聖徳太子伝

しょうとくたいしでん


瀬戸市指定典籍 5冊
平成18年2月10日 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 全5冊204丁(縦26センチ、横20センチ)
時代 室町時代中期

『聖徳太子伝』は聖徳太子の伝記である。『聖徳太子絵伝』と共に、寛正五年(1454)に今村城主松原広長によって寄進されたものである。聖徳太子は6世紀末に推古天皇の摂政として日本古代の政治・文化に数多くの業績を残した人物である。太子は仏教に深く帰依していたため、後の仏教徒にとって聖人とみなされた。中でも浄土真宗では、開祖の親鸞が熱烈な太子信奉者であったため太子の絵伝などを伝える寺院が数多くある。『聖徳太子伝』にはさまざまな説話を集めたものであるが、万徳寺蔵のものはこれらの中でも、中心的な系統の写本には無い説話も見られ、興味深く貴重な典籍である。

聖徳太子伝

宮地古墳群

みやちこふんぐん


瀬戸市指定史跡 1542平方メートル
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市上之山町
所有者 瀬戸市
文化財 3基の古墳群
時代 古墳時代

宮地古墳群は瀬戸市南部の豊田市境に所在する。現在のところ3基の古墳が確認されており、内1基は前方後円墳(宮地第1号墳)、同第2・3号墳は円墳とされている。この宮地古墳群の周辺には、他に吉田・吉田奥・塚原・来姓などの古墳群15基が確認されており、瀬戸市南部の矢田川流域における古墳分布の中心地になっている。これらの古墳はいずれも古墳時代後期に属し、その出土遺物から6世紀中葉から7世紀始めにかけての古墳群である。
周辺は古墳公園として整備され、一角に発掘調査された竪穴系横口式石室をもつ吉田第2号墳が移築保存されている。

宮地古墳群

大般若経

だいはんにゃきょう


瀬戸市指定典籍 155巻
平成20年9月12日指定 所在地 瀬戸市東菱野町
所有者 菱野文化財保存会
文化財 楮打紙・染紙(黄)刊本、縦25.5センチ・横9.5センチ、42~49折
時代 鎌倉・室町時代

旧菱野村東福寺は天台宗の寺院で、寺伝によれば12世紀に開かれ、永正十三年の火災で全焼した。翌年秀海法印により中興されたが熊野権現の別当寺院であった。昭和25年 に無住となり廃寺となったが、所蔵の「大般若経」などは地元の郷蔵に保管されたもので、現在は155巻が保存されている。
『大般若経』は『大般若波羅蜜多経』の通称で、仏教経典の中で最も巻数が多く全部で600巻にも及ぶ。東福寺のものは木箱2個に収納され、蓋書に「東福寺二百八十八巻」とあり、元亀三年(1572)に隣村本地村より寄進とある。その際の経典は元亀以前のものであったが、鎌倉時代に印刷されたものが4巻(五十二・五十三・五十四・五十七巻)含まれている。

大般若経

広久手第30号窯跡

ひろくてだいさんじゅうごうかまあと


瀬戸市指定史跡 15.2平方メートル
平成18年9月27日指定 所在地 瀬戸市吉野町
所有者 愛知県
文化財
時代 平安時代中期

瀬戸市南部の幡山丘陵には、鎌倉・室町時代の施釉陶器「古瀬戸」以前にさかのぼる古代の窯跡も分布する。中でも広久手第30号窯跡は市内最古のものである。南向きの斜面に築かれた本窯は窖窯と呼ばれる構造で、釉薬を施した大小の椀・皿類を中心とする窯業生産が行われていた。焼成室天井壁は残っていなかったが、残存部の長さは4.2メートル、幅1.5メートルの小ぶりの寸胴形の窖窯であった。
発掘調査後、あいち海上の森センターの歴史館として保存・展示されている。

広久手30号窯 窯体
広久手30号窯 覆屋

古窯

こがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市西郷町
所有者 瀬戸市
文化財 全長6.4メートル、最大幅4メートル
時代 昭和22年再建

古窯は、本業窯・丸窯と共に近代に活躍した代表的登窯の一種である。一般的に  は小型で急勾配、縦狭間構造であり、小型磁器製品を焼成する窯として使用された。現在、瀬戸市内に完全な姿で残されている最後の古窯である。
所有者であった伊藤伊平氏は代々古陶園竹鳳を号した5代目の染付窯屋である。元の窯は現在地より南東の経塚山の山麓斜面に位置し、5連房で現在のものよりかなり大型の窯炉であった。第2次大戦中の企業合同を経て、昭和22年に現在地に同窯材を使用して再築した。本業窯の胴木間にあたる焚口は2個、3連房の登窯で昭和39年暮の最終焼成まで、年間6~7回使用された。現在は瀬戸染付工芸館の保存・展示施設として活用されている。

