織田信長の制札

おだのぶながのせいさつ


瀬戸市指定歴史資料 1通
昭和53年11月1日指定 所在地・所有者 個人蔵
文化財 縦28.9、横42.9センチ 時代 室町時代(永禄六年)

この制札は織田信長が尾張一国を統一後間もない永禄六年(1563)発給されたもので全文3条からなり、末尾に信長の花押がある。第1条には瀬戸物を扱う諸郷で組織された商人の尾張国内での自由往来を認め、第2条で米穀や海産物などの取引を行う市の日の商馬の市への来訪を命じ、第3条では新たな諸課役を禁じている。
その後、瀬戸山離散で濃州水上村で窯業を営んでいた加藤新右衛門家は尾張初代藩主徳川義直に下品野村に召還され、弟三右衛門家と共に品野地区窯業再興の祖となった。制札は多くの古文書と共に累代の新右衛門家に伝えられてきた。

織田信長の制札

石樋

いしどい


瀬戸市指定名勝 約750平方メートル
平成4年2月21日指定 所在地 瀬戸市水北町
所有者 樋ヶ沢川(建設省)
文化財 『尾張名所図会』記載の名勝地

県道定光寺・山脇線に沿う水野川の支流樋ヶ沢川の河床に、幅10~15メートル、長さ60メートルに亘って「石樋」と呼ばれる景勝地がある。これは河川が長い年月をかけて花崗岩盤を樋のように浸食したもので、方状節理といわれる自然景観である。
この石樋は江戸時代から名勝地として知られており、『尾張名所図会』には「細流此所を経るに、大磐石の面に樋の如くなる窪みありて人工にうがちたるが如し、此の上を流るゝ水千筋に分かれほとばしるさま又なき一勝景なり」とある。

石樋

窯屋証文

かまやしょうもん


瀬戸市指定歴史資料 1通
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市寄託
所有者 個人蔵
文化財 縦16センチ、横44.3センチ
時代 江戸時代前期(慶長十五年)

所蔵者は江戸時代後期に下品野村の窯屋取締役を勤めた加藤定蔵家系に連なる窯屋である。「御用 御蔵会所」の木箱に納められた和紙半折の「諸役免除の窯屋証文」が残されている。「以上 春日井郡之内下品野村、瀬戸物やき方々より参候ものハ、諸役令免許候、少も相違有之間敷候者也、仍如件、 戌五月五日 寺西藤左衛門(黒印)・原田右衛門(花押) 新右衛門・三右衛門(宛て)」
慶長十五年(1610)に元瀬戸村窯屋の一族で美濃国水上村に離散していた加藤新右衛門・三右衛門兄弟が尾張藩から召還され、下品野村に五町五反歩の窯地を給され、その年貢その他の雑税を免ずるものであったことが分かる貴重な資料である。

窯屋証文

目鼻石

めはないし


瀬戸市指定名勝 約530平方メートル
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市十軒町・鹿乗町
所有者 水野川(建設省)
文化財 『尾張名所図会』記載の名勝地

水野川の河床に「目鼻石」と呼ばれる奇岩がある。天保年間の村絵図にすでに「目はな石」と記載されている。また『尾張名所図会』には、「奇岩所々にならび立つ中に、目鼻石とて恰も双眼鼻の如き自然の穴ある大石あり。是らのために川水せかれて白玉をなし、奔流するさま言語に絶えたり。」とある。
これは流水の浸食作用によって形成されたポットホール(甌穴)という自然景観で、大規模な例は豊川水系(東栄町)にある。それよりもここは、村人にとって大切な聖地であった。どんな干ばつの年でも、この目鼻石の孔穴を洗い浄めて祈れば、たちまち霊験あらたかに降雨があったという。

目鼻石

常夜燈

じょうやとう


瀬戸市指定建造物 1基
平成13年2月7日指定 所在地 瀬戸市秋葉町
所有者 秋葉神社(境内)
文化財 高さ508センチ
時代 江戸時代後期(文化十一年)

焼成を必須とする陶都瀬戸では火の信仰に厚く、秋葉社を祀り、また秋葉講代参が盛んであった。窯屋が火入れの際には、慶昌院秋葉本殿(それ以前は熱田秋葉円通寺)から付け木とマッチ(火打石)を受けてきたものである。
秋葉神社は郷・南新谷の聖地であり、境内に立派な常夜燈1基がある。棹の4面に「秋葉山 常夜燈 島中安全 文化十一年申戌九月吉日」と刻んである。瀬戸市内の常夜燈の中では最も大型で、文字の彫りが深くて美しい。花崗岩製で、この時期の当地方の石造物は高遠(伊那谷)系の石工技術によるものといわれる。

