曽野のお稲荷さん

そののおいなりさん


伝承地 瀬戸市曽野町
 時代背景 文化14年(1817)、盛淳上人が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。
 お稲荷さんといえば、初午。初午といえば曽野のお稲荷さんと、昔からお参りする人が絶えません。
江戸時代の終わりごろ(一八一七年ごろ)のある春の夕暮れのことです※1。
 上水野村の曽野の山道を、一人のお坊さんがつかれた足取りで歩いていました。この坊さんは、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)(稲荷総本山宮、愛染寺別当盛淳上人)といい、山城の国の愛染寺(あいぜんじ)というお寺の身分の高いお坊さんで、修行のため全国を旅している途中でした。春になったとはいっても、日が沈むと寒さがまだ身にしみます。あたりには、人の住む家らしい家もなく、今夜の宿をどこにしようかと困っていると、荒れはてた田んぼの中に、ふと一軒(いっけん)の粗末(そまつ)な小屋らしいものが目にとまりました。そこからは、かすかに明りらしいものがもれています。
 さっそく、むしろ戸(わらで編(あ)んだむしろが入口の戸のかわりに付けてあることをいう。貧しい家の様子を表す。)をたたき、泊(と)めてくれるようにたのむと、その家の主人はこころよく引き受けてくれました。そして、主人といろいろ世の中の話をしていると、となりの部屋から女の人のすすり泣く声が聞こえてきました。上人は不思議に思って、
「あの泣き声は?」と、たずねると、主人は、
「よく聞いてくださいました。実(じつ)は、ずい分前からこの里に年とった白いきつねがあらわれ、村人を苦しめて困っております。そのため、くるい死にする人がでたり、きつねのたたりを恐れて、村を離れる人が多く、里がさびれてしまいました。家のかみさんもそのきつねにつかれて苦しんでいるのでございます。わたしも、どうしたらよいのか分からず、困っているところです。何とか助けていただけないものでしょうか。」
と、涙を流してたのみました。それを聞いて、
「そうでしたか。それならば、わたしが日ごろ尊敬している神様のお力によって、助けてあげましょう。」
と、言って西の方を向き、両手の指をむすんでじゅ文をとなえました。
 すると、不思議なことに、それまで苦しんでいたおかみさんは、悪い夢からさめたようにおだやかな顔になり、安心して眠りにつきました。
それを見て、主人は大変喜び、
「ああ、ありがたいことです。ぜひ、あなた様の守り神をわたしどもの里へも、おまつりさせてください。」
と、たのんで、上人がおつかえしていた山城の国の田中の社から、神様を分けてもらい、曽野の山の上にまつりました。
 それからというもの、白いきつねも、ぱったりと出なくなり、里の人たちも安心して暮らせるようになりました。
 このお宮さんが「曽野のお稲荷さん」で、毎年旧暦の二月の初午の日には、このあたりの人々をはじめ、遠くからも大ぜいの人がお参りに集まり、盛大なおまつりが行われています。
※1 文化14年(1817)、盛淳が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。梶田義賢著「曽野稲荷大明神縁起記」