十三塚

とみづか


伝承地 瀬戸市十三塚町

十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に、十三塚は村落への悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から得られたものと考えられている。現在は、現地に塚はみられないが、当地に伝わる十三塚落武者慰霊供養の位牌などがおさめられた地蔵堂がある。

十三塚地蔵堂の堂内
昭和34年に作られた供養の位牌

「十三塚」という地名の由来については諸説あるが、①16世紀中頃の稲生合戦の折の落武者、あるいは②16世紀後半の小牧長久手の戦いの折の落武者の言い伝えがある。

①織田信長と弟信行が戦った稲生合戦(弘治2(1556)年)にまつわるもの

弘治2年8月24日に信行方についた守山城主松平信貞は信長の勢力に破れて瀬戸へ落ちた。これらの落武者は、瀬戸の追分(現在の十三塚)で13名が自害したが、1名をこの戦を後世に伝えるためと、墓守として品野へ逃がした。しかし、東方の宮脇にて村人に刺され、瀬戸川左岸の前田にて討ち死にをした。後に、村人はこれを哀れみ、その後落武者が自害した辺りを十三塚と呼び、8月24日を供養するようになったと伝えられる。

②小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))にまつわるもの

地域に伝わるむかしばなしの一つ

今から400年ほど前(千六百年ごろ)、長久手というところで豊臣方の軍勢3万が、1万8千の徳川方の軍勢にうしろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ※1。
敗れた豊臣勢の侍は、てんでばらばらに逃げたそうな。いくさに勝った徳川方の侍は口々に、
「相手の侍は、一人も逃がすな。」
と、追手を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、きびしい囲みの中を逃げ出し、そのうちの十三人が何とか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。
「しっかりせよ。」
「なんとか落(お)ち延(の)びよう。」
と、お互い励まし合いながら逃げて、ようやく瀬戸にたどりついた時には、のどはからから、腹はぺこぺこ。そこで、近くの村人たちの家にかけ込んで、
「食べものを少しくだされ。」
「水をのませてくだされ。」
と、口々にたのんだそうじゃ。
しかし、村人たちば、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれてはたまらないと考え、侍たちに食べものや水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて、村人たちは、いつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたんじゃ。
数年後、村に亡霊が出たり、庄屋になった人が不思議な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜が取れないといった不思議なことがおこったそうじゃ。
「どうしたことだろ。」
「何のたたりだろう」
と、村の人たちは、話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落武者のことを思い出し、
「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ」
と、悔んだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなで拝(おが)んだそうじゃ。
それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、八月二四日を
「侍のたましいをなぐさめる日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。
尾張のところどころに、長久手の合戦(かっせん)の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。
※1 「四三〇年ほど前」とは 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い

雨降り地蔵

あめふりじぞう


伝承地 瀬戸市駒前町(地蔵堂:駒前町171番地 寶生寺境内)
時代背景  名古屋築城におけるの堀・石垣の普請は、慶長15年(1610)のこと。
今から400年ほど昔、名古屋城をつくっているころのお話です。
ある日のこと、本地の宝生寺のお寺の下あたりで、運んできた大きな石が車から落ちてしまいました。落ちた石を車にのせようとしましたが、
「重くて運べません。」
「もう、腹が減って動きません・」と、百姓たちは汗をふきながら言うばかりで、石はどうしても、動かすことはできません。
そこで、この石は運ぶのをあきらめて、そのままにしておきました。しかし、このままでは目立つし、邪魔になるので、何とかできないものかと、庄屋山中心に相談を始めました。すると、仲間の老人が、
「この石を石屋にたのんで、お地蔵さんの姿にしてもらったらどうだろう。」と、言いました。
「それは、よい考えだ。」と、みんなはあいづちをうちました。
宝生寺の境内にお祀りしてあるのが、そのお地蔵さんだということです。
毎年八月二三日の地蔵まつりの日に、必ずと言ってよいくらい雨が降るそうです。
そこで、人々はいつのころか、この地蔵さんのことを「雨降り地蔵」と呼ぶようになりました。
また、このお地蔵さんに雨乞いをすると、雨が降ると言われています。