常夜燈

聖徳太子絵伝

しょうとくたいしえでん


瀬戸市指定絵画 4幅
平成18年2月10日指定 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 長さ 1幅157 ・2幅157.2 ・3幅157.8 ・4幅156.9センチ
時代 1・4幅室町時代中期、2・3幅江戸時代後期

『聖徳太子絵伝』は聖徳太子の伝記を描いたもので、浄土真宗の寺院によく見られる。万徳寺所蔵の絵伝は、寛正五年(1464)に今村城主松原広長が寄進したものと伝えられている。1幅と4幅は伝来当初の室町中期のもの、2幅と3幅は江戸時代後期に補われたものである。
各幅とも保存状態は良好で、顔料は濃厚で発色も良い。人物の着衣や建造物など、細部に至るまで非常に精緻に描き込まれている。岡崎市の満性寺が所蔵していた絵伝と同一系統のもので、奈良県に広まった絵伝の流れを汲むものである。

聖徳太子絵伝

石造薬師如来坐像

せきぞうやくしにょらいざぞう


瀬戸市指定彫刻 1躯
平成60年5月1日指定 所在地 瀬戸市片草町
所有者 同町自治会
文化財 高さ75.5センチ、幅35.5センチ
時代 江戸時代中期(享保十一年)

この薬師如来坐像は、美濃との国境であった片草町の薬師堂に安置されているものである。像は花崗岩製で、立方体の台部上に置かれている。制作年代は台の正面に彫られている「享保十一年(1726)丙午三月吉日」から江戸時代中期のもので、瀬戸市内に遺る石造仏の中でも古いものの一つである。
台部の正面・側面・背面には反花が刻まれ、その反花に対する請花が坐像に彫られている。像の眼は半眼に彫られ、顔全体が柔和な面持ちになっている。又、法衣は左右対称で、その法衣と袈裟の下から両手を出しており、指を互いに入れ組み、左右の人指し指と親指で薬壺を持っている。

石造薬師如来坐像

石造地蔵菩薩立像

せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう


瀬戸市指定彫刻 1躯
平成60年5月1日指定 所在地 瀬戸市片草町
所有者 同町自治会
文化財 高さ91.7センチ、最大幅36センチ
時代 江戸時代中期(元禄十七年)

この地蔵菩薩立象は、光背に「元禄十七(1704)申四月廿四日」と彫られているように江戸時代中期に制作されている。瀬戸市内に遺されている石造仏は元禄年間の3躯の地蔵菩薩立像が最古の一群で、その内の一例である。一つの花崗岩から台・光背・立像を彫りだしている。
顔は彫りが深く、眼は半眼、上半身は撫で肩で、この時期の石造菩薩立像によく見られる右手に錫杖、左手に宝珠をもった姿である。薬師堂に安置される以前に長年風雨に晒された期間もあったようだが、保存状態は比較的良好で堅牢で上質な地元の石材が使用されたからであろう。

石造地蔵菩薩立像

六角陶碑

ろっかくとうひ


瀬戸市指定工芸品 1基
昭和49年4月1日指定 所在地 瀬戸市藤四郎町
所有者 陶祖公園(瀬戸市)
文化財 高さ410センチ、陶製碑
時代 江戸時代末期(慶応三年)

幕末の瀬戸の名工加藤岸太郎が中心になって成形・焼成、慶応三年(1867)に完成した日本最大級の陶製碑である。この陶碑を製作するにあたっては、北新谷の丸窯の中で造り、焼成後窯の入り口を壊して取り出し、コロを用いて庚申山(後藤四山)まで運んだと伝えられている。
陶碑は六角柱体、碑棹の幅は1丈1尺(333センチ)、各辺の幅は2尺(60センチ)で志野釉が施されている。陶製の3層の台、棹の上部は六角形の陶蓋で被われている。29個のやきもので組み合わされているが、寸分の狂いもなく、均整のとれた碑に仕上げられている。碑面には陶祖藤四郎の伝記が克明に刻まれている。

六角陶碑

一里塚本業窯

いちりづかほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
昭和50年7月21日指定 所在地 瀬戸市一里塚町
所有者 水野雅之
文化財 全長16メートル・最大幅9メートル
時代 昭和25年再建

「本業窯」は連房式登窯の一種で、江戸時代以降専ら陶器本業製品を焼成する窯として使用され、磁器製品を焼成した「丸窯」と共に瀬戸を代表する窯炉であった。
本窯は昭和25年に東洞町に在った13連房の奥洞窯の窯材を使用して再築したもので、胴木間・捨間・四の間までの焼成室、煙室(コクド)など以前の構造をよく残している。昭和50年に文化財指定を受けるまで、火鉢・水甕・擂鉢などを年3回ほど焼成していたが、擂鉢だけなら約1万個を焼成することができたという。昭和63年に、窯鞘(屋根)の葺替工事を実施している。付属するツク・タナ板などの窯道具類も指定に含まれている。

一里塚本業窯