広久手古窯跡群

ひろくてこようせきぐん


瀬戸市広久手町・海上町・宮地町・吉野町・上之山町2
 瀬戸市域の南部幡山地区(旧幡山村)の中央を矢田川(山口川)が西に向かって流れ、北部に菱野丘陵、南部に幡山丘陵が展開している。この丘陵部には多くの古墳・古窯跡など古代から中世にかけての遺跡が濃密に分布する。瀬戸市域の内で最も古い段階の窯跡が発生したのもこの地域で、矢田川左岸の広久手古窯跡群中に在る。広久手古窯跡群は東の海上町から西の上之山町にかけての丘陵部に立地し、総数38基の窯跡が確認されている。
 昭和30年代に幡山村史と瀬戸市史編纂の発掘調査が行われ、広久手C1・C3古窯、広久手E・F・百代寺古窯など11世紀代の灰釉陶器窯の窯体と焼成品が明らかにされた。
(「考土」・「瀬戸市埋蔵文化財センター研究紀要」)

 昭和60年代に入り、国道155号沿線東の上之山町2から吉野町にかけての丘陵地帯開発計画が確定した。県住宅供給公社による「サンヒル上之山」建設計画で、遺跡確認調査の結果19ヵ所の埋蔵文化財の存在が確認された。瀬戸市教育委員会との調整の結果、7基の古墳及び住居址と8基の古窯及びその関連施設遺構の発掘調査が実施された。
 広久手20号窯は標高151mの丘陵に長さ3.3m、幅1.4mの窯体が検出、灰釉陶器・緑釉陶素地を焼成した10世紀後半代の窯跡であることが同定された。これは従来最古とされてきた広久手C3号窯に先行するものであった。
 広久手6号・7号・13号・16号窯跡はいずれも標高130~150mの丘陵地に築窯、13号窯は全長9.75m、最大幅2mが計測された。同7号窯は全長7.4m・幅1.5mの窯体部が残存、その東約10mの地点で新窯が発見された。これらの窯はいずれも山茶碗窯であるが、11世紀中から13世紀後半代に創業したと比定された。中には空白期を経て2次焼成されたものも確認された。
(瀬戸市埋蔵文化財センター「上之山」)

南山古窯跡群

みなみやまこようせきぐんぐん


瀬戸市上之山町1~3・南山口町
 矢田川(山口川)左岸の南部丘陵に分布する南山古窯跡群(44基)は東の広久手古窯跡群と西側の大草古窯跡群の真ん中に在る。この地域は東の国道155号線と西の県道愛知青少年公園・瀬戸線に間の丘陵地帯にあって、昭和40年代以降の公共施設の建設によって多くの古窯跡が発掘調査されて滅失した。古窯群として確認されているのは、南山1~44号古窯で11世紀代に稼働した灰釉陶器窯(南山8・12・18号窯)や13世紀代の山茶碗・施釉陶器併焼窯(南山2・5・11・17・33・43・44号窯)で他は13世紀代の山茶碗専焼窯である。
 南山1号窯は昭和49年に県陶磁資料館建設工事前の発掘調査された13世紀代の山茶碗窯である。
 南山2号窯は、昭和55年に第4次水道拡張事業の事前発掘調査として実施された。窯体は標高134mの小丘陵中腹の北東向き斜面に立地、12~13世紀に稼働した山茶碗と施釉陶器(古瀬戸)を並焼したものであった。
 南山8・9(A~D)号窯跡は、平成3年の県陶磁資料館敷地内の駐車場造成の事前発掘で明らかにされた。その後窯体の保存処理、保護上屋が建設され「古窯館」として公開されている。5基の窯跡は平安時代後期の灰釉陶器窯(9-D号)から鎌倉時代末期の山茶碗窯(9-C号)までの各時代の窯跡であった。
 南山10号窯は、昭和49年の愛知青少年公園の駐車場造成工事の事前発掘調査が実施され、13世紀代に稼働した山茶碗窯の構造が明らかにされた。
 南山15・34号窯は、昭和59年の赤十字センター建設工事の事前発掘調査として明らかにされた。南山15号窯は13世紀代の山茶碗・片口鉢専焼窯、同34号窯は13世紀代の山茶碗・施釉陶器(古瀬戸)併焼窯であった。
 南山33号窯は、昭和57年に流通センター建設の事前発掘調査が実施され、13世紀代に稼働した山茶碗・施釉陶器(古瀬戸)併焼窯であることが明らかにされた。