雨降り地蔵尊

地蔵堂について

現在の地蔵堂は平成30年7月に完成し、10月に落慶法要が行われた。その時晋山退薫式もあり、住職が17世俊峰弘人となった。

寶生寺境内の地蔵堂(左手前)
参考文献

瀬戸市教育委員会1982『瀬戸の石造物』

大野栄人・横山住雄1982『尾張 雲興寺史』

幡山村誌編纂委員会1992『幡山村誌』

瀬戸尾張旭郷土史研究同好会2005『せと・おわりあさひのむかしばなし 雨降り地蔵』

金井神社

かないじんじゃ


伝承地 瀬戸市川西町
 どこの学区にも、たいていお寺やお宮があり、そこが子どもたちの遊び場になっていることがよくあります。しかし、狭くて、薄暗かったので、お宮を他へ移してしまったというお話をしましょう。
 旧效範小学校の校区には、今お宮がありません。七五年ほど前まで※1は、今の川西町のどこかにお宮があったと聞きました。
 そこで、お年寄りの方にいろいろ教えていただくと、尾州府志(一七五年※2に出された愛知県の地理の本)という古い本にもついている金井神社ということが分かりました。
 この神社は、ヒロクニオシタケカナヒノミコト(二七代の安閑天皇の御名は広国押武金日命という)という神様をおまつりしていました。その神様の名のカナヒがカナイにかわり、お宮の名前になったのだろうということです。
 その神社は、川西町一丁目あたりで、七アールばかりの細長い土地で、木や竹がたくさん生えて、日の光があまり当らない薄暗いところだったということです。
 朝夕ほとんど太陽の光が当たらないところだったので、七五年ほど前に、八王子神社の境内に移されたということです。
 その跡地は、開墾して畑にしたということですが、おそろしく古い時代に天皇をまつったお宮が川西町にあったというのは確かなことのようです。
※1 不明
※2 「張州府志」(宝暦二年(一七五二)完成)

龍天池

りゅうてんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 時代背景 室町幕府官領家の細川勝元派と有力守護大名の山名特豊派とが、応仁元年(1467)から約10年にわたり続いた戦乱で、京都に始まり全国規模に発展した 京都で応仁の乱(おうにんのらん:今から五一〇年ほど前※1)が始まったころの話です。
 雲興寺の三代目のお尚は、朝夕お経を読み、村人に仏の道を教えていました。
 一四六六年の一一月三〇日の朝のことです。お尚は、けさもいつものようにお経を読んでいました。すると急にあたり一面が暗くなり、大粒の雨が降り出し、風も強まってきました。お尚は急いで本堂の雨戸を閉めようとしたとき、目の前の小さな池の中がざわめいたかと思うと、渦を巻いて竜巻のように登り始めました。その中から小さな龍がおどり出て、岩の上にとまりました。お尚はびっくりして、じっと龍を見つめていました。龍も同じように、お尚をじっと見つめていました。
 さきほどの強い雨はおさまり、あたりは明るさを取り戻していました。お尚は落ち着いたことばで、龍に話しかけました。
「お前はいったい何ものなのか。また、どうしてこんな所へ出てきたのだ。」
 龍も待っていたかのように、訴えるようなことばで話を始めました。
「お尚さん、わたしは、わたしの住む所を探し求めて、あちらこちらさまよい歩きました。この池は、大変住み心地がよく、ここへ来てから三年にもなります。お尚さんの毎朝、毎夕のお経を池の中で聞き、また村の人々にいろいろ話をしておられる様子を見て、直接お尚さんから教えのことばをいただき、できればお尚さんのお仕事を手伝わせてもらいたい。こう考えてまいりました。」
お尚は、龍の話を聞いていたが、
「京都の方では大きな戦いが始まっている。その戦いがこちらの方へ広がってきている。村の人々の不安は日増しにこくなっている。わたしは村を守り、人々が安心して住める村にしたいものだと、思っている。」
「わたしと一緒に寺や村を守ってくれるか。仏さまにお仕えするものが、池の中に住むわけにもいくまい。厨子(ずし)をつくってやるから、その中で暮らすようにしなさい。」
 りっぱな厨子ができあがり、龍は厨子の中にはいることになりました。
「お尚さん。約束はきっと守ります。他の人からながめられると、わたしは余力(よりょく)がなくなってしまいます。どうかこの扉を開けないでください。」
 こう言って、扉の中へはいりました。
 それから何年かたちました。村々に日照りが続き、田畑に水がなくなると、人々はこの池を掃除し、雨が降るように厨子に向かってお祈りをしました。するとどうでしょう。雨が降るではありませんか。
 この話が名古屋城主にも伝わり、お使いをさしむけて、雨乞いをしたという話も伝えられています。
 この池をだれ言うとなく、龍天池と呼ぶようになりました。本堂の本尊右側にその厨子が祀ってあり、裏庭の龍天池は、小さいが枯れることなくきれいな水をたたえています。
※1 今から五四〇年ほど前

