織部燈籠

おりべとうろう


瀬戸市指定工芸品 1基
平成8年2月9日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 高さ170センチ
時代 江戸時代後期(文化四年)

織部燈籠の陶製は珍しく、棹の四面に次のような製作の目的などの記年銘が刻されている。
正面 奉献常夜燈
左面 文化四丁卯年九月
右面 古田織部形摸(模)造
後面 陶工加藤武右衛門春宇建之

露盤の付いた宝珠、屋根の起こりのある方形の笠、角形の火袋(後補)、方形の中台、断面長方形で上部に丸いふくらみのある棹という典型的な織部燈籠で、世に「切支丹燈籠」とも呼ばれてきた。
作者の加藤武右衛門春宇は陶祖先嫡流の一統とされ、江戸時代本業焼の名工として多くの作品を制作している。

織部燈籠

菱野のおでく

ひしののおでく


瀬戸市指定有形民俗 1体
平成17年2月10日指定 所在地 瀬戸市東菱野町
所有者 菱野文化財調査保存会
文化財 人形高さ165センチ、羽織の幅128センチ
時代 大正時代

「菱野のおでく」は地区の伝承では、小牧・長久手合戦での戦勝祈願に猿投神社に向かった豊臣軍の梶田甚五郎が菱野村で落ち武者と間違われて村人に殺されてしまった。その後凶作や疫病が続き、たたりを恐れた村人が甚五郎に似せた人形を作り猿投神社に祈願に行くようになったという。
「おでく」は現在3体保存されている。初代のものは「宝暦五年(1755)製」、二代目は「明治34年(1901)製」と三代目の「大正5年(1916)製」である。
この三代目のおでくが現在の祭りに使用されている。各代の頭・装束類も断片的ではあるが郷倉内に保存されており合わせて指定された。

菱野のおでく

染付花唐草文大燈籠

そめつけはなからくさもんだいとうろう


瀬戸市指定工芸品 1基
平成10年11月20日指定 所在地 瀬戸蔵ミュージアム
所有者 瀬戸市
文化財 高さ196センチ、最大幅63センチ
時代 明治時代前期

本作品はロクロ成形された8部品から成るが、残念ながら最上段の宝珠を欠いている。全面に酸化コバルト・正円子・酸化クロムなどで花唐草模様が描かれ、随所に龍・昆虫・宝尽くしが配される。笠には玉を抱いた獅子が載せられ、精巧な造りである。また火袋には、鹿・三日月・望月の窓絵が配されて、台座に「日本瀬戸加藤杢左製」の染付銘がある。
製作は当時大飾壺・磁製テーブル等大物造りで名高い2代目加藤杢左衛門によるもので、明治初期の万国博覧会に盛んに出品された中で、明治11年(1878)のパリ万国博に出品されたものと思われる。本器は長くイギリスにあったが、平成5年に120年ぶりに里帰りしたものである。

染付花唐草文大燈籠

山口の警固祭り

やまぐちのけいごまつり


瀬戸市指定無形民俗 1件
平成15年2月7日指定 所在地 瀬戸市八幡町
保持者 山口警固保存会

「警固」とは一般的にはオマントと呼ばれる飾り馬のことで、山口地区では寺社へ奉納する際にその護衛に付く「棒の手」と「鉄砲隊」をも含めた総称をいう。由来は、飾り馬を寺社へ一日だけ奉納する行事で、農耕や慶事に対する祈願や御礼参りから発展したものとされ、江戸時代にはいくつものムラが連合した「合宿(合宿)」または「合属(がっしょく)」が始まったとされる。
山口の警固は、古文書によれば文久二年(1862)には「合宿」への参加が確認されている。『尾張名所図会』ではその起原は元禄年間としている。現在は10月の第2日曜日に郷祭りとして行われている。

山口の警固祭り

石燈籠(八幡社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 総高178センチ
時代 江戸時代前期(延宝七年)

八幡社は江戸時代には山口村及び近隣村の総氏神として崇敬されていた。明治5年に郷社に列挌され、幡山地区及び長久手上郷地区24ヵ村の総社となった。
瀬戸市内最古の石燈籠は旧下品野村神明社の石燈籠(明暦四年銘)で、本件はそれに次いで古いものである。石燈籠は花崗岩製で、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分に別れ、笠には六つの太い蕨手が付く。三味線胴型にふくらんだ六角火袋、力強い竿は大振りで堂々としており、均整がとれている。「延宝七己未九月十五日」の記年銘がある。境内にある石造鳥居も同時期に築造されていることから、この頃に大規模な神社の再建が行われたようである。

石燈籠(八幡社)

