陶質十六羅漢塑像

とうしつじゅうろくらかんそぞう


瀬戸市指定文化財工芸品 16躯
昭和57年3月1日 所在地 瀬戸市寺本町
所有者 宝泉寺
文化財 平均像高54センチ
時代 江戸時代後期(天保十四年)

大昌山宝泉寺(曹洞宗)は雲興寺の末寺であるが、旧瀬戸村を管掌する寺院である。
本寺の十六羅漢塑像は、江戸時代後期の名工加藤善右衛門の作である。善右衛門は早梅亭と号し、弘法大師の塑像を数多く造ったところから「弘法善治」と呼ばれた。
16躯の羅漢像は、高さ平均54センチ、重量5キロの大型陶製像である。裏面のへら刻銘から、天保十四年(1843)2月17日に始まり、約半年がかりで造られたことが判る。一体一体の姿態・釉薬が異なり、力強い作品となっている。

陶質十六羅漢塑像

松本茂助家文書

まつもともすけけもんじょ


瀬戸市指定古文書 711点
平成13年2月7日 所在地 瀬戸市穴田町
所有者 個人蔵
文化財 各種の形式・内容の古文書類(一括)
時代 江戸時代(一部明治時代)

旧上水野村北脇(水北町)には尾張藩の御林方奉行所が置かれ、勘定奉行の支配に属して愛知・春日井両郡(一時期知多郡含む)の山林を管理した。奉行の下に手代や案内同心(地方文書では「山廻同心」または「山同心」と記す)が置かれた。松本家は上水野村釜ヶ洞に住し、御林方の山廻同心を勤めた家である。釜ヶ洞には江戸時代初期の窯が稼働したが、寛文七年(1667)に御林方役所の役人屋敷を建てるために同所にあった4軒の窯屋を移住させたと地方文書には載る。
同家には安永四年(1775)の「杉仕立之事」を記した文書を始めとして、江戸後期の文書多数を蔵す。内容は松本茂助―茂十郎―半五郎三代の勤書が中心で、御林方の役目を中心に、藩の通達書、村行事、松本家の日常生活に関したものなど様々である。

松本茂助家文書

志野焼燈籠

しのやきとうろう


瀬戸市指定工芸品 1対
平成5年2月15日指定 所在地 瀬戸市藤四郎町
所有者 陶祖公園(瀬戸市)
文化財 総高285センチ
時代 明治5年(1872)

慶応三年(1867)に陶祖碑が完成された時、瀬戸村窯屋有志の間で、碑の献灯用の陶製燈籠建設の議が持ち上がったが、当時の政治的不安と不況のため実現しなかった。明治3年8月の陶祖碑落成式当日、燈籠建設の話が再燃し、当時の有力者20名が各自5両宛て、合わせて100両の寄付をして建設費に充てることとした。
陶祖碑の製作者加藤岸太郎がおよそ1年がかりで製作した。陶製志野焼燈籠は、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分から成り、陶製燈籠としてはわが国最大級の規模と最高の作行を誇るものである。永年の風雪に耐え、よくその偉容を伝えてきたが、昭和53年3月に風雨除けのための覆いが設置された。

志野焼燈籠

菱野郷倉文書

ひしのごうぐらもんじょ


瀬戸市指定古文書 1482点
平成20年9月12日指定 所在地 瀬戸市東菱野町
所有者 菱野文化財保存会
文化財 各種様式・内容の古文書(一括)
時代 江戸時代~昭和

瀬戸市内では地区保有の古文書が郷倉の中で保管されてきた。中でも菱野・本地・今村・美濃之池・片草・白岩・上半田川・下半田川・沓掛の旧村の資料がよく知られている。菱野郷倉に保管されてきた古文書は最もよくまとまっており、江戸時代の年貢減免に関する証文、村内物産調査書上、村の自治や代官所への提出書類など多岐に亘る。また特色ある文書としては「猿投合宿」や「山口合宿」に関する回章やこの地域に伝わる「警固祭り」や「おでく」に関する資料も多数含まれている。
享保二十年(1735)の「愛知郡山田庄菱野村産物取調帳」、嘉永四年(1851)の「菱野村下用書上帳」など地方史を知る貴重な史料も多い。

菱野郷倉文書(産物取調帳)

直入橋

ちょくにゅうばし


瀬戸市指定建造物 1橋
昭和58年6月1日指定 所在地 瀬戸市定光寺町
所有者 定光寺
文化財 石造、長さ9.4メートル、幅 2.6メートル
時代 江戸時代前期(承応二年)

応夢山定光寺の参道入口の池に架かる橋で、「直入橋」という。『尾張名所図会』の中では「下馬橋」と記されている。この橋は尾張藩二代藩主徳川光友が、時の奉行熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応二年(1653)2月に着工し、同年5月に完成している。
直入橋は全て花崗岩製で、その構造は池両岸の石積みに長さ6m以上もある3本の橋桁を渡し、その橋桁に主な橋部を組み合わせている。江戸時代には、池に蓮を植えたり、参道に桜並木を作るなど、橋と良く調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「応夢山十境」の一つとされていた。