龍眼池

りゅうがんいけ


伝承地 瀬戸市白坂町
 応永(おうえい)二五年(一四一八)ごろ、赤津の村人たちや、雲興寺(うんこうじ)のお坊さんが、わけのわからない病(やまい)に悩んでいました。
 ある日、この寺のお尚(おしょう)の祖命禅師(そめいぜんじ)が朝のおつとめをしようとしていたときに、猿投大明神(さなげだいみょうじん)が現れました。そして
「この寺の土地は、龍の形をしているが、大切な眼がない。だから、病気が直らないのだ。」とつげて、さっと消えました。
 そこで、さっそくお尚は、そのことを村人たちに話し、龍の眼ににせて、参道(さんどう)の両側に池をほり、「龍眼池」と名付けました。
 不思議なことに、その後、人々の病はぴたりと直ったそうです。
 また、この池の名について、「両眼池」と呼ばれていたものが、後になって「龍眼池」と呼ばれるようになったのだとも言われています。

弥蔵観音の物語

やぞうかんのんのものがたり


伝承地 瀬戸市古瀬戸町・西拝戸町
 時代背景 天保2年(1831)3月27日亡の梅心妙量信女という人が、できもので苦しみ、「私が死んだら祀っておくれ。きっとなおしてやる。」という地元に残された伝説。
 末広町から瀬戸公園下の近くの宝泉寺(ほうせんじ)の前を通り、赤津へぬける昔からの道があります。赤津の手前に洞(ほら)というところがあって、そこに伝わるお話です。
 むかし、むかし、洞に一人ぐらしの女の人が住んでいました。なんとその女の人は、頭のてっぺんからつま先まで、できものだらけでした。畑仕事をするにも家の中の仕事をするにもかゆみといたさで、仕事もきちんとできませんでした。その女の人は、どうしても直したくて、近くのお宮へ何度も何度もお参りしたり、できものがよくなるといううわさがある遠くのお宮へも行ってみたり、薬草をせんじて飲んでみたりしましたが、いっこうに良くなる様子がありません。自分の体じゅうにできたできものを見ては、悲しくなっていました。
 いろいろやってみてもどうしても直らないので、とうとう直すことをあきらめてしまいました。
「できもので悩むのはわたし一人でたくさんだ。わたしが死んだら、できもので困っている人の身代りになり、直してあげよう。」 そして村の人たちに会うたびに、
「わたしが死んだら村はずれの山の上に埋め、祀(まつ)ってくれ。できもので悩む人を救ってやるぞ。」と、口ぐせのように言っていました。
 女の人は、一人暮らしのまま、とうとう死んでしまいました。死ぬまぎわにも、
「わしを祀ってくれ。たのみます。」と、言い残して死んでいったそうです。ところが、村の人たちは女の人に身よりもなく、また貧乏だったので村のお墓に埋めておいただけでした。
 さて、女の人が死んで二・三日たつと、できものが村の人たちにできはじめました。そして、一人、二人とふえ続け、十日もたたぬまに村の人々全部にできものができてしまいました。お宮に参っても、薬をぬっても全くなおりません。とうとう、
「あの女のたたりじゃ。山の上に埋めて、祀ってやらなかったばちじゃ。」と、みんなが言い出しました。
 そこで、村中で、村はずれの山の上にほこらを作って祀ることにしました。すると、どうでしょう。祀ったその夜から一人づつできものが直っていくではありませんか。
 それからというもの、村では、できものができると、山のほこらへ行っておまいりするとすぐ直るため、手厚くいつまでもまつり続けました。おまけに、できものばかりか、腹いたにきくといううわさが広がり、できもの、腹いたで悩む人たちから、大変喜ばれました。
 このほこらに祀ってあるのが、弥蔵観音です。

