かいしゃく)して葬(ほうむ)ってはくれまいか。」
と、たのみました。
 しかし、後のたたりを恐れてだれ一人手を出す人はいませんでした。
 そうしている間に甚五郎は、その場で息をひきとってしまいました。
 村人はあわれに思って、千寿寺(せんじゅじ)の覚(かく)心(しん)和尚(おしょう)にこのことを話し、手厚く葬ってもらいました。しかし、そのときに馬の鞍(くら)の下にあった小判三十枚を、みんなで分けて持ち帰ってしまいました。
 それ以来、菱野に悪い病気がはやって若者がつぎつぎに亡くなったり、米や野菜などの農作物がとれなくなってしまいました。
 困り果てた村人が、占(うらな)い師に相談すると、
「以前この土地で若武者が一人亡くなっている。そのとき、若武者が持っていた小判を持ち去って後、法要も何もしていないので、そのたたりじゃ。」
というお告げがあったそうです。
 驚いた村人たちは、さっそく法要をして、いろいろ相談した結果、猿投山に行きたいと言っていた甚五郎の姿を馬印(うまじるし)に猿投神社の祭礼(さいれい)に奉納(ほうのう)しようということに話が決まりました。
 それ以来、猿投祭りには甚五郎の姿の人形を乗せた馬が奉納されました。すると、不思議に今まではやっていた病気もうそのように治まり、米もとれるようになったということです。
 その後、菱野近くの赤(あか)重(しげ)に梶田甚五郎のお宮を建てて、梶田神社としてお祀りしました。
今でも菱野熊野社の祭礼には、梶田甚五郎直政の姿の木偶(でく)(人形)を乗せた馬が奉納され、盛大に祭りが行われています。