品野祇園祭の神武天皇像および従者像

しなのぎおんまつりのじんむてんのうぞうおよびじゅうしゃぞう


瀬戸市指定民俗文化財 3体
(附 先代の頭3点)
平成25年3月18日指定 所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺祇園堂)
所有者 品野祇園祭協賛会
文化財
神武天皇像 高さ110センチ、従者像 高さ(阿形78・吽形79センチ)
附天皇先代頭 高さ45センチ、従者先代頭 高さ(阿形・吽形30センチ)
制作年代 平成6年(先代頭は昭和22年)

品野祇園祭は、瀬戸市下品野地区で毎年7月第3土曜日の夜半に1台の山車を中心に神輿や踊りの隊列が中心部を巡行する、疫病除け、夏病み除け、豊作・商売繁盛を祈願する祭礼である。祭礼に先立って、牛頭天王を祭神とする津島神社より地区の分社に「御札」を受ける神事がある。品野津島社の創始や山車を伴う祭礼の始まりについては諸説あるが、遡っても江戸末期から明治初期の頃からと思われる。
山車上層の中央に据えられる神武天皇像と左右の阿吽形の従者像2体はともに頭部は木製、両腕を上下に動かす素朴なからくり人形である。先代の頭は石膏製(天皇像)と磁器製(従者像)である。神武天皇像が従者像を伴い屋根付きの山車載せられる本例は県内外を通して特異な事例である。

品野祇園祭の神武天皇像および従者像
品野祇園まつり

松原広長寄進状

まつばらひろながきしんじょう


瀬戸市指定歴史資料 1点
平成18年2月10日指定 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 巻子装縦25.8センチ、横35.2センチ
時代 室町時代中期

今村城主松原広長が寛正五年(1464)に赤津の万徳寺に寄進した『聖徳太子伝』の最終丁に書かれていたものを、寛保二年(1742)同寺円応和尚が抜き出したものである。内容は寛正五年に「松原広長は一貫四百文の田畠を寺領として万徳寺に寄進した」ことが書かれている。広長は文明十四年(1482)に科野郷(現在の品野地区)の桑下城主永井(長江)民部と安土坂(現在の安戸町周辺)の合戦で敗死したと伝えられている。この資料は応仁の乱前後の在地領主の動向を知る上で数少ない貴重な史料である。

松原広長寄進状

古瀬戸瓶子(個人蔵)

こせとへいし


瀬戸市指定工芸品 1対
平成25年3月18日指定 所在地 瀬戸市赤津町
所有者 個人蔵
文化財 1高さ35.7 センチ、2高さ34.8センチ
時代 鎌倉時代後半

ほぼ同形状の一対の締腰形の瓶子である。1本は口径5.4、器高35.7、胴径21.3、底径10.9センチ、他の1本は口径5.4、器高34.8、胴径21.0、底径10.2センチの法量である。肩部に2段にわたる櫛描きによる平行沈線3~4条施される。成形は紐輪積み成形で、釉薬は部分的に剥落しているが灰釉が全面に刷毛塗りされており、肩から胴部下方に釉流れが見られる。13世紀後半代の作である。
瓶子は内箱と外箱が入れ子になっており、古い内箱の蓋表には「堀 御神壺」、裏には「瀬戸山林 馬ヶ城ノ堀」と「所有者の名 七十三翁」銘の箱書きがある。瀬戸の窯跡から出土したものを「ほりのて」と呼称し、馬ヶ城は著名な椿窯など古瀬戸生産の中心地であったことから、伝世された数少ない有品である。

古瀬戸瓶子

加藤唐三郎家文書

かとうとうざぶろうけもんじょ


瀬戸市指定古文書 481点
平成6年2月18日指定 所在地 瀬戸市窯元町
所有者 個人蔵
文化財 各種の形式・内容の古文書類(一括)
時代 江戸時代、一部明治初期

赤津窯の加藤唐三郎家は、江戸時代を通じて尾張徳川家の御庭焼御用を勤めた「御窯屋」であった。尾張藩の記録によれば、瀬戸山離散して美濃国土岐郡郷之木村に居た加藤利右衛門と弟仁兵衛は、慶長十五年(1610)に尾張藩主義直の帰還命令により赤津村に戻り、藩御用を仰せつかった。この時、利右衛門は唐三郎と改名、唐三郎家の家祖となり、現在まで十二代に亘って唐三郎を襲名している。
文書は慶長十五年の赤津窯再興以来明治維新に至る同家の所蔵文書で、内容は同家の家譜由緒から御窯屋御用・焼立、日常生活に係る窯屋資料、尾張家御庭焼の記録などの行政文書で、近世の窯業技術史の貴重な記録である。