大草古窯跡群

おおくさこようせきぐん


瀬戸市台六町・幡中町・南菱野町・東本地町2
 矢田川(山口川)左岸(南側)の丘陵部に成立した広久手・南山・大草古窯跡群中、最も西側(下流部)に立地するのが大草古窯跡群(17基)である。大半が12~13世紀代に稼働した無釉の碗・小皿を焼成した山茶碗窯で構成されている。わずかに、11~12世紀の灰釉陶器片と山茶碗片が混在する大草10号窯(台六町・窯跡滅失)と13世紀代の施釉陶器片が採集できる大草4号窯(幡中町・窯跡滅失)が認められるのみである。大半が戦後の土砂採集で滅失したが、群中唯一発掘調査されたのは大草第6号窯(南菱野町)のみである。
 大草6号窯は長久手との市境、山ノ田信号交差点より東約350mの第三紀丘陵上(海抜110m前後)に在り、昭和56年に隣接する瓦粘土採掘の緊急発掘調査が実施された。地山をくり貫いた窖窯で、窯軸はほぼ北―南の南向斜面に築窯されていたが、残念ながら窯体の分炎柱とその前後わずかを残して他は自然流失していた。床面上の出土品は山茶碗・皿が中心で、他に四耳壺片・陶丸で物原の出土品の8割を占める片口鉢は最終窯には無かった。前庭部に径2.6mのピットがあり、数個体の山茶碗の完器が出土、製品の選別作業場であったようである。山茶碗は南部系荒肌手で13世紀代に稼働したものと比定される。
(「大草第6号窯発掘調査報告」)

菱野団地古窯跡群

ひしのだんちこようせきぐん


瀬戸市原山台・八幡台・萩山台・幡野町
旧瀬戸市街地と旧幡山村の間には標高120m前後の菱野丘陵が広がる。当地方特有の悪地地形で樹木の生長も思わしくない第3紀丘陵地である。この地域内県有林174haを開発して人口3万人規模の県営菱野団地を建設する計画が昭和40年代に生まれた。計画地域内には19地点で古窯跡が確認されており、瀬戸市教職員考土サークルによる事前発掘調査が昭和42年4月に始まった。発掘調査は2年間にまたがって実施され、新たに発見された窯跡も含め、井林1~8号窯、長根1の1・1の2・2~9号窯、今林1~3号窯、八幡4・6号窯、水無瀬東古窯が調査された。

菱野団地古窯跡群一覧表
古 窯 名 瀬戸系 行基焼  時 代  窯 体       出 土 品
井林 1  ○       12世紀 ほぼ残存(長さ11m) 碗・皿・四耳壺・水瓶
井林 2      ○   13世紀 分炎柱前後8m残存 碗・皿・仏飯器
井林 3      ○   13世紀 滅失        碗・皿
井林 4  ○       12世紀 分炎柱前後3m残存 碗・皿・四耳壺
井林 5  ○       13世紀 滅失        碗・皿・四耳壺・水注
井林 6  ○       13世紀 滅失        碗・皿・四耳壺
井林 7      ○   13~14C 燃焼室残、木筋痕  碗・皿・こね鉢・入子
井林 8      ○   13~14C 滅失        碗・皿・こね鉢・陶弾
長根1-1  ○   ○   12世紀 焼成室上半分流失  碗・皿・瓶子・合子
長根1-2     ○ 13世紀 工事で滅失     碗・皿
長根 2      ○   13世紀 天井除いて完存   碗・皿・こね鉢・陶弾
長根 3      ○   13世紀 自然侵食で流失   碗・皿・こね鉢
長根 4  ○       13世紀 ほぼ完存/長さ9.5m 碗・皿多し
長根 5  ○       12世紀 炊口より7.2m残存  碗・皿・四耳壺
長根 6  ○       12世紀 5号と同規模・併存 上手碗・皿・四耳壺
長根 7      ○   13世紀 分炎柱前後5m床残 碗・皿・陶弾
長根 8      ○   13世紀 滅失        碗・皿
長根 9      ○   13世紀 滅失、物原のみ   碗・皿・こね鉢
今林 1  ○       12世紀 炊口より5m残・溝 大アラコ様式碗・皿他
今林 2  ○       12世紀 (団地外)窯残   広久手様式碗・皿
今林 3      ○   13世紀 滅失        碗・皿
八幡 4      ○   13世紀 滅失        碗・皿・陶弾
八幡 6      ○   13世紀 焚口より長7m残  碗・皿・陶弾
水無瀬東  ○       12~13C 長さ9m残、カマド 碗・皿・片口碗・盤
註;「菱野団地古窯阯群」より作成、時代は「瀬戸市内遺跡詳細分布調査報告書」使用
「瀬戸系」は上質胎土、仕上げが丁寧薄作り、「行基焼」は粗胎土、粗略作り製品