石造鳥居(八幡社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 高さ308センチ、幅386センチ
時代 江戸時代前期(延宝五年)

延喜式神名帳の山田郡19座の中の「小口神社」は山口神社とされ、地域の総氏神として崇敬されてきた。境内には多くの末社が合祀され、棟札も多数残されている。
神社鳥居は近世以前その殆どが木造であり、明治以降順次石造鳥居に造り替えられてきた。瀬戸市内38基(平成4年現在)の石造鳥居の内、近世以前に建立されたものは、本件と赤津の大目神社(宝暦五年銘)の2基のみである。
鳥居は、花崗岩製・明神鳥居で、やや小型ではあるが均整がとれていて姿は美しい。「延宝五年丁巳閏十二月吉日 尾州愛智郡山田庄山口村氏子(以下判読不明)」とあり、瀬戸市内最古の鳥居である。

石造鳥居(八幡社)

洞本業窯

ほらほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市東洞町
所有者 水野半次郎
文化財 全長14メートル、最大幅7メートル
時代 昭和24年再建

本窯も一里塚町の本業窯と同じ構造の連房式登窯である。この本業窯2基は奇しくも「奥洞本業窯」として活動していたが、昭和23年に解体された。同24年に本窯(半次郎窯)、同25年に一里塚窯(義郎窯)として同じ窯グレ(炉材)を使用して移築された。そのため、同じ構造とほぼ同様規模を持っている。本窯も昭和54年5月の焼成を最後に現在まで使用されていないが、次の焼成のための松割木(燃料)や窯道具のツク・タナ板などが準備されており、それらも一括指定されている。
奥洞窯は代々水野半次郎家の本業窯で、明治・大正・昭和と稼働した。最盛期には13連房の焼成室を有していた。

洞本業窯(胴木間)
洞本業窯(焼成室)

石造鳥居(大目神社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成8年2月9日指定 所在地 瀬戸市巡間町
所有者 大目神社(境内)
文化財 高さ387センチ、幅570センチ
時代 江戸時代中期(宝暦五年)

大目神社は猿投山の裾野の鎮守の森に座し、赤津地区の氏神として敬われており、祭神は八柱王子。明細帳に「当初勧請年月不詳と雖も延喜神名帳に大目神社、本国帳に従三位大目神社と載せる処の神社」とあり、建立年月は定かでないが、平安時代初期の延喜神名帳に載る古い神社である。境内に古墳も有する。
鳥居の形式は明神鳥居で、笠木が二重になり、反りをもち、柱が内側に傾く(ころぶ)。柱に「宝暦五年乙亥九月吉日」の記年銘があり、瀬戸市内の石造鳥居では山口八幡社の石造鳥居(延宝五年銘)に次いで古いものである。規模が大きく威風堂々とした風格を感じさせる。

石造鳥居(大目神社)

古窯

こがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市西郷町
所有者 瀬戸市
文化財 全長6.4メートル、最大幅4メートル
時代 昭和22年再建

古窯は、本業窯・丸窯と共に近代に活躍した代表的登窯の一種である。一般的に  は小型で急勾配、縦狭間構造であり、小型磁器製品を焼成する窯として使用された。現在、瀬戸市内に完全な姿で残されている最後の古窯である。
所有者であった伊藤伊平氏は代々古陶園竹鳳を号した5代目の染付窯屋である。元の窯は現在地より南東の経塚山の山麓斜面に位置し、5連房で現在のものよりかなり大型の窯炉であった。第2次大戦中の企業合同を経て、昭和22年に現在地に同窯材を使用して再築した。本業窯の胴木間にあたる焚口は2個、3連房の登窯で昭和39年暮の最終焼成まで、年間6~7回使用された。現在は瀬戸染付工芸館の保存・展示施設として活用されている。

古窯

深川神社本殿

ふかがわじんじゃほんでん


瀬戸市指定建造物 1棟
平成11年11月12日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 木造切妻造・柿葺(銅板葺)
時代 江戸時代後期(文政六年)

「深川神社、瀬戸村にありて今は八王子の社と申す。祭神は五男三女の神なり、本社造替は慶長元年五月、元和九年遷宮あり。祭礼は九月五日、神楽を奏し湯立を執行す」(尾張志)とある。
現在の本殿は文政六(1823)年の造営で、「正遷宮、文政六癸未十二月二日 大工信州上諏訪立川内匠」(当社棟札)とあり、内々津神社を造営した著名な上諏訪系宮大工一党の立川和四郎(冨昌)が建築したものである。昭和4年に現在地へ遷座、拝殿の屋根はその時瓦葺に替えている。切妻造・平入り・柿葺、神明造りから発展した「照り屋根流造」構造である。

深川神社本殿