古窯

深川神社本殿

ふかがわじんじゃほんでん


瀬戸市指定建造物 1棟
平成11年11月12日指定 所在地 瀬戸市深川町
所有者 深川神社
文化財 木造切妻造・柿葺(銅板葺)
時代 江戸時代後期(文政六年)

「深川神社、瀬戸村にありて今は八王子の社と申す。祭神は五男三女の神なり、本社造替は慶長元年五月、元和九年遷宮あり。祭礼は九月五日、神楽を奏し湯立を執行す」(尾張志)とある。
現在の本殿は文政六(1823)年の造営で、「正遷宮、文政六癸未十二月二日 大工信州上諏訪立川内匠」(当社棟札)とあり、内々津神社を造営した著名な上諏訪系宮大工一党の立川和四郎(冨昌)が建築したものである。昭和4年に現在地へ遷座、拝殿の屋根はその時瓦葺に替えている。切妻造・平入り・柿葺、神明造りから発展した「照り屋根流造」構造である。

深川神社本殿

常夜燈

じょうやとう


瀬戸市指定建造物 1基
平成13年2月7日指定 所在地 瀬戸市秋葉町
所有者 秋葉神社(境内)
文化財 高さ508センチ
時代 江戸時代後期(文化十一年)

焼成を必須とする陶都瀬戸では火の信仰に厚く、秋葉社を祀り、また秋葉講代参が盛んであった。窯屋が火入れの際には、慶昌院秋葉本殿(それ以前は熱田秋葉円通寺)から付け木とマッチ(火打石)を受けてきたものである。
秋葉神社は郷・南新谷の聖地であり、境内に立派な常夜燈1基がある。棹の4面に「秋葉山 常夜燈 島中安全 文化十一年申戌九月吉日」と刻んである。瀬戸市内の常夜燈の中では最も大型で、文字の彫りが深くて美しい。花崗岩製で、この時期の当地方の石造物は高遠(伊那谷)系の石工技術によるものといわれる。

常夜燈

聖徳太子絵伝

しょうとくたいしえでん


瀬戸市指定絵画 4幅
平成18年2月10日指定 所在地 瀬戸市塩草町
所有者 万徳寺
文化財 長さ 1幅157 ・2幅157.2 ・3幅157.8 ・4幅156.9センチ
時代 1・4幅室町時代中期、2・3幅江戸時代後期

『聖徳太子絵伝』は聖徳太子の伝記を描いたもので、浄土真宗の寺院によく見られる。万徳寺所蔵の絵伝は、寛正五年(1464)に今村城主松原広長が寄進したものと伝えられている。1幅と4幅は伝来当初の室町中期のもの、2幅と3幅は江戸時代後期に補われたものである。
各幅とも保存状態は良好で、顔料は濃厚で発色も良い。人物の着衣や建造物など、細部に至るまで非常に精緻に描き込まれている。岡崎市の満性寺が所蔵していた絵伝と同一系統のもので、奈良県に広まった絵伝の流れを汲むものである。

聖徳太子絵伝

石造薬師如来坐像

せきぞうやくしにょらいざぞう


瀬戸市指定彫刻 1躯
平成60年5月1日指定 所在地 瀬戸市片草町
所有者 同町自治会
文化財 高さ75.5センチ、幅35.5センチ
時代 江戸時代中期(享保十一年)

この薬師如来坐像は、美濃との国境であった片草町の薬師堂に安置されているものである。像は花崗岩製で、立方体の台部上に置かれている。制作年代は台の正面に彫られている「享保十一年(1726)丙午三月吉日」から江戸時代中期のもので、瀬戸市内に遺る石造仏の中でも古いものの一つである。
台部の正面・側面・背面には反花が刻まれ、その反花に対する請花が坐像に彫られている。像の眼は半眼に彫られ、顔全体が柔和な面持ちになっている。又、法衣は左右対称で、その法衣と袈裟の下から両手を出しており、指を互いに入れ組み、左右の人指し指と親指で薬壺を持っている。

石造薬師如来坐像

石造地蔵菩薩立像

せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう


瀬戸市指定彫刻 1躯
平成60年5月1日指定 所在地 瀬戸市片草町
所有者 同町自治会
文化財 高さ91.7センチ、最大幅36センチ
時代 江戸時代中期(元禄十七年)

この地蔵菩薩立象は、光背に「元禄十七(1704)申四月廿四日」と彫られているように江戸時代中期に制作されている。瀬戸市内に遺されている石造仏は元禄年間の3躯の地蔵菩薩立像が最古の一群で、その内の一例である。一つの花崗岩から台・光背・立像を彫りだしている。
顔は彫りが深く、眼は半眼、上半身は撫で肩で、この時期の石造菩薩立像によく見られる右手に錫杖、左手に宝珠をもった姿である。薬師堂に安置される以前に長年風雨に晒された期間もあったようだが、保存状態は比較的良好で堅牢で上質な地元の石材が使用されたからであろう。

石造地蔵菩薩立像