せともの祭に雨が降る

せとものまつりにあめがふる


瀬戸地域に伝わる伝承。事実とは異なるものである。
伝承地 瀬戸市窯神町
時代背景 民吉が、磁器の製法技術を身につけるため九州へ旅立ち、平戸の佐々で福本仁左衛門の窯場で働き、技術を学んで文化4年(1807)に瀬戸に帰った。
「そなたたち、ここで、焼き物作ってみないか。」
 熱田奉行あつたぶぎょう、津金文左衛門つがねぶんざえもんの思いがけない言葉に民吉と父吉右衛門きちえもんは、うれしくなって涙がこぼれそうになった。
「わしが、南京焼という清国しんこく中国)の焼き物を書物で学んだ。それをそなたたちに教えようと思うがどうじゃ。」
「なんとありがたいお話でございましょう。どうか、ぜひお願いいたします。」
 父吉右衛門と民吉は、夢でも見ているような心地で、額を地面にすりつけた。
文左衛門は、翌日、民吉たちに「陶説」という本を見せた。
「これが南京焼じゃ。よく見るがいい。」
民吉たちは眼を見張った。清国の陶工たちの焼き物をつくる様子が挿し絵入りで詳しく描(えが)かれていたのだ。二人は、文左衛門の繰っていくページを隅から隅まで食い入るように見つめた。
「これが、あの有田焼と同じ磁器と呼ばれる焼き物なのだ。」
 民吉親子は、瀬戸村で、ずっと焼き物を作ってきた。ところが、瀬戸の焼き物は、九州有田の磁器と呼ばれる焼き物に押されて売れなくなり、ひどい不景気となった。吉左衛門は仕方なく、焼き物作りを長男に任せて、大勢の農民を募る熱田前新田(名古屋市港区)へ、二男の民吉と働きに来たのだった。新田を取り仕切る文左衛門は、二人のあまりに不慣れな百姓ぶりを見かねて、「ここで焼き物を」と声をかけたのだった。
「今日からまた焼き物作りができる。」
 民吉の心の中に、明るい光が広がっていった。
 文左衛門に教えられて、盃や小皿やはし立てなどを次々に焼きあげていった。しかし、あの固くてつやのあるみごとな細工の有田焼には、かなわなかった。
 その年の暮れ、文左衛門が病でなくなり、二人はその後、息子の津金庄七しょうしちの世話になって焼き物を作り続けた。
 (早く有田焼のような焼き物が作りたい。)
 二人は、借金をして磁器を焼くための丸窯(登り窯)を築いた。しかし、思うようにうまくいかなかった。
「やはり、有田へ行くしかない。」
 津金庄七や瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門とうざえもんらと相談して、とうとう民吉が有田へ行き、技法を学んで来ることになった。しかし、有田ではその頃、技法は秘密でよそ者に教えることを固く禁じていた。秘密を知った者は、生きて帰れないと言われていた。下品野村で、村人にこっそり秘法を伝えていた有田の陶工副島勇七そえじまゆうしちは、連れ戻されてうち首にあっていた。
 (命がけの旅だ。だが、瀬戸村の焼き物のために役立つなら・・・)
 文化元年(一八〇四)二月、民吉は、ついに九州へと旅立った。
 九州・天草島(熊本県)には、さいわい菱野村(瀬戸市菱野町)出身の天中てんちゅう和尚がいた。和尚の計らいで、高浜村の窯場に住み込み、毎日、慣れない蹴ろくろで茶碗を作った。茶碗を作りながら、密かに土や釉薬や窯のことを探った。
 半年後、民吉は平戸の三河内山みかわちやま(長崎県)の窯場に変わったが、働き始めて十日後「よそ者は留めおくことならぬ。」ときびしいお触れが届いて、すぐにそこを離れなければならなかった。
 十二月も暮れになって、やっと平戸ひらど佐々浦さざうら福本仁左衛門ふくもとにざえもんの窯場で働くことになった。
 (よかった。ようやく落ち着いて働ける。早くいろいろ覚えねば・・・)
 民吉は夢中で働いた。
 仁左衛門には、「さき」という娘がいた。さきは働き者で窯場をよく手伝った。
「民吉さんもお茶にしましょうよ。」
 さきは、いつもやさしく声をかけてくれた。さきの入れてくれたお茶を飲みながら、民吉はよく格子窓の向こうの空をながめた。さきも、そっと民吉の横に座って、空を見つめた。
「よう働いてくれる。それにお前さんなかなか腕がいい。ちょうど人手が足りなくて困っておったところだ。本当に助かる。」
 仁左衛門は、しだいに民吉を頼りにするようになった。
 夏になって、仁左衛門は息子の小助こすけとお伊勢参りに行くことになり、民吉に言った。
「留守中、窯場はお前さんに任せる。わからぬことはさきに聞いてくだされ。よろしく頼みますぞ。」
 民吉はうれしかった。さきならきっといろいろと教えてくれるにちがいない。
「さきさん、土に混ぜている白い粉は石の粉だね。」
「そうよ。固い磁器を作るために、天草の陶石を混ぜるのよ。」
「色やつやを出すために、どんな釉薬をかけているんだい。」
「いす灰という灰よ。鮮やかなきれいな色がでるわ。」
 民吉は、さきと一緒に調合した。それから二人で、たくさんの作品を窯詰めした。
 いよいよ窯焚きの日がきた。
 民吉は、さきや手伝いの人たちと薪を燃やし続けてついに、固くつやのある見事な磁器を焼きあげた。仁左衛門は大喜びだった。
「ようやった。今夜はみんなで祝おう。」
 庭にござを敷いて、賑やかに飲んで歌い、踊った。月明りのきれいな夜だった。
「民吉さん、早くいっしょに踊りましょうよ。」
さきに誘われ、見よう見まねで手を上げ足を上げ・・・・。
 星もきらきら輝いていた。
 夢のように二年が過ぎて、民吉は、もう瀬戸村に帰らねばならなかった。
 (さようなら。恩は一生忘れない。)
 民吉の去って行った方を、さきはいつまでも見つめていた。
 民吉は瀬戸村に帰り、学んできたことをみんなに伝えて、さらに工夫をと忙しい毎日を送っていた。いつしか十二年の歳月が流れた。
 ある秋の夕暮れ、民吉の家の前に、一人の女の人と子どもが立っていた。
「あのー、おたのみ申します。ここに民吉さんという人はおられますか。平戸の佐々浦から参りましたさきと申します。
「そ、そんな人ここにおらんでよう。はよ帰りゃあ。」
 家の人は決して民吉に会わせようとしなかった。それは、民吉が佐々浦へ連れ戻され、殺されるのではと恐れたからだった。
 さきは、仕方なく、子どもを抱き寄せると、すがるような目で、振り返り振り返りしては、冷たい風の吹く中を去って行った。
 瀬戸の「白と青との色鮮やかな染付焼」は、民吉たちによって完成され、日本中に評判が広まって、注文がたくさんくるようになった。瀬戸の人々は民吉を磁祖と敬い、毎年九月にせともの祭を催す。けれどきまって、祭りにはよく雨が降る。雨は佐々浦のさきの
「悲しみの涙が雨となって、せともの祭に降るそうだ。」
 いつの頃からか、瀬戸の人々は、そう言うようになった。