加藤唐三郎家文書

一里塚本業窯

いちりづかほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
昭和50年7月21日指定 所在地 瀬戸市一里塚町
所有者 水野雅之
文化財 全長16メートル・最大幅9メートル
時代 昭和25年再建

「本業窯」は連房式登窯の一種で、江戸時代以降専ら陶器本業製品を焼成する窯として使用され、磁器製品を焼成した「丸窯」と共に瀬戸を代表する窯炉であった。
本窯は昭和25年に東洞町に在った13連房の奥洞窯の窯材を使用して再築したもので、胴木間・捨間・四の間までの焼成室、煙室(コクド)など以前の構造をよく残している。昭和50年に文化財指定を受けるまで、火鉢・水甕・擂鉢などを年3回ほど焼成していたが、擂鉢だけなら約1万個を焼成することができたという。昭和63年に、窯鞘(屋根)の葺替工事を実施している。付属するツク・タナ板などの窯道具類も指定に含まれている。

一里塚本業窯

直入橋

ちょくにゅうばし


瀬戸市指定建造物 1橋
昭和58年6月1日指定 所在地 瀬戸市定光寺町
所有者 定光寺
文化財 石造、長さ9.4メートル、幅 2.6メートル
時代 江戸時代前期(承応二年)

応夢山定光寺の参道入口の池に架かる橋で、「直入橋」という。『尾張名所図会』の中では「下馬橋」と記されている。この橋は尾張藩二代藩主徳川光友が、時の奉行熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応二年(1653)2月に着工し、同年5月に完成している。
直入橋は全て花崗岩製で、その構造は池両岸の石積みに長さ6m以上もある3本の橋桁を渡し、その橋桁に主な橋部を組み合わせている。江戸時代には、池に蓮を植えたり、参道に桜並木を作るなど、橋と良く調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「応夢山十境」の一つとされていた。

直入橋

石燈籠(八幡社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 総高178センチ
時代 江戸時代前期(延宝七年)

八幡社は江戸時代には山口村及び近隣村の総氏神として崇敬されていた。明治5年に郷社に列挌され、幡山地区及び長久手上郷地区24ヵ村の総社となった。
瀬戸市内最古の石燈籠は旧下品野村神明社の石燈籠(明暦四年銘)で、本件はそれに次いで古いものである。石燈籠は花崗岩製で、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分に別れ、笠には六つの太い蕨手が付く。三味線胴型にふくらんだ六角火袋、力強い竿は大振りで堂々としており、均整がとれている。「延宝七己未九月十五日」の記年銘がある。境内にある石造鳥居も同時期に築造されていることから、この頃に大規模な神社の再建が行われたようである。

石燈籠(八幡社)

石造鳥居(八幡社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 高さ308センチ、幅386センチ
時代 江戸時代前期(延宝五年)

延喜式神名帳の山田郡19座の中の「小口神社」は山口神社とされ、地域の総氏神として崇敬されてきた。境内には多くの末社が合祀され、棟札も多数残されている。
神社鳥居は近世以前その殆どが木造であり、明治以降順次石造鳥居に造り替えられてきた。瀬戸市内38基(平成4年現在)の石造鳥居の内、近世以前に建立されたものは、本件と赤津の大目神社(宝暦五年銘)の2基のみである。
鳥居は、花崗岩製・明神鳥居で、やや小型ではあるが均整がとれていて姿は美しい。「延宝五年丁巳閏十二月吉日 尾州愛智郡山田庄山口村氏子(以下判読不明)」とあり、瀬戸市内最古の鳥居である。

石造鳥居(八幡社)

洞本業窯

ほらほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市東洞町
所有者 水野半次郎
文化財 全長14メートル、最大幅7メートル
時代 昭和24年再建

本窯も一里塚町の本業窯と同じ構造の連房式登窯である。この本業窯2基は奇しくも「奥洞本業窯」として活動していたが、昭和23年に解体された。同24年に本窯(半次郎窯)、同25年に一里塚窯(義郎窯)として同じ窯グレ(炉材)を使用して移築された。そのため、同じ構造とほぼ同様規模を持っている。本窯も昭和54年5月の焼成を最後に現在まで使用されていないが、次の焼成のための松割木(燃料)や窯道具のツク・タナ板などが準備されており、それらも一括指定されている。
奥洞窯は代々水野半次郎家の本業窯で、明治・大正・昭和と稼働した。最盛期には13連房の焼成室を有していた。

洞本業窯(胴木間)
洞本業窯(焼成室)