立石

たていし


伝承地 瀬戸市?町
 時代背景 慶長年間(1596-1615)、名古屋築城は慶長15年(1610)。
 水野立石(あるいは、屹立石(きりついし)ともいいます)という石が、むかし、中水野の感応寺の近くにありました。
 この石は、もと小金山(おがねさん)のほら穴の中にあり、高さ一??余り(三・三メートル)のみごとなものでした。
 慶長年間(四〇〇年前)※1、名古屋所城をつくるときに、石だたみ用として、役人や村人が、ほら穴から持ち出しました。
 この石を、中水野村まで運んできたとき、不思議にもにわかに重くなり、びくとも動かなくなりました。役人や、村人たちは困ってしまい、みんなでいろいろ話し合いました。
「これは、感応寺の観音さまが、石を持ち出すのを、おしまれたからじゃろう。」とい声があがりました。これには、
「なるほど。そうかもしれん。」と、うなずく者も多く、とうとうそこに置くことになりました。
 しかし、宝暦(ほうれき)のはじめ(二二〇年前※2)、大洪水がおこり、この石は倒れ、山崩れで土の中に埋まってしまいました。
 今では、名前こそ残っていますが、もうこの石を見ることはできません。
※1 「(四〇〇年前)」
慶長年間(1596-1615)、名古屋築城は慶長15年(1610)。
※2 「二六〇年前」
宝暦の洪水 宝暦3年(1753)の木曽三川の洪水

ちゃぼ

ちゃぼ


伝承地 瀬戸市三沢町
時代背景 戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が一色山城に居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられる。
 金鶏伝説(きんけいでんせつ)は、山や塚に埋められた金鶏が、多くは元旦に鳴くという伝説で、このような伝説は日本全国各地に数多く伝えられている。

 むかし、水野村の一色(いっしき)山に立派(りっぱ)な、美しいお城がありました。このお城の名前は、一色城と言い、またの名を城ヶ(しろが)嶺(ね)城とも、五万石(ごまんごく)城とも言って、村人たちの自慢(じまん)の城でした。この城は、左近(さこん)という殿様(とのさま)のお城でした。
殿様は、朝と夕方になると、お城の庭(にわ)に出て、東谷山(とうごくさん)や水野川の両わきに広がる田んぼをながめ、農家の人たちの働(はたら)く姿(すがた)を見るのをとても楽しみにしておりました。そして碁(ご)がとても好(す)きでした。今日も、近くの感応寺(かんのうてら)へ行って、お尚(しょう)さんとのんびり碁をうっておりました。
 春の日差しが部屋まで入り込み、とても気持ちのよい昼下がりで、むすめの倶姫(ともひめ)のことやいろいろ話をしながら碁を楽しんでいる最中に、家来(けらい)の者があわててかけ込み、
「お殿様、大変(たいへん)でございます。今、お城が攻(せ)められております。お急(いそ)ぎください。」と知らせました。でも、殿様はゆうゆうとして、
「何を言う。白は、こちらが先手(せんて)じゃ。」と、少しもあわてませんでした。碁に熱中のあまりお城のことなど、頭にありませんでした。碁が終わってから、城に帰ってみると大変でした。品野の落合城の侍(さむらい)たちが城を攻(せ)め落とした後でした。殿様は、
「ひきょう者め、わしが留守(るす)の間に城を攻め落とすとは、わしが追っかけて逆(ぎゃく)に滅ぼしてやる。」というなり、一人で追いかけました。余(よ)床(どこ)まで追って、敵に追いつきました。
「わしは、一色城主 左近だ。」と、名のり、勇(いさ)ましく戦(たたか)いましたが、相手は大変(だいへん)な数で、ついになすすべもなく敗(やぶ)れてしまいました。
 この悲しい知らせを聞いた一人娘の倶姫は、大変悲しみました。姫は、日ごろお父さんをしたっていたので、自分ももう生きてはおれないと小さな胸を痛(いた)めました。殿様が大切にして床の間にかざっていたちゃぼをしっかり抱(だ)いて火でくすぶっている城のうらに出ました。そして、姫はちゃぼを抱いたまま、井戸(いど)へ若い身を投げて死んでしまいました。その日は、一月一日の明け方でした。
 その後、一月一日になると不思議なことに一色山の頂上から、姫をなぐさめるかのように、「コケコッコー」というちゃぼの美しい声が周辺の山々に、そして村々に聞こえるようになったそうです。
⇒ 「一色山城(水野城)」の項参照