直入橋

石燈籠(神明社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成4年2月21日指定 所在地 瀬戸市落合町
所有者 神明社(境内)
文化財 総高196センチ
時代 江戸時代前期(明暦四年)

神明社は旧下品野村の氏神であり、その由緒には「社伝明らかならずも、本朝元中七年(1390)後亀山天皇の御世創設」とある。
長い石段を登った本殿前にある六角円柱型の石燈籠(花崗岩製)は、瀬戸市内に在るものの中で最古の記年銘をもつ。総高196センチ、宝珠と笠の部分が一体化し、特別な装飾をもたないシンプルなものとなっており、保存状態も良好である。竿の銘文に「奉壽進御寶前 明暦四年戊戌林鐘吉日 下品野村村上長次郎寄進」とある。村上長次郎は、品野窯を再興した加藤新右衛門系譜にある人である。そのため、藩政時代の下品野村における窯屋の由来を知る歴史性も有している。

石燈籠(神明社)

石燈籠(八幡社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 総高178センチ
時代 江戸時代前期(延宝七年)

八幡社は江戸時代には山口村及び近隣村の総氏神として崇敬されていた。明治5年に郷社に列挌され、幡山地区及び長久手上郷地区24ヵ村の総社となった。
瀬戸市内最古の石燈籠は旧下品野村神明社の石燈籠(明暦四年銘)で、本件はそれに次いで古いものである。石燈籠は花崗岩製で、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分に別れ、笠には六つの太い蕨手が付く。三味線胴型にふくらんだ六角火袋、力強い竿は大振りで堂々としており、均整がとれている。「延宝七己未九月十五日」の記年銘がある。境内にある石造鳥居も同時期に築造されていることから、この頃に大規模な神社の再建が行われたようである。

石燈籠(八幡社)

石造鳥居(八幡社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 高さ308センチ、幅386センチ
時代 江戸時代前期(延宝五年)

延喜式神名帳の山田郡19座の中の「小口神社」は山口神社とされ、地域の総氏神として崇敬されてきた。境内には多くの末社が合祀され、棟札も多数残されている。
神社鳥居は近世以前その殆どが木造であり、明治以降順次石造鳥居に造り替えられてきた。瀬戸市内38基(平成4年現在)の石造鳥居の内、近世以前に建立されたものは、本件と赤津の大目神社(宝暦五年銘)の2基のみである。
鳥居は、花崗岩製・明神鳥居で、やや小型ではあるが均整がとれていて姿は美しい。「延宝五年丁巳閏十二月吉日 尾州愛智郡山田庄山口村氏子(以下判読不明)」とあり、瀬戸市内最古の鳥居である。

石造鳥居(八幡社)

洞本業窯

ほらほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市東洞町
所有者 水野半次郎
文化財 全長14メートル、最大幅7メートル
時代 昭和24年再建

本窯も一里塚町の本業窯と同じ構造の連房式登窯である。この本業窯2基は奇しくも「奥洞本業窯」として活動していたが、昭和23年に解体された。同24年に本窯(半次郎窯)、同25年に一里塚窯(義郎窯)として同じ窯グレ(炉材)を使用して移築された。そのため、同じ構造とほぼ同様規模を持っている。本窯も昭和54年5月の焼成を最後に現在まで使用されていないが、次の焼成のための松割木(燃料)や窯道具のツク・タナ板などが準備されており、それらも一括指定されている。
奥洞窯は代々水野半次郎家の本業窯で、明治・大正・昭和と稼働した。最盛期には13連房の焼成室を有していた。

洞本業窯(胴木間)
洞本業窯(焼成室)

石造鳥居(大目神社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成8年2月9日指定 所在地 瀬戸市巡間町
所有者 大目神社(境内)
文化財 高さ387センチ、幅570センチ
時代 江戸時代中期(宝暦五年)

大目神社は猿投山の裾野の鎮守の森に座し、赤津地区の氏神として敬われており、祭神は八柱王子。明細帳に「当初勧請年月不詳と雖も延喜神名帳に大目神社、本国帳に従三位大目神社と載せる処の神社」とあり、建立年月は定かでないが、平安時代初期の延喜神名帳に載る古い神社である。境内に古墳も有する。
鳥居の形式は明神鳥居で、笠木が二重になり、反りをもち、柱が内側に傾く(ころぶ)。柱に「宝暦五年乙亥九月吉日」の記年銘があり、瀬戸市内の石造鳥居では山口八幡社の石造鳥居(延宝五年銘)に次いで古いものである。規模が大きく威風堂々とした風格を感じさせる。

石造鳥居(大目神社)