釜ヶ洞古窯跡群

かまがほらこようせきぐん


瀬戸市白山町1・緑町1・東赤重町2
 愛知県住宅供給公社による人口3万人規模の県営菱野団地の建設が昭和44年から始まった。それに先立って、昭和42年から造成地内の24古窯址の発掘調査が実施された。この菱野団地の県道愛知青少年公園・瀬戸線を挟んだ南西の丘陵地も国鉄岡多線建設や新設高校などの公共施設建設の「南部土地区画整理事業」が計画された。それに先立って昭和51・52年に丘陵地に確認されていた5基の窯跡が調査された。先の調査を補完(菱野団地古窯跡群の支群)するものであった。
 釜ヶ洞1・2号窯 1号窯は2号窯の南約25m(標高125m)の西向き斜面に位置する。トレンチ調査により、舟底形の窯体痕は確認できたが、窯壁も床面も自然流失していた。物原からは、下層に見込みに印花をもつ瀬戸系、上層からは行基系碗が出土、かねて瀬戸唯一の古瓦出土の窯と知られていたが、巴紋軒先丸瓦・唐草文軒先平瓦などの瓦類、四耳壺・洗・水瓶・入子・おろし皿など多種類の陶器片が出土した。2号窯は、すでに既設の信用金庫グランド造成の際に物原は削平され、丘陵斜面の窯跡(標高125m)も滅失確認できなかった。わずかな灰原からは行基系碗・皿・こね鉢が出土した。
 平子2号窯 戦中・戦後の開墾地で現状は一面の笹原に盗掘により、左側壁の一部が露出していた。標高96mの細砂性粘土の緩斜面に分炎柱前後の窯体が検出された。燃焼室は長さ1.2mで最大幅1.6mのやや落し込み床面、分炎柱は径60×40cmのスサ入粘土で整形、燃焼室は長さ1.6m、幅2.4mが残存した。出土品は瀬戸系の上手碗・皿、四耳壺、入子、合子蓋(竹管印花文)、象形物(馬)などがあった。
 緑1・2号窯 すでに造成された新設高校グランド西に向かい合う丘陵山頂部(標高110m)に古窯跡があり、盗掘により窯壁の一部が露出し、遺物が散乱していた。東側の1号窯は比較的保存状態が良く、アーチを残す窖窯を復元することができた。焚口から残存する窯体の長さ8.8m、最大幅2.9m比較的規模の大きなもので、少なくとも2次焼成された痕跡があった。出土品は瀬戸系・行基系の碗(印花)・皿、四耳壺、こね鉢、瓶子・水注・洗・合子(刻目文)などであった。
 併存する西側の2号窯跡は分炎柱(径52×56cm)と焼成室(長さ5.2×最大幅2.4m、焼台10個残)が検出された。出土品は行基系碗・皿・陶弾であった。稼働時期としては、釜ヶ洞1号窯は12世紀、同2号窯は12~13世紀、平子2号窯及び緑1・2号窯はそれぞれ13世紀代に比定される。(「釜ヶ洞古窯址群―菱野団地古窯阯群の支群」)

八床古窯跡群

やとここようせきぐん


瀬戸市八床町・品野町2
 瀬戸市域の北東地域を占めるのが、旧品野町、北西地域を占めるのが旧水野村である。この両地域を水野川が流れ、その左岸(南側)に標高100~200mの穴田丘陵が展開している。所々に品野層群や瀬戸層群の粘土層が路頭し、有数の鉱山地帯となっている。
 県道品野・中水野線沿線の八床町、穴田町は瀬戸有数の古窯跡が分布する。昭和40年代以降の鉱山採掘や企業団地の造成によって、多くの古窯跡が滅失した。
 昭和36年、瀬戸市史編纂のための八床1号窯の学術調査が実施され、13世紀後半代の山茶碗・施釉陶器窯が明らかにされた。また、昭和44年には陶土採掘開発による緊急調査が瀬戸市教職員考土サークルによって実施、八床2~8号、10~12号窯が発掘調査された。ところが、このときの調査資料(実測図・写真など)は保管されていた旧瀬戸市歴史民俗資料館の火災によって焼失してしまった。
 平成10年、再び愛知陶磁器工業共同組合の土砂採掘による事前協議が実施され、約30ha内の八床古窯跡群21基の精査が行われた。その結果、3~8号、11~14号、20号窯は現状保存、9・10号窯を発掘調査することとなった。
 八床9・10号窯は群中北寄りの丘陵最高所(標高199m)北に伸びる尾根の西側斜面に在り、尾根の反対斜面には7・8号窯が所在する。調査の結果9号窯跡(13世紀・山茶碗・施釉陶器)はすでに流失、10号窯跡の窯体・灰原の大半も流失した13世紀代の山茶碗・施釉陶器窯であった。(参考文献 「八床9・10号窯跡」)
 品川北古窯跡群 八床町・品野町6 八床古窯跡群の北に隣接して品川北古窯跡群8基が分布する。この両者は13世紀以降、集中的に創業した古瀬戸前期様式の山茶碗専焼窯または山茶碗・施釉陶器併焼窯で、一部は古瀬戸中期様式(14世紀代)まで継続した。古瀬戸後期様式(15世紀代)の施釉陶器専焼窯(八床18~20号窯)も散見される。