長命井

ちょうめいせい


伝承地 瀬戸市本地地区?
 時代背景 清州城と信長 弘治元年(1555)、信秀の後を継いでいた信長は、一族の織田信友を滅ぼして那古野城から清州城に移った。信長は桶狭間の戦い(永禄3年(1560))に出陣したのは清州城からである。
 むかし、本地の植田に尼寺(あまでら)があり、この寺の水は、尼さんがいつも水をくんで使い、代々長生きをしたそうです。その中で、隋円(ずいえん)という尼さんは、一三六歳まで生きたということです。そのようなわけで、だれ言うともなく、この井戸の水を飲む者は必ず長生きをするということで、長命井と名付けられたそうです。
 この井戸のことを、このあたりのお年寄りに聞いてみたら、次のような言い伝えを話してくれました。
 今からおよそ四〇〇年ほど前※1、この長命井のうわさを耳にした清州(きよす)のお殿様は、長く生きようとおもったのでしょうか、
「本地というところへ行けば、長命を保つという井戸があるそうだ。そのいわれのある水をくんでまいれ。」と、言いつけました。
 家来はさっそく、その水をくみに出かけて行きました。
 こんこんとわき出る水をひょうたんにくみ、腰にぶら下げて急いで帰りました。何のはずみか、早く届けようとして、そそうし、その水をこぼしてしまいました。
 皮肉なことに、この水はとうとう清州城へ届かず、信長の口には入らなかったということです。
 なお、この隋円の用いた茶釜や、その当時祀ってあったという薬師如来(やくしにょらい)は、本地の海雲山正覚寺(かいうんざんしょうかくじ)にあると、言い伝えられていたが、今ははっきりしていません。
 長命井の跡がなくて残念ですが、もし、昔のままであったなら、興味深いものです。しかし、つくりかえられた井戸が、今でも水をたたえています。
※1 「今からおよそ四五〇年前」

妻の神

さいのかみ


伝承地 瀬戸市下半田川町
むかし、下半田川しもはだがわ村に小治呂こじろ稗多古ひたこという兄と妹が住んでいました。こんな山奥の村では、想像そうぞうもできないほどの、それはそれは美しい兄と妹でした。
二人はだんだん年ごろになり、結婚けっこんしたいと思うようになりました。しかし、近くに住む若者たちは、とても兄と妹の美しさにはかなわず、なかなかよい相手が見つかりませんでした。兄は、
「せめて、自分の妹ほどの、むすめがこの世にいたらなあ。」
と思っていました。妹は妹で、
「せめて、自分のお兄さんほどの、若者がこの世にいたらなあ。」
と、思っていました。
ある日、兄は妹に、
「いくら二人がこうしていても、このままでは思うような相手が見つかりそうもない。日本の国は広い。きっと、どこかにすばらしい人がいるだろうから、いっそ思い切ってこの村から旅立とう。二人が別れるのはつらいけど、おたがいに思う相手が見つかるまでは、別々に旅にでかけよう。」
と、言いました。
二人は、別れるのがつらくて涙を流しながら、それぞれの相手をさがすために、ある夜こっそり村人に気付かれないように、別々に旅立って行きました。
人のうわさも七十五日(世の中の評判は長く続かない。七十五日もすれば忘れられてしまうということ。)といわれるように、月日がたつにつれて、村人たちは小治呂と稗多古のことをすっかり忘れてしまいました。
ある日のこと、この村に夫婦ふうふかと思われるような二人づれの旅人がつかれた様子で歩いていました。そして、その夜、数年前美しい兄と妹が住んでいた家に久しぶりにあかりがともり、夜おそくなるまで、すすり泣く声が聞こえてきたということです。
あくる朝、不思議ふしぎに思った村人たちがこの家の中をのぞくと、どうでしょう。きのう見かけたあの旅人二人が、いきえではありませんか。男の方は、それでも苦しい息の下から、
「わたしたちは、この世で思うような相手を見つけることはできません。日本国中くまなく探し求めて、やっと見つけた美しい人は、実は何年か前に別れた自分の妹でした・・・。とうていこの世では、おたがいに相手になる人はいない。もう生きる望みもなくなった・・・。わたしたちは不幸に探せなかったが、神になって今後の若い人のために縁結えんむすびの役にたちたい・・・。」と、言って息がえました。
村人たちは、あまりの悲しいできごとに、涙を流しながら、二人を手厚くほうむりました。そして、一体の石に二人の姿を刻み、そこにやしろを建ててまつりました。
これが縁結びの神として知られる「妻の神」です

出典 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会『せと・あさひのむかしばなし1 おしょうさんにしかられた龍』(1999年)