暁古窯跡群

あかつきこようせきぐん


瀬戸市暁町
 水野川左岸(南側)には低山性丘陵が続く。県道中水野・品野線沿線地帯が、昭和44年から県企業局によって穴田企業団地(面積59.2ha)造成が始まり、次いで暁工業団地(面積31.3ha)造成に引き続いた。この地域には穴田古窯跡群・穴田古窯跡群・暁古窯跡群の多くの中世古窯跡が分布する。
 暁1・2号窯は昭和58年の暁地区内陸工業用地造成に伴う発掘調査で、いずれも13~14世紀に稼働した山茶碗・施釉陶器を焼造した窯であることが確認された。次いで昭和62年に暁西企業団地造成に伴う暁3・4・5号窯の緊急発掘調査が実施された。3~5号窯跡はいずれも水野丘陵北端の標高110~115mの東側斜面に並列して築造されていた。その東約500mに同1・2号窯跡が位置する。窯体部の保存状態が最も良好だった第5号窯で全長8.2m・最大幅2.6mの燃焼室・焼成室を持ち、焼成室の天井壁は滅失していたが残存する床面は32~37°の角度で上昇する。分炎柱付近は窯廃棄後に工房に改造された痕跡が確認された。物原からは工房跡(ロクロピット・土坑など)や炭焼き窯も出土した。
 3~5号窯はいずれも14世紀代の稼働で、無釉の山茶碗・小皿・片口鉢・入子や天目茶碗・平碗・皿・瓶子・四耳壺・祖母懐壺などの施釉陶器で焼造していた。
 昭和58年の調査の際には、隣接する数成口1・2号窯跡(13~14世紀代の山茶碗・施釉陶器焼成)も発掘調査されている。
(参考文献 「暁窯跡」)

小田妻古窯跡群

おだづまこようせきぐん


瀬戸市本郷町・はぎの台2
 中水野の本郷・小田妻地区は水野川左岸(南側)に在って標高100m前後のゆるやかな水野丘陵が展開している。昭和40年代に入って、東の穴田丘陵地の穴田企業団地造成、上水野南部丘陵地の水野準工業団地造成などが発表され、小田妻地区でも大規模な住宅団地(面積約90万㎡)の造成が始まった。地域内には小田妻古窯跡群の所在が確認されており、昭和42年7月より瀬戸市教職員考土サークルによる緊急調査発掘が行われた。第1号窯(13世紀・山茶碗窯)・3号窯(山茶碗窯・滅失)・6号窯(12世紀・均質手)と山茶碗・四耳壺・銭貨などが出土した中世の祭祀遺跡が明らかにされた。
 さらに、昭和58年に水野団地の西側の丘陵地約46haに住宅都市整備公団による水野特定土地区画整備事業が計画され、愛知県埋蔵文化財センターによる確認調査と平成元年からの事前発掘調査が実施された。その結果、山茶碗などを焼成した窯体6基(小田妻2・4・5・7~9号窯)、掘りかけの窯2基、工房跡1ヶ所、炭焼き窯1基を検出した。全体に窯体の残存状況は良好で、いずれも分炎柱を有する窖窯で長さは10m前後であるが、焼成室の最大幅は3mを超える大型のものが多かった。何故か2基の掘りかけの窯が検出されたがその築窯方法を知る手がかりに、楕円形プランの炭焼き窯や工房跡のカマド・ロクロピットなどは生活を知る資料となった。遺物は山茶碗が中心であったが、それらに混じって陶錘や陶丸、施釉陶器である灰釉四耳壺が出土している。焼成品は全て13世紀代のものであるが、灰層の最下層からは12世紀にさかのぼる可能性のある胎土の清良な山茶碗や火舎形香炉も出土している。生産品以外では窯体の前庭部や工房跡などから土師器鍋・釜がかなり出土している。
(県埋蔵文化財センター「小田妻古窯跡群」)